三本目 なんとなく、ガイの店へいく気になれず。至は、会社からほど近い小さなバーへやってきた。それは、彼が「まあおまえならいいか、」と教えてくれた店だ。
居酒屋も好きだけど、たまにはこういうところにくるのも悪くない……なんて思ったのはほんの数分前。少しだけ背伸びしたこの場所に、なんとも言えない居心地の悪さを感じはじめていた。いや、店そのものはさすが彼のお墨付きだけあって間違いない。だが、そういうことではないのだ。あくまで感覚的な話。自分がこの空間に居る違和感。この間、彼と来た時はそんなことなかったのに。至はあまり座り心地の良くないスツールの上で身を捩り、ロックグラスを指先でちょいちょいと突いた。バーカウンターの向こう側では、滑るような手つきでウェイターがシェイカーを操っている。そんな彼、至の様子もさりげなく気にとめているようで。そわつく至を察してか、あえて声はかけてこないが視線があえば優しげに微笑み、目元で雄弁に語る──ゆっくり、自分のペースで楽しんで、と。
同じスーツでも、ちょっとランクが違うものをさらりと着こなす人々がのんびりと酒を楽しむ雰囲気──たしかに、この店を教えてくれた彼ならば、この空間が、良く似合う気がする。自分では背伸びしなければいけないこの場所。先輩と俺、そんなに年齢変わらないんだけどなあ、と妙にささくれだった心は、落ち着く気配をみせない。
せっかく用意してもらったが、さくっと目の前に用意された酒を飲んで、店をあとにしようか……と思ったが、カッコつけて頼んだのはウイスキーのロック。これを一気に煽るだけの勇気は至にない。ここへ介抱を呼ぶなんて格好が悪すぎる。そんなことを悶々と考えていると、ふと目の前に置かれたのは頼んでいない、グラス。パッと顔を上げると先程までシェイカーをふるっていたバーテンダーが、やはり優しく微笑んでいた。目尻の皺がチャーミングで……瞳の色はくすんだ紫色だ。
「あちらのお客様からです」
少し甘めの落ち着いた声と、目の前には背の高いタンブラー。クリアな赤の液体と薄く切られたレモンが沈むそれは爽やかな見た目でなんとも美味しそうだ。そして、至はバーテンダーがすい、と顔を向けた方へ視線を送る。
「……千景さん」
「先に言っとくけど、カクテル言葉なんてロマン、俺に求めるなよ」
「ぶっ、」
いつの間にそこに居たのか。至にこのカクテルを差し入れた張本人……千景がカウンターの一番端に腰掛け、ひらりと手を振っていた。
「ちなみに、なんて名前なんですかこれ?」
「カリフォルニア・レモネードですね」
「さっぱりしてて美味しいよ」
千景は端の席から至の隣に。そのまま、バーテンダーを交えて二人は言葉をかわす。
「今日はどうしてこの店に?」
しかもひとりで、と千景は頬杖をついて至を見つめ、問いかける。どうして、と言われても……と至は目の前の男をじっと見つめ返せばなんとも言えない沈黙が生まれた。
「そういう詮索は無粋ですよ」
「……コイツいわく、俺はノーロマンらしいからね」
沈黙を破ったのは、カウンターの内側でグラスを拭きあげるバーテンダー。注意、というよりも茶化すような色をしたそれにあわせて千景は軽口をかえす。それならば、と至は千景がそうしたように頬杖をついて言葉を投げかけた。
「じゃあ、千景さんはどうしてここに?」
「……どうしてだろうな」
雲を掴むような意味のない会話。そんな彼らのやりとりを眺める第三者は、クスリと笑ってからドライフルーツとオリーブが盛りつけられた小皿を二人の間に置いた。サービスですよ、という言葉のあとに続いたそれに二人はキョトリと目を見開く。
「おふたり、素敵な関係ですね」
「そうかな」
「そうですかね」
──わずかの間を置いてから、同じような言葉を被せた彼らは顔を見合わせて笑った。
美味しい酒と共に上質な時間を過ごした彼らはほどほどに切り上げ、帰路につく。寮に向かう道すがら、至はポツリと呟いた。店を出るときに、あのバーテンダーから送り出すようにかけられた言葉を思い出しながら。
「……いい店ですね」
「俺が声かけるまでそんなこと思ってなかっただろ」
「そんな……って、うーん、まあ」
痛いところを突かれ至は言葉を詰まらすが、至の中にはひとつの気づきがあった。が、それを千景に伝えない。それを、言ってしまうと自分の中で何かが変わり始めてしまう気がしたからだ。
(場所、じゃなくて、誰と)
隣にいる人が、このひとだから。あのバーが『心地よい場所』だと感じたのは、そういうことで。
──また、ふたりでいらしてくださいね。
そんな言葉は、どこまで見抜いているものだったのか。それを知る術は……いまはない。