一本目「珍しい」
残業を終え、社屋を出たタイミングで千景のもとに届いたのは密からのメッセージ。そこにはシンプルな指示が書かれていた。
【しごと、おわったら電話して】
俺に指図するなんていい度胸……と思いつつも、ため息ひとつでコールボタンを押す。なんだかんだいって千景さんは密に甘い──そんなことを飄々とした面持ちで言いそうな、自分よりも三時間ほど早く帰路についた同室の男が脳裏にチラついたが無視をした。
一回、二回、三回目……のコールが響いたところで通話が繋がった。ザワザワ、ワイワイ。人の気配が電話の向こう側から伝わってくる。
『あ、しごとおわった?』
「……労いの言葉もないのか」
『うーん、おつかれ。でもちょっとそれどころじゃ』
密はざわつく気配の中、のんびりした口調ではあるが、少し困った様子を匂わす。千景がおや、と思う前、彼の言葉尻を奪うように別の男の声が聞こえてきた。わ、という密の声から察するに、おそらく携帯を取られたのであろう。そして聞こえたのは。
『ふふふふ、せーーんぱい?』
常時より、甘ったるい声。ゼロとイチで構成されたそれにアルコールの匂いを纏わせることはもちろんできないが、そうでなくても認識できる。紛れもなく酔った時の彼のそれだ。
「……茅ヶ崎、」
『そうですよー、ちがさきです。ちかげさんのたいせつな、』
ドロドロの、砂糖みたいな声。耳の奥に入り込み、じゅくじゅくと思考を溶かすような。千景は、思わず背中をふるり、とふるわせて彼の言葉を静止する。このまま、聞いていていいものでもないし、何より──至の周りにいるであろう人々に聞かせたくない。
「いい、いいから。茅ヶ崎、ちょっと黙って」
『む、』
深く、ため息をひとつ。
「茅ヶ崎、密に代わって」
『ええー……あ、ちょ』
姿はみえないが、唇を尖らせた至の様子は容易に想像できる。カツカツカツ、と。千景は靴音を鳴らして改札をくぐろうと思い……やめた。そして、足早に駅に背を向け──そして、たどり着いたのはタクシーが数台停まっているロータリー。
『ね、ちかげ。早く帰ってきて』
俺も家族の色恋沙汰を聞く趣味はないんだよ……と珍しく情けない声を発する彼に千景はギクリ、と肩を揺らす。
「……二十分で帰る」
そう言って千景は通話を切ると、暇そうに欠伸をしていた運転手に向かって片手を上げ、車両にするりと乗り込んだ。
実際には、帰宅まで十五分。急いで欲しいんですよね、と笑顔付きで運転手へ注文すれはま、その笑顔をバックミラー越しに確認した彼はヒクリ、と口元を揺らした。それがどんな表情だったか…ここで話すのはよそう。そんなこんなで、千景は予定よりも五分短縮して寮へとたどり着いた。
そのまま自室を通り過ぎ、彼は東とガイの部屋へと向かう。あれだけ至がへべれけになっている、ということはおそらく。
「あ、おかえり」
「おかえり、なさーい!ちかげしゃん」
案の定、だ。扉を開き目の前に広がる光景に、千景はこめかみをおさえて、本日何度目かのため息をついた。死屍累々。冬組主催の飲み会は、それはもう、誰がみても完全に仕上がっていた。
「東さん、飲ませすぎですよ……」
「ふふ、楽しそうに飲んでたからつい、ね」
部屋の奥、ワイングラスを揺らす東は妖艶に微笑んだ。あ、嫌な予感がする。千景はそんな予感を抱く。それは見事的中し……うっとりとした表情のまま彼から告げられた言葉に気持ちを乱されることになった。
「あまーい『おつまみ』があったから。ついついお酒がすすんじゃった」
ね、と東は至に向けてウインクをひとつ寄こす。それを惚けた顔で受け止めてから至は、部屋の前でたたずむ千景の元へ歩み寄り、ぴたり、と身体を寄せた。東の今の言葉は、なにかを揶揄した隠語。となると。
「おい、寝太郎」
「今日は寝てないよ」
「……茅ヶ崎は、何を言った?」
ずい、と。千景は真顔で密に迫る。それを正面から受け止めた彼は、普段あまり浮かべないようなむず痒い表情をしてからすい、と千景から視線をそらした。
「言ったでしょ、家族のそういう話は勘弁だって」
「……それが答えか」
千景は諦めたようにこめかみをおさえる。本格的に頭痛をもよおしそうだ。ふん、と一度息をはくと、自分の身体にしなを作る男の身体を思い切り担ぎ上げた。
密着して気がついたのは、普段より高い彼の体温と、彼の体臭をかき消すアルコールの匂い。
「わ、ちかげさんちからもち」
「……かえるぞ」
ボソ、と呟いてから千景は至の頭をぐしゃりとかき混ぜる。成人男子、しかも酔っ払い。重たいはずだが、千景はそんな気配を見せずに扉の外へ向かう。そして、一度ドアノブに手をかけてから、ぐっ、と唇をむすび、身体を部屋の方へ向けた。
「お騒がせしました。ああ、みなさん──」
平坦な色をした声からは、彼の感情は読み取れない。そして続けられたのはこんな言葉だ。
「お願いですから、今日見聞きしたものは、どうかここだけの話に」
そんな千景のお願いに、にこり、と微笑んで「良い夜を、」なんて茶化したのは誰だったのか。
「……ねえ、茅ヶ崎」
「ん、んー……」
一〇三号室へ向かう途中、肩口に抱えた至に声をかけるが、彼の返事は随分とぼやけたものだ。
「どうしてそんなに酔っ払っちゃったの」
そう、普段であれば。冬組のああいった飲み会でも、のらりくらりとかわしてほどほどのところでストップをかけるのに。なぜ、今日──千景がいない日に限って。
「……どーして、ですかねえ」
また、ふわり。至の言葉が千景の耳をくすぐる。低くすぎず、高すぎず。リラックスしたその声の質が、心地よい。そこではた、と千景はこんな距離で、そしてこの調子の至の声を聞くことが随分久しぶりであることに気がついた。
「ねえ、まさかかと思うけど」
──さみしかったのか?
伺うように、千景が尋ねれば至は一拍おいたのち、ぎゅう、とからの首へ回した腕に力をこめる。なるほど、図星か。
「そんなにお前、女々しいやつだったか?」
「……うるさいなあ」
千景は、あまり馴染みのない感情に疑問符を並べながら至へズケズケと言葉をかける。もちろん、至は不満げだ。だが、千景の声色から、彼が至を茶化しているわけではなく、純粋に疑問を抱いている……その感情を理解していない、そんなことに酔いつつも気づいてしまった至はぐり、と彼の肩口に額を押し当てて、ぐう、と短く唸った。
「ちかげさんにも、わからせてやりたい」
いまの俺の気持ち、と。少し低い声で呟くが、千景は首を傾げるばかりだ。
「……それはさておき、今日みたいに俺の知らないところでああいう風になるなよ」
「あーもう。それをどういう気持ちで言ってるでしょうね!」