陰から見守るということ 高校最後の春休み─。
静かな、まどろみのような時が如月骨董品店に流れる。
店主・如月翡翠は店内の目録を眺めながら様々考え事をしている。
彼も高校3年生。
もうすぐ卒業が近づき、家業である骨董品店を継ぎながら新たな店の展開について模索している。
彼と共に半年間東京を守る為に戦った戦友たちも今、
それぞれ新しい旅立ちの準備をしている頃だろう。
(さて、どうしたものか─)
彼の脳裏にあるのはこの店の将来と、そして東京の将来。
そして、一人の青年の将来。
今、彼は密かに秘めた思いと共に決意している事があった。
するとその時、店の戸がガラガラと開いた。
★
「お邪魔するよ」
低く落ち着いた声で音もなく入ってきたのはいつぞやこの店を訪ねてきたのは身長2メートルほど、拳武館の首領である鳴瀧冬吾だった。
拳武館は表向きはスポーツの盛んな私立高校だが、
裏では幾人もの暗殺者を育てている。
そんな高校のトップに君臨する男ともあれば、音もなく気配を消して歩く事は造作もない。
気づけばもう如月の前に独特な佇まいを持って立っていた。
如月の額にじわりと汗が滲み出る。
「こんにちは…今日は…お付きの生徒はお連れではないのですか?」
如月は店内と玄関の外に注意を払った。客は今目の前にいる鳴瀧の姿以外見えない。
「ああ、今はすぐそこの公園の横に車をつけていてね。彼らはそこで待たせてある。長居をするつもりはないから安心したまえ。」
「そうですか…」
如月骨董品店の目と鼻の先には北区立・名主の滝公園が広がっている。
水資源が豊富で、木々が鬱蒼と茂る緑豊かな公園に今、暗殺集団の車が横付けされている。
区民の憩いの場に何とも不釣り合いな光景だ─。
おそらく鳴瀧の合図があれば待機している拳武館の生徒は如何ようにも動けるよう指示が出されているに違いない。
館長のお付となれば、生徒の中でも指折りの手練が来ている筈だ。
ふと、壬生紅葉の顔が如月の脳裏に浮かんだがどうやら一緒ではないらしい。
「今日は…どういったご用件で?」
「手甲を買い求めたい。普段遣いのできる稽古用のものだ。少し丈夫なものが欲しい。」
「稽古用の手甲ですか。少しお待ち下さい」
如月は一旦在庫のある店内奥へ下がっていった。
奥へ入るや否や如月は大きく息を吐いて吸って呼吸を整える。
(くっ…またも、か…)
如月は知らず知らずの内に緊張で筋肉が硬直していたらしい。
絶えず穏やかな笑みをたたえてはいるが相手は裏社会に大きな影響力を持つ者であり、同級生・緋勇龍麻と壬生紅葉の師匠でもある。
会うのが何回目であろうとも緊張しない方がおかしかった。
(これでは店主失格だ。…いけない。しっかりしろ─)
如月はもう一度呼吸を整え、平静になってから手甲の幾つか入った箱を持って店へと戻っていった。
「ほう…」
なかなか良いものだと言いながら、鳴滝は箱の中身を手に取り眺めている。
この武具を見る目に何が映っているのか。
「学校の生徒さんの備品用ですか?」
そう如月が尋ねると、いや、と鳴瀧は目線を上げた。
「龍麻君にあげようと思ってね。紅葉に靴をくれたお礼に」
「そ、そうですか…」
龍麻君、という返事を聞いて如月の鼓動が一瞬跳ねあがった。
(龍麻君…)
「それでしたら…もっと別のを出しましょう。お待ち下さい」
如月はそそくさと店内奥の棚へ引き返して別の箱を持ってまた戻ってきた。
「…これなどいかがでしょう?」
「ほう…赤い手甲か。なかなかいいじゃないか。」
「は、はい…」
如月はうなだれた。
本当はこれは自分が発見した時、龍麻にきっと似合うだろうと思って密かに目をつけていたとっておきの手甲だった。
だがこの手甲は用途として普段遣いであれば十分なのだが、
旧校舎奥深くにいる強敵を斃したい時などは、どうしても道具として強度が劣り、戦闘の助けにならなかった。
しかし色や形は龍麻にはよく似合うだろう。
考えあぐね迷ったまま店の片隅にしばらく放置していたところへ、
急に鳴瀧が来店してきたので思わず手甲を披露してしまった訳だ。
そして鳴瀧自身も龍麻君にあげるならこれが良いと言ってしまったので、如月は徐々にこれを見せてしまった事を後悔し始めた。
どうしたって首はうなだれてしまう─。
★
「ありがとう。これは君の大切な手甲だ。購入しない方が良さそうだ。」
「えっ」
如月は驚いて顔を上げた。
鳴滝は穏やかな微笑みを浮かべている。
「これは君が大切に持っているべきだ。
私がこの品を見ている間、君の表情は曇っていたね。これを手放すのは惜しいのではないかね。」
「い…いえ、そんな事はありません…。これが龍麻の手に渡るなら僕にとってもこれ以上嬉しい事はありません」
「ほう…?」
鳴滝の深い色の瞳の奥が一瞬光った気がした。普段無口な筈の如月だが、何故だかここで止まらなくなった。
「それは…僕が龍麻にいつか渡そうと思っていて手元に保管していたものです。
しかし決心がつかなかったので店の奥にしまっていました。
これは…弱い敵を斃す程度ならば十分ですが、いざ強敵が現れた時はあまり役には立ちません。
龍麻にはもっと他の良い武器を僕は勧めます。それが彼の命を守る事に繋がるからです─」
「……」
「僕らは今まで命のやり取りをするような実戦ばかりが続いていていました。ゆっくり武術稽古するような時間のゆとりもない位に─。
そんな危険な戦いをする彼にこの手甲はもう必要ないんじゃないかと─」
如月は赤い手甲に目をやった。
「…そうか。今まではそうだったかもしれない。しかし長い戦いはもう終わった筈だ。そう聞いているがね。
君たちにはこれからもっと長い時間がある。その時に君から渡した方が良いのではないのかね?」
鳴滝が優しく声をかけた。
「それは……」
(いや、僕は…)
如月は言い淀み、心の中は葛藤で満ちていた。
「ほう?何か龍麻君に対して思う所でもあるのかね?」
い、いえ…と、如月は何とか平常心を保とうとするが、実のところは龍麻の事を考えると時折ぎこちなくなってしまう時があった。
これまでは良き客、良き同級生、良き仲間。そう思ってきた。
しかし今は…
「……」
如月は言葉にできない思いを噛み締めていた。
「そうか…ではこれは私が買わせて貰うが構わないかね?」
「は、はい…」
「あとで紅葉の手から龍麻君へ渡してもらうつもりだ。」
「ッ…?」
如月は鳴滝の顔を見た。
「壬生から…ですか?」
「先程も言ったが、私は紅葉の靴のお礼も兼ねて龍麻君にプレゼントできるものを探していると。これは私が買い求めてもいいかね?
それとも…これは君から龍麻君へ渡すか?」
「……!」
如月は表情が固まった。
己の中には今様々なものが渦巻いてどうも踏ん切りがつかない。
自分から龍麻へ渡すならば…想いを口にするのにまだ形にできない躊躇いがあるのだ。
「どうした。自分から渡すかね?」
「い、いえ…」
来店した鳴瀧もそう時間がある訳ではなく、あまり猶予はない。
「君はさっきから龍麻君の話で悩んでいるようだが、普段彼についてどう思っている?」
「そ、それは…」
普段どう思っているか、言葉にするのは難しい質問だった。好ましく思っているのは確かだが
むしろ彼のことは、もっと大きな存在で捉えているような気がしていた。
「ま…守りたいんです、これからもずっと」
如月はポツリと言った自分の言葉にハッとした。
「ほう…」
だが、鳴瀧は言葉をそのまま受け止める姿勢だ。
「もう彼らとはこれまでと同じように戦う事はない─。僕はこれからも定められた掟を守って生きていくつもりです。でも…この東京を守るのと同時に、龍麻の事も守っていきたい。
陰から守りたいんです。僕は…」
言い終わるや否や自分の言動に如月は急に恥じ入ってしまった。
普段の自分はここまで饒舌だっただろうか?
こんな風に自分の奥底にある考えを吐露するつもりではなかった。だが、この鳴瀧という男の前で隠し事を通せる人間などそうはいない。
(まだまだ僕は修行が足りていないのかもしれない…)
如月は鳴瀧を前に、頬を少し紅潮させながら自分と相手との見えない実力差まで感じてしまった。
鳴瀧は少し考える間を置いてから、フッと優しく微笑み
「そうか…君のような人間が見守ってくれるなら私も安心できる。」
穏やかな瞳で如月を見据えた。
「かつて私にも龍麻を見守る役目があったー。
だがもうその見守る役目は終わったと思っている。
龍麻君が赤ん坊だったあの頃からもう18年の月日が流れた。
龍麻君は立派に大きくなって、もう立派に前を見ているー。
私のような存在はもう必要ない。
今日は餞別の意味もあって、手甲を求めていた。君のような人間と話すことができて私は良かった。
これからは君が陰から見守る役目をするといい。」
「……!!」
如月はびっくりした。
この男が担っていた役割にもびっくりしたが
いつの間にかそんな話に…。
そして何より如月は自分自身が犯したとんでもない愚行を思い出して恥ずかしくなってきた。
まさか、緋勇龍麻を18年も陰から見守ってきた人間が今まさに目の前におり、
その人間を前に自ら「今度は僕が龍麻を守りたいです」などとよくも名乗り出てしまったものだ─。
(何という事だ…)
如月は普段なら氷のような怜悧で美しい顔を伏せ、襲いかかるこの羞恥に紅潮し打ち震えながら耐えるしかない。
「顔を上げ給え。何も気にする事はない。」
鳴滝は言う。
「君は龍麻君と共に戦った戦友だ。いずれまた共に手を携え戦う機会もあるだろう。
その時まで陰から見守るといい。」
「…!」
「しかしあまり自分から存在を表に出してはいけないよ。」
鳴瀧は低く穏やかな調子で続ける。
「住む世界が違う事をわきまえていれば自分から近づくものではないし、近づこうとも思わない。時折様子を見に行くだけでいい。
そして、もし─
もし龍麻君に本当に命の危機が訪れた時は、その時は迷わず助けになってやればいい。君なりのやり方でね。」
「──!」
如月が顔を上げると鳴瀧は穏やかな顔で如月を見つめていた。
如月はぐっと手甲の入った箱を鳴瀧の方へ押し出した。
「どうかこれを龍麻に。僕には─、自分のやるべき事があります。そして自分なりのやり方を探していきます。これからずっと彼を、見守っていく為に─」
「そうか─」
鳴瀧はフッと微笑むと赤い手甲を手にした─。
★
「これを館長が?」
龍麻は、壬生から真新しい手甲を受け取り、手に取っては何度も角度を変えて眺めている。
興奮しているようだ。
「ありがとう!ねぇ、壬生君…館長に何て御礼を言ったら…」
「さあ…。館長はこないだの靴の御礼だって言っておられたよ。僕の靴のね。」
「ああ…!靴なんて僕は別に…」
「僕だってただで貰っているから素直に受け取ったらいいんじゃないの。
あとそれから…その手甲は如月さんのお店で手に入れたものだと仰っていたから、あとで如月さんにも一言言ったら?」
龍麻は頷くと少し離れた所で短刀の手入れをしている、如月の所へ箱ごと持って駆けていった。
「これ、手甲…館長が如月骨董品店で買ったって…」
龍麻が頬を紅潮させながら手甲を持っているのを見て、如月は少し自分の鼓動まで早くなるのがわかった。
(ああ、それは…)
僕が見繕ったものだよ、そう言いかけたが、
あの館長の「あまり自分の存在を表に出してはいけない」という言葉が脳裏に鮮烈に蘇ってきた。
「それは君によく似合う。僕も、来店した拳武館の館長もそう思っていてね。意見が合ったんだ。」
「そうなんだ。嬉しいよ。とても…僕、今とても嬉しい。この手甲は大事にするね。」
龍麻はギュッと手甲を握りしめた。
如月は目を細めながらそんな龍麻を見つめていた─。
陰から見守るという事─。
それはたとえ龍麻に認知されないところでも、彼を気にかけ、想い続けるという事─。
如月はこれからの長い長い道のりについて想いを馳せた。
18年─。
それはあっという間なのだろうか。
すぐ過ぎ去るものなのだろうか。
如月の胸の中に複雑な想いが去来した。
「龍麻君には─
これを靴の御礼だと言うことにしておいてくれ。
私が関わるのはもうこれで終わりだ。
これで龍麻君は本当の自由を手にする。
だがこの事は別に、君の口からは伝えなくていいのでね─」
ふと、如月の脳裏に店を去る時の鳴瀧の言葉が浮かんだ。
私が関わるのはこれで終わり─…そう言葉を残して鳴瀧は振り返ることなく店を去った。
しかし─…
目の前の龍麻はさっきから鳴瀧が買ってくれた手甲だと
愛おしく撫でたり、手にはめて、握ったり開いたりを繰り返している。
鳴瀧のあの去り際の一瞬の哀しげな表情とは対象的に─。
今の如月は目の前の龍麻を眺めている事しかできない。
「もし龍麻君に本当に命の危機が訪れた時は、その時は迷わず助けになってやればいい。君なりのやり方で、ね。」という鳴瀧の言葉を如月は反芻していた。
いつかもしそんな風に龍麻の身が危険な時が来れば、
今度は龍麻の横に並んで戦えるように…そう如月は静かに決意を固めるのだった。
〈完〉