隅から隅まで掃除しないと出られない部屋「頼むぞ暁人。オマエだけが希望なんだ」
いつになく真剣な顔をしたKKが、まっすぐに暁人の目を見つめて言った。
「お願いします!」
「期待してるわ、暁人くん」
泣きそうな顔で勢いよく頭を下げる絵梨佳と、その隣で深くうなずく凛子。
キッチンとリビングが一体となった八畳ほどのワンルーム、実にその三分の一を占めるソファベッドに、彼女たちは座っていた。窓からの明るい陽射しに照らしだされる二人の膝上には、小柄な白猫と黒猫がそれぞれうずくまり、ゴロゴロと機嫌よく喉を鳴らしている。
あまり大きくはないその重低音も、狭い室内ではよく通る。耳ざとく聞きつけたらしいKKが、激しく舌打ちした。彼はわき目もふらず暁人だけに視線を向けたまま、猫の鳴き声を打ち消す大声を出した。
「力仕事なら任せろ。言われたことはきっちりやる」
「わたしは、物の仕分けとかなら役に立てると思います」
「細かい調整ならあたしに任せてちょうだい」
三対の目がいっせいに暁人に注がれた。
「ええっと……」
三者三様の怒涛の自己申告に困惑して、暁人は思わず半歩下がった。肘がキッチンのシンクにあたり、かかとに何か柔らかいものが触れる。見下ろすと、丸々と太った大きな三毛猫が、ゆらゆらと尻尾を揺らしながら暁人を見上げていた。関心を引けたことが嬉しかったのか、猫はゴロニャンと甘えた声で太ももに頭を擦りつけてくる。
KKの顔が盛大に引き攣った。
「おい絵梨佳! まずアイツを何とかしろよ。仕事の邪魔だ」
「だってあの子、暁人さんから離れないんだよ」
「くそっ」
口調こそ威勢がいいものの、KKは先ほどから壁にぴたりと背中を預けたまま、一歩たりとも動いていない。どうにもこうにも顔色の優れない彼を、黒猫をひと撫でした凛子がちらりと流し見た。
「そんな調子で、本当にきっちり動けるのか?」
「ああ? 何が言いたい?」
猫用の小物に大量の書籍、有名どころのガシェットと山盛りの菓子類。とにかく物が多いせいでかなり狭苦しく感じられる室内に、ピリリとした空気が流れる。
睨みあう二人の間に、きゅっと眉尻をつりあげた絵梨佳が割ってはいった。
「ちょっと二人とも。こんな狭いところで言いあわないでよ」
先ほどから三人はずっとこの調子だった。独立独歩、進取果敢。普段であれば非常に頼りがいのある面々が、今は指示待ちの姿勢に徹しており、自ら動きだす様子はまるでない。
確かに暁人は掃除が嫌いではない。ないのだが、癖のありすぎる彼らをまとめあげ、物であふれかえる部屋をきれいに片付けるのは、なかなか骨の折れる重労働になるだろう。まさか、正式に仲間入りして最初の仕事がこれほど難しいものになろうとは。初出勤に胸躍らせていた今朝の暁人は、まったくこれっぽっちも想像していなかった。
「そんなこと、少し考えれば分かるだろ」
「またかよ。だいたいオマエこそ……」
「ああもう、うるさいうるさいうるさーい!」
暁人はKKをたしなめることも忘れて、三人のやり取りをぼんやり聞いていた。視線と思考は宙をさ迷い、やがて背後のキッチンに行きつく。
電気もガスも水道も、問題なく使えるのは最初に確認済みだった。さらに、ファミリー向けの大きな冷蔵庫には、なぜか四季折々の食材がたっぷり入っている。両開きのドアには『ご自由にお使いください』とのメモ書きが。
物価高が止まらない今、水光熱費と食費に神経を尖らせずにすむのはかなりの魅力ではないだろうか。
「KKには悪いけど、動きだすのは冷蔵庫が空っぽになるまでご飯を作ってからでもいいかなあ。冷蔵庫の中身を片づけるのも掃除のひとつじゃない?」
幸いにも妹の麻里は修学旅行中だ。焦る必要はない。暁人は、直線的な文字で『部屋を隅から隅まで掃除しないと出られません』と書かれた紙を握りしめ、なかば本気の現実逃避を呟いた。ゴロニャア、と足元の三毛猫から返事があった。