忘れじの行く末に ぱちりと目が合った。それで分かった。これは夢なのだと。
僕が右手を伸ばすと、彼もまた右手を差しだしてきた。重ねた指先は突きぬけなかった。筋張ってゴツゴツとした手の甲、かさついた皮膚の感触。やや低い、じんわりとした体温。握りこめば、同じだけの力で握りかえされた。
彼がいる。今ここに、僕の目の前に。確かな身体を持って。夢でもかまわない。だって、彼がここにいるのだ。
心臓を鋭い痛みが貫いた。喉が締めつけられ、押し戻された空気で顔中が熱くなった。気づいた時には、目の前のすべてが歪んでいた。
波立つ水面のように揺らめく視界では、彼の姿を脳裏に焼きつけられない。しゃくりあげながら顔を拭おうとした僕より早く、彼の手の平が頬をおおった。そのまま親指の腹で目元をこすられる。とても優しい仕草なのに、硬いささくれが皮膚に刺さって痛い。思わず息を呑むと、覚えのある苦い香りが鼻先を掠めた。
「やっぱりあの世でもたばこを吸ってるんだね」
無理やり絞りだした声は震えていた。
「僕がそっちに行ったら、むせないたばこの吸い方を教えてよ。僕は下手くそみたいでさ、いつも涙が出るほど咳きこんじゃうんだ」
どうやら彼が笑ったらしい。かすかに周囲の空気が震えた。ぼやける水の膜の向こう側で、彼がわずかに顎を引くのが見えた。
僕は笑った。笑うことしかできなかった。
「頷いたね。ちゃんと見てたから。約束だよ」
人はまず声から忘れ、次に姿を忘れるという。それから感触、そして味。においを忘れるのは一番最後だ。
深い藍色に沈んでいた空が少しずつ白み、やがて淡い曙色が周囲を照らしだす。
朝焼けが夢を呑みこむその瞬間まで、どれだけ彼が涙を拭ってくれようとも、僕は彼の姿をはっきり見ることができなかったし、彼は否定も肯定もしなかった。