春さやか、世はこともなし「ここじゃないどこかに行きたい」
唐突に、暁人がぽつりと呟いた。
そのときのKKは、ちょうど味噌汁を喉に流し込んでいる真っ最中だった。持ちあげた汁椀に唇をつけたまま、両眼だけを正面の暁人へと向ける。
一月が行ってしまい、二月が逃げてゆき、とうとう三月も去ろうかという春分の候。カーテンを開け放った窓からリビングへと射しこんでくる陽光は、春の盛りを告げるかのように柔らかく暖かい。
そんなうららかな朝の陽気を全身に浴びておきながら、手元のトーストに次々と苺ジャムを落としてゆく暁人の表情は、どうにも冴えなかった。まるで小さな子どものように、それはもう見事なふくれっ面を披露しているのだ。
口をへの字に曲げ、眉間に深い溝を刻み。分かりやすく顔に『不機嫌です』と書いてある年下の恋人へ、KKは無言のままざっと視線を走らせた。
伏し目がちの目元に隈はなし、肌艶よし、髭の剃り残しなし。つんと尖った唇にも、パン屑はあるがひび割れはない。
それほど深刻な状態ではなさそうだと結論づけて、KKはひとまず、汁椀の中身を片づけることに集中した。
物価高騰と天候不順のあおりを受け、ここ数カ月ほど完全に食卓から姿を消していたキャベツが、今朝の味噌汁にはふんだんに使われていた。特売をやっているスーパーを見つけたと昨晩の暁人は大はしゃぎしていたから、これがその戦利品なのだろう。
やはり食べ慣れた家庭の味というのは良いものだ。KKは舌の上で柔らかく潰れる春キャベツをしみじみとした心待ちで咀嚼し、シャキシャキとした青ネギの一片すら余さずきっちりと平らげてから、空っぽになった椀をテーブルへと戻した。そして、改めて暁人を見つめた。
「急にどうした? 自分探しに日本縦断のバイク旅でもしたくなったか?」
文字通り山盛りの苺ジャムでトーストを埋めたてていた暁人が、一瞬だけ手を止めた。顔をあげないまま、平坦な低い声で律儀に答える。
「別に探してないし、縦断まではしたくないけど、走りには行きたい」
なるほど欲求不満か、とKKは納得した。
最近の暁人は祓い屋としての振る舞いも板につき、昼は依頼人への対応と事務処理、夜はマレビト相手に身体を張った実働と、大忙しの毎日をおくっている。そこにきて、雪やら雨やら雷やらの連日の悪天候から、急転回しての温和な春日和だ。ソファの上でスマホゲームを梯子することに耐えられなくなったのだろう。
「行ってくればいいじゃねえか。今日は久々の休みだろ」
言い終わるか終わらないかのうちに、暁人がきゅっと眉尻をつりあげた。わずかに顎を引いた上目遣いでKKを睨みつけてくる。
たっぷり二秒の間を置いて、ぼそぼそとした低い声が彼の口から飛び出した。
「……僕ひとりで?」
なるほど甘えたか、とKKは胸の内だけで快哉を叫んだ。
なにしろ普段の暁人は、自分の要求をさらっと伝えてくるか、おくびにも出さず丸呑みして我慢してしまうかの両極端だ。酔っぱらってでもいないかぎり、こんな面倒くさい訴え方をしてくることはほとんどない。特に、何も怒らせることをしていない場合は、皆無と言っていい。
桃栗三年柿八年。出会ってから三度目の春にして、ようやくこれまでの日々が実を結び、恋人の新たなの一面を見られたというわけだ。
うっかりゆるみかけた頬を引き締めると、KKは何気なさを装って言った。
「今日は怪異調査の報告書を出さないといけねえからな」
すっと表情を消した暁人が口を開くより先に、ひと息に畳みかける。
「午前中には仕上げちまうから、それまで待ってろ。それと、ここしばらくバイクには乗ってなかったんだろ? オレが仕事をしている間に、しっかり点検しとけよ」
「いいの?」
暁人が大きく目を見開き、勢いよくテーブルに身を乗りだした。かろうじてトーストの上にそそり立っていた大量の苺ジャムが、べちゃりと重たい音を立てて丸平皿に崩れ落ちる。
自分で自分の食いつきぶりに驚いたらしい暁人が気恥ずかしげな顔で居住まいを正す様を眺めながら、KKは鷹揚にうなずいてみせた。
「もちろんだ」
そうかそうかそんなに嬉しかったか、と内心でだらしなく相好を崩しながら。
そこからの暁人は、打って変わってとんでもなく饒舌だった。
「四月で廃止になるKK線を走るのはどうかな? あ、でも他の人たちもきっと同じこと考えるよね」
「花見も良いかなと思ったけど、桜の開花はもう少し先みたい。でも、梅の盛りは過ぎてるから……。ちょっと残念だな」
「苺スイーツビュッフェがあるんだって! これ良くない? 良くないか。KKそんなにたくさん甘い物食べられないし」
「苺の食べ放題がある! 付け合わせにあんこも選べるみたい。これならKKも……と思ったけど、予約は前日までって書いてある。まあそうだよね」
暁人は素早い動作でスマートフォンを操作して情報をかき集めながら、口を挟む間もなく自問自答し、そのまま自己完結してゆく。
自宅のリビングで仕事、左のかたわらには恋人、手元には淹れたてのコーヒー。警察官時代の己が見れば目を疑うだろう状況に、最初こそ澄まし顔の裏側で浮かれていたKKだったが、今は表情に出してやれやれと苦笑するしかなかった。特に、もはや苺ジャムをのせたトーストなのか、トーストを添えた苺ジャムなのか分からないほど真っ赤になった物体をすべて腹に収め、それでもなお苺のスイーツに食指が動くらしい暁人の健啖家ぶりには、呆れを通りこして軽い戦慄すら覚えてしまう。
見ているだけで胸焼けを引き起こす光景をつぶさに思いだしてしまい、KKは眉間にしわを寄せながらちびちびとコーヒーを啜った。
そうする間にも暁人は次々と行き先の候補をあげてゆく。その数が片手の指を超え、両手の指を超え。もはやすべての名前を覚えていられなくなったあたりで、KKはそのひとつひとつに突っ込むことを諦め、どうしても捨て置けなかったふたつだけを口にした。
「なんでもいいが、どんどんツーリングから外れてきてねえか。そもそも、『ここじゃないどこか』と言っちまうには、どれもこれも近すぎるだろ」
暁人のあげた行き先はすべて近郊にあるものばかりで、苺食べ放題にいたっては渋谷区内でのイベントだ。祓い屋として地方に赴くことも多いKKにしてみれば、都内などせいぜい庭先に出ていくようなもの。とても遠出とは言えない。
もちろん、そこが良いと心から暁人が思うのならまったく構わないのだが、先ほどから場所をあげては却下、場所をあげては却下を延々と繰り返していることが気にかかっていた。
「確かに午後からならそう遠くへは行けねえが、バイクで遠出を楽しむなら、わざわざイベントにこだわる必要も、明確な目的地を決める必要もねえ。もっと気楽に足を延ばしていいんだぞ」
ローテーブルの上に広げたパソコンの画面から目を離さないまま、KKは左隣の暁人の腕を肘で軽く小突いた。とたんに賑やかだった彼の声がぴたりとやむ。それほど強く打ったつもりのないKKは、突然静かになったことを訝しんで隣を見た。
「どうした?」
「ええと、その……」
暁人はKKを見ていなかった。膝の上へ置いたスマートフォンに目を落とし、ばつが悪そうな顔で肩を縮めている。ちらりとだけ窺うような視線が寄こされ、またすぐに逸らされた。
「暁人?」
ぎゅっと引き結ばれていた唇が、観念したようにゆっくりと開かれた。
「実はさ、あの言葉は嘘……って言ったらそれこそ嘘になるけど、そこまで本気じゃなかったんだ。ちょっと大袈裟に言ってみたっていうか」
ようやくKKに顔を向けた暁人が、眉をハの字にして小さく笑った。
「あんたに昨日の事後処理があるのは分かってたから、ちょっとかまってもらったらそれでいいやって。『さっさと気分転換してこい』って追いだされるつもりで言ったんだ。でも……」
暁人が言いよどんだ言葉の先を、KKはすぐに引き取った。
「オレが予想外に乗り気だったから、予定が狂っちまったってことか」
「うん」
もとより『ここじゃないどこか』については深刻に捉えていなかったが、そのあとの受け取り方がまずかったらしい。暁人の言動を自分に都合よく解釈しすぎていたと理解して、KKは居た堪れなさに頭を抱えたくなった。あれだけ思わせぶりな態度をとっておいてと恨みがましい気持ちにならないでもなかったが、普段の己の言動を省みれば、暁人だけを責められない。現にあのとき、浮かれる内心を押し隠して、なんでもない顔を貫いていたのだから。
KKはあらゆる感情をひっくるめてため息に落としこむと、手を伸ばし、苦笑しながら暁人の頭を掻きまわした。
「オレと出掛けるつもりがなかったんなら、遠慮せずそう言えよ」
一人だけでバイクを飛ばすなり、昼から出たのでは間に合わない場所に行くなりしたかったのなら、遠慮なくそうすれば良かったのだ。こちらの都合につき合って、貴重な休みを浪費する必要はない。
「あれから一時間ほど経っちまったが、今からでもまだ……」
「行かない」
KKの言葉を遮って、暁人が激しく首を横にふった。膝の上から床へとすべり落ちてゆくスマートフォンには目もくれず、彼は上半身ごとKKに向きなおると、キッと眦を吊りあげた。
「確かに最初は朝から出掛けるつもりで、ちょっと遠い場所も目的地に考えてはいたけど。でも、今はもう一緒に出掛けるって決めてるから。KKも、一度は当たり前みたいに僕と行くって言ったんだから、今さら物分かりの良いこと言わないでよ」
どうも先ほどから、暁人の言っていることが二転三転しているように思えてならない。さすがに苛立ちを感じて、KKは棘のある声で暁人を問いただした。
「じゃあなんでわざわざ、そんなつもりはなかったなんて言ったんだ。あのまま黙ってりゃ良かったじゃねえか」
「それは……」
唐突に、暁人の声がしおしおと萎んだ。
「だって、KKがそこまで僕のことを考えてくれてるのに、ただ『別にツーリングや遠出じゃなくてもいいから』と返すのは、ちょっと不誠実な気がして。ちゃんと言っておいたほうがいいかなって」
それで拗れかけては世話がないだろう。KKは脱力してソファに上半身を預けた。
「……オマエ、意外と面倒な性格してるよな」
「……KKほどじゃないけどね」
暁人も背中を丸め、情けなさそうに顔を歪めて同意した。
それからしばらく、KKと暁人は無言で顔を突きあわせていたが、ちらりとだけ互いへ流した視線が噛みあったのを皮切りに、どちらからともなくため息を吐いて苦笑した。
「なにやってんだよ、オレたちは」
「ほんとだよ。こうやって言いあってる時間で行き先を探したり、報告書を書いたりできたのに」
あーあ、と大袈裟に嘆きながら、暁人は床からスマートフォンを拾いあげている。KKもまた、言い合ううちに落としてしまっていたらしいマウスに手を伸ばし、その表面がやけに温かくなっていることに気づいた。
いつの間にか、室温がずいぶんと高くなっていた。さすがに外に出れば寒さを感じるだろうが、春の明るい陽射しばかりを取りこむ室内では、それがどれほどのものかは実感できない。まだ拙いだろうウグイスの鳴き声も、開花までもうすぐだという桜の蕾も、盛りを過ぎているらしい梅の木の様子も、ここからでは分からない。分かるのは、今日が絶好の行楽日和だということだけだ。
KKはもう一度、今度は穏やかな気分で暁人の頭を掻きまわしながら、笑って提案した。
「オレは一分一秒でも早くこの報告書を仕上げちまうから、オマエはこのまま良さそうな行き先を調べておいてくれ。バイクでも歩きでも電車でもなんでもいいが、せっかくこんな春日和に出掛けるんだ、オレはオマエと春を感じたい。屋内じゃなくて外に行こうぜ」
「僕も同じく。どうせなら季節限定のイベントがいいかなと思ってたけど、自分たちで春を探しながらのんびり走るのも楽しそう。じゃ、その方向性で調べるね」
「おう、頼む」
KKと暁人はうなずきあい、肩を寄せあって、自分のやるべきことに没頭した。
こうして出掛けた当日予約可能な苺狩り農園で、二人の来訪に喜んだ木霊たちがすべての苺を熟れさせようとするのを慌てて止めたり、ふくらんだ桜の蕾を辿って郊外を走ったり、黄昏時の梅の木の下で鬼から花見に誘われ、うっかり本当に『ここじゃないどこか』へ迷い込みそうになったりと、これ以上ないほど存分に春を堪能したのだった。