11.照らしてよ、ペリドットカラカラに渇いた喉が張り付いて痛い。でも今はそんなことは取るに足らないことだった。人生で未だかつてない全速力で脚を回し目的の場所を目指してひたすら走った。髪がばさばさとあちこちに振り乱れるのが鬱陶しい。こんな時だというのに、ふとあいつがこの髪を綺麗だと言って昔褒めてくれた時のことを思い出した。
『君だから、こんなに綺麗だと思うのかな』
言った後に、少し照れくさそうに笑って。
こういう何気ない会話一つ一つが、実はかけがえのないものだったんだと今さら。いつから想ってくれていたのかは解らないけれど、『君だから』の意味が今は解る、から。
「煉獄…っ」
明日の仕事の打ち合わせに備えて寝ようとしていたところだった。不躾に鳴ったインターホンに小さく毒づいて通話ボタンを押すと、自分によく似た顔が手のひらに収まるほどの小さな液晶に映し出されたものだから、しばし固まってしまった。まだ仕事で海外に行っているはずだと思い込んでいた弟がそこにいるから、夢でも見ているのかと。
「…どうした?」
ドアを開け、中へ招き入れる。しかし弟は玄関から上がって来る様子もなく、靴を脱がずただ俺の正面へ立った。あの日から…弟の家で煉獄のことを全て聞いたあの日から、こんなに早くまた顔を合わせることになるとは思っていなかった。弟からすれば俺は恋人を汚した相手だし、きっと顔も見たくないだろうに。いったい何があってわざわざ――。
「そんなに警戒しないでよ、兄さん」
こっちの焦りなどお見通しで、弟は可笑しそうに笑う。まったくこいつはガキの頃から本当に肝が据わっている奴だった。その上何を考えているのか読みづらく、また弟自身も自分が何を考えているのかほとんど話さないような奴だったから。きっと煉獄が初めてなんじゃないだろうか。弟が固執し、他者を牽制し、常軌を逸したことをするほど拘るものができたのは。自分という主張が極端に薄く、兄弟である自分からしてみても弟は変わった存在ではあったが、それでも血の繋がった家族として自分なりに大事に思ってきたし、色々あった今でも根本的なその感覚は変わっていないつもりだ。――何も弟が憎くてあんなことをしたわけではない。けれど。
「別に、そんなんじゃねぇ…けど……」
「今日はいじめに来たわけじゃないから安心して」
前回会った時だって別に虐められた記憶はない。そもそも酷いことをしたのは自分の方なのだから。こいつに、そして煉獄に――。
「そうだ……なぁ……お前、煉獄と連絡取れてるか?実はスマホに連絡しても、全然反応なくて、さ…」
どの口が言うんだ、ということは自分でも解っている。しかも当の恋人に対して。でも弟しか煉獄に繋がる人物はいなくて、厚かましい願望だとは思いつつも尋ねずにはいられなかった。今は会うことを許されないのだとしても、どこかに行っていて家を空けている煉獄がせめて変わらず過ごしているのかだけでも知りたかった。
「家行ってみたら隣の部屋の人がしばらくあいつが留守にしてるみてぇなこと言ってて、…出張とか旅行とか……いや、何でもねぇならいいんだ、別に」
本当は、すぐにでも会って、話したいのだけれど。
「家に行ったの」
「…!……、…ああ」
答えてから、自分がして良いことではなかったと気がついた。弟は俺になど何もできないだろうと警戒すらしていないだろうが、普通恋人をレイプしたような人間が性懲りもなく家の周りをうろついていたと知ったら不快に思って当然だ。
「悪い……。別にどうこうしようとしたわけじゃなくて、ただ…………」
こんなに情けない思いをしたのは人生で初めてかもしれない。煉獄のことを今まで何も知らず、理解せずにいたことのツケがこんな風に襲ってくるなんて。
「………」
「随分必死じゃない、兄さん。そんなに大事?あの人のこと」
「……え?いや、だって………長い付き合い、だし……」
「逃げないでよ」
斬り捨てるように弟が言った。
逃げる…、そうか確かに俺は今、親友だったのだから心配だという理由で逃げたのかもしれない。煉獄が大事かという問いかけに、恋人である弟を前に気まずさが勝って淀んでしまったのだから。
「…というかお前、仕事で海外にいたんじゃないのか」
前に会った時に、帰国するのは年末だと言っていた。予定よりそれが早まったのでなければ、何かの事情でキャンセルか延期になったのだろうか。
「ああ、あれね。断った」
「そう、だったのか…」
ということは弟はずっと日本にいたのだ。きっと今まで通り恋人である煉獄と連絡は取れているのだろう。それはつまり、意図的に煉獄は俺からの連絡を遮断しているということだ。音信不通になった理由を確信して、身勝手にも傷ついている自分がいる。この間弟が言っていたことは本当なのだろうか。自分などいい加減避けられて当然という思いと、あの話が、煉獄が俺を好きだという話が本当なら何故、というもどかしさが拮抗する。
「会いたい?杏寿郎さんに」
「え…?」
それはまぁなと言葉を濁そうとしたのをすんでで踏みとどまった。本当は「まぁ」どころじゃないくせに。だから家まで押しかけるようなことをしたんじゃないか。結局煉獄はいなくて、完結しないままだけれど。全部はっきりさせるために、自分の気持ちを伝えるために、会いたいって思ったんだろうが。
「………会いたいよ」
(煉獄はもう…そんな風には思ってないかもしれねぇけど…)
「会って…話がしたい」
弟と真っ直ぐに向き合い真剣に伝える。弟の方も俺を真正面から見据え、俺たちは二人でしばし互いの胸の内を推し量った。
「………」
先に視線を外したのは意外にも弟の方だった。すぐ真横のシューズケースの上のオブジェに何気なく目をやって、それからやがておもむろに弟は口を開いた。
「兄さんがたまたま聞いてしまったと思ってたアレ、何でわざと耳に入るように仕組んだんだと思う?」
再び射るようにこちらに視線を向けて尋ねてきた弟の瞳は、しかしこれまでのような毒を孕んだものではなくて、全て話してしまおうという決心の滲んだもののように見えた。
『ねぇ、どんな気分だった?親友にああいう声で呼ばれて、まずは驚いたんだろうけどその後は?』
あのことはーー本当に俺にとって転機だったのだと思う。弟の策略がなければ俺はきっと生涯煉獄に対する自分の想いに気づかないままだったに違いない。
「…んなの解んねぇよ…」
正直に答えると、弟の薄い唇が僅かにわなないたように見えた。多分、笑ったのだ。
「あれはね、俺にとっての賭けだったんだ」
「…賭け?」
「そう。いつまで経っても得られないカタチをあれで自分のものにできるか、それとも全て壊れてしまうかどうかの」
そう言いながら、弟は黒のパンツのポケットに左手を差し入れた。ゆっくりとポケットの中に消えて中で何か握るような手の動きを目で追う。
「全て壊れるって……」
弟には何が見えていて、その頭の中で何を描いていたのだろうか。
「兄さんがあんな杏寿郎さんを知って、彼を嫌悪するかどうかの賭けだったんだよ。あのことで杏寿郎さんを兄さんが嫌ってくれれば…俺の勝ちだった。そうまでしないとあの人の心が自分のものにならないのならーー例えあの人が壊れてしまっても良いと思ったんだよ」
「お前、っ…、………」
自分も似たりよったりな自分本意の願望で煉獄を傷つけたことを思い出して、弟の告白に一瞬湧きかけた怒りを何とか抑え込んだ。何だかんだで自分たちは似ているのかもしれない。俺の場合はまだ煉獄への感情の正体を解っていなくて無意識なところがあったが、本当に欲しいものに関して判断を誤ってしまったこと、身勝手に大切なひとを振り回したことは俺も弟も同じだ。
「…それでもね、あんなことをされても…事実を知っても、まだあの人は自分自身にも非があると思って俺を切り捨てないんだ」
弟のことを煉獄はずっとどう想ってきたのだろう。身代わりだとか、俺のことを好きでいてくれていたこととか、弟に対してどうやら後ろめたく思っているらしいことだとか…これまでに聞いた話によると、煉獄はこいつに対して恋愛感情はないということなのだろうか。
『君の弟と、付き合ってる』
風邪で伏していたベッドの上から、僅かに震えた声で告げてきたいつかの声が蘇る。あの日からずっとどこにも真実なんて存在していなかった?
それなのに、何年もこの二人は一緒にいた。恋人の真似事を続ければ互いに傷つくのは解っていて、それでも一緒にいることが慰めにもなっていたのだろうか。不思議な、けれど"恋人"として長年静かに関係を続けてきた二人の足元には実は底の深く暗い泥濘が在ったなんて。
けれど想う人が互いに違っても、その時一番傍にいた相手を思いやってきたから。
「…そういうお前らだから、今まで続いてきたんじゃねぇの」
「この間は狂ってるなんて言ったくせに」
「っはは…そうだったな」
拗ねたような声に聞こえて、こんな時だがつい息を漏らすような笑いが溢れた。
「………けどね、もう終わりにすることにしたんだ」
幼い頃ですらほとんど見せることのなかった年相応らしさを弟はすぐに引っ込めて言った。
「俺から離れていくあの人を見たくないから」
「……」
それはつまり、煉獄と別れることにしたということなんだろうか。けれど別れることにしたのなら、どうしたって離れていく姿は見えてしまうものだろうに。
「兄さん」
弟の言葉の真意を測りかねていると、何かを差し出してきたのでそちらを見た。先ほど手を入れていたポケットの中に入っていたらしい。
「それ…、……あいつの?」
弟は頷かなかったが、逆に否定もしなかった。
弟の手のひらの上で淡く輝く翠緑は、ひと目で煉獄が首から下げていた石だと解った。
「それ、もう杏寿郎さんに必要がないから」
弟はそう言ってペリドットの乗った手を更に突き出してくるから思わずこちらも手を差し出すと、小さな光を瞬かせながら石は俺の手に移ってきた。チェーンが手のひらの中で螺旋を描く。よく見ると留め具のところが壊れてしまっている。
「どういうことだ…?煉獄に渡されたのか?」
だとしてもそれを何故俺に渡してくるんだろうか。
「違うよ。俺が一方的に取った」
「な…」
「取った」という決して穏やかではない答えに、けれど弟の意図が飲み込めずに言葉に詰まる。
「もう必要ないから、あの人と一緒に失くなって欲しかったんだ」
「…そんなの…」
煉獄と別れるつもりなら、必然的にこのペンダントだって弟の目に映らなくなるだろうに、何故わざわざ?それに、一方的に取ったというのがどうにも引っかかる。
「なあ、話がよくつかめ…「杏寿郎さんはずっと俺の家にいるよ」
「…!そう、なのか…」
弟が海外に行かなかったということを聞いた時点でその可能性も考えないわけではなかったから、やっぱりそうだったのかと頭の隅で思う。
「兄さんが会いに来ることを解ってたみたい。だから俺のところに逃げて来てたんだ。それでまた俺を利用してしまったって苦しんでたみたいだけど」
「………」
どうしてーー。俺が何か否定的な話をするのだと思って避けたのだろうか。考えれば考えるほど、マイナスな想像が浮かんでくる。避けられているということは心変わりしてしまったんじゃないかとか、好きだと言っても煉獄は別に俺とどうこうなるつもりはないんじゃないか、とか。それに、いくら好きな相手だからって強引にあんなことをされたのだから、気持ちが変わっていたって何も不思議ではない。
「だからもう解放してあげた。さっきお別れをしたんだ。早く行ってあげた方がいいかもしれない」
「あいつ…まだお前の家に…?」
煉獄をそのまま部屋に残してここに来たのか。それはまだ解るとして、早く行った方がいいとはどういうことだろう。
「早く引き取って行って。…あの人のこと、壊してしまったから」
「っ、?…はっ?…なに…?どういう…」
「だからそれもここに持って来られたんだよ」
弟の視線が俺の手の中のペリドットに注がれる。混乱というか、意味が分からず唖然とする俺を、弟は最後に何か見定めるかのようにじっと見つめると、やがて踵を返してさっさと出て行ってしまった。
「おい…!」
ドアが閉まる直前、説明を求めて呼び止めようとしたが弟は足を止めはしなかった。目の前に立ちはだかるように白いドアがただ閉ざしている。
「……壊した…って、…ンだよそれ…」
きっと質の悪い冗談に決まってる。いくら弟が何を考えているか解らないようなところがあるからってそんなことをする訳が………。
「でも、」
俺の手に渡ってきたこの真夏の誕生石に何か関係しているのだろうか。煉獄があんなに肌身離さずつけていたものだ。そんなに大事なものを、いくら恋人だったとはいえ別れる相手にやるだろうか。そんなことは煉獄自身にしか解らないだろうけれど、でも…。「一方的に取った」と言っていたのも気になる。
「〜〜〜〜っぁあ゙あ゙クソッ!」
何食わぬ顔で俺の手の中で淡く発光する石は、当たり前だが何も語ってはくれない。弟の手が煉獄の喉元へ伸びる映像が脳内に広がったのと同時に、モヤモヤと不安が胸の中に溜まってゆく。
何故留め具が壊れてる。無理矢理引きちぎったっていうのか?煉獄を「壊した」というのが比喩だとしても、弟に何かしら傷つけられたのだろうか。あいつがそんなことするとは思えないが……煉獄が本当の意味で手に入らないことに絶望してヤケになったのだとしたら?これをわざわざ俺に持ってきたのがその証拠だとしたらーー
一度硬く目を閉じ、頭の中を巡る様々な憶測や疑問を胸の内でぎゅっと凝縮させる。そうして次に目を開けた瞬間には、家の鍵を引っ掴んで滑るようにマンションの階段を駆け下りていた。
「…………っ、!」
エレベーターなんかまどろっこしい。無事でいて欲しいとか、どうか傷つけられていないようにだとかを願う資格なんて自分にはないのは充分に解ってる。でもこんな風にわざとらしく色々ヒントをぶら下げられて、見て見ぬふりなんて出来ない。何も問題がないことをこの目で確かめたら、許されるなら、自分の気持ちを煉獄に聞いて欲しい。聞くだけで構わないから、もう何か煉獄に望むことなんて許されないことはよく解っているから、あいつのことが誰より特別だったことを、今まで気づかなかっただけで、ずっとずっと出会った時からそうだったのだと伝えたい。
平日のど真ん中じゃ流しのタクシーなんかもいなくて、ぎりぎり地下鉄の終電に滑り込んで弟のマンションの最寄駅まで距離を稼いだ。電車を降りてからはあとはもうただ脚を動かして煉獄がいるであろう場所を目指して走った。弟のマンションが見えてくる。外観に射すような月光を受けて冬の空気の中に冷たく佇む巨大な箱。弟の言葉が嘘でなければこの中にいくつもある部屋の一つに煉獄はまだいるのだ。走ったせいでこめかみに浮いた汗を拭う。喉が張り付くほど渇いていて、無理矢理ほぼ枯れている唾液を嚥下し深く息を吐いた。乗り込んだ部屋で何を見ても、煉獄に何を言われても、とにかく伝えると決めたことだけは成し遂げようと今一度決意して。かつて無いほど意識的にエレベーターの昇りボタンを押して、やって来た電動の籠に体を滑り込ませる。弟の部屋がある9階が頭上の表示盤に映るのをじっと待った。焦れる思いとまだ着かないでくれという思いとが綯い交ぜになり、柄にもなく緊張で吐きそうだった。
絶対に、今度は狡いやり方には逃げない。力で暴こうとするんじゃなくて言葉で尽くす。自分から伝えて、それから…あわよくば煉獄の言葉を貰えたら。関係の修復の見込みがこれほど絶望的な中で唯一自分を奮い立たせてくれるのは、初めて煉獄を抱いたあの日、無理矢理体を開かせた俺の首に途中から縋るように抱きついてきた、煉獄の腕の温かさの記憶だけだ。煉獄を傷つけた自分にはそれは充分すぎるよすがで。
「………」
理不尽な手段で何度も組み敷くような自分を煉獄がいつまでも切り捨てなかった理由を知りたかった。パンツのポケットに突っ込んできたペンダントを中で握り締める。一途な愛。その石言葉に自分の想いを重ねて、ポケットの中でもう一度強く握り締めた。そしてようやく辿り着いた部屋の前で覚悟を決める。呼吸を整え、とりあえずはインターホンを押してみる。が、予感した通り何の応答もない。早く行った方がいいと言われたのを思うと、徐々に焦りが湧いてくる。弟はまだ戻らないのだろうか。わざわざ俺を呼びに来て家を空けたくらいだから、俺と鉢合わないようにしばらく戻らないつもりなのかーー考えながら、二回、三回とまた鳴らしてみたものの、やはり誰も反応しない。少し迷ったが、引き取りに来いと言われたのだからと、以前から教えてもらっていた暗証番号を入れてドアのオートロックを解き、部屋の中へ足を踏み入れた。
「…煉獄?」
キッチンやリビングには人の姿も気配も無い。そのまま進み、寝室であろうと思われるドアの前に立つと、それはほんの少し開いていた。
「煉獄…、居るのか?」
コンコンとノックしながら声をかけるけれど、返事は無い。特に水音なんかも聞こえてこないからバスルームなどにいるわけでもないようだ。
「………入るぞ?」
それから少し待ってみたがやはり応答がないのでゆっくりとドアを開けて中へ数歩進んだ。
「…煉…、………!」
部屋の真ん中に据えられたベッドの上で自分に背を向けるように横たわる煉獄が視界に飛び込んできた。それまで何をしていたのかを物語る肌が剥き出しの肩がやけに白く映る。シーツの上に流れた髪から覗くうなじの辺りに、痛々しく赤紫に変色したところが目に留まった。その痣のような鬱血に、人形のように身動きしないかつての親友に、嫌な予感と共に全身に冷水を浴びたような悪寒が一気に駆け抜けた。
『あの人のこと、壊してしまったから』
弟の平坦な声が響くように脳内に蘇った。