13.照らしてよ、ペリドット宇髄に自分の気持ちを打ち明けてから俺は元の生活に戻った。自宅で寝起きし、毎日仕事へ出かける。誰もがしているような当たり前の生活が何十年ぶりに自分にも戻ってきたような気分だった。――彼もどこかで新しくそういう生活をしていればいいのにと願うばかりだ。
あれから宇髄の弟は一度も自宅には戻っていないようだった。連絡を入れたトークアプリの既読は付くものの、返事が返ってくることはない。もしものことがあってはいけないからと、一度だけ宇髄と彼の部屋を訪ねた。来訪をインターホンで知らせても応答が無いのは予想出来ていたため、何度か鳴らした後宇髄が元々知っていた玄関のロックの暗証番号で部屋の中へ入ってみた。やはり彼が戻って来ていたような様子はなく、この部屋だけがあれから時を止めたようにそこに在った。彼が変わりなく、何事もなくいてくれることを祈るしか自分たちには出来なかった。
「今でも時々考えるんだけどさ…、あいつがお前のこと壊したって、早く行けって急かしたのって、俺のケツ叩くつもりで言ったんじゃねぇかなって思うんだ」
宇髄と自分が互いの気持ちを打ち明け合ったあの日、弟のマンションに来る直前に彼ら二人の間でやり取りしたことを宇髄は回顧する様子で言った。続きを促すため彼の目を見つめる。宇髄の家のリビングのソファーの上。ここのところずっと、俺はあの期間会社を休んでいる間に溜まった仕事に追われ、宇髄の方も舞い込んだオファーの締切に健闘したため、疲れた体を沈めるようにして久々の二人の時間を過ごしていた。
「あんな風に言われなきゃ、この期に及んでお前に対してまだ俺が尻込みするんじゃないかと考えたんじゃねぇかって」
「……」
「あいつがただお前とのことを終わりにしたかっただけなら、あの夜わざわざ俺のところになんて来なくて良かったはずだし。俺が動かずにはいられないようなことをわざと言って背中蹴っ飛ばしてくれたんじゃねぇかと思うんだ」
「彼も、君の気持ちを知っていたのだな…」
「ああ。後押ししてくれたんだ。……お前のために」
「………」
「本当に傷つけたのはまだ少し…許せねぇけど……」
宇髄はそう言って俺の喉の辺りに指先を当ててそっと撫でた。あの日ついた痣はもうほとんど見えないほど薄くなっている。
「駄目だ宇髄…。もう俺たちは自分を許そうって、あの日君が言ったんだ。だったら相手のことも許してやらなきゃ駄目だ」
それぞれ間違いを犯した自分たちだから。自分も、相手も許そう、と。
「ん。…そうだったな」
喉仏の辺りをひと撫でした後指は離れ、代わりに腕の中に抱き締められる。
「……彼がな、御守りみたいだと言ったんだ」
「ん?なに?」
呟きに宇髄が聞き返してくる。俺はパンツのポケットにしまっていたペリドットを取り出して手のひらに広げた。壊れてしまったチェーンの代わりに、今はブレスレットの大きさのそれに付け替えてある。けれど腕には着けずにこうして服にしまっていつも持ち歩いていた。彼にいつどこで会えてもいいように――。
「…俺が彼から身を守るための御守りだろうと言っていた」
そんな哀しいことを言わせてしまった。
チェーンの輪っかに手を潜らせて目の高さまで持ち上げる。照明の明かりを受けてペリドットがきらりと光った。
「勿論そんな理由じゃない。願掛けが叶わなかったら困るからと、それ以上は明かさなかったが」
「……」
「不甲斐ない俺では力及ばないから…、彼を明るい方へ導いてくれるようにと願いを込めて身につけていたんだ」
太陽の石と呼ばれるこの小さな欠片に縋った。
「そういう意味だったのか…それ。石言葉に夫婦愛とか運命の絆とかあるだろう?だからてっきりお前があいつと添い遂げるつもりでつけてるのかと思ってた」
宇髄はかつての自分の誤解を苦笑いと共に話した。
「確かにそういう意味も持っているな、この石は。でも当時は抜け出せない暗闇の中にいる気分で…だから闇の中でも光輝くという謂れのあるこの石に救いを求めてしまったんだ」
本当は自分で正しい方向へ踏み出さなければ何も変わらないことは解っていたけれど、当時はとにかく何かを拠り所にしないといられないほど、思い惑っていた。けれども偶然か必然か、実際に光射す道に進んだのは事実で。
「彼が俺とのことを終わりにして状況を変えたのは、この石のお陰も少なからずあるんじゃないかと思うんだ。迷信かと笑うかもしれないが…」
「そんなことねぇよ。煉󠄁獄の願いが成就したんだ、きっと」
「そうだといいが…」
彼がどこで何を思っているのかが知れない今、やはりまだ手放しでは喜べないところはある。
「宇髄」
「ん?」
「君がもし…嫌でなければだなんだが……」
「何、言ってみろよ」
「うん…。彼に今度また会うことができたら、これを彼に渡したいと思っている」
「…………」
静謐な光を放つ澄んだ緑を二人で見つめる。
「勿論彼が貰ってくれればの話だが」
「どうして、あいつに?」
理由を尋ねてきた声はどこまでも優しい。それに後押しされ、今までずっと胸の内で考えてきたことを打ち明けた。
「彼と過ごした数年は…褒められた理由ではなかったが、けして忘れなければいけないようなものではないと俺は思っている」
一人のひとに惹かれ続け、誤った手の取り方をしたことも、若く弱かった自分たちのかけがえのない時間だから。
「お互いを理解してきたから長く続いてきたのだと思う。…無かったことにしなければならない時間ではないと、思ってる。その時間を共にした彼に、幸せになって欲しいとも」
「…うん」
結ばれたばかりの恋人に話すような内容ではないことは承知の上で正直に話した。宇髄なら解ってくれる。そう信じて。
「この石は彼のようでもあるから」
「あいつみたい?」
「うん。ペリドットは太陽のように普遍的で一途な愛を象徴するのだそうだ」
ずっと変わらず、自分を愛してくれた彼のようだと。
「………」
「彼にはもしかしたら偽善だと取られてしまうかもしれないが…この先の彼の道標の一助になってくれたらと良いと思って、…彼に貰って欲しいんだ」
「そっか…」
独りよがりな考えなのかもしれない。三人それぞれのために彼が先陣を切ったと思っているのはこちらの勝手な解釈で、彼はもう一切何も残したくないのかもしれない。けれど。
『終わりにしてあげるよ』
(終わりにしたい、ではなくて、"してあげる"……だった)
これだって飽くまで自分の希望的観測かもしれない。でも今は、せめて本当の答えを知るすべの無い今だけは、そう思っていたかった。
(最後まで、君は優しかった)
「そういうのお前らしいよ…。底なしのお人好しだとは思うけど、俺も人のこと全然言えねぇことしてきたんだし」
もう一度、かつて肌から離さず掛かっていた首元に残るチェーンの跡を宇髄の指の背がするりと撫でていった。
「煉󠄁獄の思うようにしたらいい」
再度俺を抱きしめて宇髄は言った。
「…ありがとう」
三人のために踏み出してくれた彼が歓びを見い出せる未来に一日も早く出逢えるように。
そして、彼のことを心から想ってくれる誰かの、その手を取りたいと彼が思える日が来ますように。
それから何ヶ月かして、彼が海外を拠点に活動しているという記事をネットニュースで宇髄が偶然に見つけた。俺たちはまず彼が元気でいて、しかも小さなものとはいえネットに取り上げられるほど仕事も順調にいっているらしいことを知って喜んだ。すぐに連絡を入れてみたものの、既読がついただけで返事はやはり来ず、仕方なしと思いながらもただ単に忙しくてこちらに構っていられないだけかもしれないなどと希望を持ったりもした。その願いが通じてか、ある日、一時的に帰国するから会えないかという連絡が数ヶ月ぶりに彼から来たのだった。
彼が連絡して来たのは、昨年の冬に約二月彼の家で生活したあの間に撮り溜めた――例の写真のデータを俺に渡すためだった。
「自分で始末した方が安心でしょう。現像したものは無いからそこも安心して。信用できないなら家捜ししてくれても構わないよ」
久々に会った彼の淡々とした話し方は一切変わっておらず、もうあれから半年近くが経ったことが夢のようだった。けれど彼の方はそんな感慨など少しも無いようで、データのSDカードを手渡してくると、用は済んだとばかりに踵を返そうとしたから慌てて声をかけた。仕事でどうしても今日の都合がつかなかった宇髄が心配していることと、たまには実家にも顔を出すようにという彼の伝言を何とか伝え肩の荷が下りた気でいると、彼の視線を感じた箇所に無意識に指先で触れた。
「…痛んだりするの」
「いや…、平気だ…」
自分の出した声が皮膚を通じて指先に振動する。もうあの日の痕など少しも残っておらず、彼が気にかけていなければ、けして目に留まるような痕跡はないから――
「なら、…良かった」
外には見せないだけで、今日これを目にするまでずっと彼が気に病み、もしかしたらそのことに苦しんだのではないかと思ったらもう、
「…じゃあ。元気で」
「" "、!」
街中であることも忘れて、彼の名を叫んでいた。
「宇髄、まだなのか?待ち合わせに遅れる」
今日も暑くなることを予感させる蝉の音が、午前の空に響き渡っている。玄関でもう数分待っている自分に対して、身だしなみに拘りのある宇髄を急かして声を掛けること数度、ようやく彼が玄関に姿を現した。
「何だよまだ遅刻するような時間じゃないだろー?そんなにあいつに会うの楽しみなの?妬けるんだけど」
「君だって緊張して眠れそうにないと昨晩言っていたじゃないか」
「言っ…たかもしれないけどぐっすり眠れたもんねー」
靴を履き白々しく口を尖らす彼を軽く小突いて俺たちは家を出た。夏になる前、お互いの家を出て新しく見つけたマンションの一室が今の二人の住まいだ。今日は、海外のフォトコンペティションで受賞し、帰国した彼の弟とささやかな祝賀会の約束をしていた。前回帰って来た時には会えなかった宇髄は昨年の冬ぶりに弟と顔を合わせることになる。宇髄なりに久々に会う肉親との距離をまだ測りかねているのかもしれない。
「そうか。それならば良かった」
強がる彼のその心配が少しでも和らぐように、自分も一緒だということが伝わるように、宇髄の手を握った。
「遅いよ。暑いんだから待たせないで」
「すまない!宇髄の支度が遅くてな!」
言葉の割に涼しい顔で先に待ち合わせ場所にいた彼の前まで歩み寄る。
「お前な、せっかく祝いの席用意してやったお兄様に感謝の心はねぇのかよ」
ここへ来るまでの再会への不安など杞憂だったように、会うなり文句たれやがって、といつもの調子を取り戻した様子の宇髄が弟の肩を小突いた。しかし、
「元気してたか」
そのまま彼の肩に腕を回し、兄の顔を見せる。
「おかげさまで」
相変わらず表情は変えないものの、弟は素直にそう答えた。
「兄さんも順調みたいだね。この間の個展のライブビュー観たよ」
「はっ?何お前絵なんか興味あったっけ?珍しいこともあるもんだな」
「たまたま時間があったから観たんだよ。それより、杏寿郎さんをけばけばしく描きすぎだと思う。一緒に住んでるんでしょう?もっと良く見て、ありのままを描いた方がいいと思う」
「なっ、久しぶりに会ったかと思ったら絵の批評かよ!うるせぇ絵はなぁ、お前がやってる写真と違って見たまんま描いても面白味なんかちっともねぇんだよ!」
「それにしたってあれはやり過「こら兄弟喧嘩をするんじゃない!予約してある店まで少し歩くんだからもう行くぞ」
「へーい」
「返事は『はい』だ!」
「杏寿郎さん、少しボリューム落として」
ひょっとして、ほっとしているのは自分だけではないのかもしれない。昔の通りに振る舞えているか、今はまだ三人共に手探りで言葉を選んでいるのかもしれない。けれど望んでいるのはきっと同じ方向一つだ。
「…なに?」
「いや、」
つい無意識に見上げていた俺の視線に気がついて彼が尋ねてきた。
「君たち、よく見るとあまり似ていないんだなと思って」
『本物をあげられない代わりに、身代わりをあげるよ』
ことあるごとに、君は兄に似ている部分を俺に言い聞かせてきたけれど、よく見れば違うところはたくさんある。例えば美しいその瞳も、兄より少し黒味がかっていること。流れるような柔らかい髪質の兄に比べて君のそれは少し硬めだということ。造りが似ているせいで見落としがちな、小さな違い。でも確かに存在する。当たり前だ、違う人間なのだから。
「それを知れて、嬉しい」
覚えている。彼らの家で初めて顔を合わせた日のこと。
『はじめまして、宇髄弟!』
見上げてきた深い蘇芳色は、間違いなく初めて見る美しさと好意を湛えていた。
「…何それ」
思い出した昔の欠片に勝手に口が綻んだ俺を見て、ふいと彼は顔を逸らした。
「予約の時間迫ってるんでしょう?早く行くよ」
そう言って彼は腕に持っていたリネンの上着を肩に掲げるようにひらりと上げた。同時に、フラッシュのように瞬いた光。
俺はいつの間にか後ろをゆったりと歩いていた宇髄に声をかけた。
「宇髄、行くぞ!」
先に歩き出したかつての恋人の手首には、夏空の碧さを吸ってより瑞々しく輝く石が瞬いている。
end