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    mayo

    @mayonaka_rom

    さめしし壁打ち練習用
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    mayo

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    さめしし
    しょくさい2展示作品②
    🦁さんの勘違いから始まるわちゃわちゃ馴れ初め話です

    抱けない男 獅子神敬一はモテる。

     それはもう、えげつないくらいにモテる。数合わせで呼ばれた合コンでは無双状態。始まる前から勝ち戦が確定していた。
     顔見知りの経営者と投資家で構成される、ギャラ飲みメンバーからは当然のように外された。参加した女性たちが全員、獅子神のお持ち帰りを希望するためだ。他の男がモテる様を見るために好き好んで大金を出す人間はいない。
     女性だけではなかった。もちろん同性にもモテる。会員制バーではこの道三十年のママに「終わらない世界旅行に連れて行ってあげる」と店のシャッターを閉じられかけた。クラフトビール専門バーではオーナーにウィンクをされ続けて出資を取りやめた。
     モテるね、と言われて謙遜するのも面倒なほどのモテぶりである。


     だからある夜のこと、村雨礼二に玄関先で告白されたときも「そうか」とだけ答えた。
    賭場を通じて……という、あまり声高には明かせないつながりではあるが、友人と言っても差し支えのない人物。多忙な男はいつも目の下にくまを浮かせ、時にはパーティーの途中で寝てしまうことすらあった。それでも誘えば必ず顔を見せた。たとえどんなにバカみたいな名目であっても、だ。

     だからてっきり人の集まる場所が好きなのだろうと思っていた。まさか行動原理が恋心だったとは。突然の来訪には慣れていたが、突然の告白にはさすがに驚いた。しかも相手は自分となると驚きすぎてリアクションもできない。
     真経津たちを問い詰めれば「まさかとは思うけど気づいていなかったの?」と、逆に驚かれただろう。いや、問い詰めずとも並々ならぬ好奇心で訊いてくるに違いない。それどころか、いつ気づくのか賭けのネタにしていた可能性だってある。
     獅子神は決して恋愛事に鈍いわけではない。
     むしろ、あからさまな好意に気づくのは早い。一方的に向けられる矢印をいたずらに刺激しないよう、あしらう程度の処世術は身につけていた。にもかかわらず村雨の想いに気づかなかったのは盲点というか、予想外すぎたというか。

     だが、ここで大きな問題があった。
     獅子神はこの歳まで恋愛感情というものを理解できずにいた。
     幼少期は愛情というものを知ることなく育った。思春期を迎え、羨望を集める容姿に変貌したあとも同じ。他人への警戒心ばかりが育っていった。見てくれだけへの称賛なんて、どうせすぐに終わる。冷めた己が常にそう警告していたから。
     恋をした経験がないわけではない。幼いころには淡い思慕に似た感情を持った記憶もある。だが今にして思えば、それは弱い個体である自分を庇護してもらいたいという渇望に近かった。そしてその望みが叶うことは、ついぞなかった。にがい経験が獅子神を成長させた。別の言葉で表すならば「諦め」を覚えた。
     成長し、金を得た現在は他人を頼る必要もない。渇望が満たされることはなくても、不自由なく生きていける。一人前の男としての自負は獅子神をさらに恋愛から遠ざけた。
     それでも他者からの好意は止むことがない。むしろ増える一方だった。理由は簡単。金のにおいだ。でかい家に住み、高い服を着て、いい時計をつけた人間と付き合いだけ。欲にまみれた好意はより煩わしい、いっそ疎ましいものへと変わっていた。
     誰がトロフィーになどなってやるか。
     愛なんて何の役にも立ちはしない。
     こうなるとなかば意地みたいなものだ。
     他人からの好意を忌避するうちに、獅子神は二十代なかばにしてすでに枯れた老人の境地に至っていた。

    「――それで返答は?」
     せかせかとした問いかけに現実へと引き戻された。
    「は?」
    「返答だ。イエスかノーか。事と次第によっては保留でもかまわない」
     これが告白する態度か?
     腕を組んだ村雨の姿は尊大そのものだ。
     告白ってのはもっとこう、お伺いを立てるものなんじゃねえのかと、首をひねる。
    「獅子神。はやく答えろ」
     村雨がイライラした様子で重ねてきた。演技なんかではなく、どうやら本気で腹を立てているらしい。こめかみには青筋まで浮かんでいる。
     どこの世界にキレ散らかしながら告白の返事を待つ男がいるんだ。
     さすがにおかしいだろうと思いながらも、ぐっと堪える。

     真経津が言うように人間慣れしていない男だ。だが獅子神にとっては、この歳にしてはじめてできた友人。意味不明なジョークや子どもじみた振る舞いに戸惑うことも少なくないが、軽率な言動をする相手ではないことを知っている。
     村雨にとっても悩みに悩んだ末の来訪だろう。尊重してやりたい気持ちもあった。
     チョロい自覚のない獅子神は顎に手を当て、村雨を見やった。
    「んん……。まあ、アレだな。イエスかノーかって言われたら――」
     言葉を濁せば、じろりと睨まれる。
     何なんだよ、一体。
    「どっちだ」
     見据える眼差しは威圧感に満ちていた。
     気の弱い人間ならコロッと逝ってしまうのではないかと心配になるほどの眼力に、さすがの獅子神もたじろいだ。
    「どっちって……」
    「同じことを何度言わせれば気が済むんだ?」
    「ノー……ではないかな」
     曖昧な返事になったのは、口ごもる獅子神を見た男の眉がピリリと上がったからではない。たぶん。
     片頬を引きつらせ、ハハハ、と中途半端に笑った。それを見る村雨の眉間はもはや海溝のごとき深さだ。レンズの奥に光る瞳は手元のカードどころか伏せたカードまで見抜くのではという気迫に満ちていた。
     獅子神はあわてて笑いを引っこめると、足元に目を落とした。手持ち無沙汰にニットの裾を指でたぐり寄せる。
    「今更ごまかせると思っているのか?」
     二人を包む空気はもはや告白なんて甘い言葉では言い表せなくなっていた。賭場も真っ青、一触即発の雰囲気である。
     そんな気はねえよと否定しながら、必死で言葉を探した。
    「オメーのこと嫌いじゃねえし。イエス、でもいいかも。だけど――」
    「だけど?」
    「わりいけど、抱けねえわ」

     告白の返事でそれはないだろう。
     内心で突っ込みを入れながら吐露した。
     異性か同性かは二の次として、さすがに村雨は抱けない。
     言いながら、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いが漏れた。ダハハ、と音に出し、みずからの声量に驚いて口をつぐむ。
     村雨はプライドの高い男である。告白を笑われたとブチギレてもおかしくない。視線をおそるおそる合わせてみれば、向かい合う男は予想に反して落ち着いた顔をしていた。むしろ拍子抜けをしているようにも見える。
     まあ、ここで傷ついた顔をされたら友人としても修復不可能。不用意な笑いは反省しつつ、こっそり胸を撫で下ろした。
    「かまわん」
    「へ?」
    「かまわないと言った。私としては何ら問題ない」
    「そ、そそ、そっか……」
    「では今この瞬間から、あなたと私は恋人同士ということだ」
     村雨が重々しく宣言した。真剣な面持ちは歴史年表に載れそうなほど厳かな空気を帯びていた。つられて獅子神も顔を引き締める。
    「おう……」
     表情に反して漏れたのは生返事だったが、村雨は神妙にうなずいてみせた。

     あてが外れた。
     獅子神は頭のなかに浮かび続ける疑問符と戦っていた。
     耳にタコが出来るくらい聞いてきた「抱いてくれ」という台詞。誘惑であったり懇願であったり、脅迫だったことさえある。
     欲望丸出しのそれらを冗談めかして、もしくは膂力に物を言わせて断るまでが一連の流れ。必要ないと言われたのは初めての経験だ。あっけない、思ってもみない解決に思考がついていかない。
     戸惑う獅子神をよそに、村雨は片手を上げて腕時計を確認する。それから床に置いてあった鞄を取り上げた。
    「では帰るとしよう。明日は仕事で早いからな」
     日付も変わるころに唐突に訪ねてきて、靴を脱ぐこともなく告白をしてきたのだから、やはり変わった男である。
     でも、そのぐらい変わっている方が気楽かもな。
     獅子神はぼんやりと考えた。
     自分だって褒められたものではない。まともという範疇からだいぶはみ出た暮らしを送っている自覚があった。
     対する村雨は医師。定職に就いているだけマシだと思うのは、獅子神自身がこの男を気に入っている証拠でもあった。恋愛云々は抜きにしても。
    「じゃあな。気をつけて帰れよ」
     村雨は車で来ていたから送る必要もないが、先刻からの流れのせいか去りがたい気分だった。扉の外に出るまでは見送ってやろうと決めた。
     オレとコイツは恋人同士ってやつらしいし。
     相変わらず獅子神のなかでの定義は曖昧なままだ。だが恋人は友人よりも特別な存在――のはず。なし崩し的にOKしたとはいえ、「自分にとっての特別」がいる。今更ながら、嬉しいような気恥ずかしいような心持ちになってきた。
     足元がフワフワとする。まるで天然石の床がマシュマロに変わっちまったみたいだ。
     ちゃんと立っていられるか心配で、床に目を落とすと、
    「獅子神」
     声色さえもが違って聞こえるのは気のせいか。
     スリッパを履いた足元に影がさす。視線を上げれば、細い鼻筋がこちらに迫ってくるのが見えた。
     村雨の顔は玄関の段差でいつもより低い位置にある。すくい上げるような瞳が閉じられることがなかった。まっすぐに見つめられ、肩に手を置かれて。先に目を閉じてしまったのは獅子神の方だった。
    「おやすみ」
     耳元でささやかれる。左の頬に何かがひたりと当てられた。自分より少し体温の低いそれが村雨の頬だと気づいたころには、もう熱は離れていた。
     名残惜しさに似た感覚に自分の頬に手を伸ばしたとき、ガチャリと音がした。はっと我に返れば、玄関扉に手をかけた村雨が振り返っていた。細めた目は自分の顔に向けられている。
     注がれる視線の先が己の手だと気づいた瞬間、顔に血が上った。ぱっと手を離して下ろす。知らない間にかいた汗をズボンにこすりつける。
     村雨はそれを見守り、満足げにうなずくと、扉の向こうへ消えた。
     ゆっくりと閉まっていく扉の前で、獅子神は動揺のるつぼに突き落とされていた。
     これはあれだ。チークキスってやつだ。耳元でリップ音こそ立てなかったが、ほんの一瞬だけ触れ合った感触はしっかりと残っていた。
     自分よりも低い体温。かすかな消毒液のにおい。賭場では死神と恐れられる存在も、なんのことはない。生身の人間なのだと改めて思い知る。
     そう、ただの男だ。恋だってする。
     しかし、その相手が。
    「……まさか、オレとはなあ」
     数分前までの緊張が解け、気の抜けた声が出た。村雨がこの場にいたのならば、きっと盛大に顔をしかめただろう。舌打ちの音とともに「マヌケが」というお決まりの文句さえ聞こえた気がして、獅子神はぶるりと頭を振った。
     その声に混ざる、今までとは異なる色合いに気づかなかったふりをして。



    「つまり――」
     キャラメル味のエクレアをひと口。カソック姿の男――天堂弓彦は優雅な仕草でフォークを口に運んだ。
     目を閉じて咀嚼する表情は満足げだ。獅子神はほっと一安心する。供物である。失敗があってはならないと、普段以上に手をかけて作った甲斐があった。
     獅子神がお代わりの紅茶を注ぐ。フォークを皿に戻した天堂は、隻眼をひたと獅子神へ向けた。
    「お前は自らの肉体に自信があり、性的魅力も十二分だと認識している。にもかかわらず、性交渉を望まない交際相手に疑念を持っているということだな」
    「そうじゃねえって!」
     神父の口から放たれたとは思えない、あけすけな言葉に思わず顔を赤くした。
    「では何だ?」
    「そうじゃなくて……。その、何でそういうことは必要ねえって言われたのかがわかんねえんだよ」
     心につかえたモヤモヤをひとりで抱えた数週間。獅子神はついに耐えきれなくなった。
     脳裏に浮かんだのは神に仕える、いや自らが神だとのたまう友人の顔だった。
     教会に出向くことも提案したが、人の出入りがあるとかで断られた。来てもらうのだからと用意した焼き菓子は、すでにそのほとんどがカソックに包まれた腹に収まったあとだ。
     この調子だと追加を用意しなければ。考えながら次の言葉を待つ。
    「ふむ」と、天堂が瞑目した。
     交際相手が村雨だとは話していない。
     彼だけではない、仲間うちの誰にも話していなかった。人並みはずれた洞察力を持つギャンブラーたちだ。交際を開始した二人の……いや、獅子神の態度を見れば一発で気づいたに違いない。隠そうとするだけ無駄というものだ。
     けれども、ばれていることと、ばらすことには大きな差がある。
     特にこういったセンシティブな話題についてはなおのこと。
     そのため獅子神は名前を口に出しかけては慌ててつぐみ、どうにか匿名性を保っていた。天堂はどう解釈しているかはわからないが、あえて言及されることはなかった。あくまでも「友人とその恋人」という体で話を聞いてくれた。
    「アイツ……オレじゃ不服なのかな」
    「本人に訊くのが一番だ」
     わかりきった返答だった。それができないからこそ相談しているのだが。
     消化不良に終わった相談を後悔していると、天堂がにんまりと目を細めた。
    「どうした。不満が顔に出ているぞ」
    「そんなつもりはねえけど……」
     呼び出しておいて納得がいかないというのも失礼な話だ。
     反省する獅子神に向けられた天堂の視線は好ましいものに対するそれ。テーブルの上で組んでいた手をほどき、手のひらをこちら側に向けてみせた。両手を差し出したポーズはまさに救世主にふさわしいムードを持っていた。背中に後光がさして見える。
    「簡単なことだ。気になるなら確認すればいい」
    「へ?」
    「お前に性的な魅力を感じているのか確かめてみればわかる話だろう。ただし相手が不能、つまり機能しない可能性もあるな。その場合は――」
    「てて、天堂。ストップ」
     いつのまにか聖職者に語らせるのは申し訳ない領分に踏み入っていた。もちろん勝手に話し始めたのは天堂だが、元はと言えば持ちこんだ自分に責任がある。
     両手を顔の前で振ると、厳しい眼差しが獅子神を見据えた。
    「真実を知りたいのか、知りたくないのか。どっちなんだ?」
    「それは――」
     知りたくないと言えば嘘になる。けれどもまだ交際を始めたばかり。今後の見通しというか展望として、そういった関係は必要ないと断言された理由が気になっているだけだ。
     村雨がもしも――もしもの話だ。理想とする相手がいるとして。獅子神はそういった行為に不必要だと思われるのなら、それは少し悲しい気がする。
     天堂の言うとおり、訊いてみる他にないのだが。
    「――そろそろ時間だ。帰らせてもらおう」
     獅子神の逡巡を見抜いたように、天堂が立ち上がる。
     ひとりで考える時間を与えてやろう。
     見下ろす視線が言外に伝えていた。ありがとうな、と声には出さずに感謝する。
    「教会の仕事か? 夜なのに大変だな」
    「いや、町内会対抗のフットサル大会に呼ばれている」
    「ちょうな……フットサル……? オメー、いつからサッカーなんて始めたんだ」
    「神に不可能はない。今日勝てば区大会出場が決まる大事な一戦だ」
    「お、おう。……まあ、頑張れよ」
    「区大会には弁当持参で応援に来るように」と言い残し、隻眼の神父は優雅に立ち去った。



    「オメーって抱かれたいタイプとかあんの?」
     さりげないつもりで言った台詞は、思っていたよりも大きな声になってしまった。
     ここは村雨家。
     家主は珍しく持ち帰りの仕事もない休日で、立ち働く獅子神を横目にソファでくつろいでいた。目の下のくまは相変わらず濃いが、ラフなシャツ姿も相まってリラックスしている。
     自分の存在が邪魔だと思われていないのは、なかなかに気分がいい。恋人同士なのだから当然……なのかは不明のままだ。不明のまま、獅子神なりに考えうる、恋人同士の過ごし方を実践する日々を送っていた。
    今日はいわゆる「おうちデート」である。
     さて、食事もお茶も済ませたあとはどうしたものか。
     普通の恋人同士であればデートをしてイチャイチャして、やる事をやるのだろう。
     だが相手は村雨礼二。セオリー通りに行動するには相手が悪すぎる。多忙な勤務の合間を縫ってふたりきりの時間を過ごすのにも慣れてきたが、その実は高校生もかくやという清い交際ぶりであった。
     天堂に相談したのもそのためだ。
     手持ち無沙汰のあまりに窓磨きを始めようとしたら、さすがに止められた。「あなたも座るように」と隣を示されてソファに座ったはいいが、隣の男が手にした本を盗み見たり、レザーの座面を撫でたりする以外にやることもない。
     そこで飛び出したのが、先刻の質問だった。 デリカシーも何もない。某女性誌の特集かよ、と自分にツッコミを入れる。質問しなければよかったと後悔しても後の祭りだ。答えを聞くのは色んな意味で恐ろしい。
    「あなた……それは本気で聞いているのか?」
     村雨がぱたんと本を閉じた。
     らしからぬ緩慢な動きはわざと見せつけるためのパフォーマンス。獅子神の返答を待っているのは明らかだった。
     今更の弁明は無理だと悟る。
    「まあ、うん。本気じゃなければ質問しねえけど」
    「けれども、なんだ?」
    「だって抱く必要はないって言ったろ。だからオレ以外に『コイツだ!』ってタイプがあるのかな~、なんて」
     そこまで言ってから、はっと口をつぐむ。
     天堂が言及した、もうひとつの可能性が脳裏をよぎった。
     同性とはいえ口にするのは憚られる。今度こそデリカシーの問題というやつだ。
     途端にそわそわと居心地悪げに尻を動かす獅子神を、冷めた視線がとらえた。
    「よからぬことを考えているようだが――」
    「か、考えてねえ!」
    「どうせあなたのことだ。抱けないとは言ったものの恋人の務めとして接触がないのもどうかと悩んだのだろう。悩んだ末にどこぞの誰かに相談し、直接尋ねてみろと助言された。―—といったところか」
    「全部わかってんじゃねぇか!」
    「――もちろん理解している」
     空気が変わった気がする。
     村雨から流れこむ圧がすごい。
     強いというか、重いというか、とにかく気圧される。ごくり、と唾を呑む音がして、自分のものだと気づくまでに時間がかかった。
    「理解したうえで、必要ないと言ったつもりだが?」
    「……むらさ、め?」
     ずるずると尻をつかって後ずさりをした。
     だがソファの座面はそれほど広くない。背中がアームレストにぶつかり、それ以上は進めなくなった。
     万事休す。
     とっさに両足を下ろした床へ目を落としたが、視界を遮るように村雨の腕が伸ばされた。肩をかすめた手に顎をつかまれる。下顎の骨のうしろに中指が添えられ、急所を押さえる骨の感触に抵抗が止まった。ひゅ、と息を呑む音がやけに大きく響いた。
     黒い影が覆い被さってきた。影じゃない、村雨だ。座面に膝をつき、片手を背もたれに乗せて体を支えていた。逃げ場をなくした獅子神はなすすべもない。
     迫ってくる男へと視線を向ければ、声の調子よりも穏やかな笑みに迎えられる。――かえって不安になるほどの。
    「獅子神。私があなたに何と言ったか覚えているか?」
     まるで教師のような口ぶりだ。目をそらすこともできない。
     酸欠の金魚みたいに口を開け閉めすると、こわばる舌を動かした。
    「問題ない。……オレがオメーを抱、けなくても……かまわ、ない」
    「そのとおり」
    「だからオレは――」
    「あなたは?」
    「心配になっ」
     あれ、なんで心配する必要があるんだ?
     ぐるぐると巡る思考の真ん中に、黒いインクを垂らしたような疑念が滲んだ。抱けないと言った。抱かなくていいと言われた。それでおしまいの話ではないか。
     誰でもない村雨本人から辞退されたのに、自分はなぜそんなにこだわっている?
     広がるインクが思考を黒く塗りつぶしていく。インクよりも真っ黒な瞳孔がふたつ、自分を見つめている。
    「……あなたはとても愚かだ」
    「ふざけっ……」
     顎を押さえていた手がはずれ、反射的に首をすくめる。アームレストに乗せた頭のすぐ脇に村雨の手が置かれ、真上から見下ろされる体勢になった。冷たかったソファの座面が自分の体温でぬるくなっていく。
     額に触れ、前髪をかきあげる手はやさしい。まるで幼い子どもにするように。心地よさに目を閉じかけ、はっとして村雨に視線を戻す。
    「悪口に聞こえるなら言い方を変えよう。――そうだな。決して思慮深さに欠けるわけではない。ただ慎重かつ臆病なわりには考えが足りているとは言いがたい。実年齢に対して見通しの甘い節も過分に見受けられる」
    「じゅうぶん悪口じゃねぇか」
     声が震えてしまった。
     顔のすぐ横には村雨の腕。袖口の布地が頬をこすってくすぐったい。見下ろす顔の両側から垂れたグラスコードが軽い音を立てた。動悸がする。息が苦しい。
     だって、この格好はまるで――。
    「私が相手だからだろう」
     勝ち誇ったような声が降ってきた。
     動揺に伏せていた瞼を上げると、喜色を隠しきれない顔と出会った。吊り上がった上唇の狭間から歯が覗いている。男にしては顔も顎も小さいつくりだが、きれいに並んだエナメル質は捕食者にふさわしい硬質な光を放っていた。
     ああ、そういえばコイツは肉が好きだったっけ。
     ネコ科の動物の狩りの様子がフラッシュバックした。
    「あなたは私の言葉に取り乱している。自分で抱けないと言っておきながら真意を確かめようとするぐらいには」
    「ああ、そうだよ」
     ヤケクソな気持ちで応えた。
     村雨が言うなら、その通りなんだろう。
     ソファについた腕の狭間で身をすくめた姿は滑稽に違いない。でかい体を縮めて、怯えて、期待して。
    「抱けなくてもかまわないと言っただろう、獅子神」
     下唇を指で挟まれ、言葉を発することができない。そういう体にしてくれているのだとしたら、お前はどうしようもないタラシだ。
    「あなたは何もする必要がない」
     口のなかに勝手にあふれ出した唾を飲み込む。こくん、という音とともに、喉の隆起がまるで首肯するかのように上下した。うるさいぐらいに鳴り響く心臓は今にも口から飛び出してしまいそうだ。
     獲物がいなければ狩りはできない。
     絶体絶命の危機を迎え、当たり前のことに思い至ったのは幸か不幸か。

     抱いてくれ。

     聞き飽きた言葉を口にしたのは誰なのか。
     恋人たちだけが知っていた。






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