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    mayo

    @mayonaka_rom

    さめしし壁打ち練習用
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    ありがとうございます☔️🦁

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    mayo

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    さめしし。ししさんが血縁のない子どもの世話をする話。ラストのさめししパートです。想定より長くなりましたがお付き合いありがとうございました!

    世界はそれを、 (⑥) 心臓が止まるかと思った。
     考えぬいたメッセージを送信し、さてと立ち上がったとき。
    「む、村雨……」
    当の本人が入ってきたのだから。
     驚きのあまり、スマートフォンを取り落としかけた。指をすり抜けようとしたそれをあわてて握り直す。ぽかんと開いた口に意識を戻した。
    「お、おう。いま電話しようと──」
    「電話? メッセージの間違いでは?」
     自分のスマートフォンの画面をちらりと眺め、村雨が静かな声で訂正した。
    「そうかも」
    「玄関も廊下も暗い。不在なのかと確認の電話を入れようとした」
    「ああ、わりい。ちょっと考え事してて」
     喉が渇く。舌がうまく動かない。
    ソファから中途半端に腰を浮かせたまま、周囲に視線を走らせた。散らかった室内には見るべきものなど何もない。せわしなく動いた目線は入り口近くに立つ男へと戻った。村雨はすべてを見越したように待っていた。獅子神の注意が戻ったのを契機として室内へ入ってくる。
     扉を閉める音がやけに大きく響いた。
     気まずい沈黙に、獅子神はごくりと喉を鳴らす。

    「──メシ食うか?」
     声が上滑りしているのを感じながら、キッチンに目を向けた。返事を待ちきれずに大股で歩き出した。
    「昼の残りのシチューと、あとデザートにフルーチェならたくさんあるぞ」
    「大量の牛乳でも届いたのか?」
    「ちょっと事情があって……」
     訝しげな声が追いかけてきた。冷蔵庫を開けるよりはやく、食事もデザートもいらないと断られる。夜が近づき、暗くなってきたとはいえ、まだ宵の口。夕食にはだいぶ早い。村雨が断るのも当然だった。
     キッチンへ進む足を止め、ダイニングの手前で立ちつくす。村雨も同じく部屋に入ってすぐの場所に立っていた。距離を保って棒立ちなんて、はたから見たらさぞかし滑稽だろうな。獅子神はスリッパの足先をもぞもぞと動かした。
    「あ、そうだ。オメーに必要なのはアレだろ」
     懲りずに話題を変えた。
     職員証、とつぶやくと、男の気配がどんよりと重くなったのを感じた。何かまずいことを言ってしまったか。内心ではびくびくと怯えながら、取りつくろうように補足する。
    「一応言っとくけど、オレがやったわけじゃないからな」
    「わかっている。叶か、真経津。もしくはその両方だ」
    「知ってたのか」
    「知らなかったら、あなたの家に取りに来られるわけがないだろう」
    「え、どういうことだ?」
     思わず振り向いてしまった。
     村雨の目がわずかに見開かれていた。わからないのか、と言いたげに。気詰まりからとっさに目を逸らしてもなお、じっと見つめる気配を感じる。紙片の散乱するフローリングを見るとはなしに眺めていると、前方からかすかな、ため息のような音がこぼれた。
     視界の隅で村雨が体の向きを変えるのが見えた。ソファの方向へと。座って話すつもりらしい。流れるような身のこなしで、すたすたと歩いていく。必要なものを受け取ったらすぐに帰るとばかり思っていた獅子神は、迷いのない足取りを呆然と見送った。
    「長くなる話か? 何か飲み物でも用意するから……」
    「あなたも来い」言い終える前にかぶせられた。
     少しでも時間を稼ごうとしていることぐらい、とっくにお見通しなのだろう。
     あきらめるしかない、と腹をくくった。背中を向けているあいだに深呼吸をひとつ。獅子神もソファへと戻る。決意のわりに足取りはひどく重かった。


    「……その、職員証だけどよ」
     沈黙をつくるのが怖い。腰を下ろす間も惜しんで話しかける。先に座った男は三人がけのソファ中央を陣取っていた。獅子神は少しだけ考えてから、その隣、肘掛けに背中を押しつけるように腰を下ろした。
     村雨がなにか言いたげに口を歪めたが、すぐに元に戻した。普段と変わらない、落ち着いた声で話し始める。
    「──昨晩遅くに真経津たちがやってきた。正確にいえば待ち伏せをされた」
    当時の状況を思い出したらしい。それまでの比ではないほどの渋面に、息を呑む。村雨は苛立ちを隠せない様子で語りだした。
     手術が長引き、深夜に近い時間に退勤したのだという。何よりまず睡眠を。ふらつく体で自宅に戻ると、
    「リビングで二人が待ち構えていた。灯りに気づいていればホテルにでも泊まったものを」
     村雨の家はプライバシー重視のため、外向きの窓が極端に少ない。リビングは半地下にあり、上部の窓から中庭の外光を取り入れるようデザインされていた。真経津たちは自家用車を使う獅子神とは違い、タクシーで訪れたのだろう。車通勤の村雨はガレージから屋内へと直接出入りする。表向きの玄関に並んだ二人の靴にも気づくはずもない。不運は重なるものだ。

     獅子神はもうとっくに諦めているが、いつの間に村雨の家まで合鍵をつくったのか。常識はずれの彼らにプライバシーの意味を教えるのは無理かもしれない。それにしても定職を持つ村雨には、手加減してやるべきなのに。今日の二人は村雨の休みなど知らぬ様子を見せていたが、あれも芝居だったようだ。
    「で、二人はなんの用事だったんだ?」
    「医師監修のもと利きエナジードリンクをすると言われた。私も加わるようにと。人工甘味料の入った飲み物は飲まないからと断ったら──」
    「断ったら?」
    「ショット対決を持ちかけられた」
     思いもよらぬ返答に、獅子神は目を剥いた。
    「引き受けたのか? 医者だろ?」
    「叶に煽られた。それに医者でも飲みたいときぐらいある」
     憮然とした声が答えた。つい村雨の方へ向けたくなる視線をあわてて宙にずらす。村雨は食事の際に酒を添えることはあっても、度を越して飲むタイプではない。叶や真軽津が唆したところで、やすやすと挑発にのるなんて想像もできなかった。
    「と言っても飲んだのは二杯か、三杯だけだ。夜明けまで騒がれて、そのあとは記憶がない。昼過ぎにソファで目を覚ますと──」
    「真経津たちが消えていた」職員証とともに。
    「そうだ」
     村雨が当時を思い出したように顔をしかめ、こめかみを指で揉んだ。疲労困憊で鞄を適当に置いてしまったのかもしれない。まさか友人が夜中に家に来ていて、さらに大事な身分証を狙っているとは思うまい。油断したのも仕方のないことだった。

    「そりゃ、災難だったな」
     数杯とはいえ度数の高い酒を一気飲みするとは。疲れた体でそんなことをすればリスクしかないことを誰よりも知っている男なのに。
     仕事で苛つくトラブルでも起きたのだろうか。師走っていうぐらいだからな。声には出さずに考えていると、村雨がまたじっとこちらを見るのを感じた。
    「あなた……見当違いなことを考えているな」
    「べ、別に」
     地を這うような声色。瞬きを繰り返してそらっとぼけてみたが、うわずった返答が動揺を如実に表していた。苦しまぎれに顔を横に振ってみたが説得力はないに等しい。
     仕事のことが見当違いっていうなら、何なんだ。訊ければ簡単なのに、それができないから困る。獅子神は必死で頭を巡らせた。村雨が叶に煽られ、やけ酒を飲むほどの不興なんて一体──。
    「あ、……」
     もしかして。
    「もしかしなくても、それだ」不機嫌極まりない声。
    「それって、オレの、」
     喘ぐように言葉をつむぐ。舌がもつれた。
     どうしよう、オレのせいだ。オレが馬鹿なことをしたから。
     蓋をしていたあの夜の記憶が一気によみがえる。不誠実な言葉。馬鹿げた試し行動。村雨がしずかにオレを見て、そして。
     ソファに置いた手がぶるぶると震えた。いたずらにレザーをひっかく指先を止めようとして、とっさに握りしめる。手のひらに食いこむ爪が、あの日に自らつけた傷を上書きしていった。
     村雨がこちらを覗きこむ気配を感じた。
    「落ち着け、獅子神。悪いのはあなたじゃない」
     うつむいた視線の先で隣に座った膝が動く。おもむろに伸ばされた手が己の甲を覆った。外から来たばかりだから、男の手はまだひんやりとつめたい。白く薄い手の甲に目を落とした。
    「村雨の、せい?」
     それは違う。
     獅子神は心のなかで否定した。あの夜の村雨はどこまでも冷静だった。あれ以上の対応なんてないことぐらい、自分が一番よくわかっている。しかし村雨はゆっくりとかぶりを振った。
    「同じことを考えていた──それも、あなたよりも前に」
    「え?」
    「あの日、子どもを抱くあなたを見たときに。あなたは誰よりもいい親になるだろうと思った」
     想像すらしたことのない先を教えられ、身震いが出た。嫌悪か忌避か、そのどちらから来るものなのかはわからなかった。
    「――オレがなれるわけねえだろ」
     吐き捨てる言葉に、村雨が眉を吊り上げた。
    「あなたの自己評価が私よりも正確だったことがあるか?」
     村雨の言う通りではあった。
     けれども、
    「オレは……オレは、……ならねえ」
     劣勢を悟ってなお、なおも悪あがきを繰り返す。お前とは違うから。勇気を振りしぼり言葉にすると、村雨が深く息を吐き出した。
    「ミラーニューロン効果という言葉は知っているか?」
    「ミラー?」
    「人間をはじめとする霊長類が他の個体の行動を見て、鏡のような反応を返すことだ。あの子どもは我々を見て親密さとは関係なく笑っただろう。それと同じだ。私がやったことは自らの体験の積み重ねによるもの。コミュニケーションの一つであって、父性や親としての資格とはまったく関係がない」
    「でも、お前は──」
     言いかけた言葉はしずかな、しかし厳然とした否定と出会い、瞬時に打ち消された。村雨がつづける。
    「あなたは幸福に満ちた家庭を持つ資格がある。誰よりも幸せになる資格が……だが、それを認めたくない。私の隣にいる以外の選択肢なんてすべて消えてしまえばいい」
     村雨がはっきりとした口調で言い切った。
     どうして自分の望みを迷いもせずに伝えられるのか。考えかけて獅子神は気づく。迷わなかったわけではない。顔も見せず、声すら聞かずに過ごした日数が、村雨の迷いをこれ以上ないほどあらわしているのに。
    「これは私のエゴだ」
     そう伝える男に喜びを伝えられたらどんなにいいだろう。
    「村雨。オレは……」
     嫌だった。いつか、誰かとお前が子どもを抱く未来なんて絶対に嫌だ。
     幼稚な感情のままに言葉のナイフを手にした。お前を傷つけた。
     獅子神の逡巡を見抜いたように、村雨が首をかたむけて顔を覗きこんできた。
    「ただし」
    「自分が傷ついたから相手を傷つけていい、という道理は通らない」
    「……ごめん」
     おそるおそる謝ると、頭の上にポン、と手が置かれた。髪をゆったりと撫でる手つきは頑是ない子どもにする仕草のようだった。たった三歳違い。それでも歩んできた道のりの差に少しだけ反発したくなったのは、ようやく手に入れた安堵の裏返しだ。
    「オメーでも傷ついたりするんだな」
     余計なひと言だったと思ったときには遅かった。村雨の眉間に深い深い皺が寄る。
    「私を冷血漢かなにかだと思っているのか?」
    「そうじゃねえけど……ごめん」
    「あなたはもう少し人の心を、いや私の心を理解すべきだ」
    「わかった。努力する」
     生真面目に応えると、村雨が満足げに顎を引いた。
    「焦ることはない。一生かけて覚えればいいのだから」
    「ああ、うん……。い、いっしょう⁈」
     さりげなくとんでもない宣言をされた気がする。目を白黒させる獅子神をよそに、村雨は落ち着き払っていた。何を今更。片側だけ吊り上げた口元が伝えていた。

    「そういえば、真経津からの預かりものがある」
     この話題は終わりだとばかりに、村雨が立ち上がった。扉を開けて廊下に出る。今までの実績からしていやな予感しかしない。戻ってきた村雨が手にしたものを見て獅子神は言葉を失った。
    「頭の上にこれが置かれていた」
     金色のワイヤーを繊細に編み込んだ星型のツリートップ。クリスマスツリーの上に飾るオーナメントだった。
     いくら寝こけていたとはいえ、家主の頭にこれをかぶせていくなんて。職員証のヒントとして置いたのだろうが、年下の友人の剛胆さは末恐ろしい。
    「オメー、よく持ってきたな……」
    「ゴミ箱に叩き捨てようとしてギリギリで堪えた」
     村雨が真顔で言う。
    「あなたに渡してやりたい一心だ」と言い添えられ、照れくささに尻のあたりがむず痒くなった。
     戻ってきた村雨に促され、立ち上がる。
    「せっかくだ。あなたが飾るといい」
    「これって子どもが置くんじゃなかったっけ」
     やらせてやりたかったな。遠ざかるタクシーを思い出しながら訊ねると、村雨が首を横に振った。
    「その場で一番若い者がやればいいはずだ。ちなみに実家を出るまでの十何年間は私の役目だった」と胸を張った。
    「すげえな、お前んち」大真面目な顔でツリーに星を飾る姿を思い浮かべて、口元がゆるんだ。
    「今はどうしてるんだ?」
    「甥たちの仕事だったが、一昨年からは新しく家族に加わった犬が大役を果たしていると聞く」
     なんて愛にあふれた光景なんだろう。その場に居たわけでもないのに、自分のことでもないのに。頭の芯が多幸感にぶわりと熱くなった。
     たぶん愛なんてのは大仰なものではないのだろう。いたって当たり前の顔をしてそこらじゅうに存在しているのだ。
     手に持った星がベツレヘムに光を届けた夜からずっと。



     手を伸ばし、それでもまだ足りないからつま先立ちでツリーの先端に触れる。村雨の手が腰を支える。飾りを枝に差しこむようにして乗せる。
     すこし斜めに曲がってしまったが、叶にでも直させればいい。どうせ呼ばなくても来るだろうから。ことの顛末を尋ねられるのは業腹だが、ほんの少しだけなら感謝してやってもいい。お手柄顔なんてしやがったら、クリスマスケーキもおせちも全部フルーチェにしてやるけど。
     星を掲げたツリーはやっとクリスマスらしくなった気がした。村雨も同感だったのか、「悪くないな」と声がする。
     忘れてはいけない。下ろした手で職員証に触れ、絡まったコードをはずしていく。カードのなかの写真は、本物よりもずっとしかつめらしい顔をしていた。背後に立つ男はもっとずっとやわらかい表情をしているのに。ほら、やっぱり。振り向き、手渡して確認する。村雨の手はまだ背に置かれたまま。獅子神が体を反転させたことで腰を抱かれるかたちになった。
     ツリーの下で抱き合って、まるで恋人同士みたいだ。口にしたら「みたい、ではない」と至極真面目な顔で訂正されるに決まっている。けれども戯けた考えでもしないことには、顔が赤くなるのを止められなかった。
    「んむっ」
     油断しきっていたところを狙われた。唇に触れるやわらかさが何かわからないほど、子どもではない。まぶたを落とさずにこちらを見つめる瞳にこもる熱もこれで三度目。
     あわてて目を閉じても、もう遅い。一度離れて、また触れる刹那、下唇を噛まれた。じわりと痺れるような痛みがこちらを見ろとゆする。後ずさろうとした体は背に当たるツリーの枝によって阻まれた。もう逃げ場所はない。
     この期に及んで、と言いたげな眼差しが振ってくる。わかってる。わかってはいるけど。視界のほとんどを占領されたまま、獅子神はわずかな隙間に活路を求めた。きょときょとと動かした目玉を、足元のきらびやかな包装紙に止める。開封を待つプレゼントの山に。
     そういえば。
    「クリスマスプレゼント……って、二十五日の朝に開けるんじゃなかったか?」
     神を名乗る男の受け売りをそのまま口にすると、
    「……は?」
     大気が凍りついた。いや、凍りついたのは自分自身かもしれない。口元がぴくぴくと引きつりながら上がり、愛想笑いの途中みたいに中途半端なところで止まった。最悪だ。閉じようとしても、表情筋が強張ってうまく動かせない。顔だけではない、体が油のきれたロボットのようにかたまっていた。
    「……い、いや。真経津が言ってたんだよ。ここ出る前に。その、オレのためにプレゼントを用意したって」
    「たしか叶黎明も同じことを言っていた」
     やりたい放題のギャンブラーたちの手にかかれば、互いもプレゼントにされてしまうらしい。リボンをかけられなかっただけまだマシか。
     焦れた村雨が鼻筋に己の鼻先をこすりつけてきた。尖った感触にひえ、と短い悲鳴を漏らし、言葉をつづける。
    「クリスマス用にもらったなら、まだ開けちゃダメかな、なんて……はは、」
    「あなた……それは本気で言っているのか?」
    「ほら、天堂も──」
     必死の思いで動かした口を手のひらで覆われた。もごもごと言葉にならない音が村雨の手のなかへと吸い込まれていった。
     しかめ面の手本ってのはこうやるんだなと、馬鹿げた感想が浮かんだ。口角が下がったせいで、いつもは見えない下の歯がよく見える。怒っているわけではないが、不機嫌きわまりないときの表情だ。
    「──二十五日には手に入るという認識でいいんだな」
     恋人同士で交わされる会話とは思えない。重々しい声色は疑問形ではなかった。確認のかたちで問われ、ノーと答えるほどの勇気を獅子神は持たなかった。口は相変わらず塞がれているから、勢いをつけて頭を縦に振った。そうして期日に何を手に入れるつもりなのか、目的語を聞きそびれたことに気づいた。
     据わる目を見れば、訊く必要もないのだが。
     念のために片手を挙げて指先を自分の胸元に向けてみた。我ながら往生際が悪いとは思うが、万が一ということもある。己を指さしたマヌケな体勢のまま、向かい合う男の反応を窺った。
    「他に代案があるなら聞こう」
     なかった。否定しないだけ、村雨なりの思いやりを感じるが、据え膳に乗せられた事実は揺ぎようもない。ツリーのまわりに積まれたプレゼント。どうやら自分もそのリストに加えられたらしい。もちろん村雨も。
     さすがに息苦しくなって立てた指を口元へ移動させると、ようやく手のひらがはずされた。ぷはっと短い息を漏らし、安堵に力を抜く。
     再びふさがれる唇。フライングじゃないのか。意味のないあえかな抗議は、互いの隙間にくぐもって消えた。
    「楽しみだな」
     村雨が表情をゆるめ、ゆったりと笑う。眼鏡の奥の目を細めて、これ以上ないぐらいの喜色を乗せて。
     ああ、コイツがそんなに嬉しいのなら、それでいいのかなと思う。
     オレもお前もきっと幸せな子どもだから。



     カーテンを開け放したままの窓からは、オレンジ色の照明が差しこんでいた。近隣の家々も灯りをつける時刻だ。屋根越しに見える銀杏並木が白い月に向かって枝を伸ばしていた。おだやかな夜はすぐそこだ。
     間接照明だけをつけた室内は、すっかり暗くなっていた。村雨の顔を見る程度の不便はないが、獅子神はふと思い立ち、ツリーの足元に手を伸ばした。枝にからんだコードを指でさぐり、スイッチをオンにする。等間隔に並んだ豆電球が、あたたかな光を放ちはじめた。
     友人たちの手によって飾りたてられたツリー。さすがにやり過ぎだろうと苦笑していたデコレーションも今なら楽しめる。頂を護る星が無数のライトを乱反射させた。壁に天井に、きらきらとした光が部屋に充ちる。枝葉のかげが精緻な彫刻のように、端に寄せたカーテンのひだを彩った。
     きらびやかな景色に、獅子神はまぶたを閉じた。ゆっくりと息を吐き出す。胸の底のわだかまりがあたたかな空気にほどけて消えていくのを感じた。
     再び目を開ける。さっきよりも少し滲んで見える光が不意にかげった。頬に触れる指先はもう冷たくはない。閉じたまぶたの裏をやわらかく照らす光。グラスコードの金属音。体を包みこむ熱。

     ありきたりな言葉では言い表せない。薄っぺらな言葉では言い尽くせない。
     ただひとつ、わかるのは。
     思っていたよりも、ずっと──世界は喜びにあふれている。





    世界はそれを、  終
    (2023.11.13〜2023.12.19)
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