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    mayo

    @mayonaka_rom

    さめしし壁打ち練習用
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    mayo

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    さめしし
    しょくさい2展示作品①
    片思いをあきらめようとする臆病な🦁と追いかける☔先生の話

    雨のなかで踊れ この恋を終わらせよう。

     獅子神敬一が思いついたのは、なんてことのない朝だった。久しぶりの晴れ間。抜けるような青空には雲ひとつない。余裕をもって建てられた家並みの向こうに銀杏の大木が青々とした葉を茂らせていた。変わりない、一日の始まり。
     いつも通りに起きていつも通りの朝食を作る。フライパンの上のベーコンの脂がいい香りをたて、空いたスペースに卵を割り入れる。考える必要もない。決まりきった作業の合間にその考えは降って湧いた。
     ――まるで天啓のように。

     実際のところ、天啓というにはいささか軽い。
     神を自称する友人が耳にしたら威光を侮るなと説教をくらうだろう。しかし思いつきというにはあまりに重すぎた。サイコロの出目やコインの裏表で決められる勝負とは違う。運もコントロールも関係ない。獅子神にとっては一世一代の決意だった。
     覚悟を決めたとたん、ここ何ヶ月か曇り空のようにどんよりとした心に光が差し込むのを感じた。夜毎悩んでいたのが嘘みたいに。ああ、もっと早くこうすればよかったのかと腹落ちする。
     どんなことにも始まりがあって終わりがある。
     恋にも当然、同じことが言えるはずだ、と。

     しかし恋とはいっても単なる一方通行だった。つまり獅子神の片想い。
     恥ずかしすぎて口にすることすら憚られる。自身もまさか二十代をなかばも過ぎて、そんな青くさい執着に悩むとは思ってもいなかった。
     けれども無意識に芽生えた恋情は気づいた時点でもう手に負えないほど膨らんでいた。自覚してからは隠すだけで精一杯。ドラマや映画のような甘いときめきやら切なさなんてものとは無縁の日々だった。
     例えるなら耐えるばかりの苦行ないしは罰ゲーム。
     夜ごと枕を涙で濡らす。……なんて醜態はさすがに晒さずにいたが、いっそ悲劇の主役ぶって泣けるならどれだけ楽だろう。そう思ったことも一度や二度ではない。
     泣いて、泣きわめいて。いつかは欲しいものが手に入ると信じられる子どもだったなら。

     悲しいことに獅子神はそんな夢を見る時期をとうに過ぎていた。
     そしてはじめて、恋は人を狂わせるのだと知った。どうすることもできない感情を持て余すうちに、本当に頭が狂ってしまうかもしれない。いや、もう狂っているのかもしれない。理性や意思ではコントロールできない激情は膨らむ一方だ。
     だからこそ思い立ったが吉日。卵の殻を生ごみに出すように。ベーコンの脂を吸わせたキッチンペーパーをゴミ箱へ放りこむように。この想いも捨ててしまおう。
     アイツがオレを好きになるはずがないのだから。

     実らない恋なんて、いらない。


         ◇


     洗面所から戻ると、家主である村雨がキッチンに立っていた。
    「洗い物の礼だ。コーヒーを淹れよう」
    「頼む。カップはどこかわかるか?」
     茶化す声色に、
    「誰の家だと思っている」
     迷いのない手つきで食器棚からマグカップを取り出した。
     大ぶりで無骨なデザインの磁器は村雨にあまり似合わない。ボーンチャイナのセットでも送ってやろうかと思うが、相手は機能性重視の男だ。食洗機の使用に耐える厚手のマグの方が向いているのだろう。
    「……豆はどこだ?」
     冷蔵庫と棚のあいだを二往復した村雨が振り返った。
     カウンターに出したキャニスターの中身はほんの少しを残すだけで空っぽに近い。苦虫を噛み潰した顔に、獅子神はたまらず噴き出した。
    「こないだ天堂が持ってきたやつがある。たしかパントリーの一番上」
     神様とやらのおかげで、薄すぎるコーヒーを飲まずに済む。心の中で手を合わせながる獅子神一瞥し、村雨がぶつぶつと文句混じりに腕を伸ばした。
     仲間うちでの集まり。獅子神だけが残る珍しい夜だった。
     天堂は定例の勤めがあるからと姿を見せず、真経津と叶は食事を終えてすぐ街へ繰り出していた。以前勝負をした大学生グループから、面白そうな違法賭場の話を聞いたらしい。この場合の「おもしろい」は相手にとっての「おもしろくない」を意味する。ガキ相手なら程々にしておけよとは伝えたが、子ども同様の残酷さを秘めた彼らが心に留めたかは知る由もない。

     封を切った袋からスプーン山盛り二杯のコーヒー豆を電動ミルに移す。細くて長い指先はいかにも器用そうだ。さすが外科医。背筋をピンと伸ばした姿はプロの作業を思わせた。手術中もこんな感じかもしれない。
     これより今夜の手術を行う。目的はハンドドリップによるコーヒーの抽出。適正量は二杯。
     妙なナレーションが頭のなかで再生された。
    「何がおかしい?」
     脳内再生につられて口元がゆるんでいたらしい。作業の手は休めないまま、村雨が胡乱な眼差しを投げていた。
    「別に。なんでもねえ」
     皮肉のひとつも覚悟して首をすくめたが、カウンター越しにこちらを見上げる瞳に浮かぶのは純粋な疑念だけ。食事のために切り替えた暖色のライトが表情をやわらかく彩っていた。タッグマッチを乗り越えて、こんな表情もできると知ったのは記憶に新しい。親しさの表れとわかってはいるが、いまだ慣れないそれに曖昧な笑みを返す。
     ふと何かに気づいたように、村雨が手を止めた。
    「紅茶かノンカフェインの方がよければ変えられるが」
     意外なほどこまやかなことに気づく男だった。愛情ある家庭に育った人間の特権だと、羨ましさを覚えるほどに。
    「いや、そんなんじゃねえって。ただ……」
    「ただ?」
    「牛乳の買い置きは確かめたか?」
    「……ブラックにふさわしい一杯を淹れよう」
     村雨は無言で天を仰いだあと、重々しく宣言した。
     今度はどうにか噴き出さずに済んだ。
     次に来るときにはロングライフの牛乳を持ってきてやろう。獅子神は頭の片隅でメモをとった。

     ガラス製のドリッパーとサーバーをカウンターに並べる。背面カウンターには大型の機械式コーヒードリッパーも置かれていた。その横には大容量の保温タンブラー。どちらもとても一人暮らし用とは思えないサイズだ。
    「そっちは使わねえの?」
    「こちらは家で仕事をするとき用だ」
     美食家のくせに自宅での食事はまるきり無頓着だ。獅子神が惣菜を持ち込まない限り、冷蔵庫は飲料専用の保冷機になっていた。コーヒーの相手は、パントリーに詰め込まれたビスケットや栄養補助食品の類か。肉づきのうすい頬を見比べ、思わずため息をついた。
    「体に悪いぞ」
    「どこかの配信者に比べればだいぶマシだと思うが」
    「まあ、エナジードリンクに比べりゃそうだけど。あ、コーヒーはそっちの機械でもいいんだぜ?」
    「いや、せっかくだからこちらを使おう。――慣れているから心配しないように」
     わざわざ釘を刺すのは先刻の失態を根に持っているから。
     落ち着いた外見にそぐわぬ大人げない態度も、いつものことだ。
     大真面目な顔で「では、つづきに取り掛かる」と言うのがおかしい。気を抜けば今にも頬がゆるんでしまいそうだ。見えない位置で親指の爪を人差し指に押し当てて意識をそらした。
     以前は手術器具に占領されていたキッチンも、最近は本来の用途にふさわしい体裁を整えていた。獅子神がパーティーにかこつけてあれこれと持ち込むからである。けれども相変わらず自炊をする気はないようだ。心配するなと言ったわりに、クッキングヒーターのスイッチを押す手つきはぎこちなかった。キッチンを使う機会そのものが少ないからだろう。
     にもかかわらず手のかかるハンドドリップを選んだのは客人としてもてなされている証。その事実は獅子神の気持ちをひそかに高揚させていた。面映ゆさの裏返しに口を差しはさみたくなるのをこらえ、カウンターに寄りかかって作業を見守る。

     奇妙な縁で出会ったときには、まさかこれほど足繁く通う間柄になるとは思わなかった。医師と投資家。ギャンブルという共通項さえなければ決して出会うことのないタイプの人間だ。かつての自分が聞いたら腰を抜かすに違いない。
     追憶じみた感慨にひたる間に、電動ミルが豆を粉々に砕いていく。セットしたペーパーフィルターへ粉を移すと、コーヒー特有の芳香がふわりと広がった。天堂の属する宗派の慈善事業の一環としてつくられた商品だが質も悪くなさそうだ。かぐわしさに鼻をうごめかせる。
    「将来有望な若手医師の淹れたコーヒーか。貴重な一杯だな」
     親しい間柄だからこその軽口をたたけば、穏やかだった表情が一転する。口角がほんのわずかに吊りあがり、いつもの皮肉っぽい色が戻ってきた。
     伶俐な眼差しになぜか安堵する自分がいる。
    「未来の大物投資家に洗い物をさせた礼だ」
    「未来じゃなく、現の間違いだろ」
    「それは知らなかった」
     片方の眉を器用に上げた男は、そのままカップボードへと近づいた。棚に並ぶ酒瓶のなかから迷いなく一本を選び取る。

    「入れるか?」
     示したのはアイルランド産のウィスキーだ。ラベルに書かれた文字に目を留め、獅子神は眉をひそめた。酒を供する店で働いた経験が多いためにわかる。コーヒーとカクテルするには上等すぎるランクの品だった。
     互いに銀行の残高を気にする身ではないが、「もったいねえぞ」と声が漏れる。
    「そのままが良ければそれでも。叶黎明に見つかる前に飲んだ方がいい」
     村雨の弁を聞くまでもない。叶が天堂にショット対決を挑んだのは先月のこと。同僚に貰ったというギリシャ土産の酒は、家主がひと口も飲まないうちにうわばみたちの胃に消えていった。
     それ以外の酒も了承なしに飲まれているようだが、村雨は嘔吐しなければいいと気にした様子もなかった。獅子神のように雷を落とすこともなく、飄々と対応していた。神経質に見える男だが、本当に気にならないらしい。
    「車で来たから、酒は遠慮しとく」
    「泊まっていけばいい」
     こともなげに提案され、獅子神は目を伏せた。返答の言葉を探す。
    「あー……。オレ、明日は仕事あるんだ」
     酒についてだけではない。
     偏屈そうな見た目とは裏腹に、村雨は何事にも関してもさばけた性格だった。誰かしら――大体は真経津か叶――が帰るのが面倒だと訴えれば、散らかすなと小言を言いつつも、快く部屋をあけて泊まらせる。翌日に仕事を控えていなければ、朝まで付き合うことも厭わない。
     けれども今日の客は獅子神ひとりきり。自分だけが泊まるのは何となく違う気がする。うまく言語化はできないが。

     口ごもる獅子神をしばらく眺めた村雨が不意に唇を横に広げ、にいっと歯を見せた。猫のように細められた瞳に縫い留められる。
     意外に口が大きいな、と場違いな感想が頭に浮かんだ。
    「ああ。一人寝が怖いなら、寝かしつけでもしてやろうか」
    「ち、げえよ! 馬鹿にすんな!」
     気づいたときには自制もなく、大きな声を出していた。村雨の表情は普段よりもずっとやわらかで、それがまた獅子神の神経を刺激した。
     しまった。そう思っても、すでに遅かった。
    「——そんなつもりはなかった」
     気を悪くしたのならすまない、としずかな声で告げられた。
     村雨は作業を止めて両手をカウンターにつき、まっすぐにこちらを見つめていた。真摯な眼差しが謝罪の本気さを伝える。何も言えない。荒らげた息を落ち着けるので精いっぱいだった。

     村雨が激昂に驚いたのは、ほんの一瞬。だが見開いた目が獅子神の脳裏にこびりついていた。村雨は見たこともない顔をしていた。どんな時でも冷静さを保つ瞳が動揺に揺れるのを見てしまった。
     自分のせいだ。
     血の気が一気に引いていくのを感じた。
     そんなつもりはなかったと言いたいのに、喉が干からびたように声が出ない。カウンターの向こう側からは見えない位置で拳をつくり、ぎゅっと握りしめる。
     場を和ませるための軽口だとわかっていたのに。
     親切を素直に受け取れないオレが悪いだけなのに。
     押し寄せる後悔に立ち尽くすことしかできない。
    「これは私だけ頂こう」
     何か言わなければと焦れば焦るほど、言葉が口のなかでつまずいた。呆けたように見守るなか、村雨はマグカップの底にいくらかの酒を注いでから元の棚に戻した。酒瓶を置く音がやけに大きく響いた。
    「もう少しで湯が沸く。座って待っていてくれ」
    「わりい」
     気遣いを悟り、小さな声でつぶやく。カウンターを離れてキッチンに背を向ける。足取りは重かった。
     ソファに腰を落ち着けても、気を抜けばまた視線が元の場所へ戻ってしまう。未練がましい視線を引きはがし、視線をしばらく彷徨わせた後でタブレットに手を伸ばした。パーティーの時に使ってから置いたままだったものだ。
     機械的な動作でブックマークを開き、急ぎで読む必要もない記事に目を走らせる。キッチンに立つ男を見ずに済む理由を探すためだけに。
     意識は今もそこへ張りついたまま。換気扇とケトルの蓋がたてる平和な二重奏だけが聞こえてきた。

     部屋に漂うコーヒーの芳香に気づき、顔を上げた。マグカップを二つ両手に持った村雨がこちらへ向かって歩いてくる。いつの間にか換気扇も止まっていた。
    「待たせたな」
    「呼んでくれたら取りに行ったのに」
     腰を浮かせた獅子神を村雨が目顔で止めた。片方のマグカップを差し出したが、それきり近寄ろうとはしなかった。マグカップを受け取り、すこし迷ったあとでシートをひとつ隣にずれてみた。
     そのまま読み途中のニュースを目で追っていると、タブレットに暗い影がさした。ソファの座面がかたむき、村雨が隣に座ったことを知る。隣に目をやりたい気持ちを押し殺しながら記事を読み進めたが、内容はまるで頭に入ってこない。あきらめてタブレットから手を離す。
     ぎこちない距離感はそのままだが、気持ちはすこし軽くなっていた。無意識に詰めていた息を吐くと、酸欠気味になっていたらしい。こめかみがにぶく痛んだ。カフェインがこの痛みを和らげてくれればいい。軽く息を吹きかければ、特有の香りが鼻をくすぐった。

    「ずいぶんと熱心に読んでいたな」
     膝に置いたタブレットはまだスリープモードに替わっていない。村雨が株価チャートの並ぶページに目を留めた。
    「ああ。……そうだ。村雨はこの会社を知ってるか?」
     指で示したのは、あるアメリカの製薬関連企業だ。
    「名前だけは。新薬の開発と既存薬の権利を買い取るベンチャーだな。興味があるのか?」
    「んん、ちょっと人から勧められていてな。オレは医薬関係とか全然詳しくないから、どうしたもんかと思って」
    「プロジェクトには日本の大学もいくつか名を連ねていたはずだ。国立大学の研究機関も入っていた。怪しい企業ではないだろう」
     最新の血液検査をうたうベンチャー企業が巨額の詐欺で訴えられた事例もある。獅子神としては生半可な知識で手を出したくはない分野だった。
    「一応、英語のページも見てるんだけどな」
     近いうちに調査結果も揃うと前置きをして、企業のホームページをクリックした。
    村雨が液晶画面に体をかたむけ、かざしたタブレットへ顔を近づける。獅子神が同じタイミングで足を組み替えたのは偶然。顔の横に近づく影に気づいたときには遅かった。互いの肘がぶつかり、マグを持つ手が揺れる。
    「……ッ!」
    「こぼしたか?」
     村雨の動きは早かった。広げた指でカップの縁を器用に掴みむと、獅子神の手から奪っていった。
    「いや、大丈夫……」
    「お前こそ熱くねえ?」
     尋ねると、平然とした顔で「熱いな」と返事がよこす。それなのにカップは手に持ったままだ。
    「オイ。火傷でもしたらどうすんだよ!」
     あわてて奪い返そうとしたのがよくなかった。コーヒーは先刻よりも大きな波を立てて熱い飛沫をあたりに散らした。
    「あっち……!」
     熱にひるんだ指先の力が抜けた。反対の手に持ちかえて落とさずに済んだのはよかったが、濡れた感触はすぐに痺れるような痛みにとって変わった。濃褐色の液体が手の甲をつたい、ぽたぽたと床へ垂れ落ちた。
     村雨が体をひねる。マグカップをアームレストに置く。幅広い木製のそこは大ぶりのカップを難なく受け止めた。なかば硬直した手で持っていたカップも村雨によって奪われ、隣に並べられる。
     長い時間が経ったように感じたが、実際は十秒かそこらの出来事だろう。失態が獅子神の思考力をにぶらせていた。
    「すぐに冷やしたほうがいい」
     手首を取られ、ぐい、と腕を引かれた。立ち上がり、逆光になった村雨がこちらを見下ろしていた。
    「獅子神、聞こえなかったか? キッチンへ行くぞ。手を冷やす」
    「ああ、うん」
     我ながら間の抜けた返事をすると、早くしろと目顔で急かされた。緩慢な動作に焦れたのか、村雨の手に力がこもった。自分のものではないように感じる体を動かし、再びキッチンへと誘われた。

     シンク内に手をかざして蛇口の水を勢いよく開放する。ざあざあと流れる水の下に手を差し出すと、冷たい水が二人の手を包みこんだ。
    「痛むか?」
    「……わかんねえ」
     正直に伝える。
     親指と人差し指の付け根から手首にかけて、うっすらと赤みを帯びているのが火傷した部位だ。思っていたよりも範囲が広い。けれども冷えたきった手の感覚はすっかり麻痺して痛みを伝えることはなかった。神経に響く切創とはちがう、皮膚の表面を輪ゴムで弾かれたような衝撃に近い。

    「こんなの放っときゃ治るって」
     村雨は無言だった。
     シャツの袖口が濡れて腕に張りついていた。気にするそぶりもなく獅子神の手首を固定するのは、見張っていないと逃げ出すとでも思われているようだ。至近距離に感じる気配に戸惑う。
    「ほら、オレは料理するだろ。火傷ぐらいよくあるし。……そういやプロ仕様のフライパンを買ったときだけどさ、奮発したもんだから浮かれて取っ手をそのまま握っちまって。手のひら全部火傷したんだぜ」
     今でこそ滅多にしないが、見様見まねで料理を始めたころは火傷など日常茶飯事。切り傷や火傷なんてものは放っておくか、軟膏でも塗っておけば治る、というのが獅子神の持論だ。
    「あとファーストフード店でバイトしてた時も。せっかちな社員がオーブン開けるときに、」
     取り留めのない言葉が次々と口から溢れだした。きっと顔も締まりなく笑っていたはず。

    「──獅子神」
     名を呼ばれ、ため息に似た呼吸を感じる。出かけた言葉が引っこみ、叱責を予感した体がこわばった。
    「熱傷を軽視しない方がいい。沸騰していなかったとはいえ七十度を超えているはずだ。あとから痛みだして困るのは、あなた自身だ」
     聞き分けのない患者を相手にするような冷静な声だった。
     怒っているわけではない。不興を買ったわけではない。
     緊張に噛みしめた唇を解放すると、鉄くさい血の味が舌に広がった。
     流水のなかで握られた手首がちり、と痛むのを感じた。握りこむ男の爪が当たったのかもしれない。
    「ああ……」
     熱傷を軽く見てはいけないことぐらい知っている。
     持ち手のかたちに火傷した手は箸を持つことすら不便した。オーブントレイにぶつけた腕はひどい水ぶくれができて風呂のたびに呻く羽目になった。
     だけどそんな怪我だって自分ひとりで何とかしてきた。この程度の不注意ぐらいならどうとでもなる。村雨の手を煩わせるまでもない。オレだけで大丈夫だから。
    「オメーもずっと水に手を突っ込んでたら冷たいだろ。あとはもう自分で冷やせるから……」
    「かまわない」
     水にさらされた村雨の指先は獅子神以上に血の気を失っていた。元々血色のよくない肌は陶器のように青白い。かたく握られた手元さえなければ、どちらが怪我しているのかわからないぐらいだ。
     痛々しさに目をそらす。キッチンカウンターの向こう側、さっきまで座っていたソファを見つめた。

     手すりにはマグカップが二つ、ひっそりと並んでいた。中の液体はとっくに冷えてしまっただろう。せっかく淹れてくれたコーヒーを手に、他愛のない会話をするはずだったのに。
     台無しにしたのは誰でもない、自分だ。
     取り返しのつかない後悔で目の前が暗くなる。
    「医者だからってそんな気にしなくていいんだぜ。マジでオレは大丈夫。あとは家に帰って……」
     水を止めようとして、拘束されていない方の手をセンサーへ伸ばした。体の向きがずれて肩が触れ合う。男の横顔が自然と視界に入った。咎めるでもない、ましてや諫めるでもない。村雨はただ、しずかにこちらを見つめていた。
     いたたまれずに目を伏せ、唇を結んだ。
     獅子神、とまた名を呼ばれた。
    「あなたは私の負担になっていると思うのか?」
    「人ん家で怪我とかダセェし」
    「怪我のことだけではない。迷惑だったら家に招きはしない。そもそも付き合いすら止めている」
     聞き分けのない子どもに言ってきかせるような口調だった。
     お医者さまとしての話し方だろうな。
     どうでもいいことをぼんやり考えたのは、言葉の意味を受け入れる余裕がなかったからだ。力を失くした手がシンクの縁に落ちた。
    「聞いているのか?」
     訊ねる声は落ち着いていた。
     それなのに。

    「……、わりぃけど帰るわ」
     責められている。
     そう思う方がおかしい。わかっている。
    「獅子神」
     振り返ることはなかった。
     背を向け、玄関を目指す。
     呼び止められるのではと馬鹿げた妄想をした。
    そんなはずはない。靴を履き、コートラックに掛けたジャケットをはずし、扉を開ければ、もう逃げられる。
     視線を駐車スペースに向けると、外灯に照らされた愛車がひっそりと佇んでいた。夜の冷気を集めたような白色に飛び込む。座り慣れたレザーシートに包まれ、獅子神はようやく体の力を抜くことができた。
     村雨はまだリビングにいるのだろうか。
     視線を避けるように建てられた家屋は、天井近くに切り取った窓が灯りを漏らすばかりだ。見えるはずのない人影に目をこらしかけ、ゆるゆると頭を振った。イグニッションスイッチを入れる。ヘッドランプが別れの挨拶を告げるように外壁を短く照らした。

     うまくいかない。
     うまくできない。

     悲しい気持ちと、悔しい気持ちが同時に襲ってくる。
     こんなとき、獅子神はいつも無力だった子どものころを思い出してしまう。
     ただひとつ幼い頃と違うのは――憂鬱をまぎらわせる方法を知っていること。アクセルを思いきり踏み込めること。
     遠回りを承知の上で高速道路を使うルートに切り替えた。深夜の上り車線、交通量は多くない。規定速度ギリギリのスピードで車を走らせる。大型トラックに追い越しをかけると、クラクションを幾度も鳴らされた。
     構うものか。寝静まる街へ降りるまではスピードに身を任せたかった。
     右手の甲には傷跡を塗り替えるような火傷が赤い地図を描いていたが、痛みはすこしも感じない。
     ――痛むのは、胸だけだ。


     家に着くころには腫れた皮膚が妙な艶を帯びていた。水ぶくれができなかったのは応急処置のおかげだ。ワセリンを塗り、ラップでぐるぐる巻きにしてシャワーを浴びた。ネットで調べた付け焼刃の知識だが、どうにかなるだろう。もし悪化したら明日また考えればいいだけ。
     もう今日か。
     洗面所の時計を見て思い直す。普段の就寝時間をとっくに過ぎていたが、眠気は訪れそうになかった。全身は疲労を訴えているのに、ささくれだった神経が脳を休みなく刺激していた。
     ベッドルームへ行く気さえ起きない。書斎でニューヨーク市場を眺めても、数字とチャートの変動はまるで別世界の出来事のように感じた。普段なら気になる銘柄にすら食指が動かない。あきらめてラップトップを閉じた。
     数時間前の出来事。獅子神は未だに頭から追い出せずにいた。握られた手の感触。指先にこもった力の強さ。体に刻まれた記憶が神経を昂らせた。入浴後にラップを巻き直した不格好な手が視界に入るたびに後悔が募る。
     今夜は眠れそうにない。
     それならばと椅子から立ち上がった。
     照明を落としたキッチンへ向かう。扉を開け、しずかな空間へ足を踏み入れた。夜中のキッチンは自分の家なのに、不可侵の場所へ入るような後ろめたさがあった。
     眠れない理由を作ればいい。
     カウンターに置かれたエスプレッソマシンの電源を入れた。家庭用にしては本格的すぎる機械は真経津が持ちこんだものだ。投資家になる前にはバリスタの真似事をして稼いでいた時期もあると教えたら、面白がって持ってきた。操作には慣れているが、獅子神自身は過度のカフェインは節制している。もっぱら友人たちのためにマシンだった。
     エスプレッソ用の粉を取り出し、プレスにセットした。マシンの電源を入れて蒸気をノズルから勢いよく吹き出させる。濃い褐色の液体がぽたぽたと抽出されるのを待つ。今夜は自分だけ。スチームミルクは必要ない。
     エスプレッソマシンの隣には来客用のデミタスカップを並べていた。いつでも誰が来ても使えるように伏せられた器たち。一番手前のブルーのカップが村雨のものだった。
     もう使うことはないかもしれない。そう考えた瞬間、不意に得体のしれない息苦しさに襲われた。
     お前に会えないと思うだけで、オレの胸はこんなにも冷たくなる。
     胸だけじゃない。手も足も冷たい。
     広いリビングは夜の底みたいに暗かった。深海魚のようにひっそりと息をひそめる。

     村雨礼二。
     医師という職業を抜いても優秀な男だ。おそらく後にも先にもこれほど優れた人間に会うことはないだろう。もちろん全人類にとって、という意味ではない。あくまでも獅子神の世界に限っての話だ。
     獅子神の欲しいものをすべて持って生まれた男のように思えた。幼い唇にくわえた銀の匙はさぞかし上等だったに違いない、自分とは対極の人間。
     そんな男が自分を対等な友人として扱っている。たしかな友愛の情を示してくれる。それが何よりも嬉しかった。見た目ではなく、金ではなく、獅子神の才を認めてくれたことが。
     タッグマッチでは足を引っ張るだけの存在だった。そこからどうにか這い上がった自負はある。けれどもまだまだ隣に並び立てる存在にはほど遠い。
     いつか、きっと。手を伸ばすうちに、もがくうちに。
     好きになっちまうなんて、バカみたいだ。
     でもそれももう終わる。終わらせる。

     ぽたぽたと抽出される液体は覚悟をうながすカウントダウンのように感じられた。
    デミタスカップに溜まった後悔をひと息に飲み干す。
     舌を焦がす苦味は慰めにもならなかった。


         ◇


     花冷えの朝だった。
     ディーラーからの連絡を受けた獅子神は通話を終えて、ひっそりとため息をついた。
     窓の外へ視線を走らせる。普段使いのクーペを車検に預けたのは昨日の夜。今朝になり、車内に残っていた私物を見つけた社員が連絡をよこしたのだ。
     机に置いたスマートフォンが振動してメールの着信を知らせる。添付画像を開けば無機質なスチールデスクの上にドキュメントケースが置かれていた。ちょっとした要件で使う紙製やプラスチックのものではない。上質の革と丁寧な縫製が写真でもはっきりと見てとれた。
     助手席と扉の隙間に落ちていたのだという。深い黒色は床と同化していて、獅子神もまったく気づいていなかった。
    『確認した。引き渡しの際に受け取る』
     折り返しのメッセージを送り、椅子の背もたれに頭を預けて目をつむった。ブライドルレザーの光沢が瞼の裏に映った。私用の車に乗せる人間は多くない。そのなかでもビジネス用の書類入れを使う人物といえば、心当たりはただ一人。村雨だけだ。
     仕事に関する物を置き忘れるような粗忽をやらかすとは思えない。けれども家まで送ってやった時など、助手席で船を漕ぐこともままあった。多忙で疲れているのだろうと起こさずにいたが、何かの拍子に落とし、車を降りてしまったのかもしれない。
     こめかみを揉み、もう一度深く息を吐き出す。
     最後に村雨と会ったのは先月の半ば。火傷をした夜のことだ。あれからすでに一ヶ月が経っていた。それ以前に獅子神の車に乗った日となれば、さらにもう一週間前。かなりの時間が経過している。もしも大事な品だとしたら探し回っているのでは、と考えかけて止めた。
     村雨の記憶力だ。携えていた日の記憶をたどれば、すぐに忘れた場所に気づくはず。
     それなのに連絡がないのは――。
     唇に力を入れる。胃の底からからせり上がる吐き気をこらえた。村雨は連絡してこないわけではない。連絡できないのだ。そう考え直す。
     他の誰でもない、獅子神の作為によって。

     あの夜、すべてが終わった。
     朝を待つあいだに私用電話の着信拒否を設定した。村雨だけではない。賭場につながる知人すべてだ。たとえ家までやってきたとしても不在を貫くため、従業員たちにはきつく言い渡しておいた。覚悟を決めたわりに、しばらくどうなるかとやきもきしたのも事実。だが彼らは獅子神からの拒絶をそのままに受け止め、深追いしてくることはなかった。
     銀行には二度とタッグマッチは引き受けないと伝えてある。はたしてその望みが叶うかは定かでないが、今のところ誰とも会わないまま日々を過ごしていた。
     決行してみれば、あまりにあっけない幕引きだった。来客用の買い置きを従業員たちと消費し、私物を宅配便で所有者へ送り返し、不用品は処分して。戻ってきたのは変わらない日常と変わる前の自分だ。
     すべてが終わったはずなのに。
     デスクに放り出したもうひとつのスマートフォンを眺める。プライベート用のそれを使う機会はあの日以来すっかり減っていた。
     取ろうとした手は不意によみがえった火傷の痛みに止まり、デスクの上に落下した。疼痛を紛らわすように、右手の中指でマホガニーの天板をタップする。
     十まで数えて、ようやくそれが見知った誰かの癖だと思い出し、苦い笑いが漏れた。未練がましい。笑いはいつしか横隔膜の震えに変わり、嗚咽に似た響きが部屋を満たしていく。
     数えきれない逡巡を越えて、獅子神の手は再びスマートフォンに伸びていた。

     都内某所のホテル。アフタヌーンティーには遅く、酒を飲むには早い。昼から飲む連中はすでにもう一つ上の階のバーに移った頃合いだった。高層階直通のエレベーターでラウンジフロアに降り立ったのは獅子神ひとりだけ。広々とした通路は人もまばらで空いていた。
    入り口の前に立っても目当ての姿は見えない。さりげなく並べられた丈高い観葉植物たちが誰何の視線を阻んでいた。
    「獅子神さまですね」
     短髪をすっきりと撫でつけた男が近づいてきた。他のスタッフとは違う色のベストを身につけているからマネージャーだろうか。
     服だけではなく全身にアイロンをかけてきたような姿を一瞥し、獅子神はうなずいた。
    「そうだ。えーと、これを渡してもらいたいんだけど」
     ドキュメントケースを差し出そうとしたが、男はくるりと背を向けてしまった。失礼な態度を咎めるひまもない。
    「お連れ様がお待ちです」とフロアの奥へと進んでいく。
    「いや、渡してもらえれば……って、おい!」
     無駄のない身のこなしで歩いていく後ろ姿をあわてて追いかける。こちらを見ようともしないことに焦れてつい尖った声を出した瞬間、近くに座る女性グループが冷ややかな視線を投げてきた。獅子神の容姿に気づくとすぐに柔和な表情に入れ替えたが、バツの悪さが消えるわけでもない。女性たちに頭を下げ、スタッフの後を無言で追いかけた。
    「こちらの席へどうぞ」
    「は……」

     案内されたのは奥まったソファ席だった。細身の男がひとり、足を組んで座っている。天井までを切り取るガラス窓に面した特等席だというのに、同じ並びのテーブルはすべて空席だった。
    「よく来てくれた。獅子神」
     助かった、と微笑む男の仕業なのは尋ねるまでもなかった。
    「……村雨」
    「あなたは責任感が強い。見つけたら必ず連絡してくるだろうと踏んでいた」
    「予想通りでよかったな」
     軋む声を自覚しながら、書類入れをテーブルに放る。だが村雨は興味なさげに獅子神の顔を見上げたままだった。
    「大事なものなんじゃねえのかよ」
    「ああ、大事だ」
    「確かめなくていいのか? ああ、念のために言っとくけどオレは中を見たりしてねえからな」
    「では確認しよう。あなたに立ち会ってもらいたい」
     村雨はそう言ったきり、ドキュメントケースの上に両手を重ねた。暗色のブライドルレザーとのコントラストで、白い手が浮かび上がるようだ。無意識のうちに釘付けになりかけた視線をずらし、獅子神は窓の外へと向けた。

     薄曇りの空は冴えない色絵の具をぶちまけたようだ。大通りの向かい側に立ち並ぶ高層ビルの照明がすこし早い夜を告げていた。
    「立ち合いなんか必要ないだろう」
    「ぜひとも頼みたいのだが」
    「断る」
    「からっぽで、オレのせいにでもされたら嫌だし」
    「その通り、からっぽだ。何も入っていない」
    「……は?」
     唖然とする獅子神をよそに、村雨がドキュメントケースに手を伸ばした。長い指が巻きつけた紐をするすると抜き取り、蓋を開けてみせる。言葉通り、内部は裏革のベージュ色が見えるばかりだった。
     怒りに視界がぐらりと揺れた。
    「……ふざけんな。大事そうなモンだから持ってきたのに……」
    「大事だ。こうやってあなたを呼び出すために必要だった」
     そういうことか。
     口のなかで低くうなった。
     ここがホテルでなければ、罵り言葉のひとつも投げつけてやるのだが。
     一般人のなかで派手に浮く容姿の自分と、医師という肩書にふさわしい落ち着きを持つ村雨。周囲に誹られるのが自分だとわかったうえで行動に移す気にはなれない。
    「……もう用事は済んだな」
     目をそらし、短く言い捨てた。
     だが胸のうちは複雑に波打っていた。
     久しぶりに見た顔、聞いた声。たったそれだけのことで、おかしいぐらいに動揺しきっていた。
     合わずにいたのはたったひと月ほどだ。毎日を暇に過ごす学生でもあるまい。友人だってそれほど頻繁に会うことはないだろう。たまたま、本当に偶然が重なって出会った仲。縁が自然に消滅することは珍しくもない。
     オレが手放しさえすれば、あっさり途切れるはずだったのに、お前は。

    「せっかく来たんだ。飲み物は何にする?」
     澄ました顔で村雨が問う。獅子神はまだ座ってもいないのにドリンクメニューを広げてみせた。
    「お前が呼んだからだ。……どうしてこんな手のこんだことをした?」
     書類入れを落としたのはいつか。
    獅子神の家は敷地内すべて十分な防犯対策をしている。着信拒否のあとのはずはない。
    だとしたら——。
    「何か飲みながら話そう」
     いつかこうなることを予期していたのか。
     無力感に苛まれながら、獅子神はのろのろと向かい側へ腰を下ろした。
    テーブルの上のドキュメントケースを隣のソファへ放り、村雨が満足そうに先刻のスタッフへ手を掲げる。
    「あなたを誘う口実が欲しかった」
     白々しく告げた男の顔をにらみつけてみたが、その程度でひるむような神経は持ち合わせていない。逆に顔を覗きこまれ、先に目をそらす羽目になった。
    「いつアレを置いた」
    「さて、いつだったか」
     スタッフが歩み寄る。
    「モヒートをノンアルコールで。シロップはいらない」
     ひと息に伝えると、スタッフは村雨への慇懃な礼とともに去って行った。あらかじめ示し合わせたとしか思えないやり取りだ。充分すぎる金額をポケットにねじ込んでおいたのだろう。
     これで満足か?
     言葉には出さずに眼差しで問うと、村雨は瞳を細めてうなずいた。
    「――どういった心境の変化だ」と手元のグラスをとる。
    「何が?」
    「私だけではない、真経津たちとも連絡を絶ったと聞いた。かと言ってギャンブルを辞めたわけでもないらしい」
     もし足を洗ったのだとしたら、それは喜ばしいことだと思ったのだが。
     言い添えた村雨の言葉は本心から出たものだった。おそらくは真経津の担当あたりから聞き出したのだろう。銀行の人間に緘口令を敷いたわけではないから、話が漏れることも想定内だ。
     こうして村雨が深追いしてきたこと以外は。

    「オレの問題だ。お前には関係ない」
    「その通りだ」
     村雨がグラスをあおった。ワインが勢いよく唇のなかに流れこむ。わずかな液体と燃えかすのような黒いおりだけがグラスの底に溜まり、テーブルクロスに影を落としていた。
    「―—だが私にも傷つく権利はある」
     まっすぐに見つめる瞳。
     飲み干した酒と同じ色の暗赤色が獅子神を射抜いた。
    「傷つくって……なんで」
     ざわざわと胸が騒ぎ、とっくに治ったはずの手が痛みだす。
    「言わなければわからないほど、あなたはマヌケか」
    「ああ、そーだよ。オメーの言う通り、オレは大マヌケだ。だからわかんねえ」
     お医者さまとは違うんだよ。
     自暴自棄になって吐き捨てると、眼鏡越しの視線がふっとやわらいだ。村雨の家でコーヒーを供された夜のことを思い出した。あのときも村雨と二人きり、こんな顔をしてみせた。
     あの日のまま時間を止められたら、どんなによかっただろう。
     ワインの色を移した唇が開くのを見つめる。
    「あなたは私にとって大切な存在だ──友人として」
     甘い回想から一転してどん底に突き落とされた気分だった。
     当たり前のことなのに目の前が暗くなる。
     そう、村雨にとっての自分は友人。獅子神がそれ以上の関係をどれほど望んだところで叶うはずもない。
     うつむき、ミントの葉を沈めたグラスを手に取った。背の高いグラスに浮かんだ氷が獅子神の心を映したようにからりと揺れる。結露に指先が濡れる。

     ただし、と、村雨が言葉を繋げたのはそのとき。
    「その大事な友人とセックスをしたいから困っている」
     ガシャン、とけたたましい音がした。
     一瞬遅れて、自分がグラスを取り落としたのだと気づいた。遠くの客たちも物騒な物音に驚いたのか、次々と視線を向けてくる。無遠慮な眼差しに膝が震えた。
     いやそれ以上に、村雨の言葉に。
    「……オメー、何て言った?」
     ウェイターが近づいてくる。村雨は獅子神の声が聞こえなかったように目の前の惨状を一瞥すると、ジャケットの内ポケットに手を入れた。札入れから数枚の紙幣を取り出してテーブルに置く。
    「出よう」
    「じゃなくて、今……!」
    「ごく個人的なことを他人に聞かせないぐらいの慎みは持っている」
    「平気で口にしておいて今更だろうが」
    「聞こえていたのに繰り返させるのか?」
     村雨がわざとらしく戸惑った顔をして眉を上げた。
     揶揄だとわかっているのに頬が熱くなるのを感じた。膝の上に置いた手を握りしめる。
     ただならぬ空気を感じたのか、キッチンクロスを手にしたスタッフがすこし離れた場所でまごついていた。
    「行くぞ、獅子神」
     有無を言わせぬ口調だった。
     獅子神は無言で足元を見つめた。割れたグラスの破片が照明にきらきらと光り、水とともに散ったミントの葉がひときわ強く香った。靴とスラックスが無色の染みをつくっていた。
     村雨の言う通り、この場に残っていても気まずいだけだ。認めるしかない現実に、獅子神もようやく立ち上がる。声をかけてきたスタッフを受け流し、出入り口へ向かう後ろ姿を追いかけた。

     来なければよかった。
     やっぱりうまくいかない。
     うまくできない。
     友人だからとか男同士だからとか。そんなことは関係ない。
     オレはいつも間違えた選択をする。きっとお前ともうまくやれない。だから逃げた。
     地下駐車場に降り、停めておいた車に向かう。村雨も一緒に。当然のように助手席へ乗り込んできた男を追い出すだけの気力もなかった。
     登録済みの住所を呼び出すためにタッチパネルを触れた指先に、村雨の手が重なった。
    「あなたの家へ行く」
     きっぱりとした口調で告げられ、手が震えた。
    「……お前、酔ってるだろ」
    「酔っていない」
     テーブルに残されたワインは残り少なかった。つまりはボトル一本近く空けているはず。
    「明日も仕事があるんじゃねえのか」
    「休みだ」
    「じゃあ、帰っておとなしく寝ろよ」
    「まだ夜は早い」
    「勘弁してくれ、酔っ払い……」
     酔って正気を失いたいのは、こちらの方だ。
     手ひどい失恋をした上に訳のわからないことまで言われて、頭も体も疲れきっていた。できることなら酒の力でも借りてすべてを忘れてしまいたかった。
     しかし村雨の手は依然として獅子神の手の上に乗せられたままだった。視線を向けると、相手もそれを追いかけてくる。わざとらしく指を動かされ、皮膚がこすれる感触に奥歯を噛みしめた。
     お前はオレと何をしたいって言った?
    「行き先はあなたの家だ」
     録音のように繰り返される言葉。
     深い息を吐き出し、自宅のマークを押す。手を重ねたままの男の腕をたどり、視線を上げた。満足げに細められた瞳の熱に体が灼かれる。引き寄せられる。呼気が髪を揺らす。
    「……このためにミントフレーバーを頼んだのなら、あなたは――」
    「んなわけねえだろ」
     吊り上がる唇が笑みのかたちに変わっていく。噛みついて止めると、渋みのつよい酒の味が口のなかに広がった。


         ◇


    「あなたの居ない世界はつまらない」
     吐息混じりの声が耳朶をくすぐった。馬鹿みたいに敏感になった皮膚は空気の流れにすら震え、熱い息が漏れた。
     上下に波打つ胸に置かれた手はいつの間にか同じ温度になっていた。宥めるように撫でる手のひらがしたたる汗に何度も滑る。体を拭きたい。シーツに放り出した手でタオルを探り当てた。やわらかなパイル地をたぐり寄せようとしたが、体の下に巻き込まれて引き抜けない。腰を浮かせようとしても、のしかかる男に阻まれた。細身とはいえ全体重をかけられればそれなりに重い。
    「むらさめ」
     声は自分のものではないように掠れていた。
     だらしない、甘えた響きを村雨はどうとらえただろうか。恐ろしさに喉の奥がぎゅっと苦しくなる。反応をうかがおうにも逆光になった村雨の顔はよく見えなかった。
     片手はまだタオルを握りしめていた。はやく取りたい。汗をぬぐいたい。言葉にする勇気もなく、胸の上に置かれた手を眺めた。白い指先がピアノでも弾くように鍛えた胸筋を時折タップする。ああ、やっぱりお前の癖だ。
     病院の診察でこんなのがあった気がする。何だっけ。そういえば医者だもんな。
     頭の芯が痺れていた。一呼吸するごとに体の熱は冷めていくのに、脳味噌がぐらぐらと茹でられたように熱い。
     それも全部この男のせいだ。
    「顔を見せろ」
     空いた手を持ち上げて顔を覆った瞬間、不機嫌そうな声が降ってきた。
     腰だけではない。体全体に力が入らない。普段ほどの力を出せない今なら簡単に払いのけられるのに、村雨はあえてそうしなかった。
    「顔が見たい」
     低い声にぞくりと震える。
     狂うのではと思うほどの悦楽の最中にも何度も囁かれた調子だった。
     いやだ。ダメだ。
     その度ごとに拒絶をしても押しのけるでもなく、むしろ縋りついた自分を思い出す。どの口が。せせら笑われるのではと怯えながらも止められなかった。
     恥ずかしくて、恥ずかしくて閉じた瞼がぶるぶると震えた。
    「……獅子神」
     胸を離れた手が顔に落ちてくる。関節に沿って手のひらを撫でる指がやさしい。やさしいから顔を見せられない。目の奥が熱くなる。まつ毛を湿らせるのが何かを知りたくなくて、嗚咽交じりの息を飲みこんだ。
    「ダメだ」
     幾度目かもわからない言葉を吐き出す。
     おかしいだろ。
     友人だなんて言いながら、こんなことして。オレとお前は――。
     免罪符のように友人という単語を繰り返した。口に出せばすべての罪が贖われると思いこんだ、おめでたい狂信者と同じだ。誰に、何を赦されたいのかもわからないまま、もたつく舌を動かしつづける。
    「……っ、こんなこと、は、間違ってる」
     オレは卑怯だ。
     こうなることを誰よりも望んでいたのはオレなのに。こんな繰り言で間違いを認めずに済むと思っているのか。
     臆病な心は殻に閉じこもろうとする。
     息継ぎすらもうまくできない。手のひらかの隙間をかいくぐり、村雨の指が唇をそっと縫いつけた。
    「誤った選択などありはしない。あるとすれば選ばないことだ。あなたが」
     歯列に爪が当たる感触に息を飲む。突然の接触にこわばる口を開け、侵入しかけた指先を押し出そうとする。だが反対に唇の裏側をそろりとなぞられ、摩擦の生み出す刺激をどうすることもできずにかたまった。粘膜をこすられる感覚に腰の奥が重くなる。
     密着したままだ。再び兆しはじめた熱は、とうにばれているだろう。
     それは村雨も同じ。
     獅子神が先に達したときには中途半端にわだかまっていた下半身が、今ははっきりとした熱を示していた。酒が抜けてきたのか。
     もつれあうように寝室へ入り、ベッドに体を沈めてから、どれだけの時間が経ったかもわからない。ほんの数分のようでもあり、もう何時間も触れ合っている気もした。
    「……ごめん」
     巻き込んだのはオレだ。オレのせいだ。今もお前を狂った世界に引きずりこもうとしている。
    「狂っていようが、狂っていまいが、どちらでも同じことだ」
     気配が近づく。耳元で声が聞こえる。
    「あなたが居ないのなら」
     重なり合う唇が吐息を分かち合う。タオルを握っていたはずの手は、いつしか細身の背にまわされていた。
     秘密は闇に抱かれて溶けていく。朝になれば光がすべてをかき消してくれるはずだ。それまでは暗い、昏い夜の底で朝を待つ。
     つかの間の永遠を願いながら。


         ◇


     分厚いカーテンが朝の光を遮断している。薄暗い天井をみとめ、獅子神はようやく眠りから目覚めたことに気づいた。肩までかけた上掛けをはがし、腕を動かしてみたが、乱れたシーツの皺に触れるばかりで何もない。一人きりだった。
     すぐ横のわずかな窪みは誰かが寝たあと。けれども二人分の汗を吸った布地には一切の熱が残っていない。ずっと早い時間に抜け出したらしい。眼球を動かして床を見ても、蹴落としたはずの衣服は自分の分だけが残されていた。
     仕事は休みだと言っていた。家に帰ったのだろうか。
     酒の勢いでセックスまがいのことをやらかした翌朝、顔を合わせても気まずいだけだ。覚醒とともに冷静になっていく頭が安堵の二文字を叩き出した。それと同時にべたつく体も不快になってくる。
     緩慢な動作でベッドを抜け出し、バスルームを目指す。誰がいるわけでもないのに床に落ちたタオルケットを羽織ったのは誰でもない。自身の体に残る惨状を見たくなかったからだ。

     キッチンへ寄ると、ダイニングテーブルに走り書きのメモが残されていた。ベッドサイドに投げたスマートフォンはナイトモードに切り替える余裕もなかった。眠る自分を起こさないよう、わざわざメモにするとは。勝手に熱くなる顔に気づかないふりをして紙片を取り上げた。
    『すまない』
     几帳面な、右上がりの文字。何を考えてひと言残そうと思ったのか。ここに居ない相手には聞きようもない。
     これが最後の言葉か。
     どこか他人事のように考えた。
     冷蔵庫を開けてみたが、食欲は少しもおきなかった。頭と体の回路がうまくつながっていない。水だけを飲んで渇きを癒した。使い終えたコップだけをシンクに置くと、カウンターに並んだ陶器が揃ってこちらを見ていた。
     捨てそびれたカップ。捨てられなかった気持ちが行き先をなくし、居心地悪げに並んでいた。
     今度こそ捨てようと手に取り、眺める。表面を指先でなぞってみると、つるりとした質感が男の肌を思い出させた。

     誤った選択があるとすれば選ばないことだ。村雨は言った。
     わかっている。でもオレには選ぶだけの勇気がない。選んで、間違えて。そうしたら今度こそ、オレはどこへも行けなくなる。
     お前は何を選ぶのだろう。何を選んだのだろう。
     オレは何を選ばなかったんだろう。何を選べなかったんだろう。身をちぢこめて息をひそめ、嵐が過ぎ去るのを待つ獣のように。

     違う。突然のことだった。全身がおのれの考えを否定する。交わした熱に突き動かされる。
     あと先を考えることなく行動するのは、はじめてのことだった。心を決め、大股でダイニングを飛び出した。電動式のゴミ箱の蓋がゆっくりと閉まっていく。カウンターにはブルーのカップがポツンと残されていた。
     外は一面の雨。春を待つ空は黒々とした雲に覆われている。
     やがて一台の車が降りしきる雨を切り裂いた。


     ヘッドライトが雨を銀色に光らせる。せわしなく動くワイパーと強い雨のせいで景色はほとんど見えなかった。灰色の世界をひたすらに進む。滝のように流れる雨がウィンドウに映る横顔を溶かしていった。
     目的地までは二十分ほど。
     ナビを設定する必要もないほど通い慣れた家に到着した。いつもは家主が開けたガレージに入れるのだが、今日は連絡を入れていない。家の前でハンドルを切り、そのままオープンスペースに停めた。
     コンクリートでできた四角い要塞のような家を眺め、ハンドルに置いた手の力をゆるめる。誰に憚るわけでもないのに深呼吸を繰り返してからエンジンを止めた。
     ドアを開けると、雨は一層激しくなっていた。水たまりは無数の波紋を描き、飛び散る水しぶきが靴をたちまち濃い色に染めていく。ためらうことなく進んだ。
     玄関ポーチに着くころには、髪も服もすべてがぐっしょりと濡れていた。防犯性に優れた家はビルトインガレージからの出入りがメインだ。表側の玄関扉は宅配などの業者しか使うことがないために、屋根すらついていない。
     水滴を垂らす前髪をかき上げる。けれども撫でつけた前髪はすぐにまた雨水をはらんで落ちてきた。あきらめて手を離すと、犬のように水滴を飛ばしながらインターフォンを押した。
     頭のなかでカウントする。

     十までだ。
     十数えて出てこなかったら終わり。
     そう決めて待つ。全身をしとどに濡らしていく雨も、気を紛らわせるのはちょうどよく思えた。
     扉の横のガラス越しに電気がつき、扉が勢いよく開いたのは、六まで数えたときだった。
     家主はカメラに映る姿を見て、通話を選ばず直接扉を開けることを選んだようだ。急ぎ足で来たのだろう。息が乱れていた。眼鏡は左右の高さがずれ、顔の脇に垂れるはずのグラスコードがテンプルに絡んでいた。休日らしいラフなシャツを着ていた。
     そんな格好もするのか。似合うな。それでもボタンは一番上まで閉めているのが、お前らしいっちゃ、お前らしい。真経津が置いていったクロックスも結構似合うぞ。
     どうでもいい考えばかりが浮かんでくるのを喉の奥に押し込んだ。無意識に落としていた目線を上げ、目の前に立つ男の位置に合わせる。

    「獅子神……」
    「なんで帰った?」
     村雨はめずらしく臆したように目を伏せた。
    「酔いに任せた行為を反省している」
    「お前でも反省なんてするのか」
     何気ないふりで答えながらも、こんな顔するのかと心がざわつく。
    「何をしに来た?」と問う顔はすでにいつもの落ち着きを取り戻していた。とても反省しているようには見えなくておもわず笑いが漏れた。
     獅子神の表情に村雨が唇を引き締める。伸びた背筋はどこまでも毅然としていた。
    「反省はするが後悔はしていない。たとえあなたが私を軽蔑したとしても」
     そうだ。お前はみずからの選択を後悔しない。間違えたなんて思わない。
     オレとは違う。
     だから――。
    「好きだ」
     制御しがたい衝動が体の内側で炸裂していた。激しい感情をそのまま唇に乗せる。
     前髪から垂れた雨粒が口内に流れこむと、埃っぽいような妙な味がした。塩からい涙の味がしないだけマシだ。
     村雨は扉に手をかけたまま動きを止めていた。こちらの顔に答えでも書いてあるように目を見開き、まじまじと見つめている。舌は口のなかでまだ言葉を探していた。けれどもこの場にふさわしい台詞など思いつきもしなかった。だから同じ言葉を繰り返す。
    「オレはお前が、……村雨が、好きだ」

     最低で、最悪だ。
     お前が今まで聞いてきた、オレが口にした、たぶん一番ひどい言葉だろう。
     呟きは雨に溶けてあっけなく消える。体を突き動かした衝動も雨に打たれた火種のようにしゅるしゅると萎んでいく。
     あっけない、あっけなさすぎる最後だった。
     毛先をつたった水滴が自嘲に震える肩に落ちる。一瞬のつめたさもすぐに忘れる。シャツの袖から手のひらに伝い落ちる雨をぎゅっと握りしめた。
    目に流れこむ雨粒で視界がかすんでいた。濡れそぼるまつ毛が重い。瞬きに合わせて雨粒がリズムを刻み、こめかみから頬へと散っていく。
     村雨はまだこちらを見つめていた。他にやることをすべて忘れてしまったように。
     でもそんな時間は長く続かなかった。呆けていた顔が引き締まり、いつものように唇が吊り上がる。ひとつ違うのは眼鏡の奥の瞳が見たこともない柔らかな色を帯びていたこと。
     手が伸びる。頬に触れる。流れる涙をすくい上げるように村雨の指先が肌を滑った。泣いてなんかないのに。泣きぼくろにたどり着いたところで手が開き、頬から耳を包まれた。濡れたシャツの袖口が顎にペタリと張り付く。指先が唇の合わせ目をたどり、最悪な言葉を吐き散らした唇をいたわった。
     選ぶ勇気を持っても、どれだけ選んでも。オレは間違えつづけるのかもしれない。
     それでもいい。
     そう思えるのは、お前がいるからだ。

    「あなたはまた間違えている」
     おだやかな、けれどもほんの少しの呆れを含んだ声が告げた瞬間、まわりの空気が薄くなった気がした。寒くもないのに震えだした腕を反対の手で抱き留める。
     立ちつくす獅子神を見かねたように、村雨がもう一歩前に進んだ。容赦のない雨に全身がさらされ、あっという間にずぶ濡れになっていった。ボリュームの減った黒髪が見慣れなくて小さく笑うと、骨ばった手がおざなりな仕草で張りつく髪をかき上げた。インナーカラーの淡いピンクがあらわになり、あの夜の思い出に胸がぎゅっと苦しくなる。
     大丈夫。
     痛みも苦しみも自分が選びとった結果なら。
     ゆらゆらと揺れるグラスコードも眼鏡も水滴だらけで、満足に見えやしないだろう。細い鼻梁をつたい落ちる水滴を見つめていたら、両頬を手で挟まれた。顔が近づき、唇を塞がれる。
    「む、らさめ」
    「――最高の言葉に決まっている」
     囁きに喜びが爆発した。背中に手をまわし、体をを引き寄せれば、二人を遮るものはもう何もなかった。濡れたシャツ越しに伝わる体温を受けとめる。自分の熱を伝える。
    「あなたが好きだ」
     告白とともに流れこむ雨はひどく甘かった。甘露を分け合う子どものように角度を変えて、幾度も幾度もキスを交わす。最高で最悪の選択を確かめあう。
     
     雨音にも邪魔されない距離、言葉は途切れることなく降りそそいだ。




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