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    mayo

    @mayonaka_rom

    さめしし壁打ち練習用
    スタンプ嬉しいです。
    ありがとうございます☔️🦁

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    mayo

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    さめしし。ししさんが血縁のない子どもの世話をする話。やきもきするししさんとマイペースなフレンズ。雑用係の尽力で父親と再会します。

    世界はそれを、 (⑤) 十一月二十六日、日曜日。
     獅子神は落ち着かない気分でキッチンに立っていた。気をまぎらわせるために掃除を始めてみたが、さほどの効果はなさそうだ。意識するなと念じても、ついつい壁掛け時計を見てしまう。
     時間は午後二時過ぎ。くだんのレース開始まで、あと一時間半にせまっていた。府中競馬場はここから車で一時間ほどの場所にある。今から急げば、みずからが現地に乗りこむことも可能だ。けれども園田たちに任せると言った手前、待つしかない。いや、待たなければいけない。
     二人はといえば、ここ数日隙を見つけては、ずっと打ち合わせをしていた。その上で雇い主の不安を見抜いたのだろう。
    「来週も大きいレースがあるんですよ。今回がダメでも、年内にはきっと探しあてます」と胸を張ってみせた。
     目をつむり、頭を振る。肺にたまった空気をすべて吐き出すように、ゆっくりと呼吸する。
     自分の従業員を――アイツらを信じないでどうする。
     園田からの連絡は今朝早くの「競馬場に着きました。では!」というひと言だけ。今のところ続報はないようだ。余計な心配をかけまいと考えているだろう。沈黙は彼らなりの配慮のあかしだ。二人が笑顔で戻ってくればいい。獅子神はステンレスを磨く手に力をこめた。

     一点の曇りもなくなったところで、仕上げとばかりにキッチンクロスで拭きあげる。シンクだけではなくタッチレス水栓も、モデルルームのようにぴかぴかと輝いていた。もう磨ける場所は残っていない。達成感が、わずかだが焦りを減らしてくれた。
     次はコーヒーメーカーの分解掃除でもするか。勢いよく体を起こした瞬間、いやな痛みが背骨を走りぬけた。長身を折り曲げて作業をしていたせいだ。マーブルの天板に手をつき、ゆっくりと腰を伸ばしていく。上体を起こす動きにつられて視線も上がる。獅子神はそのままカウンターの向こう側、ダイニングテーブルへと目線を移動させた。


    「獅子神さーん、叶さんがピーチとブルーベリーも混ぜたいって。もっと大きいボウルはある?」
    「敬一君。頼んだ!」
    「おいコラ、余計なことはすんな! ストロベリーだけって決めただろうが」
     今日も獅子神家は騒がしい。顔を見せているのは真経津と叶、そして、本来なら忙しいはずの天堂だ。
     日曜日である。神父としての仕事はどうしたんだ。尋ねれば神にも安息日は必要だと、したり顔で返された。この男のの教会はどう運営しているのか。ふかく考えてはいけない。獅子神の理性がブレーキをかけた。
     ランチはパイの帽子を乗せたクリームシチュー。十二月のくもり空にぴったりのあたたかなメニューだ。食事を済ませ、洗い物をするあいだに叶が声かけしたのだろう。今は着々と配信の準備が進んでいた。
     ダイニングテーブルに置かれたボウルと牛乳のパック。そのまわりを真経津らが取り囲む。子どもは見えないからと、ステップチェアの上に立っていた。後ろから支えるのは天堂。膂力にすぐれた男の役目だ。儀式めいた配置に、獅子神はあきらめのため息を吐いた。

    「だって一個じゃつまんないし。混ぜていいよな?」
    「……オメーが持ち帰るならいいぞ」
     テーブルには業務用のフルーチェ数種が並んでいた。パックひとつで十八人分のデザートができるらしい。こんなものどこで買ったのだろうか。叶はうきうきとした表情で広げてみせたが、肝心な牛乳を忘れてくるあたりが彼らしこった。さすがに今日は買い出しのくじ引きを引き受けたくなかった。
     家主の非難がましい視線を受け流し、叶がテーブルのすみにアームを取りつけた。スマートフォンを接続し、カメラを確かめる。
    「パーティー用っていうからオーダーしたんだけど。思っていたよりインパクトが弱いんだよな。あ、敬一君がファイヤーファイターカレンダーみたいなスタイルでかき混ぜるっていうのは?」
     しかつめらしい顔で言うセリフではない。
    「子どもを肩へ担ぐのはどうだ? 現代の聖母子像として」
    「さすがはユミピコだ」
    「叶さんが開腹手術するなら僕も見たいな」
    「というわけで敬一君。上だけでも脱いでくれ。サスペンダーは持ってるか?」
    「やらねえよ……って、ああっ!」
     ツッコミどころしかない。バカバカしい会話の相手をしているすきに、天堂が動いていた。小さな手をフォローしながらパックを持ちあげる。封はすでに開いていた。子どもを支えた手はクレーンゲームのようになめらかで止める間もない。二つ目のパックの中身がボウルへ流しこまれた。
    「オメーら……」
     甘ったるいにおいがひときわ強くなる。ストロベリーに加えたゲル状の液体は、あざやかなパープル。色からしてブルーベリーだろう。二つの味を混ぜるとどうなるのか。フルーチェをつくること自体がはじめてなので、想像もつかなかった。
    「これでよし。獅子神、牛乳をもう一本持ってこい」
    「せっかくだし、あるだけ混ぜちゃおう」
    「さすがに溢れちゃうんじゃない?」
    「……これでおしまいだからな‼︎」
     そんなに怒るなら断ればいいのに。
     キッチンから吠える獅子神は、残りの大人全員がおなじことを考えているなど知る由もない。肩をそびやかし、牛乳を片手にやってきた。紙パックがテーブルでどん、とおおきな音をたてる。
    「ほらよ!」
    「ぎゅうにゅう」
     低い位置からはしゃいだ声があがり、はっと我にかえった。あわてて口を閉じる。子どもはすっかり獅子神の大きな声に慣れていた。共に過ごすうちに本気で怒っているわけではない、地声が大きいだけだと学習したからだ。現に今も大人たちは平気なそぶりを見せているのだから、こわいと思うはずもなかった。
     とはいえ、獅子神からすればまた話は別だ。子どもの前で声を荒らげたバツの悪さは、居心地を悪くした。ふーっと息を吐き、気持ちを落ち着ける。いからせた肩をゆるゆると下げる。それからおもむろに全員の顔を見まわした。
    「……よく聞け。うちにはもう牛乳がない。これ以上は絶対に混ぜるな。今の時点で三十六人分。二リットル超えのフルーチェだぞ? どうするのかはオメーらで考えろ。いいな」
     そんなこと言っても、どうにかしてくれるはずなのに。誰もが思うだけで口にしない。
     その代わりに、
    「村雨さんは後から来るんでしょ。牛乳を持ってきてもらえば?」と提案してみた。
     多忙なりに都合をつけてやって来る村雨が、今日に限ってはまだ姿を見せていなかった。辛辣な言動の多い男だが、足りないものをコンビニで買ってくるぐらいには面倒見のいい一面も持っている。
     獅子神は黙ったまま向かい側へ目を走らせた。ぼんやりとした眼差しが年下の友人をとらえ、ふいっと背けられる。
    「……今日は来ねえよ」
     答える声音がすこし濁っていた。ささいな変化に注意を払ったものはいない。しかし、それは表面上だけ。人並みはずれた洞察力を持つギャンブラーたちである。言葉にこめられた苛立ちに気づかないはずはなかった。獅子神はそっと奥歯を噛みしめた。
     バカなことをした。すぐに言動に出てしまう自分の浅はかさを心のなかで罵る。前髪をかき上げると、ことさらに何もなかったようにその場を取りつくろおうとした。
    「アイツもたまの休みだ。ゆっくりしてえだろ。ほら天堂、ちゃんと持っていてやれよ」
     そう言って天堂にパックを手渡した。
    「よし、入れていくぞ」
     カメラのセットを終えた叶が宣言した。天堂が再び子どもに己の手を添える。牛乳が一気に流しこまれた。
    「すぐに混ぜる。シン君、スプーンをくれ」
    「これでいい?」
     真経津からスプーンを受け取った叶は、さっそくかき混ぜ始めた。しかしカメラアングルを気にするあまり、雑すぎる手つきだった。どろりとした飛沫があちこちに飛び散り、テーブルに点を落としていく。ボウルを押さえた真経津の顔も標的になった。
    「うわっ、つめたい!」
    「食物を粗末にするな。神への冒涜だ」
    「ケイイチ君、これ使いにくいぞ。他のスプーンに替えてくれ」
     あっという間にさっきまでの騒がしさが戻ってきた。子どもは何がおかしいのやら、明るい笑い声をたてていた。獅子神もつられて元のペースへ引っ張られる。
    「それはサラダ用のスプーンじゃねえか。先が割れてるからこぼれるんだよ。普通のを持ってくるから……あ、こら服で顔を拭くな!」
     言い捨ててキッチンへ飛びこむ。大ぶりのスプーンにタオル、キッチンクロス――。
     思いつくものを抱えてダイニングへ戻ってみれば。
    「まあ、こんな感じでいいか!」
     早々に飽きたらしい叶が、おしまいの音頭をとっていた。
    「……これ、オメーらで食うんだよな?」
    「僕、牛乳味ってあんまり好きじゃないんだよね〜」
    「神はつめたいデザートを好まない。焼きたての菓子を所望する」
    「モンエナに合うかな?」
    「ふざけんなよ……」
     青みがかったパステルピンクの海。どろどろとした液体のなかに、果肉らしいものが浮いていた。かなりの量をテーブルにこぼしたせいで中身はすこし減っていたが、それでも大きなボウル一杯はある。二リットルという数字は重い。
    「食べるところを撮りたいな。敬一君、飾りつけを頼めるか? 何かでっかい器で出してくれ」
    「もうこのまま食べちゃおうよ」
     それぞれが勝手なことを口にした。テーブルの上と床の惨状に、めまいを覚えた。目を閉じて深呼吸。どなりつけたいのをどうにか我慢する。
    「マジでどうすんだ、これ」
     押し殺した声にも、大人たちはどこ吹く風だ。
    「ぎゅうにゅう……おやつ!」
    「――そう、神との喫食だ。名誉だと思え」
    「ほら、あっくんは食べたいよな〜。というわけで敬一君、頼んだぞ」
     たどたどしい拍手が会話に割って入った。子どもは皆の騒ぐ姿に興奮しきっていた。無邪気に喜ぶちいさな存在。きらきらと輝く瞳に見つめられれば、怒りをおさめるしかない。獅子神は、はあ、と肩を落とした。
    「……食べる前に全員手を洗ってこい。ああ、真経津は手だけじゃなく、しっかり顔も洗えよ」
     これでテーブルを拭いておけ。キッチンペーパーを重ねて叶へ手渡す。気乗りのしない飾りつけのために、重い足取りで食器棚を目指した。
     さすがママだな。誰かの声は聞こえなかったことにした。




     園田はスマートフォンを取り出し、時間を確かめた。ようやく十五時。今日一番の目玉レース。ジャパンカップ開始まであと三十分ほどにせまっていた。腰を下ろした柵はじんわりと体温を奪っていく。立ち上がり、寒さにかたまりかけた体を動かした。顔は場内へつづく正門へと向けたまま。不自然に思われないように人待ちのふりをする。
     入場客で混み合う時間も過ぎ、訪れる客はすこしずつ減っていた。場内は黒山の人だかりだろう。人探しなど無理だと思うのも当然だ――作戦が成功しない限りは。からっぽの胃がプレッシャーにきりきりと痛んだ。
     スマートフォンをポケットに戻しかけたとき、バイブレーションが着信を告げた。

    『腹へったな。そっちはどうだ?』
     離れた西門で待つ仲間からのメッセージ。文面からも疲れが伝わってくる。
     何人か、見張りの交代を用意しておくべきだった。園田は計画の甘さに歯噛みした。この日のために雇ったアルバイトは朝から競馬場のなかに入れてある。もちろん全員が二十歳以上。よく食べにいく定食屋の店主に紹介してもらった、近所の学生たちだ。好奇心を隠しきれない彼らには人探しとだけ伝えていた。ちょっとした企画だと。獅子神のことも知る人のいい店主が、詮索しないでくれたのがありがたい。
     本人が気づいていないだけで、とにかく目立つ男だ。園田たちも「金髪の兄ちゃんとこの従業員」として知られていた。そんな家に現れた幼児の存在は、近隣でひそかな注目を集めていた。表向きは親戚の子どもということにしてある。だがさすがに数週間も経ち、そろそろいぶかしく思う連中も出てくる頃だろう。何せ、獅子神とは似ても似つかないのだから。
     何とか。何とか今日で見つけたい。
     獅子神には年内で、と気長なふりをしてみせたが、これ以上、彼の悩む姿を見たくない。恩返しをするなら今だ。服の袖でごしごしと顔をぬぐい、気合いを入れ直した。

     正門とその先に再び目をこらす。大勢の人が行き交うのが遠目に見えた。遅れてきた客が駅からの道を急ぎ足で駆けこんでいく。
    「……あ、」
     入れ違いに、ひとりの男が門を出てきた。キャップを目深にかぶり、あたりを見まわしていた。警戒するような動きがかえって怪しさを増す。一瞬、男が園田の方へ目を向けた。とっさに横を向き、電話をかけているふりでごまかした。よし、バレてない。スマートフォンを通話に切り替えながら、横目で男をうかがう。
     もう少しだ。もう少し近づけば、顔が見えるはず――。
    「……見つけた」
     目の前が一瞬で明るくなった。興奮にくちびるが震えた。
     スマートフォンをポケットにねじ込み、立ち去ろうとする男へ近づいていく。
     声をかける。
    「――獅子神さんに会うのがそんなに怖いのか?」
     ぎくりと肩が揺れた。首を曲げ、おそるおそる振り向く。男は幾度か目をしばたいたあとで、ぎょっと目を剥いた。園田の顔にかつての面影を見出したらしい。
    「な、なんでこんな所に……」
     疑問に思うのも無理はない。園田たちが獅子神のもとに残ったことを知らないのだから。
    「それはこっちの台詞だよ」
     男が身につけているのは着古したブルゾンとスニーカー。暮らしぶりはよくないのだろう。さほど高いものを着ているわけではないが、身綺麗にした園田を前にとまどっている。こいつの記憶に残る自分は、さぞかし見すぼらしいんだろうな。思わず苦笑が漏れた。
     園田の笑みをどう解釈したのか。
     男は愛想笑いのような微妙な表情を浮かべた。視線をそらし、駅に向かう道を気にしていた。
    「じゃあ、俺は急いでるから――」
     これ以上の会話を避けるように男がうつむいた。半歩前に進み、その行くてを阻む。
    「どこに行くんだよ。子どもも置きっぱなしで」
    「――どうしてそれを知ってるんだ?」
     男の顔に動揺が走った。卑屈な目つき。かつての自分を見るようだ。嫌悪感に声を荒らげる代わりに、肩をつかんだ手に力を込めた。
    「なんでこんな所にって訊かれただろう? 俺、獅子神さんのところで働いてるんだよ」
     獅子神。
     再び耳にした言葉に男がひっ、と喉を鳴らした。あわてて手を振り払い、身をひるがえそうとする。しかし前方から走ってくる人影に気づき、たじろいだ。西門から駆けてきた相棒だ。最後の力を振り絞り、全力で走ってきたらしい。ぜえぜえと肩で息をしていた。
     スマートフォンを通話に切り替え、とっさに伝えたひと言。悪くないコンビネーションだった。俺たちもタッグマッチに挑めるかな。馬鹿みたいな思いつきが園田の頭に浮かんだ。

     二人がかりで挟まれ、男がせわしなく目をきょろきょろとさせた。そして不意に顔を歪める。
    「それでアイツら、やたらと名前を……!」
    「そうだ。あの人がこんな所に来るわけない」
     作戦はひどく単純なものだった。探す相手は競馬に血道をあげている。きっと今日も朝早くから来て、情報を集めているだろう。場内へ入っていく客をすべてチェックするのは不可能だ。しかし人の少ない時間に帰る客であれば話は別。見つけるのはそれほど難しくないはずだと。
     アルバイトたちの仕事は、あちこちで電話をかけ、雑談することだった。特定のキーワードをまわりの人々に聞かせる。人気の予想屋の近くで、喫煙所で、馬を眺めるパドックで。
     ――もうすぐ獅子神さんが来る、と。
     勝算は高いとは言えなかった。けれどもすねに傷もつ人間であれば、その名前を耳にして落ち着いていられるはずがない。たとえ大勝負の前だとしても。園田たちはそう考えてヤマを張った。
     はたして男はレースを待たずに逃げ出してきた。
    「俺をつき出して獅子神、……さんに媚売るつもりか バカやった奴がどつき回されるのを笑うのは、さぞかし面白いだろうな!」
    「……ちげえよ」
     相棒が短い髪を掻き、額に浮いた汗をぬぐう。つぶやく声は呆れきっていた。獅子神の本質を知ることなく去った人間への軽蔑と苛立ち。そしてかすかな優越感が顔に浮かんでいる。
     おなじ思いを胸に抱きながら、園田はポケットから紙片の束を出した。
    「これを見ろ」
    「これは……」
    「もしお前に会えたら渡してくれって。獅子神さんに頼まれた」
     一着を予想する単勝馬券。出走予定のすべての馬、計十八頭分を購入してあった。
    「一位を当てるだけだから、五番人気ぐらいまで買えば大丈夫だって言ったのに。あの人、ちっとも聞かなくてさ。……そろそろ結果がわかるんじゃないか」

     会話と前後して、場内からは大歓声が聞こえてきた。購入金額欄に並んだ0の数に、園田はそっとため息をつく。一着以外の馬券、十七枚が紙屑に変わった瞬間だ。たった一枚の当たり馬券のために使った金額は、男を買い上げたときと同じかそれ以上だろう。二度も救われるなんて、本当に運のいいやつだ。
     まったく俺たちの王様は奴隷に甘すぎる。
    「……獅子神さんが本当にこれを? 俺のために?」
    「正確に言えば子どものためだけどな。偶然だと当たったやつだけ渡して、他のは捨てろって言われたけど。俺らはあの人ほどやさしくねえから。――で、どうする。一緒に顔見せに行くか?」
     震える手で男が馬券を握りしめた。覚悟を決めたように口を横に引き締めた。
    「……連れて行ってくれ」
     園田に向かって頭を下げた。
    「頭下げるのはまだ早いぞ。獅子神さんにこってり絞られてこい」
     男の頭越しに視線を交わす。ずっと気を張り詰めていたせいで、相方はひどい顔をしていた。おそらく自分もぼろぼろだろう。
     ああ、俺たちもどやされる。ちゃんと朝メシ食って出たのか。その服じゃ寒かっただろう。今何か食えるものを用意する。その前に風呂に入れ。
     世話を焼く声が早くも聞こえてきた気がした。
     俺たちの王様。王冠をはずしたって何も変わりはしない。あの人以外についていく場所なんてない。
     忠実な臣下たちは、へらりと笑いあった。




    「獅子神。口直しはアールグレイだ。マリアージュフレールのインペリアルを濃いめで持ってこい」
    「僕はハニーレモンソーダ。蜂蜜たっぷりね」
    「じゃあ俺はモンエナにレモンとブラックベリーシロップ」
    「……いつからここはバーになった?」
    「あっくんはお水だってさ」
    「ガキが一番常識的じゃねえか。どういうことだよ」
     獅子神はあきれてテーブルを見渡した。口直しとはいうものの、乳白色のデザートはボウルに半分近く残っていた。つまりほとんど減っていない。真経津にいたっては取りわけた分すら食べ残していた。
    「天堂、オメーはまだ食えるだろ」
    「焼き菓子を食べたいと言ったぞ。忘れたのか?」
     業務用のフルーチェは、美食家の神父の口に合わなかったらしい。
    「いや〜。マジでアラサーにはきついな、これ」
    「配信で口を滑らせたら登録者が激減すんぞ」
     叶は自分で作ったのも忘れたようにうんざりと眉をひそめた。
    「そもそもお昼のクリームシチューと牛乳かぶりだしね」
    「オレはちゃんと伝えたよな」
     作りはじめる前にきつく言い渡したつもりだが。一日でどれだけの牛乳を使ったと思っているんだ。
     獅子神は甘いものをほとんど食べない。プロテインドリンクに使う牛乳も無脂肪のものと決めていた。子どものための無調整牛乳で作ったデザートなど、消費のしようもなかった。
    「えーと、冷蔵庫に入れて二十四時間以内にお召し上がりくださいだって。まだ二十三時間もあるから大丈夫だよ」
    「なにが大丈夫だ、ふざけんな」
     言いながらもテーブルの中央へ手を伸ばし、ボウルを持ち上げた。
     ソファへ行くよう皆に言いつけ、キッチンへ向かう。冷蔵庫の上段に入れるためにボウルを掲げると、人工的な甘いにおいが一層強くなった。残りをどうしたものやら。見ているだけで胸焼けがしそうだ。

     ――アイツは意外にこういうのも好きかもな。
     見かけによらず甘いもの好きな男の顔が、脳裏をよぎった。食事に関しては上等な肉だ、ワインだとこだわるくせに。いつかの持ち寄りパーティーでも、皆が飽きたあとも駄菓子をつまんでいた。ハンバーガーショップでの振る舞いもそうだ。ジャンクな味が目新しいのか。それとも子どものころに食べたなつかしさによるものか。
     そこまで考えて、頭から冷や水を浴びたように目の前が暗くなった。
     アイツは、村雨はもうここへ来ることはない。浮かれかけた脳みそにほんの少し残る冷静な部分が、現実を突きつけてきた。わかっている、自分のせいだ。
     オレが言ってはいけないことを口にしたからだと。
     あの瞬間、オレは村雨を見つめていた。忘れたくても忘れられない。目に焼きつけてしまった。皮膚の薄いまぶたが下がり、瞳はするどく光っているのを。
     ひたりと見据える双眸に、獅子神はまばたきすら忘れてかたまった。子どもじみた怯えと、その根底にある虚ろを見透かされたように。愛情を受けることなく育った。だけら愛情を与える術を知らない、薄っぺらな自分を暴かれた気がした。
     諭されたかったのか、詰られたかったのか。自分でもわからない。今となってはどうでもいい気もする。ただ村雨とのあいだに感じた隔たり――縮めることのできない距離をまざまざと見せつけられ、他にとる術を持たなかった。
     だから逃げた。村雨からだけではなく、卑怯な自分自身からも。


    「できたぞ」
     紅茶は指定された銘柄ではあるもののティーバッグを入れたまま。真経津にはオレンジジュース、叶には缶のままのエナジードリンク。オーダーよりはだいぶ簡略化した飲み物をコーヒーテーブルに並べていく。文句は言わせないぞと目で訴えながら。
     ソファに座っていたのは天堂だけだった。ティーカップから垂れ下がる紙のラベルに何か言いたげな顔をしたが、「ご苦労」とだけ伝えてきた。一緒に出したチョコレートトリュフが功を奏したらしい。
    「お前はなにも飲まないか?」
    「片づけてからにする」
     テーブルと床をざっとでいいから掃除したい。
     勤勉なことだという呟きは、賞賛と受けとっていいのかわからなかった。無言で肩をすくめる。
    「それにしてもすごい数だな」
     天堂がティーバッグを小皿に移し、ツリーを仰いだ。
     トレイを小脇に抱えなおし、獅子神もおなじ方向へ顔を向ける。
     窓際のクリスマスツリー。マスコットだらけの異彩にはさすがにもう慣れた。というより慣れるしかない。子どもが来て以来、自宅にいる時間は増える一方だ。そのために仕事の付き合いだけではなく、友人との集まりもいくつかは断っているぐらいだ。リビングにそびえ立つツリーを無視して暮らすのはむずかしい。こうなったら我が家の景色だと思うしかなかった。
     マスコット以外のオーナメントも追加され、ツリーはいよいよ大渋滞を起こしていた。それだけではない。最近は床にはさまざまなプレゼントが並び始めていた。真っ赤なツリースカートがほとんど見えなくなるほどに。
     真経津いわく、いくつかはお互いに宛てたのプレゼントらしい。どうして自分宛て以外の贈り物まであるのか、理解しがたい。しかし叶に「プレゼントをたくさん飾らないと、ツリーって感じがしないだろう?」と常識のように諭され、そういうものかと流されてしまった。獅子神はつくづく勢いに弱いのだ。
     奥の方にはテレビでしかお目にかからない車のレプリカキーまで置いてあった。イタリア国旗と跳ね馬をモチーフにした自動車メーカーのそれ。ジョークなのか本物なのか、わからないまま放置している。
    「真経津のヤローが止めても聞かねえんだよ」
     出先で面白いものを見つけたと言っては送りつけてくる品々。なにか届くたびに目を輝かせる幼い顔を見れば、勝手に断ることもできなかった。
    「サンタクロースだって、うちは素通りするんじゃねえかな」
     ビンゴ大会を開けそうなプレゼントの山を眺めてぼやいた。コンプリート買いしてきた品は、天堂の教会へ寄付することになっていた。
    「――幸せな子どもだな」
     紅茶の香りに目を細め、神父がゆったりと微笑んだ。視線の先では叶がオーナメントから伸びた紐を調節している。枝に絡まってしまったようだ。真経津と子どもはその下で何やらごそごそと動いていた。

    「幸せ……ではねえだろ」
     あと数日で十二月。
     獅子神も子どもも、そして友人たちもこの暮らしに慣れてきている。それは裏を返せば、しかるべき年齢の幼児が、親から切り離されて過ごしているという事実に他ならない。慣れてはいけないのだ。
     そしてもう一つ。この生活は別種の危険もはらんでいた。もしも子どもの父親以外の誰かが、警察に捜索願を出したとしたら。獅子神は未成年者掠取の罪に問われかねない。自分だけの問題ならいい。子どもは司法の介入により、保護施設に連れていかれる可能性もある。獅子神の危惧したパターンだ。想像するだけで気持ちが暗くなる。
     親指の爪を人差し指の側面に押し当てた。きつく食いこむ痛みが、一見満ち足りたこの空間は、かりそめの姿に過ぎないと訴えていた。
     天堂が首を曲げ、獅子神へと視線を向けた。苦しげに歪めた横顔をしずかに見守る。
    「幸せな子どもには幸福が訪れる。神が保証しよう」
     隻眼の神父はそう言って、また一つチョコレートをつまんだ。
    「お前たち。クリスマスにはまだ時間があるぞ」
    「わあ、残念。天堂さんにバレちゃった」
     真経津が子どもと一緒にプレゼントをこっそり開けようとしていた。めざとく見つけた天堂のひと声に、二人が顔を見合わせて笑う。剥がした包装紙を直し、元の場所に戻した。
    「オレが言っても聞かねえのに、何で天堂だとすぐやめるんだ?」
     内緒で開けたプレゼントを包み直すのが、夜ごとの仕事になっていた。
    「神の威光というものだ、獅子神。お前も信仰するなら救ってやるぞ」
    「押し売りかよ」
     友人でもある神に信仰を捧げるつもりはない。獅子神は曖昧な笑みで答え、空いたトレイをキッチンへ戻しに行こうとした。
     頭の向きを変えたとたん、耳の後ろに痛みが走る。偏頭痛だろうか。片づけてからと思っていたが、その前にひと息つきたい気分だ。体が鎮痛剤よりもカフェインを求めていた。

     エスプレッソマシンのスイッチを入れる。起動を待つあいだに、コーヒー豆をしまったカップボードへ手を伸ばした。
    「ん?」
     視界のすみで光るものがある。壁際のドアモニターのランプが点いていた。同時にインターフォンが高らかに鳴る。近づいてモニターを見れば、画面いっぱいに園田の笑顔が広がった。もう一人の従業員と、二人に挟まれるように立つ男も。
    「――見つかった……」
     体の力が抜けていく。ふらつく足を支えるために壁に手をつき、肩を預けた。ボタンに伸ばした指先の白さに、己が緊張しきっていたことを知る。
     ソファの方角から落ち着いた声が聞こえてきた。
    「だから言っただろう。幸せな子どもだと」


     とりあえずは家に上がれ。
     そう言った獅子神に、男は土下座のまま首を横に振った。
     すみません、すみません。
     振り絞るような声で繰り返す。玄関の床は天然石だ。この季節は冷えるだろう。それでも男は両手を握りしめ、額を地面にこすらんばかりの勢いで頭を下げていた。時折、疲れに血走った目で獅子神をうかがう。とても子どもに見せられたものではない。まずは自分だけが出てきてよかったと、心のなかで独りごちた。
    「わかったから立て。オメーがしゃがんだままじゃ、こっちも喋りにくいんだよ」
     押し問答のあとで、ようやく男が顔を上げた。膝に手をつき、立ち上がる。痩せこけた艶のない肌をしていた。憔悴しきった表情は保身のためか、子を案じるためか。
     後者であってほしい。声には出さずに念じた。
    「あの……こ、子どもを、その……」
    「園田から聞いてる」
     雑用係がタクシー内から送ったメッセージに気づいたのは、ほんの少し前。対応にリビングを出る直前のことだった。真経津が「そういえばさっきから獅子神さんのスマホ、鳴りっぱなしだよ」と伝えてきたのである。そういうことは早く言えとドヤし、玄関に向かう道すがらにメッセージを読んだ。

     京都には子どもの母親にあたる女性の実家があるのだとか。復縁のための話し合いに向かったのに、競馬で有り金を使い果たしたこと。どうしていいかもわからずに東京へ舞い戻ったこと。獅子神の家に子どもを預けてからは、日雇い労働で金を稼いでいたらしい。
    「まさか競馬のためじゃねえだろうな?」
     ぎろりと睨みつければ、男はかつての暮らしを思い出したように震えあがった。実際は馬券を買ってすらいないことを園田から聞いている。念の為だった。今日現れたのも、仕事のない日曜日にひとり、どう過ごしていいかわからなかったのだという。
    「ガキはどうするつもりだったんだ?」
    「し、獅子神さんならきっと何とかしてくれるって……」
    「オレは慈善事業をしているわけじゃねえぞ」
    「そうだったんですか?」
     園田が意外そうに口を挟んだ。驚く顔を視線で黙らせる。
    「俺なんかと居るよりずっと幸せなんじゃないかと思って――」
     男がもごもごと言いづらそうに口ごもった。獅子神が怖かったのは事実である。しかし供される食事、広々とした快適な家。思考停止した頭で精一杯、子どもの幸せを考えた結果らしい。
    「これからどうすんだ?」
     男は園田たちに説得されて、車中から元の妻へと電話していた。相手としては会ってもいい。もう一度、家族として暮らすチャンスを与えられたそうだ。
    「園田。コイツ本当に大丈夫なんだろうな」
    「奥さん、いや元奥さんの実家が商売をやってるらしくて。下っ端で使ってもらえるみたいです」
     まったくいい年をした人の親が。聞けば聞くほど情けなくなる。けれども尾羽打ち枯らした様子を見れば、これ以上責めても意味のないことは一目瞭然だった。
     それに獅子神は所詮、赤の他人。あとは彼ら親子の問題だ。長く続いた苦悩の日々も、どうにか終わろうとしていた。この先が明るく開けることを祈るばかりだ。

    「おーい、もう来てもいいぞ」
     男が身なりを整えるのを待ち、廊下の奥へと声をかけると、すでに近くで待っていたのだろう。開いたドアから真経津がひょこりと顔を覗かせた。その下の隙間をすり抜けて、子どもが走ってくる。
    「パパ、ママ!」
     幼い顔に浮かんだ喜色をみとめ、獅子神がほっと息をついた。
    「つうか、ひとりしかいねえぞ」
     まさかオメー、母親も兼ねてるのか? 胡乱な目つきに男が赤面した。
    「他の家と違って母親がいないと泣くもんで。俺が母親でもある、と教えてたんです」
    「そういうことか……」
     父親の元までまっすぐに進むと思われた子どもだが、獅子神の横でぴたりと足を止めた。
     サンダルなら出してあるぞと見下ろすと、自信ありげな表情で見上げてきた。ニットの裾をつかまれる。
    「ママ!」
    「……だからオレはママじゃねえ。おい、勘違いすんなよ。これには色んな事情があるんだ」
    「は、はは……」
    「……何だよ」
    「な、何でもないです!」
     かつては畏怖の対象でしかなかった王様が、今は子どもに服を引かれてしかめ面をしている。奇妙な光景でしかない。けれども男は車中で繰り返し聞かされた「お前は獅子神さんを誤解している」という言葉を思い出していた。途方に暮れたあの日、この人なら何とかしてくれるのでは。そうして思い浮かべたのは、たしかに獅子神の顔だった。
     もう一度頭を下げると、見慣れぬ動作が不思議だったのか、子どもがちょこまかとした足取りで男に近づいた。
    「パパ」
     呼びかけにちいさな肩を抱きしめる。自分が犯した過ちがのしかかったように、男はふかく項垂れた。
    「――ごめん」
     謝罪の声に応えたのは、腕のなかの子どもではない。頭上から聞こえた安堵の息だった。
    「会えてよかったね、あっくん」
     獅子神の背後に揃った真経津たちに気づき、男がぎょっと目を剥いた。
    「どんな人間か観測したいけど、今回は見逃してやろう」
    「神の祝福も二度はない。肝に銘じろ」
     カタギとは思えない異質な集団。年若いにもかかわらず、全員が獅子神をはるかに上回る威圧感を醸しだしていた。子どもが平気なそぶりをしているのは不思議でならない。本能的な危機を察知して青ざめる男を眺め、獅子神が顎を撫でた。
    「あー、一応コイツらも面倒みてたから」
    「そ、れは……ありがとうございます」
     獅子神を除く三対の目は男にひたりと照準を合わせていた。にこやかに笑っているのに眼差しは氷のようにつめたい。慈悲のかけらもなかった。次に彼らと会えば、自分はこの世から去ることになるのだろう。倉庫落ちしたときよりも底の知れない恐怖に、男はすくみ上がった。
     おどしにはいいかもな。獅子神は眼力の鋭さを気の毒に感じながらも、自分を納得させることにした。

    「そういえば、あっくんの名前は何て言うの?」
     蛇に睨まれたカエルのように縮こまった男を見据え、真経津が明るい声を出した。画数の多いきらびやかな本名は、結局わからずじまいだったのだ。
    「あれ、手紙に書いてなかったですかね」
     真経津の問いに父親が首をかしげた。
    「読めなかったんだよね」と直球で続けたが、獅子神は横から手を差し出した。
    「別にもういいだろ」
    「えー。獅子神さんはいいの?」
     真経津は不満げに唇を尖らせたが、元々それほど気になっていたわけではないようだ。
    「叶さんの手伝いするね!」と打ち切り、リビングへ戻っていった。
     同じタイミングで、
    「獅子神さん、お待たせしました!」
     洗面所で身支度を直した園田たちが戻ってきた。配車の手配をしたタクシーもすでに門扉の外で待っているようだ。
     真経津たちの指示を受けて、リビングへ向かった園田たちがプレゼントを運び出す。クリスマスカラーの包装が次々とトランクへ積まれていく様に、男がまた目を白黒とさせた。
    「すげえ量だろ。言っとくけど金に換えようなんて思うなよ」
    「はい、もちろんです!」
    「クリスマスの朝に開けるように」
     神父の言いつけに、子どもはまじめな表情でうなずいた。
     一番のお気に入りらしいレイメイ人形は子どもの腕に抱かれている。叶の刷り込みが成功したらしい。
     間違っても観測者にはなるな。獅子神は心のなかでこっそりと祈った。

    「じゃあな」
     腰に手を当てると、見上げる子どもがこっくりと顎を引いた。
    「あの……本当にありがとうございました」
     父親がまたぺこぺこと頭を下げた。獅子神は顔をしかめて目をそらす。顎を上げてタクシーの方向を示してやった。
    「そういうのはもういらねえから。おら、ガキが見てんぞ」
     今はまだ年端もいかないが、子どもはいずれ成長する。幼いときの断片的な思い出に、大人たちの事情を察する日が来るはずだ。他人に頭を下げる親の姿なんて、思い出してもみじめになるだけ。記憶に残すことなく済ませたかった。
     園田たちにうながされ、二人はタクシーへと乗り込んでいく。「俺たちに任せてください」という言葉に誇張はなかった。一時的な滞在先や今後のことまで、彼らは道中ですでに決めていた。獅子神が手伝うことは何もない。あとは同乗した二人に任せるだけだ。
    「なかなか有能だな」という叶の賞賛に、「獅子神さんに鍛えられてますから」と応えた自信は伊達ではない。やっぱりうちにも置こうかな、という物騒な呟きさえ聞こえてこなければ、もっと誇らしい気分を味わえたのだが。

     静かな住宅街にエンジン音が響き、タクシーが動き出した。チャイルドシートに固定された子どもの姿は、大人たちの体の陰になって見えなかった。もう二度と見ることもないだろう。テールランプがゆっくりと遠ざかっていく。赤色が瞼にまぶしい。
     最後まで呼ばずにいた名前。音になることのなかったそれが、冬のはじめを告げる空気に溶けていった。
    「――泣いてもいいんだぞ」
     天堂の声は罪人を迎えるときのように響いた。すらりと伸びた背筋と、体の前で合わせた両手。カソック姿にふさわしい、慈愛に満ちた赦しの言葉。
    「……誰が泣くかよ」
     ぶっきらぼうに返事すると、笑ったのだろうか。長い髪がふわりと揺れた。男の横顔は眼帯のため、表情まではわからない。優雅なカーブを描いた口元がわずかに覗いていた。
    「泣きたいなら泣けばいい。寂しいなら寂しいと言えばいい。誰もお前を責めることはない」
    「そんな、ガキじゃあるまいし」
    「神から見れば、皆ひとしく子どもだ」
     聞き分けのない子どもに言って聞かせるように。美しい声色は詩を諳んじるごとく、獅子神の鼓膜を揺らした。頭の内側から沁みこむそれに、目と鼻の奥がじわりと痛くなった。
     悲しいからじゃない。泣きたいからじゃない。自分のなかにちいさな子どもがうずくまっていた。誰かに、何かに謝りたいと叫んでいた。
    「ただし、お前が懺悔する相手は私ではないとだけ言っておこう。信仰は後々でも構わない、神は寛大だからな」
     何もかもを知るように神父は語る。尋ねたところで「神の奇跡だ」とはぐらかされるだけだろう。獅子神は無言で息を吐き、足先を動かした。

    「さみいな。そろそろ中へ戻ろうぜ。デザートもどうするか決めなきゃいけねえし――」
     その時、もう一台のタクシーが乗りつけた。親子を乗せたセダンとは違い、大型のワゴンタクシーだ。運転席のメーターには迎車中の文字が表示されている。
    「どうしたんだ、あの車」
     獅子神は首をひねった。配車の手続きに間違いでもあったのだろうか。必要のないタクシーなら帰ってもらわねばならない。
    「来たぞ、お前たち」
     天堂が体の向きを変え、家の中へ向かって告げる。
     何が来たのか。訝る獅子神をよそに、真経津と叶がいそいそと戻ってきた。
    「サンキュー、ユミピコ」
    「獅子神さん、バイバイ。また遊ぼうね〜」
    「え? オメーら、どっか行くのか?」
     寝耳に水とはこのことだ。靴を履く友人たちに、獅子神はきょとんと目を丸くした。
    「そのためのタクシーだろう」
    「でもオレは何も聞いてないぞ」
    「敬一君には伝えてないからな」
     友達甲斐の無いやつらだ。あっさりとした断りに、軽くショックを受ける。
     外出の用意をしようと戻りかけた獅子神だが、真経津によって止められた。片手を待てのかたちに差し出したのは、さっきの意趣返しだろうか。鼻白らむ獅子神を置き去りに、叶と天堂はすたすたと門扉へ向かって歩いていった。運転手がすかさず後部座席のスライドドアを開けた。団体でも乗れるような大型の車だ。男一人ぐらい増えても問題はなさそうに見える。それなのに天堂が振り返り、「早く戻るといい」と目顔で示してみせた。にべもない。
     いや、オレも連れて行けよ。口を開くより早く、真経津が肩をつついた。どうやら本気でのけ者にされているらしい。思ってもみない仕打ちに、動揺を隠せない。

    「じゃあ、またね」
     獅子神の傷心は伝わることはなかった。真経津も軽い足取りで車へ駆けていく。遠ざかる背中を呆然と眺めていると、門扉の前でオレンジ色の髪がひるがえった。こちらに向けられたのは、つめたい仕打ちとは裏腹に満面の笑みだ。
    「フルーチェは獅子神さんにあげる。他にもプレゼントを用意してあるから楽しみにしててね!」
    「え、ちょっと待て……!」
     最後のひと言にぞくりと悪寒が走った。今度は一体何をやらかすつもりか。同時に鼻腔いっぱい甘ったるい香りが広がった。冷蔵庫に眠る大量のフルーチェ。なにがプレゼントだ。顔をしかめ、こぶしを振りまわした。
    「ざけんな! もうプレゼントはいらねえよ」
     我ながら威勢のいい声が出た。空気をビリリと震わすそれに、真経津が目をまんまるに見開く。そして弾けるように笑いだした。
    「そうそう、その調子だよ」

     タクシーは真経津を乗せるなり動き出した。あらかじめ決められたシナリオのように、そそくさと走り去っていく。玄関にぽつんと残され、誰もいなくなった道路を見るとはなしに眺めた。夕刻を過ぎた空はとっぷりと暮れ、裾にわずかなオレンジ色を残すばかりだ。
     全員そろってオレを置いていくことはないだろう。恨みがましいぼやきを聞く者はいない。すり抜ける夜風に体を震わせ、獅子神はようやく玄関ドアを閉めた。
     誰もいないリビングへ戻ると、扉も開け放したままだった。鼻を鳴らし、中へ入る。室内にはまだ甘いにおいが漂い、ツリーのまわりは足の踏み場もないぐらい惨状だ。子ども用のプレゼントを選びながら、適当に放ったのだろう。
     ダイニングテーブルの下には白っぽくかたまって残骸があちこちに。甘いにおいの出どころである。片付けにはそれなりの時間がかかりそうだ。園田かもう一人、どちらかは家に残らせればよかった。キッチンを掃除した意味はなんだったのかと、ため息を漏らした。
     カウンターにはエスプレッソのデミタスカップが置かれていた。あとを引き継いだ誰かが淹れてくれたらしい。残念なことに時間が経ちすぎていたが。漆黒の水面に油が浮いている。ためしに口に含んでみると、苦味ばかりがつよく感じられた。カウンター越しに飲み残しをシンクへ流し、カップを置いた。

     ダイニングに比べればまだマシなソファへ移動する。タブレットやクッションを脇へ寄せ、どっかりと腰を下ろした。一人きりの部屋はやけに広い。今までが多すぎただけ。頭ではわかっていても寂しさをはらえない。
     人目がないのをいいことにだらしなく足を組み、背もたれに頭を預けると、ツリーの頂点がちょうど視界に入った。そこにつけるための星型の飾りはまだつけていなかった。子どもに飾らせてやろうと思っていたのに。たしか真経津が用意すると言っていたが、忘れてしまったのかもしれない。
     心残りはあるが、もう終わったことだ。幸せな子ども。天堂が評したように、これからいくらでも楽しいことがあるはずだ。あってほしい。開いた手のひらに目を落とすと、もう会うことのない小さな手が重なった気がした。

     いつのまにか窓の外は墨のような闇に包まれていた。冬の夜は早い。そろそろカーテンを閉じなければ。思うだけで座った状態から立ち上がるのも面倒だった。こめかみから耳のあたりをずしりと重くする痛みに、なかば目を閉じた。頭痛がぶり返していた。すこしだけ、今は休みたい。
     頭をかたむけると、叶のマスコットが何かを訴えるようにこちらを向いていた。寝入りばなに見たい光景ではなかった。遮断しようと瞼を落とす。
    「……ちょっと待て」
     一瞬で意識が覚醒した。
     もう一度、クリスマスツリーに目をこらす。長身の叶が弄っていたあたり。からまった紐を引っ張っていたのは記憶にあるが、ふかく考えることなく放っていた。けれども今になって紐の先をよくよく見れば、覚えのあるものがぶら下がっていた。背中をつめたい汗が流れる。
     透明のプラスチックケースは、一般的なカードよりも少し大きいサイズ。中に差しこまれたIDカードだ。四角くプリントされた写真と目が合う。
    「マジか……」
     無職、ストリーマー、神父――獅子神を取り巻く人間のなかで、身元を証明する必要のある者はただ一人。医師の村雨だけだ。
    「――なんで職員証がここにあるんだよ」
     首をひねる。
     すると頭のなかで真経津の言葉が再生された。
     ――プレゼント、楽しみにしていてね。
     いやいやいや。楽しみにするとかいうレベルじゃねえだろ。これがなければ職場に行けないはずだ。出勤自体はできるかもしれないが、社会人としての信用度が下がるはずだ。なんて事をしてくれるんだ、アイツは。いや、アイツらか。
     スマートフォンを取り出す。わずかにためらってから、通話ではなくメッセージを選んだ。
     届けに行くか。頭の痛みはつづいていたが、運転には自信がある。短い距離であればこなせるはずだ。わざわざ手渡す必要はない。ポストにでも入れておけば、アイツが回収するだろう。いっそバイク便にでも頼んだほうが楽か。あれこれと策を講じる。
     当たり障りのない文面を考えつつ、獅子神は手元に意識を集中させた。
     ――窓の外、ゆっくりと減速する車のライトに気づくことなく。


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