麗さんの憂鬱 出会った頃から、その気配はずっと感じていた。口紅、ヘアピン、香水の残り香、白い肌に残されたこれ見よがしの痕跡などとは比べ物にならない「誰か」の濃厚な気配が、鬼舞辻無惨という男にはまとわりついていた。
自分以上にこの男に見合う存在はいない。そう思えるだけの自信があったし、その自信には根拠があった。出会った自分たちは、当然のように恋に落ち、生涯を共にしたいとプロポーズされた。喜んで受けた。そうして自分たちは夫婦になった。
自分は、鬼舞辻無惨の唯一無二の存在になった。
結婚しても、無惨の周りには、花に群がる蝶のように、多くの女が群がった。男もいたかもしれない。いずれにしても、大勢の遊び相手が、彼の周りには常にいた。多くの者は彼のことしか目に入らず、時期が過ぎればいつのまにか彼の周りから消えていた。稀に、分不相応な夢を見た者が、自分に無惨と別れるよう言ってくることがあった。そんなときは、彼が暮らす家に招いて、ただ優雅なティータイムを共にすれば、数日のうちに自分からいなくなった。
麗にとって、夫の周りに群がる者は、虫に過ぎなかった。
あるときから、その気配が急に強くなった。彼が、携帯電話で打合せするときの声色に、仕事の資料に目を通すときの満足げな表情に、月を見上げる眼差しに、「誰か」の気配がまとわりつく。何の痕跡も残さず、ただその気配だけが強くなっていった。
夫の周りにどれだけ大勢の者が群がっても、自分がその正体を気にすることなどなかった。向こうから麗に何かを求めてきたときだけ、その優雅な指で払い落とし、そして忘れてきた。
だが今、虫の正体が気にかかった。その時点で、その者は虫ではあり得ず、「誰か」になった。夫の遊び相手に対して、初めて漠とした不安を感じた。
しかし麗には、鬼舞辻無惨の唯一無二であるという自負があった。他の者達と異なり、一切の痕跡を残さないからこそ、謎めいているからこそ、特別に思えるのだ。実際にその正体を突き止め、「遊び相手」という枠に収めれば、いつものように払い落として忘れてしまうかもしれない。
だが、調べるまでもなく、その正体はすぐに判明した。
夫から、新しい第一秘書を紹介されたとき、共にいる二人を見て、「ああ、この男だ」とわかった。意外に思った。もっと色香の強い者を好むと思っていたから。その男は、彼から黒死牟と呼ばれていた。礼儀正しく、控えめで、必要以上に無惨に近づくことはない。それでも、無惨を守るためなら周りのすべてを瞬時に切り捨てるくらいのことはするだろうと思わせる気迫があった。
きっとどこかのタイミングで、こちらに別れてほしいと言ってくるだろうと思っていた。
そのときに、「秘書」と「遊び相手」の枠にはめて、はらってしまえばよいと、そう考えていた。
しかし、どれだけ待っても黒死牟は何も言ってこない。その間にも無惨の周りに漂う黒死牟の気配はますます強くなる。恐ろしいことに、黒死牟の気配が強くなればなるほど、無惨は魅力的になっていった。
早く「秘書」と「遊び相手」の枠にはめて、はらってしまいたい。自分こそが彼の唯一無二であると自信をもって言える、その自信が揺らがないうちに・・・。
麗は、初めて自分から、夫の「遊び相手」に連絡をとった。
結婚式の写真、子どもと一緒の記念写真。城の守りを固めるような気持ちで並べ直す。
インターホンが鳴って、黒死牟がやってきた。
無惨より一回り大きな体躯は、ときに周囲に威圧感を与えそうであるが、礼儀正しく、所作が美しいため、さほど気にならない。普段かけているサングラスを外している。涼しげで切れ長の目を、濃く長い睫毛が縁取っていた。なぜ初対面のとき、色香が少ないなどと思ったのだろう。
モンブランを並べ、香りの良い紅茶を淹れながらさりげなく伝える。
「主人の好物なの」
嘘だ。こんな、かろうじて洋酒が利いている程度の甘いケーキなど、あの人は好きではない。妻である自分が薦めたから合わせているだけだ。本当は、血が滴りそうな肉を食べながら赤ワインを飲むのが好きだ。もちろんわかっている。夫の好物だと言うと、たいていの者は自分の知らない明るい場所での彼の姿を感じて動揺するから、わざとそう説明する。
だが、半ば想像していたとおり、彼は少しも揺らがなかった。気づかれないように息を吐く。
「ごめんなさいね。主人の悪い遊びに付き合わされているのでしょう?いつから?」
「え?」
「あの人、昔から遊び好きでしょう?私が気づいていないって思っているのね」
遊びという言葉を何度も繰り返したのはわざとだ。貴方は「秘書」に過ぎなくて、その秘書と寝るのは「遊び」なんだと、枠の中に押し込めてしまいたかった。
責めるのではなく謝罪の言葉を選ぶのは、自分と無惨との距離の近さを示すためだ。
「そうですね。先生の火遊びには困ったものです。人気者だという自覚を持っていただきたいですね。マスコミ対策をする私の立場にもなっていただきたいです。」
「ごめんなさいね。貴方に苦労をかけてしまって。それで、いつからなの?」
はぐらかそうとされたから意地になった。表情からは余裕が失われていたかもしれない。
「生まれる前からです。ずっと無惨様をお慕いしておりました。」
耳に心地よい低音が、静かに言葉を紡いだ。
「そう…」
溜息を隠すことすら馬鹿馬鹿しくなってきた。
妙に納得するような思いが湧いた。自分が夫に出会った学生時代には、既にこの男の気配があった。出会う前から、この男の想いは纏わりついて鬼舞辻無惨を鬼舞辻無惨たらしめていた。生まれる前からの想いだと言われれば、なるほどさもありなんと思わせるものがあった。
そして理解した。この男こそ、あの人の唯一無二だ。
「私、別れませんから」
そう口にしながら気づいてしまった。「妻」という枠にはめられたのは、自分の方だ。
「えぇ、別れられては困ります。無惨様は愛妻家のイメージがございますので」
秘書の声音には微塵の揺らぎもない。
「どうぞこのまま『奥様』でいらしてください。私が、無惨様を総理に、そして奥様を総理夫人にして差し上げます。」
「では貴方は何を望むの?」
「私は既にいただいておりますので」
―鬼舞辻無惨の心と身体を……
艷やかな笑顔で残酷な宣言が下された。そして最悪のタイミングで、自分が夫の心を独占していたかったのだと思い知らされた。
即座に呼吸を調え、手を伸ばし、これからもよろしくねと笑顔を作った自分の胆力は、賞賛に値すると思った。褒美に、どうせ夫が食べないモンブランはすべて一人で食べてしまおう。
控えめに手を握り返してきた黒死牟の目元は穏やかなままだ。彼には、最初から麗に対する敵意などなかった。麗にはその目が、彼我の力量差を見誤らなかった相手を評価する、圧倒的強者の目に感じられた。