温めてあげる(仮題) 不運というのは重なるものだ。
燭台切光忠は強風の中、みぞれ混じりになってきた冷たい雨に打たれながら懸命に避難小屋までの山道を歩いていた。
数日前のこと。
スマホを落としてしまって画面が割れ、車は車検したばかりなのに故障し、向こうから告白してきたから付き合っていた彼女には浮気され、マンションのインターネットは調子が悪くて一向に繋がらず、出勤したら会社が倒産していた。
貯金だけはそこそこあったから、失業保険をもらいながら次の仕事は慎重に探そうと決めて、鬱々した気分をリフレッシュしようと久しぶりに山に登りに来たのだ。
早春の山の空気は爽やかで、木々の新芽が膨らみ始めている。平日だし観光地化されていない山なだけあって、ほとんど他の登山者には出会わなかった。無心で山頂を目指していると嫌なことを忘れられる。
頂上近くになると、日陰にはまだ少し雪が残っていて、空気がひんやりとしていた。岩場が多い山頂にたどり着いて持参したおにぎりを食べ、そろそろ下ろうかという頃になって、濃い雲が出始めた。先程まで見えていた麓の平地がまったく見えなくなっている。
慌てて荷物をまとめてバックパックを背負う頃には、風が強くなって雨が降り始めた。
「嘘だろ……」
山の天気は変わりやすいと知っていたとはいえ、天気予報では晴れだったし、先程まで実際に晴れていたんだ。
もう一度荷物を下ろして、薄手のウィンドブレーカーを羽織る。多少の雨なら大丈夫だけれど、本降りになれば心もとない。
そうこうしている間に雨足が強くなってきて、下山を急ぐより雨宿りした方が良いと思い始めた。
帰り道とは逆になるが、少し下ったところに避難小屋があるようだ。
光忠は雨と霧で視界が烟る中、慎重に看板を確かめて濡れた山道を下り始めた。
「寒……」
濡れてかじかんだ指を握り込み、痛めた右足を庇いながら避難小屋への道を急ぐ。先程石の上ですべって足首を捻ってしまい、足首がずくずくと鈍く痛むが、足を止めるわけにはいかなかった。日帰り登山が可能な規模の山で、遭難して凍死だなんてニュースになるのは格好悪くて絶対に嫌だ。
気合いでどうにかたどり着いた避難小屋では、ちょうど誰かが扉を開けようとしているところだった。自分以外の登山者がいてほっとする。
「こんにちは、すごい雨ですね」
「ああ、君も降られてしまったのか。開けたから早く入ろう」
返事をしてくれた先客は、しっかりした登山用のレインウェアとゴーグルを着用していて人相がわからないが、僕より背が高くて年上と思われる落ち着いた声をしていた。
避難小屋は、水場とトイレと仕切りのない板の間がある小さなものだった。しかし冷たい雨に打たれずに済むだけでもありがたい。コンクリートの土間の奥に薪ストーブがあり、少量の薪が積んである。
「随分濡れたみたいだね。僕は薪ストーブで火を起こすから、君は着替えた方がいいよ」
「あ……、はい、ありがとうございます」
小屋にたどり着けたことに安心して放心していた光忠とは違い、荷物を下ろしてレインウェアの上だけ脱いだ男が土間のストーブに焚き付けと薪を入れて火を起こしている。暗い小屋の中に煙の匂いが漂い始めた。