読唇術 早朝の廊下を歩いていたら、薬草が入った籠を抱えた実休さんに出会う。今日は梅雨の晴れ間で天気がいいから、日当たりのいい場所に薬草を干すのかもしれない。
「実休さん、おはよう」
声を掛けると、実休さんは僕をまっすぐに見つめて、柔らかく微笑んだ。
『お は よ う』
ゆっくり、はっきりと彼の唇が動く。だけれど、微かな吐息の音しか聞こえない。
僕の本丸の実休さんは、声を出せなかった。
連隊戦の報酬として本丸に来た実休さんの顕現には、僕も立ち会っていた。
桜が舞った後に、唇を動かした実休さんは、声が出ないことを知って、困ったように眉を下げた。
こちらが話す言葉の内容は聞き取れるし、理解してくれている。けれど、実休さんの記憶は焼けたせいなのか一部欠落しているらしく、筆記具を渡しても文字が書けなかった。
次に実休光忠が入手できるのはいつになるかわからない、ということで僕が世話係になってしばらく様子を見ることになったけれど、最初は意思の疎通をするのが大変だった。
慣れない人の身で、記憶が欠落していて何がどこまでわかっているか、本刃もよくわかっていないのに、自分からは質問できず、こちらからの問いに『はい』か『いいえ』で首を振って答えるしかないのだから。
音は出なくても言葉の形に唇は動くから、僕はまっすぐ実休さんを見て、唇を読むのを試すようになった。
なかなか難しくて、まだ簡単な挨拶や名前くらいしか読み取れない。だけれど、実休さんの言葉を読み取れると、彼が嬉しそうに笑うから。
実休さん自身も何も努力をしていないわけではなく、歌仙くんや小豆くんに料理を習って僕に料理やお菓子を作って来てくれたり、篭手切くんや他の江の刀たちと一緒にダンスレッスンをした成果を披露してくれたりする。
実休さんはダンスが上手で、長い手足を活かした動きは見惚れるほど格好良くて、褒めると顔を輝かせて喜んでくれた。
実休さんは他の刀とのコミュニケーションが困難な分、普段からよく周りを見て、詳細に記憶しているようだった。顕現した時から右目の視力がない僕より、余程色んなものが見えている気がする。
字については人間無骨くんと一緒になって、古今伝授さんに熱心に習っているみたいだ。ちょっと見に行った時には、恥ずかしがってすぐに隠されてしまったけれど、随分と達筆になっていた。
「僕でも教えられること、あると思うんだけど……僕にはあまり聞いてくれないんだよね。習ってるところを、見られるのも嫌みたいだし……」
玄関に飾る花の相談のために訪れた福島さんの温室で実休さんの話をする。同じ光忠だからか、他の刀にはしない話をしてしまった。
「うーん……実休も、お兄ちゃんだからな。弟の光忠には格好良いところだけ、見せたいんだよ」
フラワーアレンジメント用のオアシスに花を差してバランスを見ていた福島さんが僕の方に目を向けた。
「僕が一番最初に顕現したし、極にもなってるんだけど……弟なの?」
「何年差があっても、俺たちにとっては可愛い弟だ」
明確に作刀時期の違いが判明しているわけではないのだから、弟だと言われるのは納得がいかないけれど、福島さんと実休さんのことを弟だと感じるかと言われると、そんな気は全然しない。
でもそれが理由で距離を置かれるのなら、堀川派のようにただの兄弟、でいいと思うのだけれど。
「もっと頼ってくれても、いいのになぁ……」
溜息と共に零すと、ぽふぽふと頭を撫でられた。慰められないといけないくらい、情けない顔をしていただろうか。
「光忠は実休が他の刀に色々習いに行ってるのが寂しいんだな。その分、もっと福島兄ちゃんに甘えてくれていいんだぞ」
「別に……そんなことは……。それと、福島さんは、甘える対象にはならないと思う」
僕はショックを受けた様子の福島さんに気付かず、温室を後にした。
実休さんがこの本丸に来て一年が経とうとしていた。
手合わせでは問題なく戦えることを確認しているけれど、戦闘中の咄嗟のやり取りに不安が残る、という理由で、実戦には出してもらえていなかった。
遠征や内番は問題なくこなしているのだし、本丸の刀もかなり増えて、実際に定期的に戦場に出ている刀の方が少ないくらいなのだから、それでいいのかもしれない。
だけど、来月再び夏の連隊戦が行われると聞いて、不安が過ぎった。一年様子見しても、実休さんの不具合は直らなかった。次の連隊戦で、不具合のない実休光忠が手に入るとしたら……?
考え込んでいた僕は、障子を軽く叩く音に気付き、反射的に返事をした。
この叩き方は、実休さんだ。
「実休さん、こんな夜にどうしたの?」
梅雨の時期になったからか、今日は朝から強い雨が降り続いていて、降り込んだ雨で廊下までもが濡れていた。僕も含め、刀剣男士は過度の湿気を苦手とする刀が多いから、あまりうろうろしたい日じゃない。
『やくそうちゃを もってきたよ』
唇の動きに瞬いて視線を落とすと、実休さんはお盆に湯呑みを乗せていた。
毎日見続けてきた甲斐あって、僕はこの頃は日常会話に支障がない程度には実休さんの唇を読めるようになっていた。
「ええと……ありがとう」
お盆を受け取って、部屋の中に誘ったものの、実休さんは首を振って僕の部屋には入らなかった。
『つかれて いるようだから』
実休さんは、僕以上に僕のことを把握しているのかもしれなかった。夏の連隊戦があると聞いてから、ぐるぐると思い悩んでいたことも、見透かれている気がする。
『みつただ』
実休さんが静かな熱を帯びた紫色の瞳で僕をまっすぐに見て、音のない声で僕を呼んだ。
『ぼくは きみが すきだよ』
僕が見間違えないように、ゆっくり区切って、はっきりと告げられる。
その後どうやって実休さんが僕の部屋の前から去ったのか、呆然としていて記憶が定かではないけれど、実休さんに何も言えなかったのだけは覚えている。
そしてこの日から、僕は実休さんの顔をまともに見られなくなってしまった。