With you... 濃紺の空に朧月が上るころ、多くの生者は眠りに就き、人ならざる者たちにとっての夜明けが訪れる。
目覚めた吸血鬼は庭に出ると、手ずから育てている薔薇を摘み取り、その芳香で朝食を済ませた。
何一つ口にしてはいないのに、不思議と飢餓感は和らぐ。
主食には遠く及ばないが、容易く理性を失うほどの衝動が抑えられさえすれば良い。
さらに数本摘んで城内に戻り、月明かりが差し込む柱廊を進む。
城主が日頃の食事をする小食堂は、客人を招く大食堂に比べると狭く装飾も最低限だが、だからこそ落ち着ける空間だ。薔薇を育てている中庭に繋がる厨房からも近いので、移動距離も短くて助かる。
久しく客人とは無縁だったこの城に変わり者な青年が通うようになってからは、運んでいる間にスープが冷める心配もないという利点も増えた。
いつ追いかけてきてもいいように開け放ったままのドアから室内を覗き込めば、青年が同じ席にちょこんと腰掛けている。
自らの意思で選んだわけではない。夜が更けて目覚めた青年を着替えさせてここまで連れてきたのは吸血鬼だ。大人しく……本当に身じろぎ一つしない青年の眼前に薔薇を持っていく。
「食事の時間だ」
話しかけることでようやく蝋人形のように大人しくしていた青年が動き出す。関節の動きを確かめるようにゆっくりと片腕を持ち上げ、差し出した薔薇を手に取った。
「そう、いい子だ。匂いを嗅いでごらん」
言葉が通じているのか、あるいは呪いをかけた主である吸血鬼の命令に本能から従っているだけなのか、言われた通り鮮血のように赤い花弁に鼻先を埋める。
微かに吐き出された吐息が、青年がここに在る事実を伝えてくれる。それが、今の吸血鬼にとっての唯一の救いになっていた。
「物足りなければ、もう一輪摘んである」
青年は今度は受け取ろうとはせず、最初の一本目を手にしたまま動かない。どうやら「おかわり」は要らないようだ。
人だったころの彼は、小柄な体格のわりに大食漢だった。好奇心も旺盛で、吸血鬼の作る料理に物珍し気に目を輝かせながら味わっていた。
彼の眩い微笑が、陽気な笑い声が、お喋りな明るい声音が日増しに恋しくなっていく。近頃は、過ぎ去った日々を懐かしむ頻度も上がっていた。
回顧の後には常に後悔が襲う。
あの騒がしくも優しい日々に戻りたいと無意識に願ってしまう度に、目の前にいる本人と否定しているような気持ちになって、胸が痛む。
かつての彼を喪ったのも、彼を人ならざる存在に変えてしまったのもすべて、吸血鬼本人だというのに。
今の状態のまま時間だけが過ぎていけば、いずれ青年に八つ当たりをしてしまうかもしれない。あるいは矢も楯も魔足らず掴みかかって、本来の姿に戻って欲しいと懇願してしまうかもしれない。
どちらにせよ、双方にとって良くない事態だ。
(少しばかり、距離を置くべきなのだろうか)
彼を同族にしてからこっち、わずかな変化の兆しも見逃さないよう四六時中見守っていたが、もともとは二人とも孤独の身だ。話すことが出来ないから訴えられないだけで、青年も窮屈な思いをしているかもしれない。
(……いや、これは言い訳だな)
限界が近いのは、吸血鬼の方だ。目覚めてからずっと感情を失った人形のようになってしまった彼を見ていることが辛くなってしまった。
つかの間でいいから、1人になる時間が欲しい。正常な思考を取り戻すためにも。
「これからの時間は、自由にして構わない。ただし外へ出てはいけないよ」
出来得る限り優しい声を心がけて言い含めてから、一足先に小食堂を出る。使用人の一人とさえすれ違うことのない無人の城を、当て所もなく歩いた。
後を追いかけてくる軽やかな足音が、耳に届くはずもない。
『こんなに広い城にひとりぼっちで、さみしくないですか?』
いつだったか、青年に聞かれたことがある。悪意などない無垢な問いに、吸血鬼は冷淡に答えた。もともと一人だから寂しくはない、と。
今となってはもう、あの頃の強さを取り戻すことは出来ない。孤独に慣れていたはずのこの身は、至上のぬくもりを知ってしまった。
(ああ、そうさ。君の声が聞こえなくて、寂しいとも)
今ならばきっと、そう答える。だが、そもそも問う声が聞こえない。振り返った先に見えるのは遠くへ行くほど深い闇に呑まれていく、殺風景な廊下のみ。
思わずため息をこぼし、再び歩き出す。無意識に足を踏み入れたのは、懐かしい思い出の詰まる居間だった。
猫足のカウチの他には何もない空間だが、この城にしては珍しく埃をかぶっていない。その理由であるヴァイオリンが、寂しそうにカウチの上に寝そべっていた。
(……そういえば、久しく弾いていない)
長い間、放り出されていたこれを見つけたのも、青年だった。教養を与えられなかった彼が、持ち前の好奇心でこれは何かと尋ねてきた。
吸血鬼が楽器だと教えてやると、弾いてほしいとせがんできたのがきっかけで弾き始めたのだ。
記憶にないだけでかつては弾いていたのか。もしくはもともと音楽の才に恵まれていたのか、不思議と手に馴染み、頭に浮かんだ旋律をそのまま奏でれば曲になった。
青年は吸血鬼の演奏を、いつもカウチに行儀よく腰かけて聞いていた。
普段は活発でおしゃべりな彼も、演奏中は口を閉じて大人しいものだった。
唇は緩やかに弧を描いて微笑を浮かべ、双眸は閉じて耳を澄ませるその姿は、一見眠っているようにも見えたが、聴覚に意識を集中するためにあえて視界を閉ざしたのだと言っていた。
演奏が終わると青年は本来のにぎやかさを取り戻し、吸血鬼の演奏を褒め称えた。もっと聞きたいとねだられると悪い気はせず、翌日も、その翌日も、食後はこの部屋で二人だけの演奏会を開くのが恒例になった。
今、カウチには誰も座っていない。一人だけの部屋の中、まるで鳴き声のように震える切な気な弦の音色が虚しく歌う。
(もしも、永遠に彼があのままだとしたら……)
無気力な人形のまま朽ちることのない肉体で生きていくことになる。何の罪もない青年に与えられるには、あまりに残酷な末路ではないか。
もしかすると一時肉体を離れていた時に、魂が傷ついてしまったのだろうか。肉体という強固な鎧から解き放たれたむき出しの心はとても繊細で、傷つきやすい。
いやそもそも、吸血鬼は本当に青年の魂を呼び戻すことに成功したのか。
(……まさか、)
辿り着いた仮説に、ぞっとする。
しかし考えてみれば、彼が命を落とした場所は森の中。かつて数えきれないほどの魂が失われた場所だ。付近に漂っていた、見知らぬ誰かの魂が入り込んでしまったとしても不思議ではない。
では、やはり青年はもう、この世にはいないのか。
(嫌だ……)
生来、光を嫌う吸血鬼が唯一求めた輝きが、既に空より高い場所に旅立ってしまったなど、想像するだけで心臓が張り裂けそうになる。
今すぐ後を追いたくとも、老いも死も許されない不死の身ではどうしようもない。
(嫌だ……、もう会えないなんて……)
身を裂くような悲しみが吸血鬼を襲う。その彼の悲壮感を反映したように、曲調も悲哀を帯びていく。
まるで、懲罰の様だった。
一人の一生を身勝手に振り回しておいて、さらに彼を取り戻したいと願ってしまった吸血鬼を、無慈悲な誰かが裁いている。
ああ、顔を上げたらあの子がいればいいのに。
青年の素直な感想が嬉しくて、ひそかに練習もするようになった。青年が城を訪れるときにも練習を続けていると、いつのまにかたどり着いていた彼が、扉を薄く開いてこちらを覗いていた。
吸血鬼は、こっちへおいでと彼を手招く。青年は嬉しそうに笑って、定位置であるカウチに腰掛けるのだ。
今まさに罪人として裁かれながらも、吸血鬼の心にはまた性懲りもなく、清らかな思い出が浮かんでしまう。壊れかけた心を、本能的に守ろうとするかのように。
あの頃と同じように、吸血鬼は扉の方に視線を向けてしまう。そこには誰も、いない、はずだった。
「……っ」
吸血鬼はそこにまぼろしを見た。着古してあちこちつぎはぎだらけのみすぼらしい服装、少年のようなあどけない目鼻立ちが、余計に憐れみを誘う孤児の青年。
ついに幻覚まで、と未練たらしい心を自嘲し、二度三度瞬きをして再び眼差しを転じるが、まぼろしは消えることがなかった。
たっぷりのフリルと白薔薇の眼帯は、間違いなく先ほど吸血鬼自身が着替えさせた衣服だ。唇を引き結んだ無表情だが、薄く開いた扉からひょっこりこちらを覗き込む体勢は、人だったころと寸分たがわぬ仕草だった。
吸血鬼の視線の先で、思い出と現実がぴったりと重なっている。一度でも選択を誤れば露と消えてしまいそうな脆い奇跡に緊張しながら、そっと弓を手にした手を伸ばした。
「こっちへ……、こっちへおいで」
人馴れしていない子猫を呼ぶように、優しく呼び掛ける。
青年の動作はもどかしいほどに緩慢で、いつ気が変わって引き返してしまうかもしれないとひやひやしたが、彼の足取りには迷いがなかった。
誰に教わったわけでもないのにカウチに行儀よく腰掛けて、静かにまぶたを下げる。
吸血鬼の記憶を、青年が正確になぞった。
吸血鬼は数秒程、呼吸も忘れて固まってしまった。次いで、心臓が痛いほどに締め付けられる。目の奥が燃えるように熱くなって、温かな雫がひとつ頬から顎へと伝って落ちた。
吸血鬼は確信した。青年は、やはり戻ってきてくれたのだと。
(本当に、お前は優しい子だね)
本当は勝手に呼び戻したことに腹を立てているかもしれない。もしくは、出会いがしらに怯えていたように、吸血鬼になってしまった事実に恐怖を抱いているのか。
本心はまだ、分からない。けれど、それでも、青年は吸血鬼の傍らにいる。他の誰でもない。彼自身が、孤独な吸血鬼に寄り添ってくれている。
その事実が、今の吸血鬼には何よりも救いに思えた。
まっすぐに向けた眼差しの先で、青年がふいに目をあけた。ほんのわずかに小首をかしげて、吸血鬼を見上げている。
無言の催促に吸血鬼は泣き笑いのような表情を浮かべると、ヴァイオリンを構え、演奏を再開する。
ふと青年を見遣れば、ずっと無表情だった口元がわずかに弧を描いていた。
ほんの些細な変化ではあったものの、青年にとっても吸血鬼にとっても、大きな進歩だった。
少しずつだが着実に、青年は本来の自分を取り戻しつつある。もしかすると、変化は途中でとまってしまうかもしれないし、今以上の変化は見込めないかもしれない。
それでも、二人の間に恒久の時間がある事実だけは決して揺らぐことがない。
だとすれば吸血鬼は二度と、彼を手放すことはしない。奏でる音色が、ほんのわずかでも青年に微笑を与えるのならば、何百回、何千回と演奏会を開こう。
季節が廻り、樹冠が白く覆われるころ、複数の村人が凝りもせず徒党を組んで森の中の古城を取り囲んだ。しかし彼らの手にした農具が、誰かを傷つけることはもうなかった。
城内は既にもぬけの殻、二人の吸血鬼は旅立った後だったから。
拍子抜けする彼らは知る由もない。遠く離れた街へ続く街道を、貴族のような身なりの若者が二人、手を取り合って進んでいることを。
くせっ毛の青年がなんにでも興味を示すので、とてもゆったりとした旅路だったが、そもそも目指す場所も目的もない気ままな旅だ。時間はたっぷりあるのだから、急ぐ必要もない。
月明かりのみが照らす夜道で、二人は笑っていた。とても幸福な旅については、彼ら二人だけの秘密である。
おわり