キスの約束 穴が開きそうな熱視線を向けられたかと思ったら、目元にふっくらした感触が押し付けられる。今夜だけで既に三十二回目の口付けに、千はとうとう耐え切れなくなって吹きだしてしまった。
「くすぐったかった? ごめんね」
突然笑い出した千に百が的外れな謝罪で返す。普段は舌を巻くほど察しが良いのに、時折、主に千に対しては呆れるほど鈍感になるのが百だ。鈍感というよりは、意図的に見ないようにするという方が正しいだろうか。
「違うよ。ただ、モモって本当にかわいいなと思って」
このかわいいは口説くかわいいではない。もしそうなら、千は口にするのにもう少し意気地が要る。
ただ、わざわざ注釈を入れなくとも、付き合いの長い相方兼恋人には、小動物を愛でる意味でのかわいいだと正しく伝わっているらしく、頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。
「どうせ、ヤキモチ妬きだもん。……しつこかった?」
拗ねているくせして、小首をかしげて千の機嫌を窺う。上目遣いの眼差しがあざとい。
「しつこくはないけど、何度もする意味ある?」
「あるよ! だって、相手は天使だよ!? 一回二回で勝てるわけないじゃん!」
数日前にRe:valeで出演したトークバラエティ番組の収録で、前世だとか来世だとかの話題になった。その時に、同じくゲスト出演していた若手アイドルの女の子が言ったのだ。黒子は天使がキスした痕なのだと。
それが、百がすっかりキス魔になってしまった原因である。
「くく。回数の問題なの?」
百の発想は時々ぶっ飛んでいて、千にはすぐに呑み込めないことがある。同時に笑いのツボも的確に突いてくるから、近頃の千はずいぶん頬の筋肉が強くなった気がしている。
「回数でしか戦いようがないじゃん。あっ、でも、キスしすぎたらホクロとれちゃうかな? ユキのハイパーチャームポイントが無くなっちゃう!」
今度は在り得ない想像をして慌てている。たかがほくろで、この世の終わりみたいな顔をするのがおかしい。
「ほくろが無くなったらイケメンじゃなくなっちゃう?」
「そんなわけないでしょ! ユキはホクロが無くたって十人中十人が振り返る建国で傾国なイケメンだよ!」
「造るのか壊すのかどっちかにしてよ」
「大丈夫! たとえ傾いてもモモちゃんが建て直してあげる!」
「じゃあ、僕とモモのRe:vale王国は安泰だね」
「ユキとオレの?」
「そうだよ? 一緒に玉座に座るでしょ?」
きょとんとあどけない顔をした百のほっぺがほのかに染まる。顔いっぱいに喜びがあふれる様な笑顔に千の心もつられて頬が緩んだ。
「うん! 二人のRe:vale王国は永久に不滅だね!」
少し前ならきっと遠慮や自分を卑下する言葉が飛び出していただろう。けれど、頑丈な氷みたいな頑固な気持ちは、千が長い時間をかけて根気強く溶かしていった。
剥き出し状態でわりかし溶けやすい千とは違い、百の氷は温かな表面で覆われる形で隠されているから質が悪い。一見しただけでは存在すら確認できない上に、常に温かさに耐えているがために頑丈で、ピックを刺す場所を見極めることすら困難だ。
告白した時だって大変だった。千はそれこそ清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟で想いを告げたのに、自分には贅沢すぎるという遠慮からあっさりフラれた。そういう意味での好きじゃないなどの理由の方がまだ許せた。
だから無性に腹が立ったので諦めず口説き続けていたら、十一回目でやっと折れてくれた。
疑り深いくせに信じたくて不安になり、傍にいたいくせに何彼に付け千の前から消えようとする。
百の心はいつも裏腹で、強情なくせに繊細だ。強引にこじ開けようとすれば傷つけてしまうし、時間をかけてゆっくり解きほぐしていこうとすると間に合わず爆発してしまう。
正直に言って、かなり面倒な男を好きになってしまったなと千は思っている。
自分自身も扱いが難しいと自覚しているのに、さらに難解な相手を心が選んでしまった。だけど不思議と後悔はない。
相手が百だからだ。百だから千は諦められない。それが千にとってどれほど特別な決意なのか、百にはきちんと理解してもらいたかった。
だから千は、交際後も隣の分からず屋に愛情を正しく伝えるのに並々ならぬ努力を重ねた。その成果が、最近になってようやく表れ始めている。
「ねえ、モモ。今日だけで天使に勝つつもり?」
「うーん。ユキは勝てると思う?」
「無理だろうね」
せっかく見つめあっているので、千はこれまでのお返しのつもりで百の額に口付けた。
ちゅ、と唇で弾くようなキスに百の肩が小さく跳ねる。初心な反応が愛しくて、頬に顎に、首筋にもしてから、最後に上唇を甘噛みする。
今のキスが単なるファンサではなく恋人としての愛情表現だと分かっているから、百はおどけるのではなく顔を赤らめて潤む目を伏せた。
百はいつも千のまつげは長くて綺麗だと褒めてくれるが、百だって負けていない。
普段は真ん丸の目が顔全体の印象をあどけなくさせているのに、長いまつげを伏せるだけで一気に大人びて、可愛いよりも美人と例える方がふさわしい表情に変わる。見つめる千が思わず胸を高鳴らせてしまうほど、綺麗だ。
「だから、僕に名案があるんだけど」
熱を孕む百の頬を撫でながら顎にまで指を滑らせて、猫をあやすように擽ってから上向かせる。たっぷり水を湛えた双眸は、あらゆる期待に輝いているように見えた。
「なに?」
都合の良い解釈だといけないから、確認のために百の方に体重をかけてみる。大人しく押し倒されてくれたということは、千の予想は当たっているようだ。
「これからこうして二人で会う毎に、一回ずつキスするんだよ。そうしたら、おじいちゃんになるころには勝てるんじゃない?」
千の両腕の間に大人しく収まっている百が、ぱちくり目を瞬かせた。千としては大まじめな提案だったが、今度は百が声を立てて笑い出した。
「おじいちゃんになってもキスするの?」
「イヤ?」
「いやなわけないよ。でも恥ずかしい。そんなのバカップルじゃんか」
「そのころには夫夫になってるよ。名実ともに」
百に鍛えられたおかげで、照れ屋の千もだいぶ気障なセリフに慣れてきた。とはいえ、どれも気分を盛り上げるための嘘なんかじゃない。
千はもともと、こうと決めたからには一途だ。何に対しても誠実に向き合う。
「うぅ~、最近ユキのデレが突然すぎるよ! こんな至近距離で浴びたらモモちゃん心臓ドキドキしすぎて飛び出してっちゃう!」
「大丈夫。もし逃げちゃっても僕が捕まえてもとに戻してあげる」
「ぎゃーっ、イケメン!」
「ふふ、知ってる」
数回、軽快なラリーを繰り広げて、いつもだったらこれで終わりになるけれど、千は会話が止んだ後で百と額同士をくっつけた。
千だって成長している。このまま百の策略に嵌って夫婦漫才のノリでうやむやになどさせるものか。
長い髪が濃い影を作る中、はしゃいでいた百がぴたりと動きを止める。流石は百だ。空気を読むのが上手い。
唇が緊張にわなないているのが見えて、食べたくなってしまった。だから、唇だけで甘く噛む。
「それで、どう? 僕の提案。乗ってくれる?」
「……うん。おじいちゃんになっても、千のホクロにキスするよ」
ああ、これは半信半疑の答えだなと千は察した。夢みたいな時間が好きなくせに、百はいつだって現実主義で、一歩下がったところからすべてを冷徹に見つめている。
千との関係だって、長く続くなどとは微塵も思っていないのだろう。おそらく、刹那の夢くらいに考えている。
「ありがとう、モモ」
うわべでは微笑んで感謝を伝えながら、心の中では「今に見ていろよ」と勝負を仕掛ける。
年をとってもステージの上でバラードを歌って、舞台袖では何度だってキスをしてやる。そうして今わの際には、堂々と勝ちを宣言してやろう。
他にも果たさなければいけないことがあるから、千の人生の終幕はだいぶ慌ただしいものになりそうだ。
「あ、待って」
さり気なくシャツの中に手を潜り込ませるも、すぐさま気付かれて止められてしまった。
「シないの?」
すっかりそういう空気が漂っているのに、早々にタンマをかけるなんてずいぶん野暮でいけずな真似をする。
千としてはすっかりやる気になっているので、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
演技派の評価に恥じない、めいっぱいの甘えた眼差しを送ってみる。
多少強引に事をすすめる方法もあるにはあるが、百に本気で抵抗されたら腕力で劣る千に勝ち目はない。
ならばこの局面は、百の好きな千の顔で懐柔する方が堅実だった。
「す、する……したい、けど……」
「けど?」
「ここ明るいじゃん。……電気、消してよ」
意外なお願いをされて、千は虚を衝かれた。
もう何度か肌を重ねているのに、そういえば寝室以外でこういう空気になるのは今夜が初めてだった。
処女みたいに初心なおねだりは、昔の千ならば面倒だとしか思わなかっただろう。
明るかろうが暗かろうが目が慣れてしまえば同じことだと、デリカシーのない暴言を吐いていたかもしれない。口に出さなかったとしても、多分思ってしまったはずだ。
なのに今、千はものすごく重い一撃をもらった気分で、すぐには処理できない強烈な激情に襲われた。
平たく言えば、非常に興奮した。
「モモ、ちょうどいいからステップアップしようよ」
寝室まで我慢できるほど、呑気に構えていられない。千はもともと欲望には正直な方だから、これ以上は待てが出来そうになかった。
「す、ステップアップってなに? ちょ、手ぇいれんなってば!」
「大丈夫だよ、モモ。モモの身体は同棲してたころから見てたんだから。よく一緒にお風呂入ってたんだから、今更恥ずかしがることないだろ」
「そっ、それはそうだけど……! 状況が違うじゃん! 脱がすな! 人の話を聞けよ!」
口ではぎゃんぎゃん文句を言うものの、本気で抵抗する気配はないということは、百だってまんざら嫌ではないのだろう。本心から嫌がっていたなら、今頃百は僕を跳ねのけているはずだ。
何より男の身体である以上、素直な反応を隠せやしない。
「もー! ユキのノンデリ! スケベ! 強引なイケメン!」
「最後の悪口になってなくない?」
笑いながら、唇同士を触れ合わせる。キスのあとはおとなしくなった百が、涙目で千を睨んできた。
「……もし萎えたら、舌噛んでやる」
「それなら、お前の目で確かめてごらん」
恨めしそうな声音に、千は挑発的な微笑で対抗した。
終わり