愛の偽薬と呼ぶには純粋な 長閑な山中にある旅館の、広大な露天風呂。普段であれば、そこは多くの人で賑わうはずだが、今この時のみに周囲に人影は見当たらない。微小特異点解決の際の労ということで、いわゆる貸し切り状態というものだ。
暖かなお湯は冷えた体をじんわりとあたため、吹き抜ける風はため息を溢すほどにきもちいい。思わず誘われた揺蕩いに空を見上げれば、たくさんの星々が舞っていて、今度こそその美しさにため息を溢した。
しかし、真にため息を溢してしまいそうになるのは、それらではなく。
「気持ちいいですね、マスター♪」
鈴を転がしたかのように可愛らしい声音が耳元で囁くと、それに合わせて基から賑やかだった心の蔵が、よりにぎやかな音を立てる。ただ縦に相槌を打つ行為が、よりぎこちない動作になってしまう。
「……近くない?」
「むー?そんなことはありません。いえ、というかせっかくの混浴温泉なのですし、普段できないことをするということに、躊躇いを持つべきではないと思います」
正直、自身よりも華奢で美しい体躯をした少女にこうして寄られてしまうのは、イケない想像をしてしまいそうで困る。普段から足や二の腕など肌面積は多い方ではあるが、それを薄い布――首や腰から紐が伸びる黒い水着を着ることで存分に披露している姿は、目のやり場に困ることこの上ない。
それに今のこの状況――湯に充てられたせいか真白い肌がほのかに上気し、可憐な女体を鮮やかに色づけているのだから、猶更たまったものではない。
「普段できないこと?」
「はい」
視線こそ合わせていないが、きっと浮かべているであろうにこやかな笑顔と共に、彼女はさらに身を寄せる。髪から香るほのかな甘い香りに、こちらの心拍はより加速していく。いつの間にか、彼女が腰をかけ寄りかかるのに最適な位置を取られてしまっていて、危機感と情欲がせめぎ合っている。
「だってこんな素晴らしい湯殿で、二人きり、なんですよ?」
ゆらゆら揺れる心中を悟ってか、彼女の耳朶を撫でるような声音は続き、ふふ、と笑みが深くなる。それは決して無垢な少女のものではなく、もはや成熟した女性のもの。
その妖しい光を湛えた瞳に見つめられると、まるで蛇に射竦められたかのように体が動かなくなる。細くしなやかな指はどくどくとなる鼓動を絡め取るように、こちらの胸板に添えられた。
「マスターは、こういうの……お嫌いですか……?」
「っ……」
耳元で囁かれる、甘い言葉。それは脳を溶かす毒のように、耳から入り込み、体を蝕んでいく。湯の中にある身体はよりその温度を上げそうになって……流石は、と思わざるを得ない。
けれど、集りそうになる熱を振り切って、ふぅと一度息を吐き切きると――少女の身体を押し返した。
「もういいでしょ、ユゥユゥ」
「……いいって?」
「……顔、真っ赤だよ」
ぴくと、小さな体が震える。恐ろしいほどに整った顔に張り付く表情こそ変わらないが、……耳まで真っ赤になっていれば、ただ愛おしさが募るだけだ。
「何のことでしょう?私はまだ……」
視線をかち合わせれば、やがて根を上げたようにそらされる。そしてわなわなとその身体を震えださせる様は、なんとも小動物のような愛おしさがあって愛おしい。
「っ……」
そうして残されたのは、容姿以外まるで普通の女の子と何ら変わらないただの女の子。先程までの妖しさも彼女の本質の一部であることに変わりはないだろうが、いまはもうどこかに途絶えてしまったようだ。
「そ、そんな、わたしがこの程度で……でもでも、せっかくの機会なのは変わらないし、ここで既成事実を……」
なおも食い下がるように、少女は溶岩水泳部もかくやのような単語も溢すが、もちろんそうはさせない。彼女の身体を抱きかかえたまま立ち上がり、その肢体を露天風呂の縁に下ろすと、視線の高さを合わせた。
「ユゥユゥ」
「は、はい!?」
できる限りの真面目な表情で、その名を呼ぶ。それだけでびくりと身体を震わせる姿には、嗜虐心をくすぐられそうにもなるが……しかし、それはまたの機会に取っておこう。今はただ、そっと彼女の頭に手を伸ばして、柔らかな髪を梳くように、ゆっくりと撫でた。
「きみとその、そういうことをするのは……正直に言うとしたい」
「な、なら!」
「でもそれは、君が好きだからしたいんだ。……無理して貴妃を纏ってまで、しないでよ」
自身の口から零れたのは、一つの願い。一つの国を傾国させてしまった美姫が相手となれば驕りとまで思えてしまうような、愚かではあるが純粋な願い。……好きな子に対して、自分の前では素でいてほしいという、単純なもの。
その言葉に、彼女は再び硬直する。だが、その顔はすぐには破顔し、――にこりと、愛おしい笑みを浮かべてくれた。
「纏うも何も、わたしは楊貴妃だよ。だから、あれもわたしなんだよ?」
「うん。ならこうして普通の女の子みたいに顔を真っ赤にしてる君も、楊貴妃だ」
彼女のそんな様子に、ほっと息をなで下ろす。迎えるように手を広げれば、彼女はそのまま懐に飛び込んで、こちらの胸板に顔を埋めてくれた。
「ふふ。これでも十分、役得だね」
胸元にぐりぐりと額を寄せて、彼女はまるで満足したかのように喉を鳴らす。そして、上目遣いにこちらを見上げて微笑んだ。
それは先程までの妖しい笑みではなく、ただ年相応の少女のもので、その瞳には確かな期待が宿っていた。
「最初からこうしてくれれば断らなかったのに」
「……もぅ。そういうのなら、あの私も受け入れてくれる甲斐性も見せてください」
穏やかに軽口をたたいた後、そっと彼女の頬に手を添えて、顔を近づける。ゆっくりと閉じられる瞼と、唇に伝わる柔らかな感触。ただそれだけの、一瞬とも言えるような触れ合いに、胸の高鳴りは収まることを知らなかった。
「……ユゥユゥ」
「……立香くん」
そんな拍動のせいだろうか。茹っていく頭が自然と彼女の名を呼べば、彼女もやはり、濡れた声音で応じてくれて。
「ん……」
再び重なった柔らかい唇はとても心地よくて、まるで身体の隅々まで熱を持ったよう。抱きしめた細い身体はひどく柔くて折れてしまいそうで、なのに――まるで燃えるように、熱くて。
口づけに溺れるように、ただ目の前の相手を強請る。その欲望に応えんと舌先で唇を撫でれば、隙間は簡単に開いてくれた。
「……ゆぅ、ゆぅ」
粘膜同士の絡まる感覚は、まるでしびれるような刺激と喜悦を脳髄に運んでくる。微かに残る強張りを解きほぐされるように、その舌先を舐り、歯列をなぞり、そして再び絡め合う。
やがて、息継ぎの暇もないくらいに深く深く口づければ、――身体中が燃えていた。
「――あぁ。いけません、天子様。このような場所で気を失ってしまっては、お身体に障ります」
せっかくの最中なのに、くらりと身体が揺れて、湯船に沈んでしまいそうになる。しかし、炎はそれを優しく包んでくれて。
「……はぁ。私としたことが……興が、乗りすぎてしまいましたね」
段々と沈んでいく薄ぼんやりとした意識を凝らせば、――妖しい光に誘われて、夢へと旅立った。
「――立香くん、立香くん」
「ゆ、ぅゆぅ……」
転がる様な鈴の音が、耳元で囁いている。聞き知ったそれに目を開ければ、申し訳なさそうに眉を下げる楊貴妃が、こちらを覗き込んでいた。
「おはよぅ……ユゥユゥ……」
「はい、おはようござ……ってそうじゃなくてですね!お身体大丈夫ですか!?」
「……?……」
「あ、に、二度寝しようとなんて……いえ、しないでくださいとは言いません。是非、どうぞ」
困り顔のユゥユゥには大変申し訳ないが、寝ぼけた頭には彼女の問いの内容が入ってこない。何故なら、頭の裏には天国のような感触が――
「っ……いや、起きます」
その感触の正体に気づいた瞬間、慌てて上体を起こす。すると名残惜しそうな声音が聞こえてくるが、それ以上に、寝惚けた頭が急速に温度を上げる代わりに思考が冴え渡って行った。
「……のぼせたのか」
「……はい、申し訳ありません……」
落ち着いて記憶の回廊を振り返って出した結論に、目の前の少女はその態度の通り、申し訳なさそうに言葉を溢す。
だが、本当に申し訳ない……というか情けないのはこちらの方だ。風呂の入り過ぎや湯あたりは危険だということは重々承知であったが、風呂に浸かりながらのキス程度で呆けてしまうなど。
彼女へ発した言葉も相待って、――些か以上に、死んでしまうほどに、情けない。
「君は悪くないよ。……ごめんね、情けなくて」
「!い、いいえ、そんなことはありません!!そもそもと言えばわたしがあんなことをし始めたのが原因で、それにほんとだったらもっと上手く虜にできるって――」
「――ユゥユゥ」
「っ……はいっ!」
真面目で優しく、頑張り屋な彼女の一人反省会。何から何まで自分のせいで始まってしまったその姿を申し訳なく思いながらも、どうしようもなく愛おしく思ってしまう気持ちを表現するために、下を向く彼女の手を取った。
「続き、しようか」
「え、」
びくっと震え、恐る恐る上げられた可愛らしい顔の顎に手を添える。そして、今度は躊躇いなく、その柔らかな唇を奪う。
「んっ……ふ、ぅ」
漏れる吐息は一瞬のみ。美しく透き通った空色の瞳は最後まで驚きに満ちていたが、次の瞬間には強張りは溶けていた。
唇をなぞり、その奥に滑らせる。触れ合う舌先は微睡むような暖かな温度で、――それはまるで、彼女の燻る炎のよう。
「ふ、ぁ……」
だが、互いに火傷で爛れる前に、どちらからともなく唇を離して銀糸が架ける。橋が途切れる様をひどく浮ついた拍動で眺めていると、彼女はその細い腕を回して囁いた。
「いいんですか?……昂って、しまい、ますよ」
「うん、いいよ。今度はちゃんと、全部受け止めてみせる」
視線を合わせれば、目の前には再び怪しく光る澄んだ瞳。優しく体重を預けてくれる細い身体はこの世の何よりも柔くて、蕩けた脳髄が、再び際限なくその温度を高めていく。
けれど今度は、――今度こそは。
人体など容易に溶かしてしまいそうなほどの温もりなど、恋人と過ごす蜜月の前では、ただ心地よいだけだ。
「強欲なのですね、天子様は」
「それが甲斐性でしょ。……ね、ユゥユゥ?」
くすくすと鈴を転がす声音が、とても心地いい。魅入られた瞳は、愛おしくて堪らない。
だから、――爛れてもなお心地よい彼女の温度は、きっと最後まで、手放せないのだろう。