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    マトマトマ

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    マトマトマ

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    陛下とぐだのお話
    幕間が無いなら書けばいいじゃない(やっぱりいつのまにかCP成分は消失してましたよろしくお願いします)

    道中、夜空の下で 深く飲み込んだ吐息を、静かにゆっくりと吐き出す。暗い森の中を走り続けて落ち着くことのなかった鼓動は、浅い息を何度も繰り返してやっとの思いで沈めていった。
     
    「大丈夫ですか」
     
     一陣の風の後に降りかかった声音は、まるで銀鈴のようだった。襲いくる筈だった悲痛な叫びとは、あまりにもかけ離れている。何が起こったのかとゆっくりと瞳を開けば、目の前には誰かの人影があった。
     
    「あなた、は」
    「わたしは、――」
     
     月明かりに照らされた美しいそのヒトは、『救世主』の名を名乗った。
     

     ◻︎◻︎◻︎


     ぱちり、と弾かれるように目を覚ます。視線の先には、見慣れてしまった白い天井があった。
     
    「っ……」
     
     身体を起こそうと腹部に力を入れようとしたところで、鋭利な痛覚が腹部から全身に走る。反射的に庇うように動かそうとした腕は、不思議と力が入らない。
     このような状況には、見慣れてしまった天井と共に覚えがある。その覚え通りに行けば、どうやら今回はいつも以上に手酷くやってしまったらしい。
     
    「――おまえは、何様のつもりなのだ」
     
     ぼやけた頭でこれまた慣れてしまった嘆息をつきそうになった時、かかる声音があった。
     微かに首を振り視線を動かせば、凡そこの場所には似つかわしくない厳かな玉座と、冷ややかに澄んだ湖の瞳に気がついた。
     
    「……もる、がんさん」
     
     平時ならば、流石にその光景は心臓に悪かったことだろう。だが、何故かその存在に対して心拍数は上がることはなく、そこにいることを自然と認めることができた。
     
    「なに、って……」
     
     しかし問題はそこではなく、こちらとしては目覚め早々の邂逅にも関わらず、彼女の視線に遠慮がないことだ。おまけに告げられた問いかけの意味もよくわからない。反芻しようとしても、思考が鈍い。
     ただいつも冷徹に見えて冷静なだけの女王の瞳が、今回ばかりは冷たい色に染まってしまっているのだけは見てとれたから、自然と口が動いてしまった。
     
    「ごめん、なさー」
    「取り敢えず謝れば良いと思っているのなら、この私も低く見られたものですね」
    「………ごめんなさい」
     
     ため息は深く、向けられる視線は更に数度ばかり冷たくなった。被された言葉には反論の余地など無くて、ただわけもなく口にした謝罪を重ねる他なかった。
     
    「その傷は腹部を貫通している。その場で治療はしましたが、一部の臓器は傷付いて、暫くの間後遺症は避けられないでしょう」
    「……なる、ほど」
    「頭が冴えないのは、体力だけでなく魔力も失っているから。低下している機能を補うためにも、魔力を回さなければ血が回らない」
     
     淡々と述べられる症状には実感しかない。彼女の視線が動く先には、自身に繋がれた管が何本か。恐らくそのうちの一つには、単なる医療機器ではないものが含まれているのだろう。
     
    「……」
     
     なけなしの体力で記憶を辿れば、どうやらみんなにはかなりの心配をかけたことはわかる。それぐらい自惚れる程には、彼女たちと共に旅をしてきた。
     だから今回も、あとでみんなから小言と、説教と、身に余るほどの心配と…
     
     ――あぁ、だからか。
     
     ぼんやりとした思考の中で、一人合点がいく。依然振り下ろされる瞳の色は、彼女の瞳の色彩通りにとても冷たいものだったからだ。
     
    「旅の目的は?」
    「……人理、を」
    「……ならば相応を忘れないように。おまえの側に、いつも盾があるとは限らないのだから」
     
     思った通り、正論は耳に痛い。多くの言葉などを使わなくとも、彼女の視線や態度が、己の限界を正しく言い当ててくる。
     
     ――それは、これ以上なく、堪えるものだ。
     
    「………ふふ」
     
     しかし、胸中に溢れたのは心をかき乱すような漣ではなく、もっと穏やかなもの。それは目の前の人物の考えが、想像以上に誰かに寄り添ったものであることが嬉しかったからだ。
     
    「申し訳ないけど、だめ、なんです」
    「……なに?」
    「先輩、だから。誇れるように、なりたい……ので」
    「―――」
     
     やはり自慢の後輩の見立て通り、彼女は魔女を名乗るには些か程にも情深いらしい。
     誰に、とか、何にとって、なんて言わなかった。怪訝そうに見つめてる瞳に、言葉を飾らずただ『わかって欲しい』と伝えた。
     
    「……愚者につける薬は、最初からなかったようですね」
     
     それを聞き届けると、ずっと冷めていた視線は興味を無くしたように閉じられる。そして次の瞬間、すっと音もなく厳かな玉座が瞬きの間に消えれば、見目麗しい妖精妃はその銀髪を翻した。
     
    「私は人類史に興味などありません。しかし、預けられた信頼を無下にする愚を、女王たる私の前で見せないように」
    「……はい。ありがとう、ございます」
     
     彼女の言葉はつくづく耳に痛い。しかしだからこそ、かつかつと白い空間にヒールの音を奏でる彼女に、途切れながらでも言葉を返す。
     
    「………」
     
     掠れた声音に一度だけ足を止めた後ろ姿は、……何故だろう。どこかで見たことがあるような、そんな気がした。
     
     

     ◻︎◻︎◻︎

    「救世主様! 歩くの早すぎです!」
    「……はぁ。やめてください、少し助けただけなのに。ていうか近いんですよ」
     
     森の中を、助けてくれた優しいヒトと共に歩く。
     あの後、沈みかけだった日は完全に落ちて、辺りは真っ暗となった。皆が使うような神秘を扱うのが苦手なわたしは、持ち歩ける灯など生み出すことが出来ない。故に一人になれば、いつモースやら手持ちの霊草目当てに野獣に襲われるかも分からず、自衛する手段もないときてるのだから、その後も彼女の側にベッタリと張り付いた。
     
    「少しなものですか! 命救われたんですよ、わたしは!?」
    「まぁ、……はい。確かにそうですけど」
    「それに地図だって役に立ったでしょう?」
    「それも、まぁ……はい。多少には、程度ですけど」
    「なら、このままわたしを村まで送ってください!」
    「なんでそうなるんですか?」
    「拾ったなら最後まで責任取って面倒見てください! 大丈夫、身の回りのお世話はしますから!」
    「……はぁ、どうしようかな」
     
     くふふ。やはり見立て通りだ。この人あれだけ異次元的な神秘――もとい馬鹿力を持ってくる癖に、押しに弱すぎる。ため息を吐き、やれやれと言いながら、最後まで面倒を見てくれる今時とても珍しいタイプ……ここで手放してなどやるものか。
     
    「そもそも、あなたの村はどこにあるんですか」
    「そうですねぇ。ここからまるまるしかじかのところです」
    「……確かに少し遠いですね」
    「でしょう? だからですね――」
    「申し訳ありませんが、それでもだめです」
    「why!?」
    「……わたしも仲間と逸れているので」
     
     oh……。そうか、言われてみればそうだった。又聞きした救世主の情報によれば、救世主の一行には交渉などする暇もなく、暴力で全てを奪うような凶暴な輩を連れていると聞く。ならば彼女の隣に誰もいないのは不自然だ。
     
    「……待ってください」
    「どうかしたんですか?」
     
     ふと、気づく。そんな集団に匿われる方が、逆に危ないのではなかろうか。もし彼女が他の仲間と合流すれば、きっと身ぐるみ剥がされて、今度こそモースの餌になってしまう。
     
    「お願いです、助けてください」
    「……ちょっと」
    「わたしはまだ、死にたくありません。『目的』を、見つけるまでは」
     
     その結論に至ってからは実にシンプルだ。何故か身体が覚えている仕草をすることには、なんの躊躇いもない。自身の頭の重さは羽よりも軽く、地面に伏す屈辱などどこにもない。
     
    「『目的』……」
    「はい。妖精が誰しも持つものが、わたしにはわからないのです」
     
     妖精はこの世界に発生した時、それぞれが『目的』を持っている。なりたいもの、欲しいもの、やりたいこと、そういった願望を一つの指向性のもとで獲得し、この狭い社会を生きている。
     けれど、――
     
    「あなた、名無しですか」
    「……はい」
    「……その割に、身体に異常は無さそ――いえ、まだ幼いだけですか。それに……あぁなるほど。あなたも彼女と同じ……」
     
     流石は、ということだろうか。噂に聞く救世主様は体だけでなく、頭脳も聡い。多くを語るまでもなく、優しい彼女はわたしの全てに理解を示してくれた。
     
    「救世主様」
    「………はぁ、わかりました。ロンディニウムへのちょっとした寄り道程度の距離ですし、まず先にそこへ向かいましょうか」
    「っ……! ありがとうございます!」
     
     眦を下げてにこやかに笑ってくれる優しいヒトに、改めて頭を下げる。
     そして、……うん、やっぱり予想通りだ。このヒトなら、最後までわたしの面倒を見てくれるんだろうな。
     

     ◻︎◻︎◻︎ 
     
    「せ……い! せ……んぱい!」
     
     遠くから声がする。知らない声だ。いや、聞き覚えがある。寧ろ、よく聞き知っている声だ。――自分は、それを、知っている。
     
    「先輩!」
    「……ぁ」
     
     ぱちり、と弾けるように目を覚ます。身体の節々の痛みに静かな嗚咽を漏らしながら、取り戻した身体のコントロールを落ち着いて確認していく。
     
    「……ごめん、マシュ」
     
     場所は廊下、だろう。節々の痛みは無理な姿勢で意識を落としていたから。そして目の前には、やはり見慣れた薄い紫色の瞳とかちあった。
     
    「大丈夫ですか……!? 意識は!? 身体に痛みは!?」
    「大丈夫大丈夫。多分、いつものレムレム――」
    「それを大丈夫とは言いません! 今すぐ医務室に……!」
    「ちょ、ちょっとマシュ!?」
     
     自慢の後輩の、いつにも増しての慌てよう。その様は今にもオルテナウスを引っ張り出して、その細椀で自身の体を持ち上げようとしてしまいそうだ。
     
    「はい、お任せください! 的確に、迅速に、先輩をナースさんのところまでお運びします!」
     
     と、ぼんやりと微笑ましく眺めてたら、本当に換装してしまった。そしてそのままわなわなと腕を伸ばしてくる。
     
    (って、本当に落ち着いて貰わないと、せっかく治りそうだった骨が折れ――!?)
     
    「落ち着きなさい、マシュ」
     
     と、そんな時だった。よく澄んだ綺麗な声音が、大きくもないのに廊下によく響いた。
     
    「っ……も、モルガンさん! で、でも先輩が」
    「自身の至らなさを他で補おうとするのは勝手ですが、本末転倒という言葉を知らないわけではないでしょう?」
    「っ……は、い。申し訳ありません」
     
     子犬のような慌てようが、たった一瞬でしゅんと落ち着いてしまう。歯に衣着せぬ物言いに加えて落ち着きのある声音は、聞いていてどうしても背筋が伸びる。いや寧ろ、凍ってしまうと言ってもいいほどだ。
     
    「も、モルガンさんは、どうしてここに?」
    「いい加減、回線が煩わしかったので」
    「回線?」
    「ええ。ですが、自覚がないのなら結構です。もう用は済みました」
     
     苦し紛れに出した話題は続くこともなく、女王はその美しい銀髪を翻し踵を返す。
     
    「何の御用だったんでしょうか。恐らく先輩に用があったようですが……」
    「わかんない。回線ってパスのことだよね?」
    「はい。これも恐らくですが、その認識で間違いないかと」
     
     後輩と二人、廊下で首を捻る。しかし正直ここで考えたところで結論は出ないだろう。彼女が伝承通りの魔女ではないにせよ、扱う魔術の高度さには末端にしても舌を巻くしかない。というか、何をしているのか分からないし……
     
    「ごめん。そろそろ部屋に戻るよ」
    「あ、はい! もし身体がお辛いのならお連れしますが……」
    「ううん、大丈夫。ありがとう」
     
     あれから数週間、こうしてまとも歩けるようになったし、体力はあっという間に戻った。けれど時折こうして、どうしようもなく眠くなってしまう。流石に今回のように廊下でいきなり倒れるなんてことは初めてだが……いつ何が起こるか分からない。
     今度暇を見つけたら、素直に医務室へ行ってみよう。
     
     

     ◻︎◻︎◻︎
     
    「よく働きますね」
    「いえいえ。周りのお世話はさせていただくと言ったでしょう?」
     
     焚き火の為の薪に、食事のための水と食料。神秘が使えないわたしは、暗くなってからではそれらを一通り集めるだけでも一苦労だ。だから日が沈まないうちに、ちらちらと周りを伺っては必要なものを集めていた。
     もしかしたら救世主様の方がそれらを集める時間は何もかも早かったかもしれないが、それはそれだ。我儘を通してもらっている対価は支払わなければならない。
     
    「ですが、わたしに何も動かずこの場で待っていろというのもやりすぎですよ。あなたは戦えないのでしょう?」
    「えぇ、はい。でも危なくなっても悲鳴さえ上げてしまえば、救世主様はどこへなりとも駆けつけてくれましょう?」
    「……あなた本当に図々しいですね」
     
     救世主様の視線は、冷えていく、というよりもどうしようもないものを見る目に変わっている。出会ってから丁度約一日一緒に過ごしたわけだが、どうやらもうわたしの扱い方には慣れてしまったらしい。
     しかしその点についてはわたしも同じ……というかやはり、彼女は最初に見た通りのヒトだった。
     真面目だけど一辺倒じゃなくて、よく笑うわけじゃないけど感情が乏しいわけじゃない。穏やかで優しくて、時々苛烈なほどに、綺麗なヒトだった。
     
    「そういえば、待ってくれている間は何をしていたんですか?」
    「……魔術の研究を」
    「ほう。わたしに道すがら教えてくれてたやつですね。因みにどんなものですか?」
    「『自分が考えていることを口に出してしまう』魔術です」
    「こわ」
     
     あとそれはそれとしてやっぱり怖いこの人。
     素面で平然とこんな恐ろしいことを言うもん。流石に暴力集団を納めるだけのことはある、と言ったところだろうか。発想が鬼……いや、魔女。
     
    「何でまたそんな物騒な魔術を……」
    「わたし、昔は人の考えてることが手に取るようにわかったんです」
    「それはまた、すごいです、ね……?」
    「でも最近、大分視界が曇ってしまって。……まぁ正直願ったり叶ったりだったんですが」
    「……ほ、ほんとうに……?」
    「……別に好んで見ていたわけじゃないですよ?見えてしまっていただけです」
     
     ぱちぱちと音を奏でる焚き火をつつきながら、彼女はちらりと横目に言う。わたしからの疑わしい目を向けられたことに対する返答だろうが、その姿は何故か今まで以上に小さく見えてしまった。
     だから思わず『どうしてそんなものを』と改めて問うてしまった。
     
    「――裏切り者が、出たので」
     
     一泊置いた後に耳朶を撫でた声が誰のものだったか、一瞬わからなかった。氷のように冷たいのに、烈火の如く心の芯を揺さぶったその声は、背筋を今までに経験をしたことがない程に震えさせたからだ。
     しかも、その表情は別に見たことがない表情、というわけではなかった。素面だった、と思う。なのに、発せられた声音と雰囲気は、どこまでも知らない救世主様で……
     
    「そんなことより、どうしてあなたはあんなところに一人でいたんですか?」
    「え、ぁ……」
    「?どうかしましたか?」
    「いぇ、大丈夫、です」
     
     怪訝そうに視線を寄せられても、不思議なのはこちらの方だ。あなた今、自分でどんな声を出したかわかってるのだろうか。……まぁ、ヒトには触れてほしくない部分があるのは、わかるから。
     
    「わたしは、村のみんなに頼まれて、です。それで森の中で探しものをしていたら、あれよあれよとこんなところまで」
    「なるほど。因みに探し物は見つかったんですか?」
    「一応、ですが。これです」
    「……こんな煮ても焼いても意味のない雑草、どうするんですか?」
    「さぁ?わたしにはわかりません」
     
     小さなバスケットいっぱいに収めたそれは、村の近くには生えていないものだから、探すのにはえらく苦労した。第一そもそも村人たちからは姿形も口頭で伝えられただけで、現物も見たことがない。だから現在は伝えられたものに一番近いであろうものを、自分で選んでいるだけという状態でもある。
     
    「……。大変、ですね」
    「そうですねー。……でも、いいんです。他にやりたいこともないですし」
    「やりたいこと……本当に一つもないんですか?」
    「はい。恥ずかしながら、ですけどね。
    以前にも話しましたが、やりたいこと、成し遂げたいこと。そして、それに向かって努力するということ。そういうの、発生してこのかた、わたしにはな~んにもないんです」
     
     風に揺れる焚き火のように、自分には芯がない。わたしはまだこの地に生まれて幾年か程度ではあるが、その間はされるがまま生きていた。妖精という個々の存在が強い世界ではあるが、そこはこの世界の妖精は社会性を獲得した故か。長いものに巻かれて生きることに苦労はなかった。
     
    「だから憧れます。あなたみたいな人に」
    「それは……目的を持っているから、ですか?」
    「そうですね。それも一つの要因ですけど……あなたの夢は他と比較しても壮大で、果てがない。けど、終わりはある。
    そんな夢を追っていられれば、充実さに時間を忘れられるでしょう?この世界、一人で過ごすには暇で暇で仕方ありません」
     
     苦笑交じりに目の前のヒトへ問いかける。すると彼女は眩しそうに何かを見つめたあと、『そうかもしれませんね』と薄く笑った。
     
    「それはそれとして、わたしたちの旅が単なる暇潰と聞こえたのですが?」
    「え、いやいや!?そもそも目標どころか『目的』すらないわたしが人様、それも恩人様に対してそんな失礼なこと言えるわけないじゃないですか!?」
    「どうでしょうか。あなた図々しいですし」
     
     声音を低く、眦も若干鋭くして言われるものだから、素直に狼狽えてしまう。しかし、すぐに誂うようにくすくすと笑って、自覚しているところを口に出すものだから、わたしの口元にも自然と笑みが浮かんでしまった。
     
    「けど、よく覚えていてください」
     
     そうしてひとしきり笑ったあと、救世主様はまた何かを見上げながら、言葉をくれた。
     
    「もしあなたが目標と呼べるものを見つけても、努力をすれば必ず実るわけでも、誇れる自分になれるわけではありません。後悔は後を経たないし、いつだって正しいことがなんなのかは分からない。

     ――けど、諦められない。諦めたく、ない。それが今のわたしを動かしている。

     ……だから、せめて。あなたも自分が納得できる道を、自分で選んでくださいね」


      ◻︎◻︎◻︎ 
     
    「あぁもう、どうして君はいつもこうなんだ……。土地勘もない、現地の協力者もいない。なのに無闇に町中ほっつき歩いて、敵に囲われたらその最中に腹の爆弾まで引火するとか……正直誰も付き合いきれないよ。大丈夫?友達とかいるかい?」
    「そんな寂しいこと言わないでよ、オベロン。俺たちの仲じゃないか。文句言わないで、このまま運んでよ」
    「……。よーし、捨てようじゃないか。第一、王子に荷物運びをさせるお話なんて、どこにも存在しないしね」
     
     銃弾と光弾と、それからたくさんの怒号が飛び交う町中。その中を自身よりも細い体躯に抱えられながら、これまた自身よりも小さい女の子の影に、一方的に背中を守って貰う。
     中世的な街模様ではあるが、足を止めなければサーヴァントの脚力で十分逃げ切れるはずだった。だが今、自分は生憎と病み上がりだったわけで。
     
    「けど、このままじゃ長くは持たないのも事実だ。多勢に無勢、とまでは行かないが、今のマスターじゃその影や僕も派手な行動は出来ないからね。」
     
     交わしたいつものやり取りは、腹部の激痛をほんの少しだけ忘れさせてくれる。けれど、彼の冷静な言葉にどうしてこんなことになったのだろうかと考えて、原因は自明だと悟る。
     優しい女王に忠告までされてしまったというのに、気づけば体が動いて、あれよあれよと動き回ったら自分の足で走れなくなった……なんて、なんと情けないことだろうか。
     
    「――反省はあとだ。一先ず森へ逃げ込むけど、それでいいかい?」
     
     と、そんな悔恨を巡る思考を遮るように、友人の言葉が刺さる。後からするたくさんの足音が減らないことを理解して、素直に頷いた。
     
     
     

     
    「ここにいましたか」
    「モル、ガン陛下……」
     
     夕暮れの木漏れ日が差し込む森の中、木を背凭れにしながら水を呷る。そんな束の間の休息の中で、自分を呼ぶ声がひとつ届いた。脂汗を滴らせながら横を振り向けば、黒衣の女性が静かにそこに立っていた。
     存在に比例しないあまりの気配の無さに一瞬心臓が跳ねたが、それよりも強く彼女の視線に背筋が凍った。
     
    「やはりその傷、完全に復調してはいなかったようですね」
     
     声音は呆れを孕んでいるようにも心配をかけてくれているようなものでもなく、ただ事実をありのままに口にしただけ。
     ……だから尚更後ろめたい。彼女の信頼だけでなく、他の皆からの信頼も裏切ったのだと痛感させられる。
     
    「クソ虫。陽動だ。偽物だろうと鬱陶しいお前の翅ならできるでしょう」
    「……これはこれは女王陛下。いきなり現れたかと思えば、急なお申し付けだ」
    「反論する気がないのなら疾く消えなさい。貴様の羽音は殊更目障りだ」
    「……じゃあ言わせてもらうけど、戦力は無闇に分散させないのが普通だ。それに、見つかったらどうするつもりなんだい?」
    「何もかも、お前が考えそうな愚問ですね」
    「……はぁ。あんたも相変わらずだな」
     
     女王が提案した陽動は、もとから出ていた案の一つだ。だから妖精王は肩を透かしつつも、女王からの指示に大人しくマントを翻す。
     彼にとって森はホームグラウンドだ。いつものらりくらりとしている様子からして、今回の役目の相性上特段心配はしていない。しかし、何が起こるかはわからないのも事実だから、去り際にせめて声をかけようとしたが、落とされた視線と表情には優雅な三日月が浮かんでいて。
     
    「そういうことだ、マスター。無理だろうけど、健闘を祈るよ。……あと、くれぐれも寝過ごさないようにする事だ」
     
     その一言ともに、ぽんっと軽快な音を立てたかと思えば、すでに妖精王の姿は消えていた。



     
     
    「さて」
     
     そうして妖精王の人影が周囲から消えると、女王はコンッと、槍とも杖とも呼べるもので地面を突く。すると、人払いの結界、だろうか。なにか全身を言いようのない感覚が覆ったように思うが、身体には特にこれといった変化はない。
     そして改めて眼前の女王を見れば、やはり感情の見えない瞳をこちらに向けていた。
     しかし、そのまま永遠に沈黙が続くわけではもちろんなく、彼女は少しこちらへ歩み寄るとそっと地に腰を落とした。
     
    「あの……」
    「……どうかしたのですか」
    「聞かないんですか?何があったのか」
    「聞かなくともその顔を見れば分かります。また同じことをしたのでしょう」
    「………」
     
     淡々と言葉を告げる女王の横顔には、やはり何の色も見られない。ただ事実と憶測に基づいた確認を口にし、その視線で成否を問うてきた。
     
    「……路地裏に、小さな女の子がいたんです。八歳くらいの」
     
     逃れようのないそれに堪らずぽつりと、まるで叱りを受けて言い訳をする子供のように言葉をこぼす。
     もう既に半日前となったあの状況を思い出す。偵察を任せて一人きりになったあの街で、自身も少しはここの人たちの暮らしを知りたくなって、恐る恐る借りた部屋を出た。
     旅の経験上、似たような街並みを何度かみたことがある。だから殊更何かに目を留めることはなく、行き交う人々の表情を眺めた。
     
    「行き交う人々は、そもそもその女の子に気づいてすらいなかったのかもしれない。啜り泣く声は、あまりにも小さかったから」
    「だから、手を伸ばしたと?」
    「……はい」
     
     幼い少女が一人で路地裏にいる、なんて状況が、この街でありふれたものかどうかなんてわからなかった。けれど、あの痩せ細った体躯と小さな蕾のような手に浮き出た血管を見たときには、もう身体が動いていた。
     ……考えるよりも先に、体が動いていたのだ。
     
    「けど、手を伸ばしたその子の手には、……ナイフが握られていて。幸い、礼装の機能で何も傷はなかったですけど」
    「……子供は攫いやすく、扱いやすい。探知機としてこちらの世界ではありふれたものなのでしょう」
     
     返す言葉はない。頭の中の回想に加えて先刻の光景がフラッシュバックすれば、その一連の騒動があっても周囲の『普通』の人間は全く気がついていなかったことを思い出す。それはまさしく、彼女の言葉の正しさの表れなのだろう。
     
    「身の程を弁えろ、と、言ったはずですが」
    「……そう、ですね。でも、見捨てられなくて」
     
     改めて冷静に問われた問いに、それでも歯切れ悪く同じ回答をする。振り返れば何度でも申し訳ないと思うが、それでもあの選択に立たされたとき、自分は何度でも同じ選択をするのだろうと気づくのだ。
     
     ――だってあの時の声を、未だに忘れられていない。そのまま何度も記憶の中を反響する呼び声は、ずっとずっと耳鳴りのように響いている。……今だって、そうだ。
     
    「………」
     
     そう言葉を続ければ、女王はまた沈黙した。
     しかし、それは先程とは少し違うようにも思えた。その沈黙はどこか呆れや怒りよりも、もっと別の何かを含んでいるような気がしてならなかったからだ。
     
    「……似た人物を知っています」
    「え、」
    「ちょうどいい。――覗き見されるのは不愉快だったので」
     
     言葉の後、女王はするりと自身の手を――令呪を掴んできた。その様に堪らず静止の呼び声をかけるが、彫刻のように整った顔は歯牙にもかけない。そしてそのまま白魚のような細く白い指先にどぎまぎする暇もなく、ふと身体の力が抜けた。
     
    「夢はいつまでも醒めないもの。けれど、現実から目を背けることもまた、出来ないのです」
     

     ◻︎◻︎◻︎
     
    「救世主様、お水はいりますか?」
    「ええ、頂きます」
     
     翌朝。予定通り歩き出して数刻経った頃、そろそろかというところで一息をつかせてもらう。救世主様にとってはなんてことはないのだろうが、丸一日徒歩で移動するのは足にくるし、ここ数日の疲労も抜けきっていないから尚更だ。
     
    「村に着いたら救世主様はどうされますか?やっぱり少しは休まれていきます?」
    「わたしはすぐにロンディニウムに戻りますよ。仲間が待っているので」
    「……そう、ですか」
    「おや、随分と寂しそうな顔をしますね」
    「そりゃそうですよ」
     
     そのまま素直に表情を見せると、彼女は意地悪く小首を傾げて問いかけてくる。自分の心に問い掛ければ、当たり前だと声があがった。だってそうだろう。半分流浪の身の上だった故に、出会いは得難くなくとも共に過ごした時間は得難いものだったのだ。
     
    「やっぱり少し休んでいきませんか?わたし、まだお役に立てていませんよね?」
    「いえ、十分ですよ。流石に自分から言い出したことだけはありました」
     
     穏やかに笑う彼女の表情はとても柔らかいものだ。その言葉にきっと嘘は……いや、最初から最後まで、彼女は嘘をつかなかった。そういうヒトだった。
     
    「ならやっぱりほんの少しだけ待ってください。ボロ屋ですけど、お茶くらい出せますから。これが最後です」
    「む……ふふ、仕方ありませんね」
     
     いつだったか、漂流物と呼ばれる『本』を一冊だけ読んだことがある。その中には確か、『次に再会する瞬間を祈って、旅人との別れは笑顔で』とあった。
     別にそれに倣うつもりも特にないが、柔らかい仕草を見せてくれるようになった彼女には、最後までそのままでいてほしかった。
     
     ――そのために、やっぱりわたしは最後まで、その優しさにつけ込むのだ。
     
     
     
     
    「……あら。帰ってきたのね」
     
     村の外れにある家に救世主様を先にお連れした後、村人たちと顔を合わせて最初に口に出された言葉がそれだった。歓迎されていないのはよくわかっていたが、顔にまで出されるとは思わなかった。
     
    「これでいいんですか?」
    「?なにこれ」
    「……いえ、いいんです」
     
     バスケットに入れてあった、救世主様曰く『煮ても焼いてもどうしようもない雑草』。それを命令してきた本人に見せると……なんとびっくり。もう忘れてしまったらしい。これまでの苦労は一体なんだったのだろう。
     
     だが、今はもうそんなことはどうでもいい。そもそもこんなことは初めてではないのだから、腹を立てる理由もない。だから今は――
     
    「その……お茶、貰えませんか」
    「?」
    「客人が、きているんです」
     
     歯切れが悪いのは不甲斐なさと情けなさに、誰の前にいても居た堪れないからだ。なんとかして救世主様を笑顔で温かく送り出そうと思ったのに、それくらいの用意はあると思ったのに……それさえもなかったからだ。
     
    「客って……あなたに?どんな?」
    「旅先で出会った、……救世主様です」
    「救世主って……あの?」
    「あの、です」
     
     彼女の名を口にするのを、一瞬だけ躊躇ってしまう。もう彼女が噂に聞くような人物ではないことはわかりきってはいるが、それは数日を共にしたからであってこの村人は違う。
     けどだからと言って、村人たちに興味を持たれるのも面倒だ。不思議に思われて、家の周りを嗅ぎ回れて、最後に玩具にされる……そんな事態は避けたい。
     だから、素直に――
     
    「そう。じゃあお願いがあるわ」
    「……お願い?」
     
     
     
     それから家に戻って、救世主様と数十分ばかりお話をした。救世主様に教えてもらった、わたしでもできる神秘の扱い方。それを使いながら湯を沸かして、救世主様が『お別れですから』と虚空から取り出してプレゼントしてくれた素敵な茶器も使った。
     そうやってこれまであったことを話し合って、これからどうするのかを少し話して……短いけど本当に楽しい時間だった、と思う。
     
    「……ぁ」
     
     けれどその最中、ぱりんと、甲高い音がした。そうしたら、綺麗で優しいそのヒトが、突然簡単に机に突っ伏してしまったのだ。

     はくはくと、うるさかった鼓動がさらにうるさくなる。なのに手先の感覚は異様に冷たくなって、思わず手を伸ばす。
     静かに寝息を立てる彼女の顔は、まるで何かの彫刻のようだった。
     
    「救世主、さま」
     
     慣れたことのはずだ。こんなことも、もう初めてじゃないのだから。いつものように村のみんなの為、わたしが生き残る為だ。
     
     なのに、いつも以上にとても疲れた。気分も、晴れない。しかもなんだかそれだけじゃなくて、ぽっかりと、胸に大きな風穴が空いたような気分だった。
     
     

     ◻︎◻︎◻︎

     割れた片方の茶器を治す方法を考えていた時、ぼんやりと『もう終わりなんだ』と思った。ヒトにつけ込み、誰のためにもならなかった自分という存在は結局何の為に生まれて生きたのか、最後までよくわからなかった。
     
     ――だけどその日の夜は、いつか初めて出会った日のような、美しい月明かりで。
     
    「なぜ、ですか」
     
     大木に叩きつけられた身体は、文字通り軋むような音を立てて言うことを聞かない。そこら中に倒れている村人たちと同様に、救世主様の蹴りを喰らったのだから当然だと、何故か少しだけ誇らしい。
     
    「村のみんな、死んでいるんですか?」
    「……いいえ、生きています。ずっと昔ならともかく、今は悪名など背負いたくはないので」
    「そうですか。ならよかった」
     
     安心した。救世主様は嘘を言わないから、本当に大丈夫なのだろう。
     放浪の身を一度だけとはいえ拾ってくれた住人たち。その恩人たる彼らが、もう一人の恩人の手にかけられるのはやるせないから。
     
    「……なぜですか」
    「あなたを差し出せば、村のみんなが喜んでくれる筈だったんです。そうしたらわたしも、今度こそこの村にずっといれるな、と」
     
     救世主様の問いは簡潔だった。だから一番求めているであろう答えを、素直に口にする。
     すると彼女は、その美しい瞳を伏して何かを堪えている、そんな表情を一瞬だけ露わにして……だけどすぐにその色をひどく冷たくして、同じ問いを繰り返した。
     
    「?全て話しましたよ?簡単なことだったでしょう」
     
     しかし、生憎と話せることは話したつもりだ。彼女の求める答えには少しだけ見当があるが、それを答えたところで、彼女はそれでも同じ結論を出すことを、既に知っている。

     ――だからもう、ここで終わりだ。
     
    「……そうですね。なら、これも簡単なことでしょう」
     
     救世主様が、その瞳を一度閉じる。そしてゆっくりと深く息を吐いて、告げた。
     
    「貴方は何度でも同じ選択をする。そんな妖精は、わたしの國にはいらない。――私は、裏切りを許さない」
     
     瞬間、視界が舞った。
     
    「―――」
     
     くるりくるりと舞う視界の中で、優しいヒトの小さな声音が聞こえた。だが、それは微かに震えていたように思えて、……その瞬間に気づく。
     
     ――そっか。わたしはただ、
     
     ◻︎◻︎◻︎
     
    「起きてくれ、マスター。悪い魔女様の夢からはそろそろ醒める頃合いだろう?」
     
     鼻をつままれて目を覚ました。数度瞬きをすると、白い外套を被った男に見下ろされていた。
     
    「……おべ、ろん」
     
     身体を起こして、周囲を見渡す。日が落ちそうになって暗くなってはいるが、居場所は変わっていない、はずだ。
     ぼんやりする頭を振って感覚器官を確かめると、身体の痛みはいつの間にか消えている。だがその代わりに……少し、胸がくるしい。きっと、瞼の裏にこびりついた慟哭が消えないからだろう。
     
    「夢見が悪いかい?当然だ。なにしろあの女の描いた夢だ。脚色も何もあったものじゃない」
    「……モルガンさん、は?」
    「もともと合流した時点で敵の居場所がわかっていたらしい。僕が戻ったら一人で乗り込みに行ったよ」
    「……え、一人で!?」
    「あぁ。けどまぁ、別にいいんじゃない?僕たちが隣にいても、モルガンにとっては邪魔なだけどころか、まとめて消し炭にされかねない」
    「それは君だけだと思うけど……」
     
     いつも通りに軽口を叩く彼に、少しだけ肩の力が抜ける。それでもすぐに気を取り直して、意識を失う前のことを思い返した。
     ただ夢を見ていた、だけではなかったはずだ。きっとあれは、――
     
    「あぁ、ご想像の通りだよ。バカな女だったろ?ずっとあんなことの繰り返しさ」
    「……なんか、口悪いね」
    「おや、それは申し訳ない。どこぞの誰かさんたちのせいで、少し疲れ気味でね」
     
     肩を竦める妖精王に返す言葉などない。爆弾を抱えて走り回り、その尻拭いをさせたのは他でもない自分なのだから。
     
     だから、文句を言いたいのはそこじゃなくて――
     
    「バカ、だったのかな」
    「……あぁ。愚かだったとも。諦め悪く、信じたいものを最後まで信じようとしていた。その時点で、辿り着く結末は決まりきっていたのさ」
    「……結末って」
     
     問いかけに返る言葉はない。妖精王は珍しくも、その表情にどのような感情を浮かべることもなく、まるでのっぺらぼうのように佇んでいた。
     
    「……モルガンさんの居場所、わかる?」
    「向かう気かい?サーヴァントになったとはいえ、陽動分を差し引いた敵の戦力的には彼女一人で十分だと思うけど」
    「オベロン」
    「……はいはい。了解したよ、マスター」
     
     妖精王は表情を戻して笑う。そして一日中酷使されたとぼやきながらも、その笑みの奥にはやはり窺い知れないものがあるのだと悟った。
     
     ◻︎◻︎◻︎
     
     正々堂々と正面から歩みを進め、戦闘を開始した数秒で敵の底は知れていた。だからこそ一歩一歩確実に、敵の後退する路を閉ざすことに集中した。
     歩みを進めるうちにやがて出てきた所謂近衛のつもりだろう連中も、他の個体よりは優れていたが、所詮はその程度だ。数秒の時間稼ぎにしかならない。
     
     ――ただ問題は、その数秒で良かった、ということだ。
     
    「少し、骨が折れるな」
     
     最深部に辿り着けば、既に黒幕であろう存在は物言わぬ木偶となっていた。だが、その木偶の中心には忌々しい輝き……聖杯の欠片が埋め込まれていた。無差別に攻撃してくるそれは、いなす事は出来ても無力化をするのは、もう少しリソースがあれば、といったところだろうか。今の手札では、破壊はできても半永久的に再生を続けるあれの体の拘束は難しい。
     
     それに戦闘を繰り広げているこの空間は広いとはいえ、この魔術工房とも呼べぬ出来の悪い何かは、地下にアリの巣のように道が広がっているのだ。あれを暴発させれば、間違いなく周辺は崩れるのだろう。
     
     ――だがそれを理解した上で、胸中に冷酷に響く声があった。
     
    『別に躊躇う必要はない。あれごと燃やして仕舞えばいい。周囲の人間、生物、土地。何もかも、私にはもう関係のないものだ』
     
     そうだな、と、これまた冷酷にその声を受け止める声がある。だがその一方で、ほんの少しだけ躊躇う誰かの声もある。……彼にあてられ、柄にもなく昔の夢を見たからだろうか。
     
    「――だが、それももう必要のないものだ」
     
     細く響いた後者を否定する。今の私には、今更もういらないものだと。……もう疲れてしまったのだと。
     
    「……戻ったようですね」
     
     そして都合のいいことに、敵の攻撃を防ぐ魔力壁を形成しながらふと気づく。失った魔力とパスから供給される魔力と比較して、ほんの少し釣り合いが戻っているのだ。
     そのことから考えるに、十分なほどにマスターが回復したのだろう。身体の修復に回していた分の余剰魔力が、少しずつ供給されているのだ。
     
     だが、一つ問題も増えた。パスが元通りになったということは、それだけ互いの距離感もより明確に掴みやすくなったということ。それはつまり、――
     
    「モルガンさんっ……!」
     
     息を荒げて私の名を呼ぶ誰かが、すでに後ろにたどり着いていたということだ。
     

      ◻︎◻︎◻︎
     
     そこに辿り着いた時点で、妖精王の言う通り既に趨勢は決していたのだろう。目の前で暴れまわるなにかは、女王の顔色をただの一つも変えることは出来ずに四肢を曲がれていた。
     
    「邪魔です。その目障りな虫を連れて引き返しなさい」
     
     恐らくあと一撃で、文字通り目に映る全てを沈めるつもりなのだろう。女王の左手から迸る魔力の余波が、その証だ。素人目にだって、あれが規格外だということがわかる。
     
    「っ……待って、そんなことをしたら……!」
    「したら?……無駄な感傷ですね」
     
     震えた声に、女王陛下は実に冷たい笑みを浮かべて応じた。そして理解する。いや、理解、させられる。
     合理的かつ無慈悲に、目の前の女王は障害を排除するつもりなのだと。
     
     ――だからそれを目にした時、殊更ざわついのだ。胸の奥だけじゃない。瞼の裏側や耳の奥まではっきりと。
     
    「でも、まだっ……!」
    「……いい加減気づいているのでしょう?あなたのそれは、ただの自己を肯定するための言い訳です」
     
     女王が振り向く。そしてその美しい瞳に言葉を投げられて……一瞬、時間が静止する。周囲の音が置き去りにされて、女王の後ろ姿と声だけが、意識の内に残る。
     
    「なんのために前に進むのか、それが自身の中で曖昧なまま進み続けてきた。だから振り返っても戻る道はなく、ただ目の前にあるものに縋っている」
     
     そして彼女の言葉が耳朶を震わせると、――ぱきっ、と音がした。今までモザイクで覆っていた何かが、甲高い音を立てて割れた。
     
    「そんなこと」
    「ないとでも?……なら、受け入れなさい。

     ――目の前にいるのは、『冬の女王』です」
     
     女王は告げる。目の前にいるのは、つい先程まで見ていた愚者などではないと。
     そして理解する。あの夢はやはり、自分に似た誰かの足跡だったのだと。
     
    「……あぁ――、」
     
     それを否定できたら、どれほど良かっただろう。けれど、自身が土台から揺らぐその感覚は、どうしてもそれを事実だと受け止めている。
     
     ――なら、いつか選ぶのだろうか。早いか遅いかの違いでしかないのだろうか。かけがえのないものを、自分から捨てる日が来てしまうのは。
     
     だとするなら。……もし、そうやって大事なもの以外を削ぎ落としたのなら。
     
     ――行き場のない誰かの声音は、いったいいつまで響き続けるのだろう……?
     
     ◻︎◻︎◻︎
     
    「いつまでも、さ」
     
     ふと、今まで隣で沈黙を守っていた妖精王が口を開く。
     
    「君がそうなれば、君を悩ますその騒々しさは少しはマシになるだろう。……ただ、消えない。君たちが忘れたとしても、記憶の中の彼らは覚えているからね。
     
     ――そうだろう?夢見がちな王女様」
     
     妖精王がまたしても不敵に笑う。ただそれは、心なしかいつもよりも酷薄に見えた。
     けれど、そうやって彼の知らない一面を垣間見たというのに、彼の言葉はすとんと驚くほどに腑に落ちる。きっと、彼の言葉を想像した先に、明確な自分の像があったからだ。
     
    「黙れ。口を開く権利など、貴様には最初から与えてはいない」
    「は、そうかい。……けど、ちょっとあんたにしてはお節介がすぎるんだよ」
    「……どの口が言う」
    「あぁ、わかっているとも。だからこれは、何者でもないコイツが決めることだ」
     
     妖精王の言葉に合わせて、もう一度視線が自身に集まる。そしてそこに込められたのは憐憫だったのか、期待だったのか。そんな単純なものでは推し量れないものを、込められた。
     
    『あなたのそれは、ただの自己を肯定するための言い訳です』

     だからもう一度、揺れる自らの土台に女王の言葉を問う。これ以上、二人の言葉を無碍にはしたくないから。

    「……俺は」
     
     敵を倒す。それは、いい。でないと前には進めない。
     けど、そこに発生する犠牲に、本当になんの意味もないのだろうか。大義のための、やがて取り返しがつく犠牲だと、飲み込めばいいのだろうか。
     
     ――裏切り者が、出たので。
     
     ふと、頭に似た誰かの言葉が過ぎる。酷く冷たかったそれは、深い憤りの結果なのだろう。
     大切な人たちの声を裏切られ、今まで信じてきたものを裏切られたから。彼女はただ、自分だけを信じるようになった。
     
     だとするならば、やなり自分も、やがてはそんな結果になるのだろうか。救えるものを救うのではなく、救いたいものだけを選んで救う。そんな誰かに――
     
    「いいかい。選ぶのは君自身だ」
     
     再びの思考の渦の中、そこにかけられた妖精王の言葉。そこには本当に珍しく、何の含みもなかったように思う。ただただ、いつものように不敵な笑みを浮かべて、語りかけられた。
     
    「どんな結末になっても誰も笑わないさ。……チープな言葉だけどね。後悔しない方を、自分で選べばいい」
     
     そうして重ねられた友人の言葉。そこに一瞬、誰かの声が重なった。――だから、答えは自然と定まった。
     
     
    「俺は、貴方のことをよく知らない。だけど、昔の貴方を知っている。……今は、それだけでいいです。
     
     ――力を、貸してください。俺はここで、何も諦めたくない」
     
     
     ゆっくりと手を差し出す。女王はその手に一瞬視線を落としてから、諦めたように眼前の敵を降り仰いだ。

    「……魔力を。灰の雨を降らせるのは、まだ先になりそうです」
     

     ◻︎◻︎◻︎

     掌に刻まれた魔力の結晶を渡せば、瞬きのうちに全てが終わっていた。そしてもう用はないと告げるようにその場を後にする女王の後ろ姿を追うと、その先には満点の星空が広がっていた。
     
    「今一度問おう、我がマスター。貴様の目的は何だ」
     
     夜空に散りばめられた星と月明かりを背に、艶やかな銀髪を翻しながら女王が問いかけてくる。その姿は色彩だけは異なっているが、やはり見慣れてしまったものだった。
     
    「救世主なんて、なったつもりはないんです。手が届く範囲は限られているし、……そもそもその手すら、自分のものじゃない」
     
     だから相対するのは、目の前の女性だけでなく。夢の中で見えたあの人へ、自分なりの答えを返したかった。
     
    「でも、それでも。目の前に困っている人がいたら、手を伸ばしてあげたい。一人蹲って下を向いてしまう人がいるのなら、せめて隣にいてあげたい。
     ――俺はそうやって、自分の歩んだ夢を肯定したいんです」
     
     優しかったあの人に、信頼できる友人に、『納得できる道を選べ』と、そう言われた。だからいずれ変わるかもしれないとしても、後悔は生まれてしまうものだとしても、――これが自分の選んだ道だ。 
     
    「――ええ、いいでしょう」
     
     決して逸らさぬように見つめ続けた視線の先で、女王が微かに瞳を伏せるのが見えた。
     そして何度目かの瞬きの後、彼女はその表情を柔らかくして空を見上げていた。それにつられるように、自分もまた空を見上げる。
     
    「その強欲の結末が、童話のようにならないことを祈ります」

     二人で見上げた夜空は、星の降るような宙だった。
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