年輪のレンズ 私の旅は、潮騒の響く村を出た頃からずっと変わらない。
無造作に打った宙の点と点を繋いで線を描き、描いた線同士を繋げて、更なる線を伸ばす。伸ばした線はやがて不恰好な絵柄となり、気づけば意味を成していた。
彼の知らない私の旅とは、結局のところそのようなものだったのだ。
△△△
「たくさんのものを見たし、感じたんだね」
かちかちとデジカメのスイッチをゆっくり弄りながら彼は言う。彼の手にちょうど収まるくらいの少し古ぼけたそれは、私の分身たるわたしがあの夏の間からつい先程までずっと肌身離さず抱えてたいたものだ。
それがなぜ今彼の手元にあるかというと、端的に言えば拝借したのだ。説明を付け加えるとするならば、珍しくも自室の机にぽつりと寂しく置いてあったから、とも言う。
あの夏から彼女はことあるごとにそれを懐から取り出して、かしゃりとレンズを向けていた。そして描画された手元のそれを、毎度のごとく数分かそれ以上にも見つめ続けるのだ。
この頃遠巻きから何かを見つめることが多くなっていたわたしは、そんな彼女の様子がずっと気になっていた。彼女が何かに執着するのは驚くべきことではないのかもしれないが、彼女の思い出が増えることは何ものにも代え難い程に嬉しくて、その一片でも共有して欲しかったのだ。
だのに彼女はその内容を見せてくれないどころか、そもそも顔を引き攣らせて見せたくないとも言うものだから。
「彼女が一体どのような景色を見ているのか、俄然興味が湧いてしまって」
「気持ちはわかるよ。……わかるけど、なんでそれをそのまま他人の部屋に持ってきちゃうかな」
「だってあなたも見たがっていたでしょう?私、知っているんですからね」
彼は少し苦い笑みを浮かべながら頷くと、でも、と言葉を続けた。写真機を触る彼の指先は、新雪のように初々しく、美しかった。
「……半分半分だったんだ」
「半分?」
「あの子は多分、自分の為に写真を撮ってる。綺麗なものを撮りたいとか、思い出を記録したいとか、撮る時にどんな気持ちでいるのかまではわからないけど……多分好きだから撮ってる」
彼の表情は変わらない。写真を眺めるそれは楽しそうでもあり、嬉しそうでもあり、苦しそうでもあり、悲しそうでもある。行き詰まった感情が渦を巻いて、一言でなんて言い表せないほどに絡まって、解けない部分にずっと細く嘘を吐いていた。
「だからやめてほしいなんて、絶対に言えないでしょ」
そんな繊細な面持ちを見ていると、なんだかこちらの胸までさざめいてしまう。やがて彼の頬には、硝子片みたいな雨が一筋溢れていくようだった。
△△△
「リツカに見せてほしいなんて、一言も言った覚えないんだけど」
自室に帰ると彼女がいて、一目で機嫌が悪いということを伝える声音で出迎えてくれた。
「ごめんなさい。でも、」
「でももだっても、別にいらない。最初から答えがわかってるのに、自分に反論されるのなんて馬鹿らしいもん」
一歩一歩、ゆっくり私のところまで歩みを進めて、返してと手を向けられる。私はそれを手渡すか一瞬迷った後に、あるべき場所にそれを戻した。
「一つ、聞いてもいいでしょうか」
「なに?」
「何故、写真を撮るのですか」
彼女は受け取ったカメラを大事に抱えたかと思えば、自室の寝台の上にごろんと横になってその中身を見始めた。そして、悩ましげな声を漏らしながら寝台の上でごろごろと転がって、それを片手で数えられないくらい繰り返した後に、ぴたりと止まった。
「わたしのため、だと思う」
「―――」
「こっちに来てから、本当に時間が経つのが早いから。だから、わたしが、わたしのために、一瞬を永遠にしてるの」
絞り出したような嘘を聞けば、やはり鼓動がさざめいて、硝子片みたいな雨が一筋溢れていった。
△△△
私たちの世界とは違う、彼の世界よりも更に後の未来の世界。首が痛くなる程に見上げても、高層な建物の足元ではその天辺すら見ることは叶わない。しかもその先に目を凝らしても、夜の暗闇に広がっているのは見覚えがあるようでない、巨大で綺麗な青い球体のみ。
そこは背筋に寒気が走るほど酷く静かで寒々しい場所であり、まるで灯りのない灯台に囲まれている森の中でもある。ここは宙の砂漠であった。
「ん」
そんな中で、かしゃりと写真機特有の音がする。彼女がまた一枚、電子のアルバムに記憶を加えたようだった。
砂漠を吹き抜ける風は、温かくも冷たくもない。ただ特徴として、隙間風のようにその勢いは強く、ひらひらと彼女のもつ鮮やかな金色が舞っていた。
彼はそんな後ろ姿をずっと見つめていた。彼女が何をしているのかを見定めるためでもなく、視界に焼き付けるためでもなく、ただずっと口を開きそうになって閉じることを繰り返して。
しかし、それも彼女が三度目のシャッターを下ろす音が響いてから数分後、静寂に終わりが告げられた。彼がやっとの時間をかけて、喉を震わせたのだ
「どんな写真撮ったの?」
「……リツカだ。見たいの?」
ゆっくりと振り返る彼女は、その瞳に彼を認める。そして気まずそうに彼と手元を見比べてから、小さく唇を震わせた。
彼は少しだけ時間をかけて、こくりと首肯した。
「別に無理しなくてもいいんだよ」
誰からみてもぎこちない彼のその様子を見て、彼女は笑う。そして、自己満足に付き合う必要までないんだよ、とも言葉を続けて。
「違う。自己満足なんて、やっぱり君は嘘つきだ」
「嘘なんて言ってない。というか、それを言うならあなたのほうこそじゃない?」
「嘘なんて、君にする意味ないじゃないか」
「それはそうかもしれないけど、でもあなたのは違う。あなたは言葉にしてないだけだよ。だってあなたの態度は、ずっと優しいままなんだもん」
彼女は殊更目がいい。覗き見たアルバムのなかの写真はどれも素敵なもので、私にとっては息を呑んでしまいそうなほどにどれも惹き寄せられた。
だから彼女に嘘は通じない。落胆も後悔も哀れみも寂しさも、彼女が望んだわけでもないのに、いつだって筒抜けになってしまう。
「でも、じゃあ君だって、自己満足なんて、そんな簡単な言葉で括らないでよ」
かといって、彼はそれ以上に頑固で強欲で、優しかった。
「好きなんでしょ」
「うん」
「なら、お願い。君のこと、もっと知りたいよ」
「……でも、リツカは」
「もう、大丈夫だから」
ないまぜな笑顔と共に差し出された手のひらは、ずるい、と思う暇もなかった。しかもその温度は、初めて握手を交わしたあの瞬間と同じか、それ以上の暖かさで彼女の手を包むのだから、彼女にとってこれ以上ないような言葉のない殺し文句だ。
「リツカ……」
そして薄暗い夜空の下、肩と体温と感情を擦り合わせながら共に記憶を一つずつ振り返って、結局今回も春先のような暖かさに包まれた彼女は心の片隅で考えている。
では、彼は。わたしに授けてばかりの彼は、わたしから一体何を得られたのだろうと。
「らしいと言えば、らしいのでしょうか」
彼女の問いは簡潔で素直で、故に幼い。
貰ってばかりで失ってばかり。まともに返せたものなんて、何一つないのではないか。そんな一抹の後ろめたさが見えるようで、思わず背中を押してあげたくなる。
というか、
「歯痒いですね、あなたたちは」
鼓動がどうしようもなくさざめいている。春の暗雲にはところどころに日が漏れているように思えて、自然と笑みが溢れた。
△△△
舞台を少し遡る。
彼の部屋を訪れる前、何枚もの写真を覗き見た。どれもこちらの心が浮き立ってしまうほどに楽しそうで、息を呑むほどに美しく見えた。
だから、その上であえて言う。
「彼女は知らないでしょうが、私は彼女よりもずっと多くを知っています」
同じ模様を見たことはない。けれど似た紋様を何度も見たことがある。風化してひび割れそうになったとしても、幾重にも重なった紋様はいつだって息を呑むほどに美しい。
「じゃあその中で、君はどれくらいを覚えてる?」
私の言葉に彼はこともなげにふーんと頷いて続ける。その言葉は彼にしてはとても珍しく、意地悪な問いだと思った。同時に、幼いな、とも。
「すべて、です。……なんて言えたらよかったのでしょうが、限度がありますよね」
一枚一枚画面に表示される写真を食い入るように眺めていた彼の視線が、ぴたりと止まる。写っているのがどのような写真だったのかは、対面にいる私には見えなかった。
けれどその表情は、黄昏の公園に一人取り残された少年のように見えて。
「君も忘れることなんてあるんだ」
「集積装置なんて名ばかりですから。記録に主観を交えてしまうのだったら、それはもう本来の役目ではありません」
確かに、と彼は笑った。そして少しだけ声の調子を戻しながら、じゃあさと続けた。
「君はそれをどう思う?」
「どう、とは?」
「確かにそこにあったのに、見えなくなったものがある。……なら、ずっと今がいい。昨日も大事だけど、君たちがいる明日を、一番大切にしたい」
彼の言わんとしていることがわかって、ふむと頭を悩ませる。褪せてしまう過去よりも、眩いほどの今を大事にしたいと、彼はそう言っていた。
「自分のためだけの記憶はいやなんだ」
ぽつりぽつりと彼の思いが溢れる。それは彼がこれからずっと抱えなければならない、未来の話だ。
彼は怖がっていた。思い出の価値など言うまでもなく理解しているが、それでもそれはどこまでいっても過去のもの。そして過去は今があるから過去たりうるのに、思い出ばかりを振り返っていたらやがては今が無くなって、未来すら過去でしかなくなってしまう。
加えて過去となった未来では、彼の隣にアルバムしか残っておらず、シャッターを下ろす機会すら無くなってしまう。
何故なら、
「私は、もうどこにもいなくなってしまった過去の残響です」
「―――」
「でも、あなたは優しいから。きっといつまでも、私たちの声を聞こうとしてくれているのでしょうね」
目を伏せて首肯する少年。やはりその姿は、淋しそうな少年そのものだった。
その姿を見て、少し目の前が暗くなった。浮きも沈みもしてないのに、心臓に爪先を突き立てたから、そのように感じたのだろう。
だがそれでも、鼓動は変わらず響いている。なら彼女だって、それは同じはずだ。
「やはり年の功でしょうか。私はそれでも、と思うのです」
歩みながら悩み、悩みながら振り返って、振り返りながら前に進む。それを繰り返し、やがて果てに辿り着いた紋様はとても儚いもので、同時に多様な色で彩られている故に、なによりも美しいことを私はもう知っている。
つまり、寂しいことではあるが。
彼の歩む未来は、星の灯火だけが照らしているわけでは決してないのだ。
だから恐れる必要などない。ただずっとそのままに、彼がしたいと思ったことを進んでくれれば、やがてそれが彼の道行を――
「君は?……君だって、同じじゃないの?」
青空の瞳と視線がかちあう。真っ直ぐ見つめあってるのにゆらゆら揺れているのは、自分のものなのか、彼のものなのか、一瞬わからなくなった。
「君の夜だって、長くて、果てしないのに。……君の記憶は、一体誰のためなの?君がしてることは、本当に君がしたいことなの?」
重なる問いに、思い出せる範囲ですこしずつ私が発生して、そこから過ごしてきた時間を思い返す。守護者としての日々には数えられる月日はなく、過ぎ去った季節もなく、風化していく断片だけが、頭に残っていた。
その責任を、装置は問われない。だから私は装置ではなく、ヒトとして生きているのだ。
「はい。これは、私のやりたいことです」
「……そんなに、寂しそうな顔をしているのに?」
「……それは、」
「それとも、それが大人になる、っていうことなの?」
彼の問いに一瞬沈黙した後、さらに重ねられた問いが、驚くほどにすとんと腑に落ちる。
時折、私は彼女との間に差を覚えていた。それは日頃の彼女の生活や、些細な仕草などといったものから、彼女の感受性――つまるところ、私が諦めてしまったのに、わたしはそれを諦められなかった時だ。
その原因は……なるほど確かに、私はヒトとして過分と言っていいほどに歳を重ねすぎたようだ。どんなに鮮やかな彩りも、時間と共に褪せてしまうことは避けられないのだと、改めて痛感する。
そしてなにも、時間だけが私を置き去りにするのではない。彼は私の旅を果てしない夜と言ったが、全くその通りだとも思うから。
熱は夜風に取られ、光も帷に散りばめられたごく少数。それどころかその瞬きに目を凝らしても、淡い光が瞬きの間に消える瞬間を目撃してしまうことの方が多い。だからむしろ、私は彼らの道行を照らすのみで、見上げるべきではないのかもしれなくて。
そんな夜を幾度も、幾度も、過ごしたのだ。記憶は風にすり減り、精神が暗闇に磨耗し、瞳は光を見失って、きっと最後に冷たい機械へと変質してしまう、そんな確信があった。
だから、私の長く果てしない旅は誰にも、自分自身にすらも見つけられず、密かに終わると――
『――、―――――!!!!』
――けれど、そうやって終わりかけるたびに、私は何度でもあの声を聞いてしまうのだ。
ある日、あの懐かしい鐘の音のような音で、自分の名前を呼ばれるのを。そして、貰い物だったはずの心臓が確かな意思を持って揺れ動いたのを、私ははっきりと覚えている。
「いざという時、泣きたくなるほどに鮮明になるんです。そしてそれは、遠く、遠く、いつどんな時だったかもわからない記憶でも、未来の自分に意味を与えてくれた」
「私の長く果てしない旅は、きっとその瞬間のためにあったのだと、何度でも思ってしまうのです」
どうしたらこの心が全て伝わるのか。季節を失ったものくろが、再び色彩で彩られたあの瞬間の感動を、どうやったら伝えられるのか。一つ一つ自分の心を表す言葉を探して、彼に語りかけた。
「……ごめん」
そうやって出した私の答えを、彼は頷くことも、首を振ることもしなかった。
……それは、当たり前だろう。私がそう思うのだから、彼もそうなのだろうと考えるのは身勝手で、傲慢だ。
――でも、本音を言えば、認めて欲しかった。私の旅を、そこに何度も訪れるであろう終着を、彼という大事な人に。
しかし、それはどこまでいっても私の欲だ。普通の男の子で、尚且つ誠実な人間であろうとする彼が、瞬きの間に私の旅の全てを理解し、答えを返すことなんて出来ないとわかっている。
そうだ。だからここですべきなのは、そんなことじゃなくて。
「迷いながらでいいのです。どうかあなたのために、自分に寄り添ってあげてください」
「アルトリア……」
刹那を生きる鮮烈さは、人を惹きつける。けれど瞬きの間に終わり、自身の描いた一生を振り返ることすらできない人生は、彼には勿体なさすぎるように思うから。
「それが、あなたが大事だと言ってくれた私からの、お願いです」
たくさんの星を辿ってきた時のようにとはいかずとも、惑う少年に、一筋の寄り道を提案した。