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    マトマトマ

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    POIPOI 19

    マトマトマ

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    ポタパロ逃避行

    アルゲディを落とした日 コツコツと薄暗い廊下に足音を響かせながら、胸に湧く感情に突き動かされるように、闇祓いの拠点の中の一室へと向かう。
     
    「立香……」
     
     卒業後、厳しい訓練を最短で突破し、晴れて闇祓いとなったわたしたちは、その甲斐もあって闇の魔術に関する出来事についての業務に追われる忙しない毎日を過ごしている。
     
    「でも、今はわたしがしっかりしないと」
     
     その為本来なら一緒の任務や調査につかない限り、こうして他人の部屋に態々足を向ける時間はないし、必要もない。
     だというのに様々な方向からの風で揺れ動く胸の燈とは逆に、重い足を何の迷いもなく彼の一室に向けているのは、純粋に上司から大義名分を貰ったからだ。
     
     ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
     
     いつも通りといえばいつも通りの、局の調査部が掴んだ情報を基に闇の魔法使いを逮捕、確保する任務をこなした時だった。
     
    「知っていると思うが、こうしたケースは稀ではない。だから今回も必要な言葉はかけたし、あいつもそんなにやわじゃないだろうと思って放置していたが、流石に看過できなくなってな」
    「……立香」
     
     まだまだ半人前の自分を呼び出した直属の上司のさらにその上の上司は、現場から退いたとしても未だ衰えないその隻眼の眼光を少し細めて、わたしの碧眼を見つめた。
     
    「お前達の関係は何となく察しが着いている。だが、生憎と近い存在の言葉でしか慰められないこともある。ただでさえ少ない闇祓いをこれ以上減らすわけにはいかんからな」
    「……はい」
     
     近い存在と言われて、そんな自惚れが許されるのかと心のどこかで疑問に思いながら、闇祓いになれる資格のある人材は確かに数少なかったのを今更思い出す。
     わたしたちが同じタイミングで三人とも入局出来たことで忘れがちになる時があるが、専門の捜査官とも言えるエリート部隊に入局出来たことは、世間的には見れば奇跡と思われているだろう。
     だがその奇跡を必然のものとして相応しい能力を獲得出来たのは、わたしたちがそれぞれ努力し、その過程に大きな貢献してくれた彼女が居たからだ。
     
    「でも、立香は……大丈夫ですよ」
     
     しかし、そのわたしと容姿だけ似た彼女がいなくなってしまっても、彼は変わらない。
     あの日の青空が遠くなってしまっても、それは遠くなってしまっただけで、いつかはあの日と変わらず見知らぬ誰かの為に帰ってきてくれるって、信じている。信じている、が。
     
     半分以上もその反対の可能性を否定出来ない自分が、そんな体のいい言葉を口にできる情けなさを、わたしは呪うしかなかった。
     
    「はっ。それがお前の優しさのつもりか?随分と他人行儀なことだな」
    「っ……」
     
     流石は歴戦の猛者。多くの闇を祓ってきた本物の闇祓いだ。過度の妄想と揶揄されるそれは、様々な人の至る所に気を配る慎重さの表れなことを、世間は知らない。
     
    「そうでないのなら、あいつを何とかしろ。これは命令だ」
     
     故にこの冷徹に見える命令も、単純に同期という名目を利用しているのではなく、わたしが必死に押し隠そうとしている臆病でどうしようもない性格を見抜いた故のものだということを理解できた。
     
    「……わかりました」
     
     蒼い瞳が近くに無くなってしまってから随分久しぶりに感じた感覚に気分を沈み込ませながら、渡された命令を素直に受け取って踵を返そうとすると、その背中に声が降りかかった。
     
    「――お前達は戦いに向いていない」
    「え?」
     
     声に振り返って見れば、上司の視線はもうこちらを向いておらず、隻眼はただ窓の外に広がる夜の暗闇を見つめていた。
     
    「上を目指すのではなく、暗闇を覗き続けたやつは、俺の経験上碌なことにならん。何故ならその多くは、俺のように闇に慣れた目を光に焼かれるか、暗闇の中に沈んでしまうかの二択しかないからだ」
     
     厚い背中から発される言葉の意味はいまいち要領を得ないが、それでも心当たりのある話に直感的にその意味を理解した。
     彼も彼女も、そしてわたしも、ここ数年で色々なことを知って、意味を問わず様々な形に変わってしまったのだから。
     
    「まぁ、上を目指したところで、くだらない身内同士の争いが始まるだけらしいがな。とにかくそれをやつと……出来るのならこれを書いたやつに伝えてやれ」
     
     窓に反射する燻んだ瞳は未だ爛々とその奥を見据えながら、その言葉の途中で呆れたように目を伏せる。そして、身の丈に相応しい杖を一振りすると、机上にあった一冊の本がわたしの手元に降りてきた。
     
    「あの、これは?」
    「あの女の身辺整理をしていた連中がやけに硬い防護があると投げ出してきてな。解呪するのは一苦労だったが……俺にとってはその価値もないただの骨折り損だった」
     
     そう言って苦い顔も何かを憂うことも感じさせない表情は、星と湖が表紙に記されたその本が確かに次の受け取り手に渡ったことを確認すると、次の瞬きの後に碧を睨んだ。
     
    「それで、お前はなんだ?何の為にここにいる」
     
     声音は酷く淡々と、流されるまま、されるがまま人生の多くを過ごしてきたわたしの意思を問いかけてきた。
     
    「わたしは、みんなの役に立ちたいんです。彼みたいに優しい人を守って、この世界を少しでも良くしていこうって……」
     
     試されているような問いだが、もとよりわたしの中では答えの定まっている問いでもあった。
     だからそれをどんな風に言われても、彼と彼女がそうであったように、わたしも引くわけにはいかないという確かな思いがあった。
     
    「例に漏れずご立派な夢だな。だが、それはお前の本当にしたいことか?お前は本当に、あいつをあんな顔にすることが望みだったのか?」
     
     だというのに、燻った視線も投げられた続きの問いも酷く冷たくて、ずっと一人だった夜とは違う寒さに、温かくも澄み切った青を思わずにはいられなかった。
     
    「もういい。行け」
    「っ……はい……」
     
     音もなく簡単に揺れる決心を嘲笑うことも慰めることもなく、上司は返す言葉も浮かばずに俯くわたしから視線を外して退室を促すと、わたしはその船に堪らず飛び乗った。
     
    「それを読んでよく考えるんだな。――といっても、正解なんて無いだろうが」
     
     そして責任者の執務室らしい大仰な扉が閉じる瞬間、そんな忠告が扉の隙間を縫って耳朶に届いて、堪らずわたしは苦い笑みを浮かべて呟いた。
     
    「正解なんて無い、か。……でも言葉にしなくても、わかりきってることもあるじゃん」
     
     バタンと完全にドアが閉じるのを確認してから囁いた言い訳は、誰に届くわけでもなく、ただ虚しく胸の燈を冷たい風に晒したのだった。
     
     ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
     
     コンコンと部屋を叩く音を数回鳴らした後、わたしの心に穏やかな熱をくれた三つの音を、冷たいドア越しに唱える。
     
    「立香、アルトリアです」
     
     静かに騒ぐ心のままに重い足を無理矢理動かしてここまできたせいか、普段みたいな明るい声音を保つことが若干難しくて、これから人を励まそうとする身分なのに既に先行きが不安になった。
     
     ――カチャ
     
    「……入るよ」
     
     静寂が支配した薄暗い廊下に響いたドアの開錠音は、その不安を心配に早変わりさせると、わたしは一呼吸の間をおいて目の前のドアを押し開いた。
     そうして一歩踏み込めば、わたしの部屋とほぼ同じ内観を持つ一室が広がっていて、奥の机に備えられた椅子に一人の男性が浅く腰掛ける姿が目に入った。
     
    「ごめん、アルトリア。今手が離せなくて。それで、どうかした?」
     
     わたしの入室を確認した彼は、眼下に広がる資料から視線を上げずに声をかけてくれるが、その声音はやはりどこか掠れていた。
     
    「……立香。いくら何でも働きすぎだって言われてたよ。少しは休んだほうがいいって」
     
     わたしの覚えでは、彼の部屋はいろんな人からの贈り物で自然と物が増えていた覚えがある。彼はそれを一つ一つ大事にしていたようだったが、現在はそれらが乱雑に彼方此方に広がっているのが目の端に入って、それに無性に胸がざわつくのを留めながら一歩ずつ彼に近づいていく。
     
    「ううん、これで良いんだ。こっちの方が何も考えなくて済むからね」
     
     取り繕ったように笑いながら平然を装う言葉を投げる彼の姿は、わたしの心にいつまでも棲みついてるあの日の記憶とは程遠かった。
     
    「でも、限度があるよ。このままじゃ、立香が倒れちゃう」
    「オレは大丈夫だけど……でも、ありがとう、アルトリア。じゃあ、これが終わったら休むから」
     
     わたしの心配する言葉に彼は漸く視線を上げてくれるが、優しげな声音を装った言葉の続きを、命令を与えられたわたしはもう見過ごすことはできない。
     それに相変わらずその瞳はわたしを見つめてはくれなくて、寒々しい季節の気温が尚更骨に染みた気がした。
     
    「それもいいよ。わたしがやっておくから」
    「……悪いよ、そんなの」
     
     上司の話では、彼は彼女がいなくなったとわかった日から一度も休みを取ることなく、任務に出る時以外はこの部屋に篭り切りとなっているらしい。
     そんな無茶を平然とする彼をどうにかするには、やはりまずは破れてしまった彼のお気に入りの一冊を取り上げなくてはならない。
     
    「わたしの方こそ気にしないで。だから、立香はちゃんと休暇をとって休まないと……」
     
     普段なら頑張る彼を応援したいし、その目的を達成できるまでずっと助けになってあげたい。しかし、今回ばかりは命令という枷がある以上、このまま平然を装う彼を放っておくわけにもいかない。
     
     だから彼女と出会ってからずっと感じていた多くの感情を、彼の温かさに対する感謝と尊敬で覆い隠して、わたしは彼に手を伸ばした。
     
    「――いいって、言ってるだろ!」
    「っ……!」
     
     ――パシンッと、伸ばした手のひらを明確に拒絶されたのを理解したのは、その一瞬互いの呼吸すら止まっていたことを、時計の針が教えてくれたからだ。
     
    「っ……ごめっ、ある」
    「ううん、大丈夫!こっちこそごめんね、立香」
     
     そのか細い音を掻き消すように慌てて言葉を紡ぐ彼の言葉を、今度はわたし自身が驚いてしまうぐらい咄嗟に出た明るい声音で遮る。
     
    「見つけられると、いいね」
     
     そして相変わらず自分でもよくわからない心の声の断片を切り取って、鼻に登ってくる水気を飲み込みながら適当にそれを投げかけると、そのまま踵を返した。
     
    (いた、い……)
     
     手に残る痛みが冷たくなっていた胸の燈に思いの外響いて、一瞬呆然とする前の彼の表情は、わたしに向けられたことのない明確な怒りと否定と、どうしようもない寂しさが浮かんでいた。
     
     だが、その全てをわたしでは解消してあげられないのを、わたしはよく知っている。何日も、何年も、彼が誰といる時に、どんな風に笑うのかを見てきてしまったからだ。
     
    (わたしじゃ、立香をあんな風に出来ない)
     
     彼が蒼をその瞳に写した時の笑顔を目の当たりにする度に陥った思考を繰り返して、ついで今わたしが彼にさせた表情をもう一度思い出すと、わたしは漸く諦めることが出来た。
     
    (トネリコの代わりなんて、出来るわけなかったんだ)
     
     大仰な扉を出たときの言葉にそんな言い訳を溢しながら出口まで歩こうとすると、椅子の足が転がる音と共に肩を引かれた。
     
    「待って!アルトリア、今のは」
    「大丈夫。立香だって疲れている時ぐらいあるの、わたしはわかってるから」
     
     わたしを引き止めようとする言葉の力強さに反して、肩を掴む力の加減は間違えない。
     今日出会ってから感じる機会の無かったそんな彼の優しさを少しだけでも感じれた気がして、滲む視界が更に滲みそうになるのを必死に堪えながらまた一歩戻ろうとした。
     
    「アルトリアっ」
    「……そんな声、出さないでよ」
     
     だが、何かに縋るような、ともすれば情けないとも思われてしまうような聞き覚えのある彼の声に、わたしは堪らず肩を掴む手を取って振り返る。
     すると、温かな陽だまりのようだった手が今はとても冷たく感じて、あんなに清々しかった瞳は濃い霞がかかっていた。
     
    (確かに暗い、けど……だからなのかな)
     
     その厚い霧に覆われてしまったせいで、彼は蒼い湖を見失ってしまったのだろう。青空は今にも雨を降らしてしまいそうで、思わず手を伸ばしたくなる。
     
    「わたしは大丈夫。わたしは、あなたの前からいなくなったりしないから」
     
     もとより何度も捨てようとして捨てられなかった想いだ。暗闇の中でも道端に転がる翡翠を大事に拾い上げてくれる彼の優しさは、例え曇に覆われたとしてもその価値は揺るがない。
     
    「……うそ、だよ。そんなの」
    「えっ、りつ」
     
     その価値を冷たい手の感触をゆっくりと確かめて再確認していると、真正面に据えていた彼の表情が突然消えた。
     
    「いまだって、また消えてしまいそうだったじゃないか」
     
     視界が暗くなったのではなく、彼の纏う黒に覆われたことに気づけば、その腕の中の温度にわたしは呆然と彼の名前を呟いた。
     それを聞いた彼は、いつもみんなに振り撒く温度を無くした声音でぽつぽつと言葉を溢し始めた。
     
    「ずっと、本当にずっと一緒だったんだ。なのに、なんで何も言わずに……なんで、思い出だけ残して、いっちゃうんだ」
    「……」
    「君も彼女も、みんな優しすぎるって、そんなことわかってた。なのにどうしてこんなに甘えてしまうんだろう。今も、あの夜も」 
     
     わたしをその腕に収めても何かに縋るような声音は未だ変わらず、頭上から降る声は彼が彼女に言えなかった懺悔でもあるのだろう。
     
    「立香は、そんなに完璧な人じゃないよ」
     
     だが生憎とわたしは信仰者ではない。彼の懺悔を聞いたところで、それを救う手立ても持ち合わせていないどころか、風に揺れる胸の燈は彼につられて今にも消えてしまいそうだった。
     
     ――彼に弾かれた手の痛みは、彼の冷たい手に包まれて尚更痛い。
     
     ――温かった彼の声が、あの月のない夜に聞いたどうしようもなく何かに縋り付く声に似ていくのを、聞きたくない。
     
     ――彼の瞳に未だ映る蒼が、自分からその場所を捨てたことが、心の底から、憎い。
     
     彼への感謝と尊敬で覆い隠したはずの感情が、彼がやっと口にできた想いと同調するように溢れ出してくるのを、今度は迎え入れられた腕の中の心音で誤魔化す。
     
    (立香……)
     
     とくとくと鳴るその心音は、想像していたよりもずっと弱々しくて、痛々しかった。
     握った手と同じように春先のような温かさを持っていた彼がこんな風になるなんて信じられなくて、わたしの熱が少しでも分けられるようにぎゅっと彼の背中に腕を回す。
     
    「じゃあ、オレはどうすればいい。オレはどうしたら、きみを見失わずにいられるんだ……」
     
     縋り付く声音がついに震えるようになって、背中に回された手が応えるようにその力を強めてきて。
     その息苦しさは渇望していたものをすっと満たしていくのに、分かち合えるように願った彼の手は相変わらず冷たくて、ある言葉が頭の中を過った。
     
    『お前は本当に、あいつをあんな顔にすることが望みだったのか?』
     
     燻った視線が告げた言葉が頭の中に木霊して、その次は連想ゲームのように、わたしが知らなかった彼女の記憶を想起した。
     
    「……立香は戦いに向いてないって、ある人達が言ってた」
    「え?」
    「わたしも、そう思う。あなたは多くの人に囲まれて、今までたくさん配った優しさの分、幸せに生きていて欲しいって、そう思うの」
     
     彼女の人生とも呼べるその頁の中で、わたしにもよくわからない自分の本音にきっと一番近いだろう彼女の願い。
     夢を見て、現実を知って、その乖離に悩んだ末に、彼女は初恋を捨てた。
     
     ――なら、彼だって見果てぬ夢から醒めていい筈だ。
     
    「わたしは、立香に笑っていて欲しい」
     
     そんな一方的な憐れみを込めて、とくとくと早鐘を打つ胸を名残惜しく手放すと、彼の空を仰ぎ見ながらわたしはわたしの望みを言葉にした。
     
    「でもオレには、もうそれが出来ないんだ」
     
     しかし、見上げた空は未だ厚い雲に覆われていて、碧どころか蒼い湖すら浮かんでなかった。そしてその空は、次の瞬きで書棚をその視野に入れて悲しげに歪んだ後、そんな言葉を溢した。
     だがその拒絶は手の痛みのような明確な意思ではなく、まるであの日のわたしのような、路頭に迷う子供の泣き声でしかないように思えた。
     
     だからこの時、わたしがしてあげなければならないことは自ずと定まったように思う。
     
    「あなたに出来ないなら、今度はわたしが手を引いてあげる」
    「っ……」
    「だから――もう、やめよう。こんなこと」
     
     あの日の彼の笑顔を思い浮かべながら、悲しげに歪む表情に手を這わせ、ぽつぽつと降る雨を親指で優しく拭うと、わたしはわたしの優しさを、自身の柔らかな感触と共に押し付けた。
     
    「んっ……」
     
     彼のカサついたそれに触れる瞬間、自分からした癖に彼の青に浮かぶ色が何色なのかを知りたくなくて、わたしはきつく瞳を閉じた。
     初めて感じる他人の唇の感触は、彼と出会ってからずっと抱えてきた感情のように到底すぐ離せるようなものではなくて、気づけばわたしは時間を忘れていた。
     
    「は……ぁ、りつ、か」
     
     だが心がそうやって求めても、愛しい人よりも空気を求める身体は悲鳴をあげていて、少し荒い息を吐きながらも、名残惜しくその熱を手放してしまった。
     
    「……アルトリア」
    「……?」
    「これで、いいかな」
     
     熱を離した先で互いの荒い息が落ち着いてくると、彼はわたしの名前を呼びながら、その曇る青にわたしの色を写して不器用に笑った。
     
    「ごめん……多分まだ、うまく出来てない、よね。でもお願い、アルトリア」
     
    「――きみは、いなくならないで」
     
     ぎゅっと握っていた手を解いて、一度も絡めることのなかった指を絡ませると、どちらのものだったかもわからない熱が籠った指先は、確かに温かった。
     
    「うん。わたしはずっと、あなたと一緒にいるから――」
     
     その指先の温かさはわたしの思いを確かに肯定してくれた気がして、あれだけ頑張って手を伸ばした高台も、胸元の燈さえ守れればもうどうでもいいと思った。
     青空の中にいつも映り込んでいた湖は一瞬だけでも完全に見えなくなって、例え不器用でもわたしの碧を写して笑ってくれたのだから。

     ーーこれ以上求めれば、本当に彼女と同じになってしまう。
     
    「大好きだよ、立香」
     
     返答は、まだなかった。
     それを少し寂しく思う気持ちもあるが、何も言ってくれない彼の誠実さが、酷く心地よくもあった。
     だがそれに対するせめてものお返しなのか、背中に回された腕が頭の後ろに回って、真横に閉じた曇った空から一筋の雨が降ると、もう一度唇が重なった。
     
    「んっ……」
     
     今度は瞳を閉じないで見届けようと思ったそれが、逃れるように閉じられてしまったことを少しだけ残念に思いながら、触れるような口付けに身を任せる。
     そして彼から伝わってくるものの意味を知る為に、背中に回していた手を胸に当てると、その拍動はさっきよりも早い鐘を打っていた。
     
    「……まだ、寒いよ。立香」
    「アルトリア……」
     
     それはきっとわたしも同じで、悴んだ肌が人肌に触れたときに最初に感じる疼痛に驚いているのだろう。
     だからその温度に慣れる為に、無理やり遠くに置いてきてしまった何かが訴えるものに気づかないふりをして、わたしたちはもう一度その熱を求めあった。
     
    「ふ、ん……は、ぁ、んっ……」
     
     整えたはずの呼吸が、再びどんどん短くなるのに構わず何度も何度も唇を重ねていく。
     しかし、それでも一向に慣れる気配のないその温度に、触れるだけのものだったはずが寒い寒いと寄り添ううちにどんどん深くなっていく。すると、思い出したくもないあの夜に響いていた水音と同じ音がこんな近くで響くのを、どこか夢のように受け入れていた。
     
    「りつか」
    「ある、とりあ」
     
     熱に浮かされて名前を呼んでくれる曇り空には、未だあの湖は浮かんでこなかった。
     
    (なら、もういいよね、――――)
     
     代わりに、その燻んだ空が碧を求めてくれる夢が、決して消えない現実になるように願った。
     
    「お願い。こっちにきてよ、立香」
     
     絡めた指をぎゅっと握り直して、わたしが煽った欲を抑えようとする理性に向けて、その鎖の鍵を外して身を乗り出す。
     するとその思惑通りに、すぐ側にあったソファのスプリングが二人分の重さを受け止めて、視界が彼の黒いローブに覆われた。
     
    「―――――」
    「ふふっ。立香らしいね」
     
     その暗闇の中で、確かにわたしたちが出会った時の色が色褪せてしまっても、わたしにとっては何の価値も変わらない星が囁いた言葉に、わたしは堪らず苦笑いを浮かべた。
     
    「わたしは、あなたがまた笑えれば、それだけでいいの。それがないと、嫌なの」
     
     縋るような彼の声音は、いつのまにかわたしの声にもうつってしまったようだったが、その言葉を聞いて不器用ながらも笑う彼を見てそれでいいと思った。
     例えそれが、彼女から見てどんなに惨めだろうと、滑稽であろうと、彼女が壊したあの日の笑顔がいつかは戻ってきてくれるって、この時だけは本当に信じられたから。
     
    「愛しています、立香」
     
     最後に彼の笑顔を取り戻す魔法の呪文を唱えると、いつも手を伸ばしていた星が暗い空から降ってきた。
     わたしはそれに薄い笑みを浮かべながら、その明かりがこれ以上曇らないように小さな魔法のバックを懐の奥へ奥へと仕舞い込むと、四等星を手を広げて迎え入れた。
     
     ――こうして、破れてしまった一冊の善意は、形を変えて誰かの手へと渡ることはなく。
     
     その寒々しい夜が終わっても、彼と彼女だけに消えない思い出を刻んでいくのだった。
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