死が二人を別つとも 澄んだ空気を満点の星が讃え、一欠片も欠けていない真円の月を、一つの家屋の屋根から二つの青が見つめていた。
「ここに来てからもう三年か。みんなどうしてるかな」
魔法界最高の魔法教育機関と名高い母校を卒業すると、二人は慣れ親しんだお互いの実家や都会の喧騒からも遠く離れて、雨垂れの音がよく響く地方の森林に家屋を建てた。
久しく聞いていない友人達の笑い声もそうだが、本来なら森林の中から囁いてくる動物達の声も聞こえてこない今宵は、まるで世界に二人きりのようだった。
「さぁ、どうでしょうね。生憎と連絡先なんて知らないですし」
ここに移動してきてちょうど節目となるこの季節を思った言葉に、彼女には存外素っ気ない言葉を返されて苦い笑みが溢れる。
しかし、それでも朧げに覚えている友人達の顔を思い浮かべると、自然と彼らが自分達をどう思っているのか考えずにはいられなかった。
学生時代、良い意味でも悪い意味でも蛇の寮を中心として様々な話題が飛び交ってしまった自分たちが、このように何処の誰にも知られずに二人で暮らしていると知ったらどんな表情をしてくれるだろうか。
いや、そもそもとして自分たちの関係を遠くから見て胃を痛めていた人達は、両者からの連絡も噂も微塵も聞こえてこないこの状況に、遂に絶妙な均衡が崩れてしまってどちらもこの世に居ないかもしれないなんて思われてたらと思うと、ふつふつと笑みが込み上げてきてしまった。
「あ、でも……」
そんな腹の奥から溢れてくる笑みの一方で、隣にいる彼女のようにあまり気にも留められておらず、ただどこかでのらりくらりと生きていると思われてしまう可能性を考えて、それはそれで何だか緩みつつある鉄が軋んだ気がした。
「自分から連絡を絶ったのに、そんな風に彼らを思うのは些か失礼だと思いますよ。加えて、たまにここで開く茶会に、そのあなたの言う〝みんな〟を呼んでいない以上、あなたもそれでよしと思っているのではないですか」
「……それは、そうだね」
相変わらずこちらの思考を一寸の狂いもなく先読みしてくる彼女の思考の鋭さに舌を巻きながら、その身勝手な寂しさを掻き消すように繋いだ指先に少し力を込めた。
「あなたが卒業後、どうしてあんなにも頑なに私とこんな辺境の場所で二人きりになりたかったのか、その理由は聞きません。私も別にあなた以外に惜しいと思う人も殆ど居なかったですし、何よりあなたを問い質してもただ謝罪が返ってくるだけのようでしたから」
「……ごめん」
自分のそれよりも少しだけ冷たい指先がぎゅっと握り返してくれたことに安堵したのも束の間、これまた自分にとって痛いところを告げられてしまって、どくっと心臓が跳ねた。
「ただ、その朧げな誰かよりも、その我儘に応えてくれた誰かに誠意を見せて欲しいものです」
加えて繋いだ指先よりも少し上に視線を向けて、手首につけられた白い燐光を放つ黒曜石のブレスレットを――その下の呪いによって焼け爛れような皮膚を見つめて告げられた言葉に、今度は身体の芯が凍った音が聞こえた。
「……ごめん」
「あなたはここに来てから謝ってばかりですね。職場でもそうなのですか?」
「いや、そんなことは……」
「でしょうね。寧ろ感謝に頭を下げられる側なのではないですか?」
言い淀む自分の言葉を遮るような湖に浮かぶ冷ややかな皮肉と、その表情に浮かぶ怒りと呆れ、そして本当に片手の数に収まるくらいもない回数しか向けられたことのない、ささやかな侮蔑。
そのどれもに凍えていく胸と、何よりも段々と氷を張っていく湖をどうにかしたくて、そうなるに至った理由を思い出す。
だが、思い出したところでそのどうしようもなく詰んでいた結果に、自分でも呆れしか浮かばなかった。
「あなたに贈ったそれは、あなたが自傷行為をするためのものではありません。どうして、それをわかってくれないのですか」
「それは、違う。違うんだ」
自傷行為とまで呼ばれてしまったそれは、もう既に少し遠くなってしまった聖夜に、彼女とこちら側で交わした呪いによるものだ。
その内容は、互いに〝無茶をしない〟という縛り。それは今でもこの身を縛っているのに、その上で身動きをするのを辞めないと宣言したのは、我儘をするなら纏めての方がいいという勝手な理由をつけて、これまた卒業後すぐだった。
「自傷行為じゃなくて、これは――」
その理由は主に大きく二つある。
一つは、元の世界で幾度も幾度も考えてはその無意味さに乾いた笑みを浮かべていた、彼女が自分たちの前から姿を消した理由。その可能性の悉くを排除する為に、魔法省の予言に対する――彼女とその周りに対する動向を逐一把握するためのものだ。
こちらはその理由の後半を彼女にも伝えてある。だから、今目の前の彼女の機嫌の問題は大方こちらでは無い。
よってその問題の原因である、彼女に知らせていないもう一つ目の可能性を頭に思い浮かべるが――
「あなたが言いたくないのなら、いいでしょう。そちらも目を瞑ってあげます」
「……俺って顔に出やすいのかな」
「いいえ。あなたと同じように、私があなたをよく知っているだけです」
そんな自分の思考をまたしても覗いたような言葉が耳朶に届いてきて、それに不安に揺れた言葉を彼女はやんわりと否定する。
だが、それに続いた言葉と表情の歪さに、柔くなってしまった鉄の心がそれでも嫌な予感というものを感じ取った。
「ところで、リツカ」
「?」
彼女は言葉と共に指を解いて、その艶やかな銀が混ざった金色を後ろに流すと、徐に懐に向けて指先を沈ませた。
「これは、何でしょうね」
そして、白魚のような真白い指先で懐からすっと杖を取り出す。そしてその指先が暗闇の中でも月の光を受けて美しく反射するのに見惚れながら、杖はあの日贈った瑠璃紺のチョーカーに向かって優雅に一振りされて――
「――え」
――新雪のように白い首筋に、くっきりと赤く残る、指の跡。
「ダメですよ、リツカ。しっかりと目を向けてくれないと、こうなってしまいます」
「――――」
もう本当にどうしようもなく遠くなってしまったあの日々の、ただ屈託なく自分を信じて笑う童女のような彼女の笑み。
そしてその下の真白い首筋に、目を覆いたくなるほどの……縊られたのだと如実にわかる誰かの指先――いや。自分の指先の、跡が、刻まれていて。
――満点の星と確かな月の光に照らされた彼女のその姿は、もう一生脳裏に焼きついて離れない。そんな確信が、確かにあった。
「どう、して」
「ほら、この前……と言っても確かもう一ヶ月も前でしょうか。あなたが過労で倒れた時があったでしょう?それで相変わらず手首もすごい呪いが重なって辛そうにしていたので、ではその呪いから解放してあげよう、と」
あ、当然その腕輪の方じゃ無いですよ、と今自分がどんな顔をしているのかわからないが、それを見て満足げに、楽しそうに、けれどその湖の底に確かにそれらとは違う感情を浮かべながら、彼女はそれだけの時が経てもなお残る首筋の指跡の理由を語った。
「じゃあ、俺が情報を掴んだ十三もあった死喰い人達の巣は……」
そして呆然と呟いた言葉に、彼女は今度こそ満面の笑みを浮かべて告げた。
「はい。私が全て、あなたが下のベッドで伏せっている間に、痕跡も全て含めて消し(済ませ)ましたよ」
「―――」
絶句。まさにそのような反応しか出来なくなるような彼女の答えに、堪らず黙りそうになる喉をそれでも目の前の彼女の身を案じて絞り出す。
「……けが、は」
「外傷は……特に無いですね。あるとしたら、ここだけです」
だが、その最後に絞り出した声も、にこやかな笑みと共に指し示された首筋のせいで露と消えて、代わりに凍えた鉄の結露が視界を覆っていった。
「でも、知っていましたか、リツカ」
そして眦から遂に溢れるそれを愛おしげに掬いながら、彼女はまだそれでも楽しげに言葉を紡ぐ。
「この呪い、かけた人が弱ってしまっているとその効果が上がってしまうようです。多分、かけた相手から生命力を奪う役目を担っているのでしょう。だからあなたは、あんな短時間で連日の疲労から回復できた」
「ぇ……」
「まぁ一方で、私は戦地で朦朧としながら帰ってきた後ずっと寝込んでしまったのですが。それであなたが万人の助けになれるのなら、関係ないですよね」
ある時から身近にあって、これからも一生共にしていこうと考えていた、古の呪いの本当の効果。
それを告げられて、絞られ切った声からそれでもか細い声が漏れたのを、どこか他人事みたいに驚いた。
「さて、ここでまた一つ質問です」
けれど彼女の声は依然と無邪気を装いながらこちらの声を塗りつぶして、そして次は視線を自分の青よりもさらに上、暗い星空に瞬く中でも一際大きく輝くそれを捉えて、囁いた。
「月が綺麗ですね、リツカ」
ここ数年共に見上げてきた夜空を見る彼女の表情は相変わらずとても綺麗で、自分に向けてくれた言葉もそれまでと同じように温かいもので。
なのに、その熱は今までと違ってひび割れた鉄の隙間にするっと入り込んできて、その奥の何かを今度こそ冷たく縛りつけた。
「返事は、くれないのですか」
「っ……そんなの、言えるわけ、ないっ……!」
その鎖に突き動かされるように、目の前にある月に登ってしまいそうなほど美しい横顔を必死に身体ごと抱き抱える。
すると抱き竦めた身体から物欲しそうに告げられた言葉に、今度はこちら側がそんな資格なんてないのに怒気を含んだ言葉を返してしまう。
「ふふ。つくづく我儘な人ですね」
「っ、トネリコっ……」
「……でも少しくらい、その胸の中の秘密を明かしてくれるご褒美をくれても、いいんじゃないですか」
肩に埋めた頭を優しく撫でながら困ったように笑う彼女は、どこまでも愛おしそうに言葉を紡いでいくれる。そしてその言葉に彼女がこんな行動を起こした原因を察すると、その自分の不甲斐なさに益々涙が溢れてしまいそうになるのを、剥がれかけの鍍金の下に何とかしまい込んだ。
「――アクシオ」
そして、彼女に伝えられないでいた自分の秘密を伝える為に、下の階に隠してあった一冊の本を呼び寄せた。
「それは?」
「……ある人の魔法を応用して作ったもの。そしてこの本には、俺が知っていたその人の全部と、その後の全てが書いてある」
「―――」
手元に呼び寄せたそれは、一見すると酷く見窄らしい。なにしろ、こちら側に来てすぐに、あちら側で彼女が残してくれた導を忘れたくなくて、未だ記憶にあるそのままを魔法を使って真白いページに落とし込みながら、足りない箇所は自身で書き記した代物だからだ。
加えて自分が人生で書き記す二作目ということもあって、何かと読み返したり編集したりを繰り返した結果、既にこちら側でもそれなりに摩耗が進んでしまっている。
「やはり、これは……」
彼女がその本の表紙を懐かしげになぞりながら最初のページに目を向けた時、彼女は何かに思い至ったようにパラパラと中盤のページまでを捲っていくと、あるところでぴたりと止まった。
「――私の、最期」
驚きに呟かれたのは何に向けたものだったのか、生憎と自分の知っている彼女と少し違う彼女のそれはよくわからなかった。
「じゃあ、この後は……」
だが、彼女は気高くもその後のページに目を向けると、見窄らしい本の中の、さらに見窄らしい男の軌跡を、一文字ずつ確かな視線で追って行った。
そして、あるページで一際大きく見開かれた瞳が、次のページを捲れば、さらにその次のページの後半まで見通すように動かされ始める。
そして最後のページまでそれを繰り返すと、彼女の瞳から零れた宝石がその淵に落ちて、音もなく滲みながら広がっていった。
「そんな、なんで。リツカは最後まで一人で……?」
その様を、自分は彼女の肩に後ろから手を回して見つめていた。そして彼女の声が震えるのを耳にすると同時に、もう何度目になるかわからない後悔をして、……けれど心に残したささくれを最後の最後に取り除けた、そんな気がした。
「それが俺の全部。もう、隠し事なんてないよ」
「りつ、か……。ごめ、ごめんなさい。わたし、そんな、こんなことって……!」
「ううん、いいんだ。あれは、俺がしたかったことだから」
ぽろぽろと、その輝く導を抱えて歩き続けた愚かな男の軌跡を覗いた瞳から、綺麗な宝石が取り止めなく落ちて、閉じた裏表紙を濡らしていった。
「ちが、ちがうんです。わたしが欲しかったの、そんなのじゃないっ……!」
「トネリコ?」
その言葉を皮切りに、ずっと青空を美してくれていた湖はその凍ってしまっていた表面をひび割れさせてしまうと、膝の上の星と湖が記された表紙に再度視線を向けた。
「……わたしはあなたと同じで……過去の記憶が、あります」
「――そっか」
自分がそうであったように、あるいは記憶とは違う彼女が時折見せる冷たさと憂いの表情があったように、もしかしたら彼女もそうではないかと思っていたこともあってか、彼女の言葉に自分でも驚くほど驚きは無かった。
だから驚いたのはその後の、表面にひび割れた薄氷が残る湖が、自身の青をもう一度乱反射した瞬間だった。
「だけど、その過去で……私はあなたを倒して、わたしを殺しました」
「……え?」
「世界から魔法を消して、あなたからわたしを消して、――それでやっと初めて、私はわたしの本当の願いを知ったんです」
胸に抱えた本をまるで首筋に刻み込んだ痕跡と同じようにもう一度胸にしまい込む姿は、かつての宝物を胸にしまう彼女の様子とはまるでかけ離れてしまっている。
「本当の、願い?」
自分は決して、愛しい彼女のそんな様子が見たくてこの本を書いたわけじゃない。
けれど間違いなく、今の彼女に浮かぶ涙は胸に抱えられたソレが原因で、そのどうしようもない悲しみとやるせなさに、ただただ彼女の言葉を待つしかなかった。
「――わたしは、あなたとずっと一緒にいたかった」
弱々しく呟かれた言葉は今にも消えてしまいそうにか細くて、まるで世界の全てを怖がっているようだった。
「ふふ。おかしい、ですよね。みんなから魔法を奪って、少なくない人の命まで奪って。なのにその最後で、私は真っ黒になったリボンを見て、私でいられなくなった」
ぽつぽつと懺悔するように囁きながら、この世界でも贈ったもう一つの贈り物であるそれを、艶やかな銀が混じった金糸から抜き取る。
そこにははっきりと、夜空と同じように輝くような星々が舞っていた。
「わたしの抱いた理想も夢も、所詮はただの見せかけだったんです。本当は全てをかなぐり捨ててでも欲しいものがあったのに、それを自分から捨ててしまった」
その手元にある夜空を、胸に抱えた本に重ねて今度こそ宝物を扱うように仕舞う仕草はとても儚くて、自然とその小さな身体を自分の胸に迎えた。
「正直、私がわたしを消した後の記憶は定かじゃないんです。……でも多分、結末は変わらない」
「トネリコ」
「わたしは、どんな世界でもあなたを不幸にしか出来ない。埋め合わせた歪な記憶も、果てのない理想も、この自分で刻んだ傷跡が行き着く先も、きっと予言からは逃げれない。……なら、もうわたしたちは最初から――」
「そんなわけないだろ。ふざけないでよ、トネリコ」
未だ胸許で続く懺悔は、遂にマガモの約束すら掻き消そうとしてしまって、思わず語気の強い言葉が漏れた。
「りつ、か」
「だって、そうだろう。君が俺を不幸にする?だから、俺たちは出会わなかった方がいいって、本当に君はそう思うの?」
「っ……」
「……ごめん。でも、そんなの俺は認めない。認めたく、ない」
もう思い出すことも本当に難しいぐらい遠くなってしまったあの日。境遇を嘆くことはしないが、あのままではただ腐ってしまう自分を、彼女は確かに穏やかな笑みを浮かべて屋敷に招いたのだ。
「それを無かったことになんてしない」
それから一緒にいる時間が増えて、お互いに贈り物をしあって、学校で別々の寮に入ったのを寂しく思いながらも確かに一緒に過ごした最初のあの日々。
「確かにいいことばかりじゃなかったよ。君をあの夜に誘えなかったのは今でも後悔してるし、月のない夜に君にしたことは、もうずっと取り返しがつかないものだって思ってる」
「りつ、かっ……」
鍍金の奥にしまい込んだそれはもう使い物にならないと思っていたが、嗚咽混じりの自分を呼ぶ声に存外そうでもないことに驚く。
――いや、それが出来ていたら自分の最後はあんなものじゃなかったはずだと考え直すと、思い当たる理由にふと笑みが溢れた。
「でも、一緒にホグズミードを歩いた記憶も、寂しい思いを紛らわす為の交換日記も、図書館で二人揃って勉強したり、中庭で一緒にお昼寝したりした記憶も」
「……っ、うぅっ」
背中に回された腕がぎゅっと皮膚を引っ掻くのも構わずに衣服を掴んでくる。その細やかな痛みと腕の中に抱えた熱が、鉄の奥のそれを優しく温めてくれたことに、清々しい思いをあふれさせる。
「あんなことがいっぱいあったのに、やっぱり今なら君と一緒だから鮮明に思い出せる。しかも、その全部が愛おしくて、胸が温かくなって……忘れたくないって、そう思う」
腕に閉じ込めていた身体を少し離して、視線を彼女が胸にしまったその本に向ける。
――ほら。やっぱり見窄らしく見えたそれも、彼女が抱えてくれたら、それだけでとても綺麗な宝物だ。
「う、ん……わたしも、もうわすれたく、ない。わすれるのも、わすれられるのも、もうぜったいに、やだっ……やだよぉっ、りつかっ……!」
そして、視線を上げて解けつつあるひび割れた薄氷の下の湖にもう一度自身の青を写すと、冷たい湖の底に押し込んでいた悲しみに震える幼い童女の悲鳴が自分の胸を叩いてきて。
だから、そんな声ごと彼女を包み込むようにきつく抱き寄せた。
「だからもう悲しいことを言わないで、トネリコ。今度は君の夢も傷も、全部一緒に背負わせてよ」
鮮やかな星の光を反射する銀の混じった金糸に指を通しながら、遺志を受け継いだ時と同じ意味の言葉をもう一度告げる。
だが、その言葉に対する返事は、澄み渡る銀雪の中で告げたあの時と同じく何もなかった。
しかし、代わりにぎゅっと握られた背中の指が解かれて、今度はより遠くの背中まで伸ばされた腕が抱擁に応えてくれる。
お互いの欠けた部分をゆっくりと埋めていくようなその抱擁は、言葉よりも確かに彼女の喜びを雄弁に体現してくれているかのようだった。
だから今度は自分から歩き出すことはせずに、自分の肩口に響く小さな嗚咽が落ち着きを取り戻すまで、二人で夜を共に過ごし続けた。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「痛む?」
「……まだすこしだけ、痛みます」
不恰好な本と黒い夜空を抱える彼女の首筋に優しく触れながら尋ねると、彼女は飾り気なく言葉を返してくれた。
そも以前だったら尋ねる勇気すらあまり湧かない質問に穏やかな笑みを浮かべながら答えられて、もとより見えるはずもない距離がそれでも今までで一番近く縮まった気がした。
「治そうか?」
「いいえ。……これもまた、あなたから貰った大事なものなんです」
「いや、それは」
「……あなたは違うのですか?」
「……確かに、違くない。君から貰ったものの全部、この空みたいに輝いてる」
「はい。私(わたし)もそう思います」
女性がその身体に残すには痛々しすぎる傷跡に思わず漏れた言葉は、けれど彼女の穏やかな微笑みの前に鍍金の塗装と共に小気味良く霧散してしまった。
「リツカ」
彼女は首筋の傷跡を確かめるようにその跡を指でなぞって、それからはにかんだ笑みのままこちらを一瞥する。そしてその腕の中の宝物と夜空を大事そうに抱え直すと、本物の夜空を見上げて囁いた。
「月が、綺麗ですね」
先程の童女のような笑みはどうやら記憶の彼方に帰ってしまったようで、今隣にある彼女の笑みはまるで―――のようだった。
その笑みと、まるで全てを置いてけぼりにした二人だけの世界を今更思い出して、返す言葉は自然と定まった。
――うん、文字通り月並みだけど、今の俺たちにはこれがいい。
「――――――――」
そして、漸く獲得できた約束された報酬(彼女の笑顔)に恥じないように、自分も心の底から笑みを浮かべながら、先程返し損ねた言葉を返したのだった。