時計の針を動かしたのは今振り返ると、私の生はどうしようもなく長かったように思う。
雨垂れの音より始まったそれは、ある時からとても機械的になってしまって、振り返ろうにも過ごした年月に対してその多くがぼんやりとしてしまっているのがその証だ。
だがそれが今になって、終えた筈の生に仮初の命が与えられ、もとの生と比較すると何千分の一というほんの微かな、しかし鮮明で忘れられない時間が付け足された。
その一瞬は、微かに聞き覚えのあった呼び声に応じてしまった瞬間から始まり、同時に当てつけの意味を込めたはずの言葉が、言葉通りの意味を持つまでにかかった時間よりも、ほんの少し長く。
左手の指に光る銀色が、いつか彼から貰った礼装ではなく、ただの約束を意味する銀色に変わってしまったくらいの時間が、彼と共に流れた軌跡だった。
「モルガン」
長い生の中で二つ目の名前となるそれは、妖精たちに恐怖と従順を刷り込むためのもの。
だからこんなにも穏やかに自身の名前を呼ばれた経験なんて無かったし、まして今も焦がれているあの名前ですら、このように呼ばれた経験なんて何千年も昔の話だ。
だというのに、今はこれがあることが当然になって。
これがない未来を生きるなんて考えられなくなって。
━━そんな冬の女王である私は今、一体どんな表情をしているのだろう。
「なんでしょう、リツカ」
彼に呼ばれる声に返す言葉が、不思議と高くなる。
ただ名前を呼ばれただけなのに、あんなにも凍りついていた心臓が、とくとくと穏やかな鼓動を奏でていく。
それはまるで、神域の天才と謳われた私でも知らない魔術のように不思議な感覚で、だけど雨上がりの晴天のように気持ちの良いもので。
あんなにも寒さに凍っていたはずの湖が、春先の暖かい日差しに照らされて溶けていくように、私の頬を緩ませた。
「冷え込んできたからさ。寒くないかい?」
新たな銀色を指先に通してから、自然と私の視線を集めてしまう左手を彼が取って、その親指から小指まで、彼の指先が一本一本を壊れ物を扱うようにその温度を確かめる。
「やっぱり。冷たくなってる」
するとヒトの構造とは不思議なもので、エーテル体という仮初の身体から脱却し、彼と全く同じ生活を送っているにも関わらず、相変わらず私の指先は彼のそれよりも冷たかった。
「そうですね。すこし、冷やしてしまいました」
それに対して心配そうに眉を傾ける少年……いや、もう青年と言って良いほど立派に成長した彼に、私も少しだけ困ったように眉を傾けた。
「しかし、あなたは心配性になりましたね」
指先の温度を分け与えてくれるように、手のひらを包み込んでくれる彼の手を取る。
そして私の指と彼のそれを重ね合わせて、記憶にあるものよりも確かに大きくなっていたことにまた頬を緩めると、その細く長い一本一本の間に自分のそれを滑らせる。
「君が強がりなのはもうよく知ってるからね。……でも、君も本当に温かくなった」
そして、たちまち広がる温かな感触に満足気に彼の顔を見つめると、彼もまた、私と同じように頬を緩ませた。
「そうでしょう?自慢の湯たんぽを見つけたのです」
「え。それってもしかして……」
「さぁ、なんのことでしょうね」
「え〜」
繋いだ指先を引いて、自慢のそれを抱き寄せると、私はくすくすと魔女らしい笑みを浮かべてみせる。
だが、似た色の瞳を至近距離で見つめ合わせると、彼の青空の中には彼によく似た笑顔を浮かべている誰かを見つけてしまって、ふと型なしだと嗤う誰かがいた。
「リツカ」
しかし、彼という鏡越しに見つけられたその姿がなんだか無性に小気味よくて、甘えるように彼の名前を呼んではこつんとおでこを突き合わせると、彼はそれに合わせて仕方なさ気に青色を一度閉じた。
「……まぁ、うん」
「?」
「湯たんぽでもなんでも、君がそんな風に笑ってくれてるならそれでいいし」
「この指先を、解くつもりもないしね」
そして次にその瞳が開かれた時、目の前には一面の青が広がって、口元には優しく温かな感触が広がった。
そのただ慈しむような熱の中に、決して手放すことなどしないという確かな意思を感じて、充足感に自身の瞳を閉じる。
「ええ、もちろんです」
すると私が引き寄せた身体に、逆にもっと引き寄せられるように腰に手を回されていて、瞳を閉じた先の暗闇の中でも、その温かさを存分に享受することが出来た。
そして、その自身を微睡に誘うような温もりの中で、ふとまた思い返す。
「この熱を手放すほど、私はもう寒さには耐えられないのですから」
周囲を凍らせるほどの寒さは、その実中心に一人蹲る私でさえも凍らせて、何千年もの彩りの無い時間は、その流れさえを忘れさせた。
だからあれは強がりではなく、知らず誰もが持つ筈の時計の針を凍らせてしまっていただけなのかもしれない。
だがそんな時計を、彼はこの鮮明な記憶の中で、幾千にも重なった氷雪ごと溶かしてみせたのだから。
━━その初雪後の晴天のような青空に、いつまでも、私を映していて欲しいのです。
「そうでしょう?ーー我が夫」
いつしかの魔女らしく理不尽な責任を押し付けるように、そんな願望を込めて瞳を開く。
すると何度目になるかもわからない、ありふれて、それでも忘れたくないと思える光景が広がっていて。
「うん。何よりも大事な約束だからね」
また一つ、春の訪れを告げる囀りのような鼓動に、穏やかな風が吹いたのだった。