十二国記パロ藤トワ(前編)切り立った急峻な崖の上に彼は立っていた。
じっと見つめる遥か遥か先にまだ見た事がない彼の国がある。
深く愁いを帯びたため息を吐く青年は、彼が見つめる遠い遠い海の向こうの国の麒麟だった。
麒麟と言えば金の鬣を誰しも思い浮かべるだろうが、彼は世にも珍しい黒麒麟であった。
緩く癖のあるつややかな黒髪は毛先に僅かに金色があるが、言われなければ麒麟とは分からない。
ゆっくりと目を閉じ遙か彼方にある国を思う。短命の王が続いた国は今どうなっているのだろうか。
視線を下げれば蓬山から下山していく集団がいる。
こうして彼らを見送るのも何回目だろうか。すでに両手両足の指でも足りない回数見送ってきた。
成獣してからもう数年経った、王が昇山してくるのを待ち続けていたが、一向に現れない。昇山してくる者の数もぐっと減った。
――ならば自分から探しに行く。
すうと息を吸う。すると同時に身体が融けるように崩れ、裏返るようにして現れたのは艶やかな黒毛の肢体に額に真珠の一角を持つ獣。
麒麟はその場で足踏みすると崖から飛び出した。
自らの王を探すため、麒麟は雲海を駆けてゆく。
1
首都の宮殿にほど近い山の一角、崖に張り出した庭園に麒麟は降り立った。
丸一日走り詰めで流石に疲労を感じる。
薔薇の香りがするそこを見回していると背後から物音がした。振り返ると、そこには1人の女がいた。
腕に薔薇の花束と片手に剪定ばさみを持った黒髪の女は麒麟を見て目を丸くしている。
「麒麟……?」
麒麟は女をじっと見つめると、「驚かせてすみません」と語りかける。
「王を探している途中なのですが、休憩のため立ち寄らせて頂きました、またすぐに出るので気にしないでください」
獣から発せられる落ち着いた青年の声に、女は丸くしていた目をきゅっと細めて唇に笑みを浮かべる。
「台輔に私の庭を見て頂けるとはなんとも嬉しい事。良ければお茶でもいかがですか?お疲れでしょう?」
女の言葉に考えるような様子に更に言葉を繋ぐ。
「私は摩耶と言います。先代の王の下で後宮におりました。よろしければ今の国の状況などお話させて頂きたいのですが……」
女――摩耶の言葉に興味を引かれた麒麟は「分かりました」と首を縦に振った。
摩耶はにこりと笑うと侍女を呼びつけ、「台輔に何かお召し物を」と言う。
侍女は突然現れた麒麟に目を白黒させながら転ぶように走って着物を取って戻ってくる。
「し、失礼いたします」
侍女が震える手で麒麟の背に着物を掛け、それに併せて転変を解こうとした瞬間。
「あぐっ」
と言う声と、同時に頭上から生暖かい液体が降りかかる。
真っ赤な、これは、血?
状況が理解出来ず見上げた先で侍女の首に何かが刺さり、鮮血を溢れさせていた。
途端に強烈な目眩を感じて膝をつく。その目の前に侍女が倒れ込むと、その首に刺さっていた物が見えた。
――剪定ばさみ……
鮮血に濡れた視界の中で、紅い唇をつり上げた摩耶が額の一角に刀を振り下ろすのが見えた。
酷く気分が悪い。
目の前がグルグルと回り、今自分が立っているのか横になっているのかすらも分からない。
人の気配がする、ざわざわと話し声がするが、酷い耳鳴りがして話の内容は断片的にしか分からない。
――摩耶が王に――
誰が王に?
――麒麟が選んだ――
誰が選んだ?
――黒麒麟だ――
誰が麒麟?
俺は………
2
チャプチャプと近くで聞こえた水の音に、深く落ちていた意識が浮上する。
自身の頭上で音がしていたかと思うと、額に何か濡れた物が触れてはっと目を開いた。
「きゃっ」
驚いた声に目線を向けると、年若い少女がいた。長い黒髪と大きな瞳、着ている服は見窄らしく、袖口から見えた腕も痩せ細り古い傷痕が覗いている。
その手には濡れた布巾があり、額に触れたのはこれかと思う。
少女から目を離し、自分がいるところを確認する。
硬くて居心地の悪い寝台の上に寝かされていた。
室内は広いがどこもかしこも紅く、鉄くさい匂いが鼻を突いた。まるで血だまりの中にいるようで気分が悪くなる。広いが窓は一つも無く、光源は燭台の明かりだけだ。
ここはどこだ?何で寝かされている?
同時に沢山の疑問が浮かんできて、起き上がろうとするが、酷く身体が重く、指一本動かすのも億劫だった。
それでもなんとか起き上がろうとすると横にいた少女が慌てたように声をかけてくる。
「待って待って!無理しちゃダメですよ!」
柔らかい手に寝台に押し返され、力を抜いて枕に頭を落とす。
少女に目線を向けると、にこりと笑って布団を肩までかけられる。
「ずっと寝込んでたんだから急に動かない方が良いですよ」
「ずっと…?」
「はい」
少女が額に濡れた布を乗せてくる、それが何故か酷く不快に感じた。
困惑した目を向ける彼に、少女は寝台の横に膝を突いて向かい合う。
「私、愛衣って言います。あなたのお世話を言いつかりました、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、あなたのお名前は?と首を傾げる。
「名前は……」
言いかけて言葉に詰まる。
「俺は……誰だ……?」
名前も年齢も何一つ思い出せない。
「自分の事、分からないんですか?」
混乱した様子の彼に、愛衣は困ったように眉を下げる。
「そっか…、でも名前がないと不便ですよね……」
うーんと顎に手を当てて考えて、そうだ、と手を叩くと、その手で彼の冷えた手を握る。
「じゃあ、「トワ」なんてどうですか?」
「トワ?」
「うん、あなたの瞳、昔ウチの近くに住んでた猫ちゃんにそっくり!その猫ちゃんと同じ名前!」
ニコニコと提案をしたかと思うと、あ、と言う顔をして
「あ、でも猫と同じ名前なんて失礼でしたか?」
「いや、別に…」
「良かった!」
じゃあトワくんって呼びますね!と、にこりと笑うその表情と手の温度が温かくて、心から安心感を感じる事が出来た。
3
愛衣と名乗った少女は何も覚えていないトワに色々な事を話してくれた。
麒麟や王のことから彼女自身のことも。
北の地方の出身で、母親と兄と暮らしていたこと。母は度々彼女たち兄妹に暴力を振るったが、いつも兄が身体をはって守ってくれたこと。兄が出払っている時に母親に売られ、ここに連れてこられたこと。
眠っている内に連れてこられたので、彼女自身もここがどこなのかは分かっていないらしい。どこかの城の地下牢だということだった。
彼女の主人は妙齢の女だというが、彼女自身も数度しか会ったことはないらしい。「綺麗な人だったけど、なんだか怖かったな」とその女のことを語っていた。
愛衣は不思議な少女で、過酷な環境でもいつも希望を捨てていなかった。
トワの世話役としてこの地下牢から出ることを許されていたが、戻ってくる時には怪我をしていることがよくあった。決して良い待遇を受けていないのは明らかだった。
それでも、「新しい王様が即位なさったからきっと環境は変わる」と信じているようだった。
「それにお兄ちゃんもきっと頑張ってる。だから私も頑張る」
いつもそう言って笑う。
彼女は兄のことを話す時にはいつも目を輝かせていた。
「このお守りもね、お兄ちゃんが作ってくれたの」
と見せてくれたのは木彫りの帯飾りだった。歪だがかろうじてうさぎと分かるそれ。
「すごく不器用なんだけど頑張って作ってくれたんだ。いつも私を守ってくれてるの」
彼女が兄のことを話す時の嬉しそうに笑う顔に、トワの心も安らいでいた。
トワと愛衣が出会って数ヶ月が経った。
愛衣はトワと同じ地下牢で寝食を共にしているが、一日に二度、トワの食事や洗濯物を運ぶために地下牢から出る事が出来る。その時も洗濯仕立ての衣服を背中に負いながら手には料理の乗った盆を持ってトワの所へ戻るところだった。
愛衣がトワと名付けた青年は不思議な雰囲気のある青年で、常に具合が悪そうで青白い顔色をしている。日の当たらない閉鎖されたところにいるので仕方ないと思うが、せめて栄養のあるものを食べさせてやりたいと思うが、食が細く肉や魚は食べたがらない。
暇つぶしになるだろうかと紙と筆を渡してからは絵を描いていることが多かったが、それ以外の時は何かを探すように1点を見つめていることがある。そんな時はいつも眉をぎゅうと顰めていることが多い、何かに焦っているようだと愛衣は思っていた。愛衣が聞くと、大切なことを忘れている気がする、と言うのだった。
何故こんな地下牢に幽閉されているのかは知らない、誰に聞いても知らないというし、トワ自身は記憶が無いので聞いても分からないだろう。何か罪を犯したのだろうか、と思うが、トワを見ているとどうしてもそんな人間には思えないのだった。
トワのことを考えながら、料理を温かい内に持っていってあげたいなと急ぎ足で歩いていた時、地下への入り口に近づいたところで話し声に気付き、咄嗟に足を止める。影から伺うと、いつもこの場所の警備をしている兵士達がいた。その中の1人がいつも愛衣に手を上げるので出て行くのを逡巡する。よく見張りをサボってどこかへ行っているので、今もどこかへ行ってくれないかなと思いながら身を潜めていると彼らの会話が聞こえてくる。
「この前街中で妖魔が出たってな」
「らしいな。王が即位したって言うのに妖魔が減らねえな」
「ああ~…なぁ」
「なんだよ」
「いやぁ~……この前二声宮で一斉に配置換えがあったろ。前任が全員行方不明だとかなんとか」
「なんだそりゃ」
「噂だけどよ、白雉が即位を鳴いてないとか」
「お前、それは……」
静まりかえる男達の側で身を隠しながら、愛衣は必死に息を殺していた。こんな会話を聞いていたとばれたら酷い事になる。
1人の男が声を潜めて口を開く。
「でも台輔がお選びになったんだろ?」
「その台輔は今どこにおられるんだ?一度もお姿を現してないが」
「……」
「……なんだよ」
「いや……この地下にいるのっていったい誰なんだろうなと思って」
「…おいおい、……やめろよ」
「いや、うん。考えすぎだよな」
「何か寒気がしてきやがった、酒でも飲んでくら」
「おい、仕事中だぞ」
「お前も来いよ」
「まったく……」
言いながら歩いて行く男達の背中が見えなくなっても暫く愛衣は息を潜めていた。万が一にも気付かれてはいけないと、男達が戻って来ない事を確認してから走って地下への入り口に向かう。
偽王?トワくんが麒麟?そんなまさか。
頭の中に先ほど聞いた会話がぐるぐると回る。
そんなことあるはずがないと思いながらも、手に持ったお盆を見る。
肉や魚は苦手だと言っていつも野菜しか食べられない料理。
まさか…と手が震えてくる。
――もしも、もしもそうなら……
愛衣が赤い部屋に戻った時、トワは椅子に腰掛けて絵を描いていた。
戻った愛衣の顔色が悪いのを見て首を傾げる。
「愛衣、どうした?」
心配げに近寄ってくるトワに震える声をかける。
「トワくんって、麒麟なの?」
「は?」
何を言ってるんだと首を傾げるトワに向かって手を上げると、その額に指を置く。トワはそうされると何故だか酷く嫌な感じがしてぎゅうと眉を顰める。
「こうされるの、嫌?」
聞かれて頷くと、愛衣ははっと息を飲んだ。
「本当に麒麟なんだ」
「愛衣、何言ってるんだ、俺が麒麟なんて……。麒麟は金髪なんだって言ってたじゃないか」
「違うの!」
愛衣が大きな声を出して首を振る。はあ、と息を吐いて小さな声で違うの、と繰り返す。
「この国の麒麟は黒麒だから黒髪なんだって、お兄ちゃんが言ってた」
――愛衣、新しい麒麟は黒麒なんだって。
そう言った兄の顔を思い出す。母が彼を酷く傷つけ、熱傷に喘ぎながらも気丈に妹に笑みを見せていた優しい兄。
『こっき?』
『黒い麒麟の事だよ、すっごく珍しいんだ』
『そうなんだ』
『うん。きっと良い王様を見つけて住み良い国にしてくださるよ』
そう兄が語った黒麒がここにいる。王を見つけることも出来ずに幽閉されている。
――こんなの、絶対にダメ
「こんな所にいてはだめ」
愛衣は顔を上げると戸惑うトワを意志の強い瞳で見つめる。
「逃げないと」
「逃げるって、どうやって……」
愛衣は黙り込み、じっと考え込む。頭の中で城の地図を描く、出入り出来るところが限られているため出来上がるのは城のごく一部でしかないが。その中で最善の道を探すしかない。自分の無力さに歯噛みしたくなりながらも、必死であらゆる道を思い描く内に一つの道が見えた。
「来月の秋分の祭祀の日、こっちの警備が薄くなるの、兵士が足りてないんだわ、前の時もそうだった。その時を狙ってここを出て、詰め所の裏を炊事場の方へ抜ければその先に厩があるの。そこにいる騎獣がきっと乗せてくれる」
愛衣がそこを通りがかる度に懐いてくる年を取った騎獣がいる。名前は分からないが、明るい赤毛で馬のような体躯に二本の捻れた角を持つ騎獣だ。数年前に軍から引退したという騎獣を世話をしているのは1人の老人で、午前と午後の世話の時間以外は詰め所にいることが多く、祭祀の時間帯は無人になるはずだ。
危険な賭けだったが、もうそれしかないと思った。
愛衣がトワの手を握る。冷え切った冷たい手の温度に目の奥が熱くなる。唯一の希望であるはずの麒麟がこんなに冷え込んでいるなんて。まるで凍り付いた民の心のようで、胸が押しつぶされるような思いがした。
愛衣の中には決して消えない一筋の輝く希望の光がある。大切な兄がくれた希望だ。どうか、この麒麟にも希望がありますように。願いを込めてぎゅうとその手を握り押し頂く。
顔を上げた愛衣の瞳に気圧されたようにトワが息を飲む。
「一緒に逃げよう、トワくん」
4
秋分のその日、雲海の下では強い雷雨だった。その中でも人々は祈りを捧げるために廟にはひっきりなしに人々が訪れる。
雲海を貫く凌雲山の上でも祭祀のためにせわしなく人が行き交っていた。
宮城の奥深く、後宮の一角にある扉の中で愛衣とトワは息を潜めていた。
扉の外には1人の兵士がいる。愛衣が外へ出てその男の気を反らす、その隙にトワも扉を出て建物の裏へ回り、建物の影を縫って厩へ行く、と言うのが愛衣が立てた作戦だ。
愛衣はトワに目配せをすると、器の載った盆を抱えて扉を開ける、兵士の側まで来たところでつんのめったように転び兵士向かって器の中身をぶちまけた。
「うわっ、ガキ、なにしやがる!」
「きゃあ!ごめんなさい!」
愛衣が男に蹴り上げられるのを見て思わず喉から出かかる悲鳴を飲み込む。ここで見つかればすべては水の泡、どころか愛衣は処罰される。飛び出していきたいのを必死で耐えた。
男が着替えのためにその場を離れたのを見てトワが扉から出て愛衣に駆け寄る。
「愛衣」
「大丈夫、行こう」
蹴られたところを抑えながらも立ち上がる愛衣の肩を支えながら2人は歩き出した。
愛衣が言うように上手くいくだろうかと思っていたが、愛衣が言うとおり警備の目は薄かった、王が空位の時代が長く続き、兵の数が足りないというのは本当のようだった。
想像していたよりも容易く厩舎へたどり着いた2人の前に一匹の騎獣が寄ってくる、愛衣がその騎獣の鼻面を撫でると嬉しそうに嘶く。
厩舎の奥に忍び込み鞍と手綱を騎獣の背に取り付けた。――2人の気が緩んだ、その時だった。
ふと感じた寒々しい気配にトワははっと背後を振り返る。トワくん?と見た愛衣もまた身体を震わせ目を見開いた。
「暴虐非道な母親から助けてやったというのに、恩を仇で返そうとするとはね」
豪奢な衣服を身につけ、赤い紅を唇に掃いた黒髪の女。――摩耶。共も付けずに1人でそこにいた。
「どうして……」
「逃げ出さないように、何の対策もしていないと思って?」
愛衣はぐっと奥歯を噛む、恐らくトワがあの地下牢を出たら摩耶に分かるようになっていたのだ、何かの術か、方法は分からないが。腕を袖の中に忍ばせる。――トワだけは、トワだけでもここから逃げさせなければ。
「台輔を王の下から連れ去ろうなんて大胆なことをするわね」
「台輔をあんな所に閉じ込めておいて何が王よ!あなたなんて王じゃない!!」
叫んで袖口から小刀を抜き出し胸の前に構える。トワはぎょっと身体を震わせたが、摩耶は相変わらず不気味な笑みを浮かべている。
愛衣は小さな声でトワに語りかけた。
「トワくん、騎獣に乗って」
「ダメだ、愛衣…」
「早く!」
愛衣の叫びに背中を押されるように騎獣へ足を向ける。同時に愛衣が摩耶に向かって小刀を振り上げていた。
キィンと鋭い金属音がしたと思った、次の瞬間、トワの足下に小刀が飛んでくる。摩耶が鉄扇を振り上げ、愛衣の手から小刀をたたき落としていた。
「愛衣!」
摩耶が愛衣に鉄扇を振り下ろすのが見えた。
鮮血をまき散らし少女の身体が床に倒れ伏す、それを薄く笑みを浮かべながら見下ろした摩耶の身体が唐突に傾いだ。
「な…に…」
目を下に向けると、胸に突き刺さる小刀、その柄を握るのは
「麒麟…が、なんで……」
血を厭い、殊更殺生を嫌う仁の獣のはず。
信じられない物を見たように麒麟を見ると、当の麒麟も驚愕したような顔を蒼白にしていた。
摩耶の身体が膝から崩れ落ち、カシャンと髪飾りが音を立てる。血だまりが広がって行くのを見てトワは愛衣に駆け寄った。
「愛衣!」
身体を抱き上げると、ぬるりと生暖かい液体で手が濡れる。
「とわ…くん……」
「すぐに助けを呼んでくるから、待ってろ」
「だめ……」
愛衣の手がトワの着物を掴む。
「逃げて……」
「何言って…!」
震える手がトワの手を掴み、何かを握らせる。
「王を、見つけて……」
「愛衣」
「王様と、いい国を…作ってね」
愛衣の青が混じった瞳がトワを見上げ、ゆっくりと微笑んだ。
「愛衣!」
だらりと力を失って落ちる手、その瞳が光を失っていく瞬間を見ていた。
唯一トワに安寧をくれた、名前をくれた、トワを麒麟だといった、トワ自身にその自覚など無いのに、助けようとしてくれた。こんな不甲斐ない麒麟のために。
いつも温かかった手から温度が失われていくのを感じながらその身体を抱きしめていた、ずっとこのままでいたかった。だが、厩の外から人の気配を感じて身体を震わせる。
――逃げて
愛衣の身体を横たえ、酷く重い身体を叱咤して立ち上がる。
顔を上げればトワを見つめる騎獣がいる。
天と地が逆転しそうな目眩の中手探りするようにその手綱を掴み騎獣にまたがると、その腹を蹴る。一声嘶いて床を蹴る騎獣はひと飛びに飛び上がった。
その背に縋り付きながら振り返る、小さくなっていく愛衣の亡骸が見えなくなった時、意識が黒く塗りつぶされた。
季節の祭祀の日だってのに酷い雨だ。
ざあざあと降りしきる雨の中、短い茶髪の男は薄暗い街道沿いを走っていた。
ふと、視界の端を何かが掠める。
そちらに目を向けると、茶色い毛並みの獣が飛び去っていくところだった。
「騎獣か?」
その獣がいたあたりに目を落とした男――村瀬拓真はそこにある物に目を見開いた。
人だ!
慌てて駆け寄りその人物を確認する。20歳前後と思われる男だった。青白い顔色に死んでいるのかと思ったが、かろうじて息をしている。
「なあ、あんた、大丈夫か!?」
その肩を揺するとうっすらと目を開く。
「俺は医者だ、すぐ見てやるから途中で死ぬなよ!」
言って肩に担ぎ上げ走る。雨がざあざあ降る中意識を失わないように大きな声で話しかける。
「あんた名前は?!」
「………ワ」
「トワ?トワって言ったか?」
「…みつ……な…と」
「何か言ったか!?」
――見つけないと……
――誰を?
――誰を見つけるんだっけ……
ざあざあと叩きつける雨が世界を霞ませるように、トワの記憶を霞ませていく。
朦朧とする意識の中、ただうさぎのお守りだけを握りしめていた。