馬鹿の耳には念仏より甘言「お前さ〜、まだ調子悪ぃの?」
「へ?」
塾が始まる少し前、次の授業の範囲をうんうん言いながら確認していた燐が不意に志摩に尋ねた。頬杖をついて見上げる青い目にきょとりとした勝呂と子猫丸が、こちらも同じ顔をした志摩を見る。同じところで暮らしていると表情って似るのかもな、と燐が気付きを得ている間に、「大丈夫か?」「いやなんも?」と京都の面々はわちゃわちゃやりとりして首を傾げた。
「なんか反応悪ぃじゃん」
「そぉか?」
「言われてみれば、最近いつもより寝起き悪い気はしますけど」
「それは夜更かしのせいちゃいます?」
「相変わらずやなお前」
呆れる勝呂が勉強モードに戻ろうとするので、待て待てと燐は頭をひねる。この様子だと気付いてなさそうだが、そろそろ周りは知っておいた方が良いと思っていたのだ。
「ん〜〜、耳貸せ」
「ひゃわ!待ってこそばいって!?」
叫ぶ志摩の右耳を引っ張って、燐は内緒話のように一言伝える。実証が一番だ。
「俺はなんて言ったと」
「どうせエロ魔人やろ!」
「は!?なんでわかんだよ!!」
「燐くんの言いそうなことなんてお見通しやで〜」
ウインクして勝ち誇ったように言う志摩は、耳をさすりながら笑っている。「ほんまに大丈夫?」なんて子猫丸は志摩を慮るが、勝呂は燐にも呆れた視線を向けた。
「なんやってんこれ」
「だぁぁ、ぜってぇおかしいんだって!」
「何やってるの、もう授業始まるよ」
燐が声の方へ目を向けると、今入って来たところだろう雪男まで呆れ顔だ。しかし、雪男なら。
「お前もそう思うよな!!」
「え、なに??」
燐の勢いに面食らった雪男は、片腕で荷解きをしながら応える。
「志摩、こないだから調子悪いよな」
「はぁ」
「ほら、先生もポカンやで」
「もうええやろ奥村、なんやあったらこいつも言うわ」
「でも勘の鋭い奥村くんがここまで言うの、ちょっと気になりますね」
「さっすが子猫丸!!」
子猫丸に抱きつく燐の後ろ、「子猫さんまで〜」とへろっと眉を下げる志摩が今の雪男には正直愉快だった。なので、もう少し具体的に話を聞く気になったのだ。この判断を自身で褒めてやりたい。
「どこがどう悪いの?」
「多分耳だと思うんだよな〜」
「え、耳?」
「おー、右側の反応悪いんだよ」
「いつから?」
「俺が気になったのは先週」
「志摩くん、本当ですか?」
燐がこう言うということは魔障の類の気配は感じないということだろう。だからこそ、雪男の中で悪い予感がしていて、それが表れた眼光の鋭さに志摩は、もしやこれめんどいやつか?と空笑いを浮かべる。
「あ〜〜、ちょっと聞こえづらいかな〜くらいですよ?」
「いつから?」
「先週?」
「もっと詳しく話して」
「んん?体育の後に数学あった日なんやけど、その授業中やったかな」
「よく覚えてんな」
「急やったしね」
性急な質問に意外と記憶が残ってて良かったなと志摩がホッとしたのも束の間。
「この馬鹿!!」
「へ?」
雪男の稀に見る突然の罵倒に、全員がフリーズした。しかし、雪男は意にも介さず志摩を睨みつける。
「授業してる場合じゃない、すぐ一緒に来てください!」
「え?え???」
「お、奥村先生?」
「自習!自習です!!」
志摩と勝呂の困惑の声は退室しようとする雪男には届いていない。着いてこない志摩に痺れを切らしてか、雪男はさらに声を荒げる。
「兄さんその馬鹿持ってきて!!!」
「ええ!?」
「持って来てってば!!」
「お、おう?」
燐も雪男の行動の意味は分からなかったが、そこは双子。こういう時は従った方が良いので、志摩を肩に担ぐ。
「ひえ!?山賊の持ち方やん!??」
なんの断りもなくひょいっと持たれた側の志摩は流石に騒ぐが、燐の体幹はびくともしない。
「早く来て!!」
「はいはい」
「お助け〜〜〜!!!」
教室には志摩の悲しい叫びだけが尾を引いていた。
・・・
「おい、連れて来たぞ」
バンッとどでかい音で開かれた雪男個人の準備室は狭いが整頓されていて、志摩を担いだ燐はひょっこりお邪魔した。
「そこ置いといて」
「モノ扱いすぎへん?」
「お前がなんかやらかしたんだろ」
「なんもしてないやん〜!」
言いながらもポンと丸椅子に置かれた志摩は、燐を見上げてワァと喚く。そのお気楽な声に、最近沸点の低い雪男は思わず怒鳴っていた。
「何もしてないのが悪いんだよこの馬鹿!」
「ひえ、そんな怒らんでもぉ」
「聴こえなくなるんですよ!??」
そう、見立てが正しいと片耳は聴こえなくなる可能性がある。雪男は人生に関わるその事実に、ただでさえいっぱいいっぱいのリソースを刺激されても対応しなければと思ったのだ。いけすかない男だけれど、一応は生徒なので。
「え、そんなやべぇの?」
「まぁ片方だけですやろ」
「馬鹿、馬鹿すぎ」
「静かで案外良かったんですけど」
志摩が言い終わる前に、ゴンッと燐が拳をおろした。
「あでっ」
「馬鹿野郎ですね」
ため息を吐きながら、雪男はいくつか器具を準備して、改めて魔障の確認を進める。
志摩という人間が分からない。「騎士団側ですよ♡」と言う口で「こっちに来ます?」と問う。二重スパイは理解しているが、お前のこっちはどっちなのか。アホ面で片耳を放るその馬鹿さは、普段のバランス感覚と乖離していて気持ち悪かった。こちらはそんなのに拘っている場合ではない。でも、知っててこれを放置できるほど投げやりにはなれなかった。
「雪男がこんなに馬鹿って言うって相当だぞお前」
「それやばない?」
「やばい」
「兄さんも兄さんだよ!気付いてたんでしょ!?」
「おい、流れ弾じゃん」
「ぷくく、高みの見物してるからやで」
「志摩くんは黙って」
「はい」
変わらぬ二人のやりとりに気が抜ける。空気をシメて話を聞かなければ。
「兄さん」
「いや、なんとなくだぞ、なんか反応悪いな〜くらいでさぁ」
「いつくらいから」
「へ?先週?」
「何曜日?志摩くんも時間割見たら分かるんだから自分が気付いた日調べて」
「ええ?塾あった日で、う〜〜〜ん、ああ、実習で裏山行った日じゃん?」
「そうなん?」
「志摩くんは時間割いつだったの」
「ひえ、水曜です」
「今日は月曜か、良かった」
雪男がホッと息を吐く。燐も記憶を掘り出して頷いた。
「裏山行ったのも水曜だな」
「そうやった気ぃするわ」
「ゴブリン出てきた時、お前気付くの遅くてきになったんだよな」
「そうやっけ」
「日にちが合ってるなら良いよ」
「あれ?もしかして裏付けとってた?」
「こうでもしないと信用できない」
「流石に誤魔化さんよぉ」
「そこの信用はないよな」
「ええ〜〜」
「今の所の見立てだと、一週間以内に治療始めないと回復しない可能性あるから」
その言葉に、割とゆるかった志摩も燐も目を見合わせる。
「え!??」
「やべぇじゃん!?」
「どうせ聴こえないのもちょっとどころじゃないでしょ」
「そうなのか?」
「やー、もうちょい聴こえへんかな」
「お前治す気ねぇの?」
「いやいや、こんな時間制限付きと思ってなかっただけやって!」
さっきまでびっくり顔だった志摩が冷や汗を垂らしながらもへらりと言う。燐はその顔をまじまじと見た。
「ふ〜〜〜ん、まぁそれはホントっぽいな」
「奥村くんは信じてやぁ」
「お前信用できるとこねぇもん」
「ひどい〜〜〜〜」
「治す気あるなら態度で見せてくださいね」
「はぁい」
「魔障じゃないことは確定したので病院行きますよ」
雪男は、カチャリと検査しつつ書き込んでいたペンを置いた。
「このまま先生が診てくれるんじゃないん!?」
「専門医に診せるんですよ、病院嫌なんて言いませんよね」
「はい先生」
「大人しくなったな志摩」
小さくなる志摩に燐が笑う。そこにピッと封筒が突きつけられた。
「兄さん、逃がさないでこれ持って総合病院連れて行って」
「え?お前は?」
「自習の範囲を指定してから向かうから」
雪男が腰を上げたので、志摩も立ち上がりながら「俺一人でも……」と言いかけて。少し高い位置から雪男の冷えた瞳が降ってきて、志摩は大人しく口をつぐんだ。
「志摩くんが聴こえなくなろうがどうでも良いんですが、知ってて何もしなかったってのが耐えられないんですよね」
「ひい」
「一人で行かせると何もしなかったってことになりそうなので、二人で行ってください」
「ひゃい」
「まかせろ!」
そのまま二人は鍵穴で病院近くへ蹴り出されるのだった。
・・・
「こわすぎへん?」
蹴り出された先は当然の寒さで、恐怖と気温に志摩は一震えした。頭に手を当てた燐は呑気に笑って口を開く。
「心配してるんだと思うけど」
「どうでも良いって!言ってましたけど!」
「怒ってるからな」
「なんで!?」
「ん〜〜、自分のこと適当にしてる感じが癪に触ったんじゃねぇの?」
「そんなん先生こそちゃうん」
「お前もそう思うの?」
目を丸くした燐に、志摩はあの自殺まがいの訓練を思い浮かべて苦笑する。
「自分にめちゃ厳しそうやん?」
「だよな〜〜〜」
「自分もそうやからって俺にそんな怒らんでもええやんなぁ」
「雪男は優しい奴だから、自分が助けられるかもしれない人を放置できないんだろ」
「良いお人ですねぇ」
医学の心得を学ぶということは人を救いたい気持ちがあるということだ。志摩は、頼るのが苦手なクソ真面目に対して、しみじみと自分にはないその善良さが報われればとうむうむ頷いた。
「俺はお前が良いなら良いけど、そういうの寂しい」
「へ?」
「どうせ分かんないだろうけど」
燐がさっぱり言い放ったことが突然すぎてよく分からなくて、志摩はしばし頭を回す。こっちを見ることもなく歩く燐は、いつもと変わらないフラットな面持ちで、手掛かりがなさすぎた。
「え〜と、寂しいん?」
「寂しい」
「ご、ごめん」
「謝ることじゃねぇだろ」
「ぁ、そうやね」
「なんですぐ言わなかったんだよ」
単純な疑問だったので聞いただけで、燐としては答えがなくても良かった。けど、見上げた志摩がむんっと何かしら考えようとしていたので、遠い電車の音を聞いて待つ。
「……数学の授業中の問題解く静かな時間にパッと音が減ってん」
「おう」
「で、先生が話し出して、声小さない?と思ったので右側聴こえへんなて気付いたんよ」
「へぇ」
「この状態で左塞ぐと、それだけでほんまに静かになってさぁ。別に話はできるし?悪ないやんって」
「深い考えあったわけちゃうねん、こんな緊急やと思わんかっただけなんよ」と志摩は締めくくった。ただの日常の出来事の報告みたいで、志摩は、これでいいのか?と眉根を寄せたが燐は満足したようだった。
「静かな方が良かったのか?」
「寝るにも何するにも良くない?」
「そんなもんか」
「なんやろ、実家の森の中みたいな感じで、たまに静かな分には落ち着くなぁって」
「あ〜、森とかに比べると学園は結構騒がしいよな」
「そうそう、今寮やしさぁ」
「耳栓買えよ」
「それはそう」
「馬鹿だな」
「奥村くんまで〜!」
ぴえんと泣き真似をする志摩を見上げて、燐はちょっと笑ってやった。
「旧寮は静かだぞ」
「ぞえ?」
「静かなとこ来ればいいだろ」
「もてなしてくれるんや」
「調子乗んな」
「ぴえ」
「部屋くらいは貸してやる」
「おやさしい」
「お茶はあるから、お菓子買って来いよ」
「コンビニで許してな」
いつものへらっと笑いで調子を戻した男に、燐は少しホッとした。音を半分捨てた志摩は、ゴブリンにもしらっとしていたし、雑談の笑いも曖昧な瞬間があった。現在から離れようとしてる気がしたのだ。別に、そんな方法いくらだってあるのに。
「もうこういう訳分かんねぇことすんなよ」
「訳分からんかな」
「言えば良いだろ、困ってんなら」
「別に困ってはなかってんけど」
平熱で話す顔に嘘はなさそうだが、自覚がならよりタチが悪い。背中をバシッとすると「いった!ほんま馬鹿力!」と鳴き声をあげる。
「屁理屈捏ねんな」
「はぁい」
「適当すんな」
「はい」
「ちゃんと言え」
「……うん」
背中を丸めてさすりながら、口を尖らせる志摩の頭はちょうど良い高さになっていたので。燐はなるべくぐちゃぐちゃになるようにわしゃわしゃしてやった。