亡霊の生まれた日 夢のなかで、幼い自分の首を絞めていた。
小さな喉仏。細い手足。病的に白い肌。
不気味なまでに生気を感じさせない子どもは、抵抗もせずにただじっとこちらを見据えている。その、凪いだ水面のような目が神経を逆撫でする。
何もできないくせに落ち着き払って。
何もできなかったくせに生き延びて。
―お前なんて生まれてこなければ―
そう思い手に力を込め
そこでいつも夢は終わる。
◇◇◇
自分は可愛げのない子どもだったのだろう。
実際の思い出と夢のなかの自身とを照らし合わせながら、スペクターは鼻で笑う。誰にも心を開かず施設の隅でずっと膝を抱えていた孤児の自分と、殺されそうになっても顔色ひとつ変えず寧ろ相手を挑発するかのように見つめ返していた虚像の自分。さぞかし周りの大人を困らせ、ときには苛立たせていたに違いない。
やはり自分は、人間として生まれてくるべきではなかったのだ。
◇◇◇
夢のなかで、幼い自分の首を絞めていた。
猟奇的な場面に似合わない、穏やかな湖のような目が静かにこちらを見返してくる。その涼しい顔が、無性に憎たらしい。
実の親にも捨てられたくせに。
施設の誰とも馴染めなかったくせに。
情のない樹にしか縋れないくせに。
―形だけ人に似せた紛い物が―
壊してやろうと手に力を込め
いつものように夢は消えた。
◇◇◇
「スペクター」
心地よい低音が耳を擽る。
「何でしょう、了見様」
振り向くと、この世の何よりも大切な主が、マグカップを2つ持って微笑んでいた。
「ゲノムが珍しい茶葉を入手したらしい。どうだ、一緒に実験台になってみないか」
「あの人はまた了見様に向かってそんなことを…」
そうは言ったものの、ゲノムが了見や自分に怪しげなものを飲ませることはないだろう。実際、マグカップから漂ってくるのは決して悪い匂いではない。
「効能としては疲労回復があるらしいが」
「信用なりませんね」
くすくすと笑いながら、主の向かいの席に着く。三騎士に対して軽口が叩けるのも、ハノイのリーダーのご相伴にあずかれるのも、補佐官の特権だ。
「イグニス追跡に向けて忙しくなるとは言ったが…流石にお前は根を詰めすぎだろう。ゲノムなりにお前を心配しているのだと思うぞ」
カップから離れた主の口元が艶かしく光る。目眩がするほどに美しい。
だが問題は、その口から放たれた言葉のほうだ。
「…そしてそれは私も同じだ。右腕たるお前に倒れられでもしたら、私は何もできなくなる」
時が止まったかと思った。
敬愛する主が。
自分を右腕だと。
自分がいなければと。
テーブルの向こうの主は、優しく、だが見間違えでなければ僅かに照れくさそうに笑っている。
あなたのためならば、生まれてきて良かったのかもしれない、と。
◇◇◇
夢のなかで、幼い自分の首を絞めていた。
あいも変わらず白々しい態度にうんざりする。
その瞳に映る自分の姿が許せない。あの美しい人の傍にいる自分が、こんなにも憔悴した醜悪な顔をしていることが許せない。
「…役立たず」
初めて夢のなかで声が出た。
「了見様は、私を右腕だと認めてくださった。私が必要だと仰った。お前じゃない。親に捨てられて死に損ない、あの楽園からもおめおめと助け出され、唯一心許せる存在だった母からも引き離された無力なお前じゃない。この私を必要としてくださった!!」
初めて夢のなかで力を込めた。
「…お前は、いつまでここにいる」
膨らんだ蕾の先端が開くように、真一文字に結ばれていた子どもの唇が微かに動いた。何かを話そうとしているようにも、笑おうとしているようにも見えた。
◇◇◇
ハノイの計画が、本格的に動き始めた。だというのに
「お前が出る必要はない」
主の態度は頑なだった。
「何故ですか。きっとお役に立ってみせます」
「役立つことはわかっている。だがあまりにも危険が過ぎる」
「それは計画に関わる全ての人間に言えることでしょう」
主の美しい顔が苦渋に歪む。そんな顔をさせたいわけではない。だが、ここは自分も譲れない。
「私は貴方の補佐官として、貴方の右腕として、最後まで共に戦います」
あの日見つけてくれた主の傍らに付き従うこと。それだけが自分の存在意義だった。
◇◇◇
慣れてしまった。
自分に向けられる冷めた目にも、夢のなかなのに妙に生々しく脈打つ首筋にも。
だが、もう声が出せることも力が込められることもわかっている。
「…羨ましいか」
子ども特有の滑らかな肌に指を食い込ませながら問う。
「計画に、参加させていただけることになった」
少しは苦しそうな顔をすればいいのに。
「私はお前とは違う。あの方に名前を授けられ、あの方に名前を呼ばれる私は、誰からも呼ばれなかったお前とは違う」
そうだ。自分は、今手のなかで死につつあるこの子どもの名前すら忘れてしまった。
誰からも求められず、名前さえ失ったこの哀れな存在と訣別して、自分は改めて“ハノイのスペクター”として生まれ直す。
自分は最初から亡霊だった。
人知れず生まれ、捨てられ、見出されたかと思えば排除され、ずっと誰にも受け入れられず、誰も受け入れず生きてきた。
だが、今それは武器になる。
人の世界に生きない亡霊は、人の倫理に縛られない。
人の心を持たない亡霊は、人の説くくだらない愛や正義に惑わされない。
全てを振り捨て、空間を切り裂いて疾走る弾丸にも、影として付き従うことができる。
「…お前はただの人間だ」
子どもの白い顔が、一層白くなる。
「非力で無能な人間のお前を捨てて、私はあの方の影になる」
人の情などいらない。
血の繋がりなどいらない。
ただ、あの方の信念に殉ずることができればいい。
「さようなら、人間の子ども」
指の下の骨を砕いたかと思った瞬間
「スペクター」
目の前の子どもに“名”を呼ばれた。
「にんげんをやめた、ぼうれいのスペクター」
子どもは笑っていた。
「おたんじょうびおめでとう」
花が綻ぶような笑顔を残し、子どもは無数の花弁となって消えた。