きらきらひとつ お空にひとつ 火の粉の爆ぜる音がする。
「ああ……ああ………」
我が母なる聖天樹が燃えてゆく。
「リボルバー様…リボルバー様……!」
プレイメイカーが遠ざかってゆく。
「リボルバー様…申し訳ありませんリボルバー様……!」
絶対に、通すわけにはいかなかったのに。
ふらふらと、もう姿の見えなくなったプレイメイカーをそれでも追おうと歩き出したスペクターの眼前に、一際大きな炎が上がった。
「あ………」
業火に包まれ裂ける幹。灼熱の風に煽られ踊る葉。
自らを優しく包んでくれた大樹の面影は、もうそこにはなかった。
「お母…さ……」
スペクターは思わず手を伸ばした。
消えゆく母に。
届かない、最愛の主に。
ふ、とスペクターは目を開いた。目を灼く忌々しい光も肌を舐める不快な熱も感じない。どうやら自分は現実世界に戻ってきたらしい。
(とは言え……)
横たわったまま、指先ひとつ動かせない事実に気づく。意識もはっきりとはせず、まるで漣の上を揺蕩っているかのようだ。気を抜けばすぐに脳は暗転しそうになる。
(これが代償か…)
リボルバーが恐れていたこと。三騎士が陥った事態。
今、自分の意識はハノイの塔に呑み込まれつつあるのだ。
目覚めたのはただのバグ、蠟燭の炎が消える前に一瞬ぱっと燃え上がるようなものだろう。
(別にあのまま朽ちてしまっても良かったのに)
母を失った自分など。主を守れなかった自分など。
(リボルバー様………)
ゆっくりと目を閉じる。目尻からこめかみに向かって、何か濡れたものが伝う感触がした。
(申し訳ありません、リボルバー様)
◇◇◇
リボルバー、もとい鴻上了見に出会ったときに、自分の人生は輝きを取り戻したと思った。それほどまでに彼は明るく美しく、そして
「…君をひとりぼっちにした犯人のうちのひとりだよ」
あの素晴らしい事件の関係者だった。
◇◇◇
「あなたは、だれですか」
発した声は思った以上に弱々しかった。当たり前だ。施設を抜け出してからもう数日間、食べ物はおろか水も口にしていない。同じ飲まず食わずでも、あの事件のときとは大違いでただひたすらに惨めだった。誰も自分を見ない。誰も自分に気づかない。唯一優しく守ってくれた母さえも奪われて、もうこのまま朽ちてしまっても良かったのに。
そんな自分を迎えに来たというこの人は、いったい。
銀の髪に浅黒い肌、そして、冬の星のように冴え冴えと光る目をした少年は、震える声で答えた。
「…君をひとりぼっちにした犯人のうちのひとりだよ」
◇◇◇
(あのとき私がどれほど嬉しかったか、結局貴方は最後までわかってくれませんでしたね)
横たわるスペクターは笑みを浮かべようとしたが、既に口元の筋肉を動かす力すら残っていなかった。もうじきこの意識も消えてしまうのだろう。
ならば最後まで、リボルバーのことを思っていたい。自分の人生に光を与えてくれた唯一の人のことを。
今度は自分がひとりぼっちにしてしまう人のことを。
(リボルバー様…)
ごめんなさい。
◇◇◇
神の御使いのような少年に連れられ一緒に暮らすこととなった邸宅はとても広くとても静かで、海を一望できる場所に建っていた。子ども心にも“お金持ちの家”だとわかり無意識のうちに体を強張らせてしまった自分に、少年は「好きに過ごしてくれて構わないよ」と微笑んだ。
案内中とある一室の前で立ち止まり
「ただ、この部屋にだけは入らないでね」
と表情の読めない声で告げたとき以外は。
そこが、少年の父でありロスト事件の首謀者であった“鴻上聖”の病室だと知ったのは、それから暫く経ってのことだった。
◇◇◇
(貴方にとって私はずっと“ロスト事件の被害者”だった)
(“鴻上聖に仇なす者”だった)
(貴方は私からも、他ならぬこの私からも、“鴻上博士”を守り抜いた)
唇の隙間から涙が入り込んだのだろうか。苦い。
全身の感覚をほぼ失いつつある今でも。
◇◇◇
鴻上了見、と名乗った少年は優しく聡明だった。施設でも浮いていた自分を受け入れてくれて、知識を施してくれて、新しい『仲間』を紹介してくれて。三騎士との交流は、最初の方こそぎこちなかったものの徐々に気の置けないものになっていき、初めて滝に叱られたときは、もしかしたらこれが家族というものなのかもしれないと感動すらおぼえたものだ。叱られた理由はもうはっきりしていない。ただ、身を縮める自分の傍らに了見がいたことだけは確かだ。彼はいつも、自分の一番近くにいてくれた。
非人道的な事件を起こした犯罪集団だとしても、自分にとっては間違いなく温かな『家族』だった。
そして了見は、自分にとっては間違いなく特別な存在だった。
◆◆◆
鴻上邸で暮らすようになってから何度目かの夜、酷い悪夢を見て飛び起きた。
母たる樹が伐り倒されたときの夢。記憶にない筈なのに、記憶にないからこそ想像力が掻き立てられ、無意識は恐ろしい光景を心に描き出した。邸宅の側を吹き抜ける海風が、鼓膜を軋ませ、心臓を震わせるチェーンソーの音とでも重なったのだろうか。
夢の光景と海からの音と確かな喪失感とに打ちのめされ一人泣いていると
「…どうしたの?」
部屋の外から柔らかな声がした。
「泣き声が聞こえた気がして。……入ってもいい?」
かちゃ、と遠慮がちにドアノブが回され、細く開いた扉の隙間から了見の顔が覗いたとき、今までとは違う涙がどっと溢れた。
―自分は、ひとりぼっちじゃない―
「やっぱり泣いてたんだ。……ごめんね…やっぱり嫌だよね…やっぱり寂しいよね……本当にごめん、本当にごめんね……」
ベッドに上がり、小さな自分をこれまた小さな体でぎゅっと抱きしめてくれた了見に、必死で違う違うとうったえた。
寂しいけど寂しくない。ひとりだけどひとりじゃない。今はもう、大丈夫。
貴方がいるから、大丈夫。
それでも心配する幼い保護者に夢の話を打ち明けると、了見はそっとカーテンを開け「今夜は天気が悪いよね」と呟いた。
「本当は、お星さまも海もとっても綺麗なのにね」
そう言って自分に布団をかけ直すと体をポンポンと叩きながら
「きらきらひかる…」
歌い出した。
「え?」
思わず目を見開き声をあげると、了見は焦ったような表情を浮かべ
「あ、駄目だった?風の音が聞こえない方がいいかなって思って。ごめんねもう眠い?静かな方が良かった?」
あたふたと弁解を始めた。
その姿がとても可愛らしくて、何より自分のために考えて動いてくれたことがとても嬉しくて。
「いいえ…歌ってください。お願いします。聴きたいです」
ごめんねもう行くねとパタパタしだした姿にしがみつき、強請ってしまった。了見は少し驚いたような顔をしたが「君がいいなら」とベッドサイドに戻り、すぅと息を吸い込んだ。
「きらきらひかる おそらのほしよ」
それは有名な童謡だった。自分でも知っているような。今まで何人が口ずさんだか想像もできないような。
「まばたきしては みんなをみてる」
それが今、自分のためだけに歌われている。
みんなではない、自分だけをみている。
「きらきらひかる おそらのほしよ」
空ではない。空を映す海面でもない。
星は今、自分の目の前にいる。
◆◆◆
その後も眠れない夜が訪れる度、了見は自分の側で歌ってくれた。他の歌のときもあったが、自分が一番好きなのはやはり了見が初めて歌ってくれた『きらきら星』で。
しかし、いやだからこそ、了見が
「この歌ねぇ、日本ではお星さまの歌になってるけど、元々は初恋の歌だったんだよ」
と恥ずかしそうに教えてくれたときには、遂に見透かされたかとどきまぎしたものだ。
尤も当時は、自分だって自分の気持ちがよくわかっていなかったような気がするが。
◇◇◇
(すぐにわかるようになりましたけどね)
あのとき海風を遮るように柔らかく響いた歌声は、今は耳に残る炎の音を打ち消してくれている。
(貴方はずっと私を助けてくれていたのに)
(私は貴方を助けることができていたのでしょうか?)
私の声は、貴方に届いていましたか?
◇◇◇
「夜風に当たり過ぎるとお体に障りますよ」
イグニス殲滅のための計画が本格的に動き始めてから、主は物思いに耽るようになった。今日も今日とてひっそりと行方を眩ませたその姿を探せば、湿り気を帯びた潮風が吹き付けるなか、一人夜の海を眺めている。
突然体に触れるなどという不躾なことはせずに背後から声をかけると、了見はゆっくりと振り向いた。
「…お前か。お前なら…まぁいい」
「私だろうがファウストだろうがバイラだろうがゲノムだろうが、こんなに冷え切った外にいる了見様を見たら同じことを言うと思いますよ。お部屋に戻りましょう」
お前ならいい、の裏の意味を勘ぐりたくなるが、敢えてそこにはふれずにただ了見の身を気遣う。
今の自分にできることは。
今の自分がしても良いことは。
後悔、贖罪、父親、仲間、世界、過去、未来。
全ての責を一手に引き受け、それでも尚歩み続けようとする主をこれ以上悩ませるわけにはいかない。
自分はただ主の傍らに付き従い、その道を共に歩むだけだ。「ここにいます」と。「貴方の道についてゆきます」と。「貴方が私を孤独から救ったように、今度は私が、貴方を決してひとりにしない」と叫びながら。
―絶対に、共に背負わせてはくれない人だから―
「星が…。今夜ぐらい静かな天気なら見られるかと思ったんだが、中々上手くはいかないものだな」
もういつ見られるかわからない、見られるときに見ておきたかったんだが、などという不穏な呟きには気づかないふりをして、主の隣に立つ。
「何をお探しに?」
「昔父と見た…星が海に作る道だ」
「ロマンチックな響きですね」
「今笑っただろう」
「いえ、そんな。素敵な言葉だと思います」
星が海に作る道。
鴻上了見の歩む道。
「さぞかし美しい光景なのでしょうね…私も見てみたいです」
しかしそれに返された言葉は
「ああ。お前もいつか見られるといいな」
お前“と”ではなかった。
長い付き合いだからこそわかる、優しいがどこか他人行儀な笑顔。どこか壁を感じる笑顔。
そのときに「入れない」と思った。
かの父親が敷いてしまった贖罪のレールに。
この殉教者が作り上げてしまった贖罪の世界に。
自分がいくら「赦す」と叫んでも。
◇◇◇
(2番の歌詞は…なんだったか……)
人生の最後を彩るには、あまりにも悲しい思い出。だが、そんなにも焦がれてやまなかった主の声で告げられた童謡の歌詞は、自分の心情にぴったりだった筈だ。
そういえば最近はあまり歌ってくれませんねと茶化しに見せかけて強請ってみせれば、こんな低い声で童謡を歌われても不気味なだけだろうと笑われた。そんなことありません私は了見様のお声が好きですと即答したが、本当は了見様の全てが好きですと返したかった。
好きだからこそ、笑ってほしかった。
幸せになってほしかった。
自由になってほしかった。
その荷を下ろしてほしかった。
そのための助けに、なりたかった。
(ああ…そうだ……童謡の…歌詞……)
昏く落ちてゆく意識のなか、独り白いコートを翻して歩いてゆくリボルバーの幻覚が見えたような気がした。
(きらきらひかる おそらのほしよ…)
私にとって貴方は光だった。
(まばたきしては みんなをみてる…)
私を見てほしかった。
貴方を肯定する私を見てほしかった。
貴方に拾われて、貴方のそばで間違いなく幸せになった私を見てほしかった。
(きらきらひかるおそらのほしよ…)
貴方を独りで戦わせることを、貴方をひとりぼっちにしてしまう私のことを、どうか許してください。
(2番…は…)
思い出した。
自分の願い。了見の歌声を聴きながら、思い悩む了見を支えながら、神など鼻で嗤う自分がそれでも抱えずにはいられなかった願い。
(みんなのうたが とどくといいな………)
私の声が届けば良かった。
貴方は間違っていなかったと。
貴方のおかげで私は救われたと。
貴方が私を幸せにしたと。
私は貴方を赦すと。
(ずっと、伝え続けていたのに)
リボルバーは、鴻上了見は聞き入れないだろう。
己への糾弾を真っ向から受け入れ、贖罪の道を歩み続けるだろう。
それが自分の星の道だと信じて。
自分だけが父に示された道だと信じて。
たった独りで。
(強い貴方を、強いからこそ、絶対にひとりぼっちにしたくなかった)
(貴方の力になりたかった)
(貴方の救いに、なりたかった)
地に根付く樹は、空の星には届かない。
※『きらきら星』
作詞:武鹿悦子