その痕に気づいたのは、野盗が築いた半地下の根城から脱出した直後のことだった。
これはなんだ? 縄痕?
肘に近い部分に赤黒い渦。巻き貝の形に似たその痕は他の傷とは違う痛みを肌に走らせている。いや、今は自分の些事に気を取られている場合ではない。稲光が走る雲居の下、リンクはゼルダの手を取り走っていた。長い下草がやけに足に絡む。グンと後方に引かれる感覚に振り向く。
「すみません。急ぎすぎましたか」
ゼルダは首を横に振る。しかしその大きく上下する肩と赤らんだ頬が限界であることを告げている。バリバリと空気を裂く稲妻。雨が降るのも時間の問題。リンクは周囲に目を走らせた。
「こちらへ」
岩壁に黒々とした洞が開いている。ゼルダの背を支えるようにして、リンクはそこへと走り込んだ。廃坑道だろうか、奥へと深く続く洞。駆け込んだ途端、雨が一気に地面を叩いた。
濡れていない地面に即席の居場所を作る。リンクは手早く火を起こし、ふたりは赤々と岩壁を照らす炎で温まった。
「ここは城に近いのでしょうか」
「街道沿いではなさそうです」
そんな会話をしている最中だった。リンクは自身の異変に気づいた。体のそこかしこがおかしい。血管という血管が激しく脈打つ感覚。特に指先と下半身がひどく熱く、何かを求めるように鼓動する。まるで獲物を狙う大蛇の腹のようだ。
「リンク?」
言葉の途切れたリンクを不思議に思った姫の手が肩に触れた。
「……っ」
その瞬間、カッと皮膚に火が灯った。反射的に姫の手を遠ざけるように肩を動かした。この症状をリンクは覚えている。症例を散々見てきた。
呼吸は浅く、体の芯が燃えるように熱い。これは興奮剤の一種だ。あの裏街道で扱っていたのと同じ成分。リンクは青ざめた。あの時、縛られ気絶していた時に何かを与えられたのだ。
く、あの螺痕か。
症例の行き着く先がどうなったか知っている。目を前へと向ければ、突然の自分の行動に首を傾げている花顔があった。決して傷つけてはならない人。
ドクリと体の奥で意思とは無関係の脈動が始まる。それを抑える術をリンクは今、持っていない。
「ぐ……」
「リンクどうしたのです! 手をこちらへ。体を横に――」
姫の指先が再び肩に掛かる。
「ふ……く、」
それだけで体の表面に奥底から何かが染み出てくるような感覚に陥る。これは欲望だ。抑えきれなかった末路は悲劇しかない。リンクは素早く周囲を見回した。目の端に綱端が見えた。さきほどまで自分を縛り、姫をも捕らえんとした縄。それが今は救いになろうとしている。
「何をするのですっ! リンク!」
ぐっと縄を掴むと、自分の両手首に口と体を使って巻き付けた。それから岩の上を通し、その咥えたままの縄端を姫へと差し出す。
「ふ……ぐ、こ……むす……ひ、め」
咥えたままでは言葉は上手く出てこない。姫はきっと自分を縛ろうとはしないだろう。ならばとリンクは全体重を掛けて、縄の上に転がった。
「ダメ、リンク! 息が止まってしまいます!」
縄は首に掛かり、そのまま前へと体を引きずれば、両腕と喉と上半身とが岩壁に貼りつくように固定されていく。目の前で起こっていることの意味の片鱗すら掴めない姫が、半狂乱の声を上げて綱を解こうと指を掛ける。
「いけません! 姫様」
体の固定に成功したリンクはようやく言葉を発した。
「なにをしているのですリンク! お願い話して下さいっ」
姫の悲痛な声。耳には届いているのにどんどんと遠ざかっていく。薬が回り始めた証拠だ。
「離れて下さい、俺から。俺の手が届かぬ場所に」
外は雷雨。洞の外にはとても避難させられない。こうする他、リンクにできることはなかった。いつまで耐えられるだろう。いや耐えなくてはならない。理性は分厚い暗幕の向こう側へと押しやられ、現実感を失っていく。姫の自分の心配する声が、甘く甘く脳髄に響く。
ああ。
このまま本能の声に従えば、どれほど。
そこまで考えて、リンクは慌てて頭を振った。すでに正しい思考を封じられようとしている。この興奮がどこまで続くのか、与えられた量と濃度が分からない以上、正確には計ることはできない。嵐が過ぎるのを自ら拘束した縄に捕らえられたまま過ごす他に、大切な存在を傷つけないでいられる方法はない。
「ぐ……。はぁ……」
熱く体がたぎる。腹底からうねるような波がやってくる。感じたことのないほどの圧倒的な●●。
「リンク、お願い。訳を話して下さい! さきほどまでの傷がもっと酷くなってしまう」
「いけません。近づいては」
「でもこんなに汗を……」
ゼルダの手にした柔らかな布が額に浮かんだ玉のような汗を拭く。ただそれだけなのに、待ちわびた感触に肌の上を痺れるような歓喜が走り抜ける。皮膚は粟立ち、もっと欲しいと心臓に伝えた。
「あ……ぐ、」
リンクは喘ぐ。喉は枯れているのに、口のなかに涎が溢れてくる感覚。リンクは自分の腕に歯を立てた。
「ダメ! リンク! お願いです! 自分を傷つけないでっ!」
口の中の血の味がわずかだけでも理性を取り戻させた。眼前の美しい顔が悲しげに歪み、リンクは目を閉じた。闇のなかでじっとこの淫靡な波を耐えればいい。どんなに時間が掛かったとしてものやり過ごせばいい。嵐が過ぎるのを。
「俺から離れて。どうか……俺が鎮まるまで待っていて下さい」
姫の接近を牽制した時、不安げだった姫の表情が変化した。
「……媚薬ではありませんか?」
思わず息を飲んだ。姫には知られたくなかった事実。男女の差異をどれほどご存じなのか、リンクにはわからない。男が媚薬を盛られどうなるのか、姫は知っているというのか。
その一瞬の迷いと戸惑いがリンクの瞳を彷徨わせた。それをゼルダは見逃さなかったようだ。ずいと顔を近づけると目を背けることすら許さぬように、まっすぐにリンクを見た。
「そう……なのですね」
そうですとも違いますとも答える前に、姫はコクンと頷いた。
「私が盛られた媚薬と同じ効果……なのですね」
気づかれていた。最初からあの男の顔を姫が忘れるはずもないのだ。一目、しかも暗がりで一瞬見ただけの頭の顔。それでも自分の体を乗っ取った媚薬を与えた者の顔を、姫は忘れてはいなかった。
リンクは観念して、頷いた。視線を合わせることができない。その澄んだ翡翠の瞳で見つめられるだけで、体の芯はますます火照り、その体を欲し、血は下半身の中心へと注がれていく。
「どうか……離れて下さい」
浅く短い呼吸の間で、姫に言えたのはそれだけだった。どうかわかって欲しい。どれほど苦しいかを。
この媚薬がもたらす加虐的な気持ちでも、耐えられないほどの欲求でもない。
貴女を求めることが、薬のせいだと思われたくないのです。
リンクは唇を噛んだ。