水着剣豪七色勝負。なんだか聞いただけで頭が痛くなる響きだが、とにかくマスターはその七つある勝負に勝ち抜き、最終的には特異点の支配者たる水着獅子王から聖杯を入手する必要があるらしい。そのためにはまず、各カジノのオーナーに挑戦するための果たし状の入手。そして何より、大量のQPが必要となる。
直射日光が炎天下、頭から降り注ぐ。アメリカ、西部。砂漠のど真ん中。ラスベガスの幻影たゆたう、仮初の、享楽の都。
アルジュナはレイシフトによってそこへ降り立ち、吹き寄せる熱風に少し笑った。乾いた風だ。ドライヤーを浴びせられているような暑さに、再臨段階を一段階目に戻す。ノースリーブのシャツ姿は少々礼儀に欠けるかもしれないが、この街全体が無礼講のようなものだろう。
ここまでは順調。しかし、アルジュナは一つ懸念を抱えていた。それは、ここで大量のQPを稼ぐ――そして最も手っ取り早い――手段が、賭博であるということだ。
「賭博、か」
言葉を口の中で転がしても、何も始まらない。予め入手しておいた地図(ほとんど観光マップ)を広げ、ひとまず最も近い賭博場へと足を踏み入れた。
結論から言おう。
アルジュナの呪わしいほどの幸運は、元金を十倍にまで増やした。
彼がスロットに放り込んだチップはレバーを押し、ボタンを押すだけで簡単に増えていった。じゃらじゃらと溢れていくチップを腕いっぱいに抱え、「籠をいただけますか」と恐る恐る頼んだアルジュナを見た、スタッフの間抜けな顔。いっそ情けなくなるくらいの大勝だった。ホテル側は大赤字ではないのだろうか。なんだか、申し訳なくなってくる。
数字の七が三つ揃うことはきっと、そうそう怒らないのだろうが。アルジュナはしばしばスリーセブンでスロットを止め、己の運の良さに苦く微笑んだ。必要とあらば躊躇いなく利用する程度に、アルジュナはずる賢いが、それでも。これを当たり前と思ってはいけない。当たり前だと思った瞬間、アルジュナは、自らの幸運に呑まれてしまう。
それは、人としての道を外れることを意味するだろうから。
周囲のスタッフがこちらを見る目が厳しくなってきたため、それとなく適当なところで換金し、立ち去った。倍々ゲームで所持金が増える恐ろしさに、夏の暑さにも関わらず、少し背筋が寒くなるようだ。
もともと、アルジュナの賭博に対する印象はよくない。生前に被った損を思えば、当たり前のことではあるが。
労せず大金を得る手段があること自体、よくないと思う。だって、それに対するリスクもまた、大金を失うことだ。スリルが何だと言うのだろう。賞金だって所詮はあぶく銭だ。たった一瞬の快楽のために、大金を、社会的地位や信用に代えても賭けようなんて。
そう思うと、この街自体がなんだかくだらないものみたいだ。砂の城みたいだ。他の人たちにとっては大事なものだとしても、アルジュナはそう思えなかった。そう思うことは当たり前のことで、同時に、自分にとって正しいだけだとも思う。自分ひとりの正しさに、周りを巻き込むほど、アルジュナは愚かではない。
そうして起こった悲劇を、痛いほどよく知っている。
「お兄ちゃん、やってかないかい」
は、と顔を上げた。少し考えすぎていたらしい。大通りから少し外れた路地でアルジュナを呼び止めたのは、サングラスをかけた小太りの男だった。半袖のシャツに黒いベスト、黒いスラックス。重苦しいほどの黒色は、この炎天下ではさぞかし暑いだろうに。
「何をやっていくのですか。貴方は、せめて日陰にいなさい」
その言葉を別の意味で捉えたのか、にやりと男が笑う。「お兄ちゃん、言うねえ」と歩を進め、アルジュナに近寄って来た。
「どうだい。うちはサイコロ、カード、ルーレット、なんでもあるよ。水着獅子王の目も届かない『日陰』だからさ、どんなものでも賭けられる。退屈そうな顔してるお兄ちゃんも、当たれば一発で大興奮さ」
下卑た言葉遣いに眉を顰める。おもむろに近寄って、チラシでアルジュナの胸を叩いた彼は言外に、ここで不正が行われていることを示唆していた。馴れ馴れしい仕草で首を傾げ、男はにやつきながら観音開きのドアを開けた。奥に押し込められていた騒音や嬌声が、通りへ垂れ流される。
ここで一通り擦れた者、警戒心が強い者であれば、この誘いは無視して大通りへと戻っただろう。しかしアルジュナは、少し世間知らずだった。正義感が強かった。そして、力ある者だった。だからいつも通りの潔癖さで眉を顰め、頷く。
「いいでしょう」
明らかに不正が行われているのを無視できるほど、アルジュナはわきまえていない。そして暴力に怯えるほど臆病でも弱くもない。男は「そう来なくっちゃあ」と声を弾ませ、慇懃に腕を伸ばしてアルジュナを招き入れた。扉に施された金の、下品なまでの輝き。アルジュナも頷き、小さく息を吐いて扉をくぐる。
そして猥雑の坩堝に足を踏み入れた瞬間、白い男と目が合った。彼は方々に伸びた白い蓬髪にウサギ耳のついたカチューシャを食い込ませており、骨盤が男の割に広い、中性的なシルエット。黒いハイレグのボディスーツの下からすらりと伸びるのは、どこか肉感的な細く白い脚だ。それを、黒い網タイツで覆っている。
彼は青い瞳を瞬かせ、「アルジュナ」と、自分を呼んだ。少し化粧を施されているらしい目元は、ラメの反射で彩られている。
「カルナ⁉」
素っ頓狂な声を上げて、アルジュナは一歩後ずさる。しかし遠くのテーブルで歓声が上がる中、給仕の途中らしい彼はさっさと立ち去ってしまった。
ぱくぱくと口を開閉するアルジュナに、男はドアを締めながら「お兄さん、カルナの知り合いか?」と、低く呟く。その声色には、興味の色が伺えた。彼は卑猥な手つきで指を丸め、輪を作る。そこに片手の人差し指を入れ、にひひと笑った。
「かぁわいいよな、あいつ。口は悪いが仕事ぶりは真面目だし、何より顔と身体がいい。アッチの締りはどうかな?」
「は?」
重低音を喉奥から絞り出しても、沸き立つ歓声や電子音に搔き消されるだけだ。男は上機嫌で、さらに続ける。
「まあ、うち秘蔵のバニーちゃんさ。なんだ、お兄ちゃんもあいつとヤりたいのか? まったく若いね。べらぼうに高いぞぉ。あいつはうちのオーナーでもお触りできない、特別な――」
それ以上は聞いていられなかった。つかつかと雑然とした賭博場を突っ切って、カードゲームのテーブルでグラスを配っている彼の腕を掴んだ。カルナは少し目を見開き、いつもより高い視線でアルジュナを見据えた。ヒールを履いているらしい。彼は戸惑う様子も見せず、「落ち着け」と低い声で囁いた。だからアルジュナは一呼吸置き、カルナをじっと見つめた。ラメできらめく目元に、似合わないと思った。
「この男をいただきたいのですが」
そして、咄嗟にアルジュナの口をついた言葉がこれだ。ディーラーは目を真ん丸にして、ゲームを放り出せずにおろおろとカードをシャッフルしている。
「アルジュナ。オレは物ではない」
「……この状況で言うことがそれか」
少し呆れて肩の力が抜ける。やがて奥へと走っていったスタッフが、大男を連れて戻って来た。サングラスをかけた顔に傷のある、指の欠けた、一目でやくざ者と分かる男だ。
「貴方がここのオーナーですか? カルナを私へ引き渡しなさい」
アルジュナの居丈高な命令口調に、彼は憤るでも困惑するでもなく「そりゃ面白い」と笑った。
「だけど兄ちゃん。いくらカルナに惚れたって、そいつは無理な相談だ」
「惚れ……」
胡乱な目つきになるアルジュナに構わず、男は「でもここは賭場だからなァ」と続け、拳を開いた。そこには赤と青の、小さな賽子が二つ。
「ここは一つ、賭けようじゃねえか。ここにいるなら丁半くらいは分かるよな?」
ひく、と顔が少し引きつるのが分かった。生前、国を失い追われるきっかけになったのは、呪われた賽子を使った賭博だ。英雄らしからず怯むアルジュナに、「さっきの威勢はどうした」と野次が飛ぶ。
「アルジュナ」
引け、とカルナが言外に言っているのが分かる。そして、その声で、アルジュナは引かないことを決めた。彼に言われて引くだなんて、情けないにもほどがある。それに、負けたら負けた時だ。
「俺が勝ったら兄ちゃんもバニーだぞ」
そしてあまりにも馬鹿げた提案に、くらりと眩暈がした。バニー、という単語が、こんなに下卑た響きを持つなんて知らなかった。
「つまり、私もここで働けと」
「褐色バニーだ。かわいいねぇ」
サングラスの奥で、男の目つきがいやらしく歪む。見渡せば、性別を問わず、給仕は全員バニーガールの恰好をしていた。少し声のトーンを落とし、カルナに尋ねる。
「……カルナ。ここのオーナーは、その」
「バニーガール好きを少々拗らせている」
小声のやり取りに「聞こえてんぞ」と野次が飛んだ。アルジュナは肩をすくめ、「失礼」と右手を挙げる。
「分かりました。この賭けに、カルナを手に入れるために、私は私自身を賭けましょう」
わあっ、と賭場全体が湧いた。アングラな雰囲気の薄暗い店内には熱気が渦巻き、気づけばテーブルの周りには人だかりができている。
「俺は半に賭ける」
「では、私は丁で」
男はにやりと笑い、アルジュナは嫌な予感でひやりと背筋が冷えた。賽子は彼の掌で転がされた後無造作にテーブルへ投げられ、トランプの上で二つの賽子が転がって。
結果は、一と四。アルジュナは息をのみ、表情を強張らせた。周囲から地響きのような歓声が沸き上がり、オーナーが勝ち誇った笑みを浮かべる中。さっとカルナが賽子を拾った。
「少し待て」
その言葉一つで、賭場はしんと静まり返った。一種異様な雰囲気の中、全員が彼の美しい指先を注視する。待ったをかけた張本人は注目を集めながらも、涼しい美貌は少しも歪まない。
「オーナー。おまえの勝ちだ」
そう言いながら、カルナは無造作に賽子を投げた。一と四。また拾い、投げる。一と四。
「イカサマがどうした?」
当たり前のようにオーナーがせせら笑う。アルジュナが歯を食いしばると、カルナが冷淡に言い放った。
「泡沫の勝利の味は、甘美だったか?」
さっ、とオーナーの顔が赤くなる。アルジュナは「不正を犯した貴方の負けだ」とカルナの手を取り、人混みを掻き分けて賭場から駆け出した。テーブルの隙間を縫って走ると、彼は逆らうことなくアルジュナの後を追った。
後ろから響く怒号に怯まず扉を体当たりで開け、大通りへ走り抜ける。ちらりと振り返ると、カルナは薄っすらと笑っていた。まるでアルジュナの助けを喜んでいるように見えて、頬が熱くなる。
都合のいい思い込みだろう、とは思うのだ。彼は、誰かの助けを喜ぶような人ではないから。
「助かった」
「べ、つに」
それでも、礼を言う律儀な人だ。思わずどもるアルジュナの後ろから、怒声といくつかの固い足音が響く。振り返らずとも追っ手と分かった。彼らをまくためにぐんと走るスピードを上げると、カルナも合わせてスピードを上げる。
あられもない姿で走るカルナと怒声を上げる男たちは人目を引き、必然的にアルジュナも注目を浴びることになった。それでも、二人とも手を離さなかった。固く手を握り合い、逃避行のように必死に走る。
頬を切る風は爽快だったが、空気はどこまでも暑かった。ハイヒールを履いた彼の足音が、コツコツと高くて耳に心地よかった。妙な気分になりそうなのは、きっと気温が高いせいだ。
「どこまで逃げる?」
問いかけるカルナに、「どこまでも」と返す。彼はそれに手を固く握りしめることで答え、サーヴァント二人は霊体化も忘れて、人間の速さで走り続けた。少年のようだった。
やがて足音が聞こえなくなったところで足を止め、振り返る。手を離すと、互いの高い体温が離れて、掌が少しひんやりした。汗をかいたせいで濡れた手が、なぜか名残惜しいと思う。時刻は午後四時頃だろうか。日はやや傾いて光も暖色が強くなり、カルナのピアスがオレンジ色に光る。
「撒いたか?」
「捕まった、のだろうな」
主語も目的語も補語もなかったが全てを察し、「なら安全だな」とアルジュナは頷く。ひとまずこれで、カルナの安全は確保された。
「礼を言う。ではな」
そう言ってあっさり立ち去ろうとする彼に、なぜかアルジュナは驚いた。咄嗟によろめくように歩き出し、彼を捕まえようとする。アルジュナの手は寸前で間に合い、彼の腕を掴んだ。
「待て」
焦りのまま口を開いた。自分の心の挙動がまるで分からなかった。
「私はおまえを賭けて、勝っただろう」
「そうか?」
苦し紛れの言葉に怪訝な顔をするカルナに、アルジュナは「勝った」と意地になって言う。腕をしっかりと掴んで、傲慢な口調になっているのを自覚した。
「私が勝ったんだから、おまえは私のものだ」
それでも目を見て、言う。まるで自信満々のように放たれた不確かな言葉に、彼は少し考え込むように目を伏せた。白い睫毛が長い。高鳴る心臓の音に、アルジュナは少し困ってしまった。まるで、アルジュナがカルナを好きみたいだ。
「……いいだろう。おまえはオレを買った、ということだな?」
アルジュナはその言葉にほっと息を吐き、「そうだ」と深く頷いた。それがどれほど正しくないことでも、アルジュナは、カルナが欲しかった。
「何のためにオレを買った?」
「え」
何のため。いざそう言われると言葉が出てこなくて、アルジュナは視線をさ迷わせた。カルナはじっとアルジュナを見つめ、続ける。
「オレの価値は、何だ?」
困った。アルジュナはしばらく黙ってカルナを見つめた。しばらく見つめ合う時間が続き、それからようやく、アルジュナは口を開いた。
「……私はこれから、ここで賭博を行い、大金を稼ごうと思う」
「そうか」
あっさりと頷かれ、少し眉間に皺が寄った。
「止めないのか?」
「おまえは子供ではない」
特に止められないのが少し、喉元が涼しいような心もとなさだ。少し咳払いをして場を区切り、少し大げさに首を横に振る。
「とにかく、だ。私はここで賭博をするが、いかさまを仕掛けられるかもしれない」
「既に仕掛けられたが……」
「話の腰を折るな。とにかく、おまえはそういうのを見抜くのが得意だろう」
それに何かを察したのか、彼は小さく頷いた。
「見抜け、という話か」
飲み込みが早い。「失望したか?」となぜか口を突いた言葉に、彼は笑うでも頷くでもなく「どうして失望する必要がある」と小さく呟いた。その小さな声は風で掻き消され、アルジュナの耳に届かない。
「分かった。オレはおまえの元で働こう」
「礼は、必ず」
アルジュナがそう言うと、「律儀だな」と彼はぼやいた。当たり前だ、と首を横に振るアルジュナに、カルナはまぶしそうに眼をすがめて空を見た。
「まずは、この服を着替えさせてくれないか」
「……それも、そうだな」