あさがおの季節のケツイ。梅雨が明けて、あと少しで夏休み。
蛇骨高校の校庭には、翌朝の開花を待つ色とりどりのアサガオが咲きほこる。
「せんせっ!」
放課後の、誰もいない空き教室に駆け込む。
ボクは今日も補習を受けに来た。
……最近、バイト先の店長さんにお願いされてシフトも多めに入れてるし、高校の授業はちょっと難しくて眠くなっちゃうんだよね…。
だから、この前のテストがはじめての赤点で。
そのことで、ついさっきまで担任のイシト先生に怒られてたんだ。『カーシュ先生の補習があるんです!』と言って、ようやく解放してもらえた。イシト先生のお説教は、一度始まるととても長いんだ…
職員室とは別の階にあるこの空き教室まで急いで走ってきたけど、間に合ったかな……
「ようやく来たか、居眠り小僧」
教室ではカーシュ先生が教科書やプリントを机いっぱいに広げて待っていた。生徒用の机を向かい合わせでくっつけて、黒板側の席に座っている。年中腕まくりしたYシャツに赤いネクタイ、グレーのスラックス、その上に、体育の先生じゃないのに白地に赤いラインのジャージを羽織っている。いつも通りの不思議なファッションだ。英語担当で、隣のクラスの担任の先生だ。同じクラスのみんなからは『顔はカッコいいのに、喋ると言葉遣いが荒くて怖い』ってよく言われている。…確かに、男のボクから見てもカッコいい。
息を整えながら壁の時計を見ると、約束の時間を少し過ぎていた。
まずい。
カーシュ先生は生徒指導も担当しているから、時間にはすごく厳しいって聞いた。すぐ謝らないと…
「ごめんなさい、遅くなっちゃいました…」
すぐに返事が返ってこない。カーシュ先生は黙ったまま、口元を右手で押さえてこちらを見ている。表情が良くわからない。怒らせちゃったかな…!? どうしよう、どうしよう!
「あの、時間通り来れなくてすみません! 追加の宿題でも、グラウンド十周でもなんでもしますから、落第は許してくださいっ!」
ボクの家はかあさんとふたり暮らしで、支援を受けながら学校に通わせてもらっている。もしボクの成績が悪かったら、支援は打ち切りだ。そんなことになったら、かあさんに申し訳ない。
ボクがまくしたてながら頭を下げて謝ると、カーシュ先生は顔に当てがってた右手を外して、「ふー」と長いため息をついた。……呆れられちゃったかなあ…‥。
不安になって先生の言葉を待ってると、「落ち着け」とでも言わんばかりにカーシュ先生は左手をボクの方にかざして、にやりと笑った。
「……まあ、そんなに慌てんな。担任にでも怒られてたか?」
……合ってる。先生には、なんでもお見通しだ。
ゆっくり頭を上げてボクが小さく頷くと、カーシュ先生は「がはははは!」と豪快に白い歯を見せて笑い飛ばした。
「パレポリ出身は説教が長えから、仕方ねえな! それに遅れたのはおまえじゃなくて担任のせいだから、これで補習を増やしたりはしねえ。だから、安心しろ」
「よ、よかったあ〜!」
悪いことをする生徒には容赦ないって聞いていたから、本当に安心した。
「ま、気を取り直して座れよ」
先生に促されて、向かいの席に座る。
教室には先生とボクのふたりきりだ。
先生からは花のような香りがほんのり漂ってる。華やかでおとなっぽくて、けれどもどこか優しくて……好きな香りだ。いつもいいにおいだなって思ってたけど、今日は特に強い気がする。
先生のいい香りをひとりじめしていることや、ふたりきりであることも合わさって、なんだかちょっとだけどきどきする。
ボクが席に着いて勉強に必要な道具をひととおり出したのを見計らって、先生は一回だけ頷いて話し始めた。
「さて、補習だからっつって特別構える必要はねえからな。厳しくするわけじゃねえし、間違ったって叱るつもりもねえ」
「は、はいっ」
「…緊張してんな」
『緊張している』と言われて、ボクの肩は軽く上がった。どきどきしてるのがばれちゃったかな……?!
ボクは学校指定の紺色のポロシャツの胸元を握りしめて、『落ち着け、落ち着け……!』と暗示をかける。
「さっきも言ったが、厳しくするつもりも、叱るつもりもねえ。特別に、俺とふたりの時は敬語はなし、呼び捨てでいいぜ」
「えっ……?」
予想していなかったことを言われて、ボクは驚いた。生徒指導もしている先生が、『敬語を使わなくていい』なんて言うとは思わなかったからだ。先生の顔は、冗談を言っているようには見えない。かあさんにも『目上の人には尊敬を持って敬語で接しなさい』って小さい時からよく言われてたから、切り替えるのはなかなか難しいけど……
ちょっとだけ、先生の優しさに甘えてみる。
「…えっと、どうして…?」
ボクの言葉にカーシュ…先生(やっぱり、呼び捨てはまだ難しいよ〜)は目を丸くしつつ、少し恥ずかしそうに顔を赤くした後、一度咳払いをして話し始めた。
「……あー、そ、それは、てめえが過度に緊張してるように見えたからだ! あんまり緊張してても覚えらんねえしな! 特別だぞ、トクベツ!」
『特別』がなんだか嬉しくて、
ボクは噛み締めるように返事をした。
「…うんっ」
ほかの先生は補習として追加の宿題を出したり、再テストをしたけど、カーシュ先生はテストや授業でわからなかったところを個別指導してくれるらしい。
「で、改めて今回の試験で出たところなんだがよ。わかりづれえところはあったか?」
「えっと…」
と言っても、結構寝てたから…わからないところだらけで。正直に言ったら、先生は呆れつつも笑いながら「しょうがねえな」と言った。
それでも、先生はボクが理解するまで教えてくれた。
ボクがプリントの穴をひととおり埋めると、すぐに答えをチェックしてくれる。
プリントをチェックするために俯いたときに、まつげの長さや鼻の高さ、さらさらの髪の毛、顔の小ささに気づいたりして、ますますどきどきしてきた。
見とれていると、すぐにプリントが返ってくる。
「『全然わからねえ』って言ってた割には、悪くねえ解答率だったぜ。マルがついてねえところ、もっかい見直してみろ」
ボクは返されたプリントを見直した。
確かに、この前受けたテストより全然丸の数が増えてる。先生の教え方がわかりやすかったからだ。…うれしいな。
間違ったところにはバツをつけないで、「おしい!」とか、「ひと文字足りねえ」とか、きれいな字でコメントをつけてある。
それを見て、ボクはもう一回挑戦する。
そうして、間違っていたところができるようになるたびに、笑顔で褒めてくれる。
ボクは、そんな先生の笑顔が……
ちょっと、すきで、どきどきする。
笑顔が見たくて、もっとがんばる。
これって、おかしいかな……?
あたりが少し暗くなり始めた頃には、すべての項目に丸がついた。
プリントの右端には、花丸と『よくやった!』というきれいな字が記された。
「やったー、全部できた!」
喜ぶボクを見て、カーシュ先生も満足そうに頷いた。
「おーし。これでこの内容は完璧だな」
何回かやりとりしたとは言え、全問正解なんて小学生ぶりだ。とってもうれしい。
上出来なプリントを見つめるボクに、カーシュ先生はさらに続けた。
「もしかしたら、てめえらの年頃は勉強する意味がわかんねえかもしれねえがよ……英語に関して言えば、頑張った分だけ、生きてく上でこの先ぜってえ役に立つ。
今日やったこと、忘れんなよ」
勉強の大切さは、かあさんからもいつも言われていたけど……先生といっしょに勉強して、ようやくちゃんとわかったかもしれない。
ちゃんと、お礼を言わなきゃ。
「…あの、ありがとう。ボク、今まで勉強する意味もあんまりよくわかってなかったし、面白いって思えなかったけど、今日、すごく楽しかった」
『楽しかった』と言う言葉を聞いて、先生は照れくさそうに笑った。
「先生はよ、生徒にそう言ってもらえるとすげえ嬉しいんだぞ。…授業を聞かねえで、寝てるヤツだっているしよ」
う、耳が痛い……。今まで寝てて、ごめんなさい…。
思わず気まずい表情を浮かべて目線を逸らすと、カーシュ先生がボクの頭を撫でた。
「おまえは、やればちゃんとできるんだ。
…これからもしっかりな」
……おっきくて、あったかくて、まめがいっぱいある手。男のひとに頭を撫でてもらうなんて、小さい時にとうさんがいなくなって以来かもしれない。
なんだか、すごく、なつかしくて、
涙が、出そうになる……。
まぶたと唇をぎゅっと閉じて、泣かないようにこらえる。
今泣いたら、きっと先生は困っちゃうよね。
先生はボクが目を閉じたあと、すぐにぽんぽんと頭を二回優しく叩いて、撫でるのをやめた。
ゆっくり目を開けると、きれいに磨かれた真っ白な歯を大きく見せて、優しく笑う先生がいた。
ボクは高校二年生、今は夏休み前。
カーシュ先生と一緒に学校生活を送れるのは、最大でも一年半。
もしも先生がほかの学校に行くことになったり、
ほかの学年を担当することになったら、
きっと……もっと短い。
そう思うと、今こうしてふたりでいられることは、
とっても、とっても……
貴重な時間なのかもしれない。
だから……
すこし、わがままを言ってみる。
先生は、ボクだけの先生じゃないけど。
許されるあいだは、カーシュ先生の生徒でいたいから。
「赤点とらないように頑張る、けど、あの……
今日、すごく、すごく楽しかったから……また、教えてくれる……?」
「……もちろんだ! わかんなかったらいつでも来い。
なんでも教えてやっからよ」
ボクの言葉を聞いて、カーシュ先生はとびきりの笑顔で応えてくれた。
沈む夕陽に、薄い青紫色の髪の毛と赤い瞳が輝いて、とてもきれいだった。
「あら、セルジュ。こんな遅くまで残ってるなんて珍しいわね」
補習をやり遂げた幸福感と楽しかった余韻に浸りながら、廊下を歩いていると、部活終わりのレナに出くわした。
レナは吹奏楽部と器楽部を掛け持ちしてて、それぞれの部活でフルートとアコーディオンを担当しているらしい。音楽がさっぱりのボクには未知の世界だ。違う学年のボクが評判を知っているくらいには、成績も優秀らしい。……きっと、補習なんて縁がないんだろうなあ。
「あ、レナ。さっきまで、カーシュ先生の補習受けてたんだ。すごく優しく教えてもらってさ」
「え、嘘でしょ? カーシュ先生の補習って、『すっごく厳しい』って先輩逹の間で噂になってたわよ」
「……えっ?」
ボクは耳を疑った。確かに全問できるまでプリントのやり取りはしたけど、厳しいとは全く感じなかった。違う先生の噂じゃないかな……
「『1000問ノック』って言って、英単語1000語書取りさせられたって…。セルジュ、やってないの?」
レナの言う『噂のカーシュ先生』と、『ボクが補習を受けたカーシュ先生』が、全然同じひとに思えない。
ボクが今日、カーシュ先生とやったことといえば……
机を向かいあわせて、ふたりきりで勉強した。
敬語はなしで、ともだちのように接した。
すべてがわかるまで、付き合ってもらった。
頭を撫でて、ほめてもらえた。
『特別だぞ、トクベツ!』という、
カーシュ先生のことばが頭をよぎった。
……もしかして、教え方も『トクベツ』?
なんだか、さっき過ごした時間が、
すごいことのように思えてきて……
顔が、のぼせてきた。
「やだセルジュ、鼻血出てる!」
「えっ?」
右の拳で鼻を軽く拭うと、右の鼻の穴からすーっと赤い血が垂れてきた。
のぼせて鼻血が出るなんて…小さなこどもみたいで恥ずかしい。
勢いは弱いけど、このままだとどこか汚してしまいそうだ。床や服に血を垂らさないように、頭を上に向けながら右手で鼻を押さえる。
……頭はちょっとのぼせているのに、鉄っぽい血の味が喉に流れていくのは冷静に感じとれる。先生といっぱい喋ったから、喉がからからだ。
「もう、しょうがないわね!」
視界のはしっこで、レナがカバンを開くのが見える。「あった!」と言う声が聞こえると、ポケットティッシュを出して、空いているボクの左手に何枚か握らせてくれた。ボクは受け取ったティッシュのうち一枚を急いで丸めて鼻の中に詰めて、頭の位置を戻してから残りのティッシュで拳に着いた血を拭いた。…皮膚のこまかいところまで染み込んで、完全にはきれいにならない。あとで、ちゃんと手を洗おう。
汚れたティッシュをズボンのポケットに詰めて、周りを血で汚してないか確かめてから、ボクはレナに向き直った。心配そうにこちらを見つめるレナの手にはまだ、レースをあしらった手作りケースに入れられたポケットティッシュが握られている。『まだ鼻血が出るかもしれない』と思われてるんだろうな、きっと。鼻栓しててちょっとかっこ悪いけど、安心させなきゃ。
「……ふう、びっくりしたね。ごめんねレナ、ありがとう。もう大丈夫だよ」
改めてレナを見ると、いつも通り腰に手を当てて口をとんがらせている。…安心させようと思ったけど、全然逆効果だった。
「びっくりしたのはこっちよ! たくさん勉強して知恵熱でも出ちゃったんじゃないの? なんだか、顔も赤いし」
「そ、そんなに赤い?」
ボクは両手でほっぺを覆った。……確かに、ちょっと熱いかも。
……まだ、どきどきしてる?
「ほら、そんなことやってないで一緒に帰るわよ! バイトじゃないのにこんな遅くなって、きっとマージさんが心配してるわよ!」
「う、うんっ」
レナは昇降口を目指して歩く。
ボクもリュックを背負い直してレナのあとを追った。
——とくべつ、……『トクベツ』かあ。
まだ、この先のことはわからないけど…
『トクベツ』なこと、できるかな?
…カーシュ先生みたいに。
胸が、またどきどきし始めた。
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……一方、補習を終えたカーシュは。
昇降口から下校していくセルジュを、上の階の職員室から見守っていた。
——入学の時からなんか気になってはいたが、
近くで見たら、やっぱすげえかわいかったな……
マンツーマンで指導したり、
学校では付けてねえ香水をつけてみたり、
口臭が気にならねえようにすげえしっかり歯ァ磨いたり、
頭を撫でたり……露骨過ぎたか?
撫でたらなんか泣きそうだったが、引かれてねえだろうな…?
ご機嫌取りで『また教えて』なんて言わせてねえだろうな…?
二年続けてクラス担任にはなれなかったから、
こうでもしねえとふたりで過ごす機会がなかなかねえ…
いや、俺の授業を受けてるのに赤点は取ってほしくねえんだがよ。
あの方の近くにいたくて、
誰かを助けたくて、
なりたくてなった『先生』って肩書が、今は……
いや、だからこそだ!
『先生』になったから、あいつと出会えたんだ!
あいつが卒業するまで、しっかり見守る!
それが…『先生』としての俺の役目だ!