薄暮時日が暮れるの、早くなったな。
学校からの帰り道、ふと立ち止まると赤く染まった空を見上げた。今日は部活がないからこの時間に帰れるけど、部活がある日は真っ暗になってしまっているだろう。
やだなぁ。
部活は楽しいけど、真っ暗のなかを帰るのはちょっと怖い。最寄駅の近くは明るいけど、少し離れれば街灯の数もそんなに多くはない。
そんなことを考えていたら、ドンと衝撃を受けた。
「あ、ごめんなさい」
立ち止まっていたせいか、誰かにぶつかったようだ。咄嗟に謝ったけど、周囲に人影はない。
「あれ?」
それどころか、確か街中にいたはずなのに知らない場所にいた。
「え、どこ、ここ」
家もなければ人もいない。見渡す限りの原っぱに、道が一本だけ。いつもなら綺麗に思える真っ赤な夕焼けも、今は不安を煽るだけだ。
もしかして、都市伝説的なやつなのかな。存在しない街に飛ばされたとか、異世界に行っちゃったとか。じゃあ、あのドンって衝撃は車にでも跳ねられたんだろうか。
じゃあ、私、死んじゃったのかなぁ。
「お嬢ちゃん、どうしたの、こんなところで」
突然の声に驚いて振り返ると、少し離れたところにくたびれたコートを着たオジサンが一人立っていた。
「あ、もしかして迷子?」
ゆっくりと近付いてくるオジサンに、不思議と怖いという気持ちはわかなかった。むしろ、ようやく会えた人間にホッとした気持ちになる。
「呼ばれたわけじゃ……ねぇよな。飛ばされちゃったか」
目の前まで来たオジサンは、私をじっと見つめてそう呟いた。
「飛ばされる?」
「うん、そう」
オジサンは沈んでいく夕陽を指差して口を開く。
「黄昏時とか逢魔が時とか聞いたことあるだろ?」
「うん、まぁ」
「日が傾いてから夜になるまで、境界が曖昧になるんだわ」
「きょうかい……」
「そ、境界」
オジサンは空中に一本線を引くような仕草をしてみせた。
ああ、境界か。
「特に辻とかにいるとなぁ」
「つじ?」
今度は縦と横に指を動かした。
……つじ、つじ……辻?交差点のことかな。
「で、曖昧になってるせいで、こっちに来ちゃう人間もいるってわけ」
「オジサン詳しいね」
「そお?」
そこではっと気が付いた。私みたいに突然迷い込んだ人間はそんな事情は知らない。じゃあ、なんでこのオジサンはこんなに詳しいんだろう。一気に背筋が寒くなる。
「あ、気付いた?」
へらりと笑ったオジサンから、一歩距離を取る。
「そ、俺、こっち側なの」
もう一歩後ろに下がる。見えているのは冴えないオジサンなのに、得体の知れない何かが迫ってくるみたいで、怖い。
「ここは所謂妖怪とか、まぁ、そういう類いの住む世界でね……」
逃げようと思っているのに、足が重くて一歩ずつしか動かない。大声を出したいのに出せない。痴漢にあったら大声をあげてくださいっていうけど、確かにこれは咄嗟に声なんか出ない。
そうこうしているうちにオジサンの伸ばされた手が、私の手首を掴んだ。
「いや、離して」
もう片方の手で持っていた通学用の鞄を滅茶苦茶に振り回す。
「おい、痛いって」
バシバシと音がしてるから少しは当たっているはずだ。
「こら、やめなさい」
掴んでいた手にグッと力が入ったのが分かった。
「いたっ」
「あ、ゴメン」
思わず出た言葉に、オジサンの手がパッと離れる。思いがけなく出来た隙に、思い切りオジサン目掛けて鞄を振り下ろす。
「いった~」
バシンと大きな音が聞こえると同時に、背を向けて走り出す。
「あ、こら、待て」
ようやく動くようになった足で、とにかく走った。どこに向かっているかなんて分からないけど、とにかくオジサンから距離を取りたくてただ真っ直ぐに走る。走って走って息が上がってきた頃、
「あっ」
疲れからか足がもつれて盛大に転んでしまった。身体を起こしてみると、膝が擦りむけ血が出ている。手のひらも血は出ていないが擦りむいてしまったようで、じんじんと痛む。
「……痛いよ」
痛みと心細さから、ついにポロリと涙が溢れてしまった。膝を抱え、ただしゃくりあげる。
「はぁはぁ……やっと……追い付いた……」
再びオジサンの声が聞こえ、びくりと肩を震わせた。声のした方を向けば、オジサンがヨタヨタと走ってんだか歩いてんだか分からない早さでこちらに向かってきていた。それも泥や葉っぱがあちこちにくっついていて、くたびれたコートがさらに薄汚れてしまっている。
逃げなきゃと思って鞄を掴んだ。立ち上がろうとすると膝のキズが痛む。
「転んだの?大丈夫?」
オジサンはさっきまで息があがってヘロヘロだったくせに、私の様子を見て慌てたように駆け寄ってきた。
「あー、ほら。泣かないの」
地面に座り、泣いてグシャグシャの顔の私に目線を合わせるように、オジサンはしゃがんでくれた。
「悪いね、絆創膏くらい持ってればよかったんだけど」
私の膝を見て、クシャりと顔を歪ませた。コートのポケットからハンカチを取り出すと、傷口に結んでくれる。
「飴ちゃんでもあげたいけど、こっちの食べ物口にしたら帰れなくなっちまうからなぁ」
ボソリとした呟きに、やっぱり逃げなくちゃと鞄を持つ手に力を入れた。でもオジサンは私の様子に気付くことなくへらりとまた笑う。
「もう、突然走り出すから驚いたじゃないの。ほら、帰りたいんでしょ?出口まで案内するから」
そう言いながら立ち上がると、私に向かって手を差しのべた。
え、この人、あっちから来た人を食べちゃうんじゃないの?怖い人じゃないの?妖怪とか言ってたし。
ポカンとした私の顔を見たオジサンは、もしかして誤解してた?と眉を下げる。素直にうんと頷けば、はぁぁぁと盛大に溜め息をつくオジサン。
「ごめんな、そりゃあ、追い掛けられて怖かったよな」
差し出していた手で私の頭をナデナデと撫でる。こんなオジサンに頭を撫でられるなんて普通なら嫌なはずなのに、ちょっと安心してしまう。
オジサンはもう一度立てるかい、と手を差しのべてきた。さっきまで誤解していた手前その手を取るかどうか迷っていると、
「あ、汚い手でごめんね」
オジサンは誤解したのか、エヘヘと笑いながら手を引っ込める。仕方ないので、私は一人で立ち上がると、制服に付いた汚れを手で払った。
「あぁっ」
突然あがったオジサンの声にビクッとする。
「やばい、もう時間がないよ」
オジサンは空を見上げてそう呟いた。
オジサンと同じ方を向けば、真っ赤だった空は、だんだんと暗くなっていっている。太陽ももう少しで沈んでしまいそうだ。
空を見上げるオジサンの横顔は、今までとは違い焦りを含んでいて、私も不安になる。
「……帰れなく、なる?」
思わずそう言葉にしてしまうと、オジサンはまたへらりと笑った。
「大丈夫。お嬢ちゃんはちゃんと俺がもとの世界に戻してあげるから」
頼りなく見えていたオジサンが、急に頼もしく見えた。
「もうちょいだけ、走れる?」
オジサンの言葉に頷いた。足が痛むけど、大丈夫。
「あそこ、見える?」
オジサンの指差す方向を見れば、ゆらゆらと陽炎みたいに見える場所があった。
「あれが出口。太陽が沈みきる前に行くよ」
オジサンの言葉にもう一度頷く。そして痛む足で走り出す。オジサンも遅れて着いてきてくれているようで、後ろからドタドタとした足音が聞こえる。
走っているうちに、空が暗くなっていくのをひしひしと感じる。
もし太陽が沈む前にあそこに行けなかったらどうなるんだろう。帰れないって、もう二度と?こっちに残ったら、私はどうなるの?
走りながらもぐるぐると頭の中を嫌な考えが巡っていく。
「余計なことを考えるなよ。お嬢ちゃんは帰ることだけを考えてなさい」
まるで私の考えていることが分かったかのように、オジサンの鋭い声が聞こえた。私は振り向くことも返事をすることもせず、ただひたすら出口に向かって走っていく。
どのくらい走ったのか、ようやく陽炎のある場所へとたどり着いた。目を凝らせば、陽炎の向こう側は見たことある街並みだ。
「早く……はぁはぁ……行きなさい。時間……が、」
オジサンの声に空を見上げれば、もう赤い色は僅かしか残っていない。でもオジサンにせめてお礼だけでも言いたい。
「オジサン、ありがとう」
陽炎の中へと入りながら振り返り、そう声を張り上げた。すると少し離れたところでオジサンが手を振っているのが見える。私も手を振ろうかと思った瞬間、ぐにゃりと視界が歪み眩暈がしたかのように立ってられなくなった。倒れないように踏ん張って、それから顔を上げると、そこは見慣れた街中だ。
「帰って、これたんだ」
立っていたのは、誰かにぶつかったと思ったあの場所。大きな通りと小さな路地がぶつかる場所だ。空を見上げれば、すっかり暗くなってしまっている。腕時計を見れば、いつも部活のある日の帰宅時間とほとんど変わらない。
……なんだったんだろう。
足や手を見れば擦り傷はあるし、結んでくれたハンカチもそのままだ。制服も薄汚れていて、夢じゃないことを物語っている。
……誰だったのかな。ハンカチ、返せるかな。
そう思いながら、一人家へと歩いていった。