「あらよっ…と!」
視界を眩い花火が満たす。彼の義手から放たれた炎が目の前の一切合切を焼き払う。深紅色の火炎に照らされて黄金に輝く亜麻色の髪が、グレゴールの動きに合わせてふわりと靡くと同時に、赤いリボンがひらりと揺れるのが否応なしに目に入った。
リウ協会人格の彼だけが結んであるそれは、彼の髪の上でまるで少女のような可憐さで存在している。私はよく似合っていると思うのだけれど、他の囚人たちに言わせれば、"おっさんにしては可愛すぎる"それを、なぜ結んでいるのか。その理由を彼が言うこともなければ、聞いたこともない。なんとなく、何か理由があるのかも、とは思ってはいるが、その理由が彼のどこに触れるか分からない以上、好奇心で暴こうとするのは気が引ける気がする。
だから、こうしてリウ協会の人格を彼に被ってもらっている間、とっても似合ってるなあ、と思いながら眺めるだけにしている。
<おつかれさま>
最後の幻想体にとどめの一撃を入れて、一息を吐いた様子のグレゴールに声をかけると、振り返った彼は私を見て、疲労をたっぷりと含んだ声で、あぁ、管理人の旦那、と溢した。
「はぁ…疲れた…、次はもうちっと柔らかいヤツだといいんだが」
<うーん、そうだねって言ってあげたいけど、どうやらこの先はさっきより強い敵がいるみたい>
「あ〜!言わないでくれ…今から気が重くなる…なぁ、旦那、ちょっとでいいから一服させてくれよ」
座り込んだ彼がそう言いながらこちらを見上げてくる。自然と上目遣いの形になって、そうすると、囚人の彼とは違うとは理解しつつも、その顔に甘い私は、なんでもおねがいを叶えたい気持ちになってしまう。本当はもう長いことこのダンジョンに潜っているから、ファウストが先を急ぎたい様子で私を見ているのだけれど。ごめんねと心の内で謝りながら、その視線を見なかったふりをして、ちょっとだけだよ、と言うやいなや嬉しそうに顔を緩め懐から煙草を取り出した彼は、早速咥えたそれに火をつけていた。
ゆらゆらと紫煙を燻らせる彼の後頭部をなんの気なしに見ていると、どうしてもその赤いリボンに目がいってしまう。許されるならえいっとつついてみたいな。そうしたらきっと、なにしてるんだ、って呆れた目がこちらに向けられるんだろうけど…。これって、近づいたら絶対逃げられるのに、野良猫を撫でてみたくなる感覚に似てるのかも。
「…旦那…」
かけられた声に、揺蕩っていた思想の海から意識を取り戻すと、居心地が悪そうな顔をしたグレゴールが私を見上げていた。
「…んなじっと見つめられたら、俺の頭に穴が空いちまうよ」
<えっ…!?み、見てないよ!?>
「バレバレの嘘をつくなよ…」
どうしてバレたんだろう。時計の頭の良い点はどこを見ているのかわからないところなのに。そういえば、囚人の彼も、時折私の視線を感じ取っては、ダンテさんは分かりやすいな、なんて言って笑うことがある。グレゴールが持つ特殊能力なのだろうか。
ポーカーフェイス(時計の顔にポーカーフェイスがあるのかどうかわからないが)を習得する意気込みを固めていると、グレゴールが自分の頭のリボンに、指先で撫でるように触れた。
「これがそんなに気になるか?」
<気になるというか、似合ってるなって思ってるだけだよ…>
素直に口に出す。もうバレてるっていうのに、これ以上隠したって仕方がないし。
すると、彼は少し機嫌を直したように、ふん、と鼻で笑ってみせた。
「旦那ってもの好きだな。大抵の奴らはおっさんのくせに…ってからかってくるんだぜ」
<へえ>
「でも…嬉しいよ。あんたがこれを笑わないでいてくれるのは」
グレゴールが、今度は愛おしむようにリボンを撫でる。私はそれを見ながら、やっぱり触らなくて良かったな、と思った。きっと、リウ協会の彼にとってとても大事なものなんだろうから。
<大事なものなんだね>
「ああ…」
穏やかな目をして、そこに存在する繋がりを慈しむような彼の、その様子がひどく羨ましく、私には思えた。
<…やってしまった…>
個室で頭を抱えている私の前には、袋の中で大人しくその光沢を艶めかせているサテンの赤いリボンが、自らの役目が訪れるのをいまかいまかと待っていた。誓って、はじめから買おうと思っていたわけではない。ただ、店先に並んだそれに、リウ協会の彼の愛おしむような目を思い出して、それから、囚人の彼に私が贈ったものをそんな目で見てほしいなって思っていて、そうしたらすでに代金を支払ったそれが手の内にあっただけだ。
買い出しに一緒に出ていたイシュメールがもの言いたげな目でそんな私を見て、まあ、良いんじゃないですか、とだけ零してため息を吐いたのは、正直忘れたい。彼女は口の軽い人ではないと信じているから、この行動が次の日にバス全体に広まっていることはないだろう。今日買い出しに出たのがドンキホーテやロージャでなくて良かったと、失礼なことを思いながら息を吐いた。
それにしても、だ。買ったはいいものの、こんなもの贈れるわけがない。まるで囚人のグレゴールにリウ協会の彼を重ねているようだ。そんなことはなくて、本当に彼だけに結んでほしいと願って買ったリボンなのに。色も、同じ赤じゃなければまだよかった。それなのに、私の色だと思うとつい赤を選んでしまった。何もかもが、これを彼に贈るべきではないと私に告げている。
…うん、やっぱりこれは、私の胸のうちにしっかりと秘めておこう。
決意した私は、部屋の棚の引き出しに、そのリボンをしまい込んだ。
ごめんね。君も、できれば誰かに結ばれたかっただろうに。
それから、私は努めてそのリボンのことを忘れるようにして、それは成功したかのように見えた。実際は思い出していないふりをしただけで、頭の片隅でいつもリボンはゆらゆらと靡いていたのだが。それに、イシュメールは私が信じた通り周りに言いふらすことはなかったが、時折呆れたような目で、何を臆病になってるんですか、とあまり触れられたくないところを突いてくるので、なんのこと?とはぐらかすのに大忙しだった。
「…旦那、俺に隠してることはないか」
しかし、そんな抵抗は長くは続かないものだ。私のこれまでの努力は、例えば、底に穴の空いた船に満ちる水を手で掻き出しているようなものだ。時間が経てば、満ち満ちて沈んでしまうものだったってこと。
就業時間が終了し、囚人のみんながそれぞれの個室に帰る中、グレゴールに呼び止められて、話があるんだが、あんたの部屋に行っていいか、と聞かれたときから、正直嫌な予感がしていた。きっと、何もかも白状しなければならないんだっていう、そういう予感。白旗を両手で上げて振りかざしているような心持ちだ。彼はなぜか私の視線の先に気づくのが得意だったし、彼の前で私が隠し事をすること自体、愚かなことだったのかもしれない。
良いよ、となんとか返事をして、自分の個室までグレゴールと連れ添って歩く中、自分と彼の靴音が嫌に廊下に響いているように感じた。
そうして、部屋で椅子に腰掛けた彼が、どこか探るような目つきで問いかけて来たのが、先ほどの言葉だ。部屋に入るまでに、なんと言えば、隠したままでいられるのかを永遠にも感じるほど考えたにもかかわらず、それらの言葉は一切掴むことができず、指の間から霧散してしまった。
言葉を言えないままでいる私をどう思ったのか、彼は視線をふいと逸らした。
「イシュメールがな、」
イシュメール!突然飛び出した核心の名前に、肩をビクつかせてしまう。
「最近あんたが俺を変な目で見てくることがあるから、何なんだって思ってたら、本当にうんざりした風に『もういい加減にしろって管理人さんにあなたから言ってくれませんか』って」
どうやら、彼女も私の苦し紛れの隠蔽にほとほとうんざりしていたらしい。
それに、やっぱりグレゴールには私の隠しているつもりでも溢れ出てしまう欲望はバレバレだった。本当に、彼の前では私は常に何も隠れるもののない場所で白日のもとに晒されているのとおなじみたいだ。
私に目はないんだけど…とわざと論点のずれたことをつぶやくと、たとえだよ、たとえ、とさして気分を害した様子のない調子で返事が返ってきた。
ここまで来たら、すべてを告白するしかない。私は神父の前で懺悔するような気持ちで(実際彼は神父服を纏ったe.g.o.を使うし、間違っていない)、リボンをしまい込んだ引き出しに手をかけた。
「…はぁ?」
そうして取り出したリボンに、グレゴールは、なにかその場にそぐわない奇妙なものを見るような目をして、素っ頓狂な声を上げた。例えばそれは、飲食店で食べ物と一緒に並ぶ機械部品を見たときや、湖の上でどこかから流れてきたアヒルのおもちゃが浮かぶ浴槽を見た時と同じ目をしていたかもしれない。
<うう…本当にごめんね…嫌いにならないで…>
「いやいやいや、ちょっと待ってくれよ旦那」
<少しでも君に慈悲があるなら、私の弁明を聞いてほしいんだ…>
「わかった!わかったからその雨に打たれる子犬みたいな悲壮感をやめてくれ!俺にはこれの何があんたをそうさせるのかさっぱりだよ…」
あれ、なんだかおかしいぞ。想像では、リボンを彼の前に差し出した瞬間から、私の断罪が始まるはずだった。しかし、その兆しは一向にないどころか、恐る恐る見やった彼の顔は、困惑でいっぱいだった。
「そうか…イシュメールのやつがあんなに呆れてたのはこのせいだったのか…」
<グ、グレゴール?>
「ああ、悪い。ひとりごとだよ。それで、旦那はこの…リボンを一体どうするつもりだったんだ」
<それは…>
そうして、私はまだおかしいぞ?と思いながら、すべてを洗いざらい赤裸々に白状した。リウ協会の彼との話や、つながりを結ぶようなそれを羨ましく思ったこと、…それから、私も、他でもない目の前の君とつながる象徴が欲しかったこと。決して、リウ協会のグレゴールと、君を重ねるわけではないこと。赤色なのは私の色だな…とつい思ってしまったからだということ。すべてを話し終わったあとでも、グレゴールは何を咎めるでもなく、私が差し出したリボンを器用に片手で袋から取り出して、その表面の滑らかな感触を確かめているようだった。
<…これで全部だけど…>
「ダンテさん…あんたってやつは本当に…」
グレゴールが、なにかを堪えるみたいに唇を噛んで、それから私の時計の輪郭に左手を伸ばして、なぞるように撫でた。
「本当に馬鹿だ…」
そうして、琥珀色の目を細めてぽつりと呟かれた言葉は、内容に反して誰が聞いても分かるくらい甘くて、思わず照れてしまうほどだった。
<馬鹿って…>
「馬鹿な子ほど可愛いって言うだろ、そういうことだよ」
<腑に落ちないな…かわいいのは君でしょ>
「はは、悪いことは言わないから部品を交換したほうが良いぞ」
笑いながら椅子から腰を浮かせた彼が、私の方に顔も寄せて、時計盤にキスをした。彼からのキスが、私はとても好きだ。しかし、いつだって彼から与えられるものであることがじれったいことがある。いつか、私の頭が元通りに戻って、それでもまだ彼が私のことを好きでいてくれていたなら。これまでの分がすべて返せるように、与えられたキスの回数をこっそり数えていることは内緒だ。
「これ、俺じゃあ結べないから旦那が結んでくれよ」
<いいの?>
「今最高にあんたを甘やかしたい気分なんだ。俺の気が変わらない内に結んだほうが良くないか?」
言うやいなや、髪をまとめていたヘアゴムを取り去ったグレゴールは、さっきまで座っていた椅子をたぐり寄せると、私に背を向けるように座った。そうして、リボンを持った手を私の方に伸ばしてくるので、慌ててそれを受け取る。さっきまでゴムで纏められていた髪は癖が付いてしまっている。彼のために部屋に置いてある櫛を、洗面所から持って来ようとすると、そんなのいいよ、と少し顰めた顔で引き止められた。仕方なく、手ぐしで髪をすくと、気に入ったのか機嫌の良い笑い声が聞こえてきた。
なんだか暖かくて幸せな時間だ、と感じる。この先どんなことがあっても、彼とこうした時間があったことを忘れずにいたい。そうして、願うことなら、これからも私が彼の髪を結わうような存在の、唯一でありますように。
そんな願いを込めて、赤いリボンでグレゴールの髪を結わえた。できたか?と振り向いた彼と、その拍子に揺れたリボンがあまりにも愛おしくて、後ろから椅子ごとその身体を抱きしめると、驚いたように跳ねた身から穏やかに力が抜けて、ふふ、と幸福そうな吐息が聞こえた。
<…ねぇ、一つ聞いてもいい?なんで君って私が見てるのがわかるの?>
私の問いかけに、グレゴールはなんで分からないんだ?とでも言いたげな、呆れた顔をした。その顔がとてもかわいいなと思っていたら、ゆるりと緩んで、はにかむように笑った。
「なんでって…、俺もあんたのことを見てるからだよ」
(20240415)