静寂を愛するヨダナの話②遠く、果てを見る。
どこまでも広がる紺碧……それが目の前に横たわるだけである。だというのに、太陽の光を浴びた水面は煌びやかで美しく、同時になんとも言えない気分になる。
眼前に広がるそれは海と呼ばれるもの。原初のもの。全ての命が還る場所であると、どこの誰に聞いたのであったか。不思議と身体が落ち着くのを感じる。それはこの波と暖かな気候と、ときおり空を過る鳥の囀り以外なんの音もしないからか。まったくの無音でもなく、さぁん、さぁんと静かな音が鳴るだけ。……近い、からであろうか。
とぷり、とぷりと。揺れる水面に、そのリズムに目を閉じれば浮かぶのは闇。そして、噎せ返るような甘い香り。それは花であり、かつてこの身を浸し、産み出したギーの。否。これは……違う。すん、と鼻を鳴らして周囲の香りを胸一杯に吸い込み目を開く。なんとなく、三臨の姿で来てしまったが失敗だったな。長く伸びた髪を揺らして吹く風は陸のそれとは違い、僅かな塩気を教える。そうだ。ここはあの暖かで冷たい矛盾を抱えた壺の中などではない。
目に見えるものは穏やかでありながら、風は予想していたより荒い。静けさと荒々しさという反するものを内包した世界。それが、この海の上というものか。それにしてもこの風の強さ……どこぞの誰かを思い出すようで腹立たしい。
「気にくわない。と、そんな気分だとお見受けしますが?」
音を微塵も感じさせん、優雅な足取りでわし様の斜め後ろに立つ影がある。肩越しに振り返ると、男が舞台役者さながらに恭しく被った帽子を取りながら頭を垂れた。
ここが船上であるとは思えない動きに正直少し驚く。わし様は自慢の体幹でこの通り!多少の揺れ程度では押しも押されもせんが、男はわし様がちょい、とつつけば吹き飛ぶような薄さである。まぁ、線は細く見えるが肉付きは悪くない。身体の使い方の問題であろう。
揺れに慣れた様子の男の足は、まるで錨を下ろしたようにピタリとその場に留まっている……と、頭を垂れた姿勢のままで、伺うように少し視線を上げてわし様を見る目に妙な輝きが宿る。加えてなんか鼻息も荒いし頬はうっすら赤く見えるしなんなら少しいやだいぶ興奮しとるように見えるんだが!?
「時に、そのヘアピンを外す気はないだろうか?この角度からでも十分に最高のメカクレ素質をひしひしと感じている。きっと、さぞや素晴らしいメカクレ深度になるとも!
あぁ……この逆巻く風に、まるで清廉な水の流れのように舞う貴殿の絹糸のような美しい髪に、そのスピネルさながら、いや!極上希少の宝石すらも色褪せて見えてしまう強く鋭い、全てを魅了してやまない瞳が優しく隠された瞬間!私はこの世全てに感謝の意を述べることだろう……ありがとう!ありがとうとね。大事なことだから二度も三度も何度でも言うとも!
是非、そんな最高のメカクレを私に見せてほしいところだが、この潮風に長くあたればその美しさは褪せずとも髪が痛んでしまう。それは私としても心が痛い。ということで、中にいた方がよろしいのでは?」
「……」
わし様の心の友であるカルナ曰く、海のように広く穏やかで、だが時に激しく色を変え渦巻く強さを持つ。操舵技術は素晴らしく、まるで淑女を扱うように船を操り、自由気ままな風に己がなったように錯覚する……と。どこか誇らしげにカルナは笑っておった。
そしてそれはその通りであると、つい数秒前まで思っていた。が、ただ一つ……乗船してから度々、ハイテンションで小躍りしながら口にする、よくわからん趣味なんだか生き甲斐だか知らんが、を除いては。そういえばカルナも散々なにかにつけて言われたのだと苦笑いを浮かべておったな……。
「その、メカクレメカクレ言うのはどうにかならんのか~?わし様が美麗かつ最高のイケオジだというのは周知の事実ではあるが……ぶっちゃけ視線が怖い。おまえの腕ならいくら金を積んでも惜しくはないし、カルナも気に入っておる。だというのに中身に問題ありすぎだろう……」
「メカクレは人類全ての宝だよ?素晴らしいメカクレの可能性を秘めたスピネルの君!カルナの主……いや、友である貴殿に褒められるのは恐悦至極ではあるが、金を積んでも惜しくはない……など、そのような評価は私のような者が受け取るには少々荷が重い。操舵に自信はあるが、それだけですよ」
前のめりにメカクレ語を話していたと思えば、急にすんっと距離を離すように、軽く肩を竦めて淡く笑む。
風に流れる色褪せた黒髪の男。最後の海賊だというバーソロミュー・ロバーツは今、わし様との間に明確な線……いや、これはもう少し鋭いものだな。その腰にぶら下がっているカトラス、と言うんだったか。その武器を刺して、ここから入ってくるなと警告めいたものすら感じる。これが、カルナの言っておった悪癖か。
言葉遣いも仕草も、どこぞの筋肉馬鹿に見習わせたいほど磨かれている。物腰の柔らかさ、丁寧さは時に疑惑を招く結果にもなりうるが、だいたいのうわべしか見ん相手ならばコロッと簡単に騙されるだろう。わし様には及ばんが、この男の顔は使える。甘く囁くような声も、言葉や仕草、とにかく目に見えるもの全てがこの男の武器と言っても良い。それをバーソロミュー自身も理解しているようにみえる。
だが、ときおり覗かせるその自分なんぞという姿勢は頂けん。分を弁えるのはいいことだ。しかし、過ぎた謙遜は卑屈。後ろめたい不健全なものだ。そんなもの、わし様のカルナの友たる者には許されん。カルナが許してもわし様が許さん。
じぃっと見つめるわし様の視線に耐えきれなくなったのか、それともこのなんとも言えない空気を察したのか。バーソロミューはおどけるように首を傾げてわし様に手を差し出す。
「……貴殿の舌に合うかはわからないが、良ければ紅茶などいかがだろうか?サーヴァントの身である私たちには縁がないかもしれないが、ここは少々冷える」
「うぅむ、悪くない。だがその前にいくつか改めよ、バーソロミュー。まず、貴殿などという堅苦しい呼び方はやめろ。カルナの友はわし様の友でもある。特別に名を呼ぶことを赦す。無論、様や殿なんかの敬称もなしだ」
「それは……」
「それはもしかしもぬぁ~い!!」
びくり、と。わし様の声に驚いたのかなんなのか。差し出した手を震わせて、まるで亀の頭のようにのたのたと引っ込めようとする。突き立てた境界を引き抜いて、逃げようとしておる。気に食わん。実に気に食わない。
……いや、この男はこうすることで自らの身を守ってきたのやもしれんな。相手の懐に飛び込み、信用を得る技術がもはや匠の領域である。ふざけた言動が目立つが、それも織り込み済みなのかもしれん。まぁ?わし様には負けるがな!
目端もきくようであるし、人との接し方、その距離の取り方詰め方も上手い。でなければたった数時間前に……いや、正確にはドバイの夏、マスターを引き連れて来たスークにて顔は見ている。だが、直接言葉は交わしていない。言葉を交わしたと言う意味で認知し、カルナの友だと前もって知っていたとしても、ここまでわし様に言わせることはなかったはずだ。逆に、カルナよそいつを友とするのはやめろと止めたに違いない。まぁ、カルナの目は確かだと胸を張って言えるし、そんなつまらん間違いなどあろうはずもないが。
――だが、だからこそ気に入らん。
「さっきも言ったが、おまえの腕は素晴らしい。わし様が言うのだから間違いはない。存分に誇って良いぞ!なんならわし様の専属にしたいくらいだが……おまえはそうではないのだろう?なにせ海賊だ。わし様は空気の読める素晴らしい王族である。よって、自由の海を往くものを縛り付けたりなどせん。たまにこうして船を出してくれれば良い」
「……ひとつ、聞いても?」
ひたり、と。わし様を見つめる双眸が在る。深く揺らめくそれはこの海のようである。わし様の周りにはない色だ。遠くを臨む、諦めのような憧れのような。不思議な色をした目である。それがわし様を正面から見据えている。波立つ目の奥に、確かに輝く色がある。それは見てくれだけのものよりずっと心地の良いものだ。
「なぜ、カルナや共を連れて来なかった?私は海賊だ。そのような豪華絢爛を絵に描いたような身がノコノコとひとりで来るような場所ではない。なにせ海賊船だ。奪われても文句は言えない、そんな船だ。そして私はそれを駆る船長。いかに矮小な三流霊基の身であれど、牙を剥かない理由にはならない。例えカルナの主であっても、私は混沌、悪。友人、隣人、つい数秒前まで肩を並べ笑いあった仲だったとしても奪うと決めたら奪う。そういう生き物だ」
――怒り。
わし様を見る目の奥に揺れる影の色だ。なるほど、確かにその通りである。しかし、わし様とて海賊がなにか知らずにこの場に足を踏み込んだのではない。多少強引に過ぎたかもしれんが、バーソロミューの怒りの理由はそんなことではないだろう。怒られるのは嫌いだが、その色には好感すら覚えている。
恨まれるのは嫌だ。もちろん嫌われ謗られるのも嫌いだ。わし様は褒められ、讃えられることが好きだ。すごい、すごいと言われることが。強い、最高だと言われることが。だが、それは心の底からの賛美でなければ意味がない。うわべだけの賛美など虫酸がはしる。虚しいだけだ。なら、こうして欲するまま感情を剥き出しにされる方が余程いい。欲しいものを欲しいと声高に叫ぶことは人間として当たり前の衝動だからな。それが例え他者から奪ってまで欲しいと望む声であっても、それはわし様にとって子守唄に等しいものだ。
「……カルナを、アシュヴァッターマンを連れて来なかったのはその必要がなかったからだ。おっと勘違いをするでないぞ?なにかあったとして、わし様が遅れを取る相手ではないと侮ったわけではない。まぁ、どうしてもと言うなら本気で相手になるが……文字通り必要がなかったからだ。わし様はおまえの言うように豪華絢爛、黄金の王子で知られておる。故に、それに相応しい場と相手を選ぶ」
「私はそのお眼鏡に叶った、と?」
「それもある。が、一番の理由は初めから言っておるように、カルナが友と認めたからだ。カルナの友はわし様の友。それが己などと、その価値を捨て置くことは、おまえを評し、友と呼ぶ者への侮辱に等しい。わし様は恥をかくのが嫌いだ。故に、おまえを友と呼んだカルナ、それを認めたわし様の目が間違いであったなどと恥をかかせることは許さん。
それにおまえは静かだ。ん?なにやら静けさとは無縁じゃないのかとか失礼なことを考えたような目をしおったな?わし様とてひとり静寂に身を浸したい時もあるのだ。身の内に嵐を抱く、海のような男よ」
ふと、風が止む。波も収まり、船の揺れがピタリと止まる。凪ぎ。全てが一瞬のうちに静止する。その中で、バーソロミューはその深海めいた目を眩しいものでも見るようにすぅと細める。
「奪ってでも欲するのは人として当然、生まれ持った欲だ。いいぞ、その気があるならわし様からも奪ってみせよ」
「……いいや。止めておくよドゥリーヨダナ」
逡巡は瞬きの間に済んだらしい。わし様に対してどのように接するべきか。どの位置に立つべきか決めたのだろう。そして、答えとばかりにどこか尊大にわし様を呼ばう。役者じみた仕草は消え、どこか荒々しいものに置き換わる。
「なんだ。伊達男のガワは捨てたのか?」
「まさか。私はいつでも完璧な伊達男だとも!いやね、君の物を仮に奪えたとして、おそらく私は馬に蹴られるか二つ折にされるか、丸めて肉団子にされるのではないかなと、そう考えたのだよ」
「はぁ?なんであのゴリラの話が出てくるのだ??」
「ふふ、私はどこの誰とは言っていないのにおかしなことだね。その料理の上手いゴリラ君が貴方にとって……おっと失礼!これ以上は本当に肉団子にされてしまうな!」
ニマニマと人の悪い笑顔を浮かべると、バーソロミューは現れた時と同じ、音のしない足取りで船内へと引っ込んで行った。早い話が、逃げたのだ。
「……ちょっと待てぇぇい!今のはどういう意味だバーソロミュー・ロバーツ!!!」
悪辣な海賊の返答の代わりに、先ほどまでの凪が失せて、轟々と強い風が吹き荒れる。船がひっくり返るような強い揺れに気合いで耐えきって、わし様も船内へと足を向けた。