『落涙』人は、泣く。痛みを感じた時も、悲しいことがあった時も、嬉しくても泣く。目からぽろぽろと水を溢して鼻水を垂らして……いや、それは全員にはあてはまらねぇか。俺が見た泣くってのはそんなのばかりで。
あぁ、あとは悔しくても泣く。それが一番多く、身近で見てきたものかもしれない。あまりに静かに、だが唇を噛み締めて手を振るわせて、ありったけの意地と矜持で声をあげてみっともなく泣くことはしない。が、その目。ほぼ同じ身長のはずなのに、お前は俺を下から見上げるように、目一杯の恨みと怒りを込めて見上げていた。いや……少し、違う。
「ビーマ……!!」
そう。今目の前でそうやっているように。俺を昔と変わらない温度で見つめていた。違うのは、恨みと怒りに混ざって……なにか色が。ちかりと瞬く何かが見えた、そんな気がした。
『落涙』
どうしてこんなことになったのか。おそらくこればかりは希代の英雄、頭脳明晰にして最高の戦士であるわし様をもってしても答えを見つけることはできないだろう。だって、わし様マジでわからんもん。
「おい」
べしり、と。人様の膝を軽く……のつもりだろうが馬鹿力め。ヒリヒリと痛みを訴える膝と、それを成したゴリラ……なぜか同じ部屋にいて、なぜかわし様の膝を枕にするという不敬極まりない行為をしても悪びれることもなくふんぞり返っているビーマが、不満ですと顔面にありありと書いた顔をこちらに向けて眉を潜める。
「手が止まってる」
「……」
早くしろ。短く、だがいつもの鼓膜が破れんばかりの大声ではなく、痒みすら覚えそうな程小さく掠れた声で言うから。わし様とて鬼ではない。決して、あの怪力ゴリラの乱暴者の暴食魔神が雨に濡れた子犬よろしく目尻もトサカのような髪すら項垂れて、しゅんとしおらしい……弟、のような雰囲気を醸したから絆されたわけではない。断じてない。こいつはビーマ。憎くて腹立たしい、傲慢な半神で……。
「……まったく、我儘な奴め!あとでわかっておろうな!主にわし様の腹事情的にだな……そう、そうだ!仕方がないから貴様の作る料理、それも現代のデザートを添えたフルコースを献上する栄誉をくれてやろう」
「ん」
「……」
貴様、本当にビーマなのか!?とツッコミたくなるがもはやそれにすら、返ってくる言葉がないことは容易に想像がつく。なにか悪いものでも拾い食いしたに違いないそうに決まっている。でなければ……いくら、わし様がこの剛力無双のビーマとその、お付き合いなるものをしているからといって、その態度はあまりにも信じがたい。目の前で起きとるし、さっき叩かれた膝はまだ痛いから夢でも幻でもないのはわかっておるが。
ぐりぐりと無言の主張……わし様に肩を押し付けてくるビーマのそこに一度はこの空気に耐えかねて離した手を添える。するり、と。流れるビーマの髪が手に触れる。見た目こそ鋼のように固そうに見えるが、実はそこまでの固さはなく、まぁ、毛の一本一本がしっかりと芯を持っているからわし様のキューティクルヘアーに比べればはるかに固いのは間違いないが。見た目より柔らかく感じる。
その立派な毛並みを横に流して、お望み通り広くて厚い筋肉にどこもかしこも覆われた体……その肩をぽん、ぽんと一定のリズムで叩く。まるで赤子のようではないか。
(わし様がこのようなことをするなど、兄弟たちが騒ぐな)
わし様にされるがままのビーマはやはり無言で前だけを見ているから、どのような顔をしているのかはわからない。
見たい、と。思わないわけではない。わし様とかつては殺し合い、そのように刻まれた存在であるはずの男が、何故わし様とこんな有り得ない時を過ごすことになったのか。羅刹の女を愛したように、わし様をも愛してみせると言うのか。なんと傲慢な。許すつもりはない、そうはっきり言ったとマスターに聞いた。ならばこのザマはなんだという?
(わからん……わからんし理解もできないが、)
わし様に無防備に向けられた背中。かつて砕かれ死に至った腿の上には頭がある。今の俺なら容易く砕くことができよう宿敵とも言うべき男の命が、そこに。だが、砕こうとも砕かれるとも思わない、感じない。ただ俺に背を向け、よしよしと甘くあやされる男がいるだけだ。
こんな時間がもし……昔の俺たちに存在していたのなら、など。それこそ有り得ない夢想をしてしまう。俺がドゥリーヨダナであり、お前がビーマセーナである限りない。そのはずだった、のに。
「……影法師の生、とは……かくもわからぬものだな」
「んあ……?」
半分だけ向けられた顔はぼんやりと呆けている。目は今にも閉じてしまいそうで、あやされて眠気を覚えるなどやはり赤子か良くて獣と変わらんなと笑いが込み上げてくる。
うつらうつらした目を俺に向け、こちらがなにを言っているかの理解すら及ばぬほど眠気に襲われているらしい。幼い顔で首を傾げたらしいビーマの目元にゆっくりと手を乗せる。
「なんでもない。眠いなら寝てしまえ」
囁くように、耳に唇を寄せる。やがて本当に寝入ったのか、規則正しい寝息がこちらに届く。実は疲れていたのか?燃費が悪そうだものなお前。
あぁ、暖かい。どこもかしこも暖かい。熱がある。お前がこんなにも暖かいなど、こうなるまで本当の意味で知らなかった。
「おやすみビーマセーナ。認めよう。俺もお前が見ようとしている夢を見たいと、そう思ったぞ」
熱い体を抱き寄せて、そのままベッドに転がってもビーマは目を覚まさない。だから、そのまま。広い背中に腕を回して。こちらに向き直ったビーマの、穏やかな寝顔に笑う。これが夢でも幻でもなくて本当に良かったとそう、思う――
気付いた時には遅かった。
すでに回避不可能だと直感した。だが、みすみすやられるなんざ俺の矜持が許さねぇ。だから、最後まで戦い抜こうと思った。手にした槍を構え直す。間もなく訪れる衝撃に備えて、強く、強く。なのに、俺とそれとの間に入り込む影があった。
「ビーマ……!!」
閃光。引き絞られたそれは肩越しに振り返った影の輪郭をはっきりと照らし出す。見慣れた、見慣れすぎた顔。ふてぶてしくて高慢で強欲で。俺がかつて殺した男。その、男の顔が……目が俺を見ている。いつものように恨みと怒りにまみれた目で...…違う。その目の中に別の輝きを見た。それは、安堵だ。俺を見て、こいつは安心した、のか?
「っ――」
敵から放たれた光が、それを、ドゥリーヨダナの体を貫いた。背後の俺にその残滓は届かず、代わりに貫かれたドゥリーヨダナの体から血が、飛沫となって俺の頬を濡らす。
「――!!」
咆哮。それが己の口から出たのだと、しばらく気付けなかった。気付いたのは、手から槍を投擲して敵を射殺した後、仰向けに地面に倒れたドゥリーヨダナの体を、その上半身を支えた時だった。
霊核に至る傷であるのは一目見てわかった。止まらない血。背中から溢れるそれが、支える俺の掌を汚す。暖かい。こいつがこんなに暖かいものだなんて、今、こんな形で知りたくなかった。
「なにしてやがる、お前、なにしてんだ!!」
「さ、ぁ……?だが、おまえ、の……そん、な顔が……ッ、」
こふり、と。咳をして。大量の血を吐く。致命傷。退去。消滅。別れ。そんな、単語が頭を埋め尽くす。こんなクソ野郎に助けられたなんて恥だ。なんて感情は起こらなかった。代わりに、どうしようもない怒りがある。敵に、己自身に。そして、俺を庇ったドゥリーヨダナに。
「死ぬんじゃねぇ」
「は、は……お、まえが……そ、……」
――お前がそれを言うか。
血を溢し、全て言葉にならずともわかる。そうだ。お前は俺が一度殺したのだから。そんな俺が、死ぬなと口にするのは滑稽だ。
口の周りを血で染めて、笑えん冗談だなんて言うことはそんなくだらねぇことかよとやはり怒りが沸く。お前は俺が殺す。こんな間接的なもんじゃなくて。正面に立ち、手に互いの得物を握り、正々堂々と――
正々堂々、と?
「ビーマ」
「っ……」
頬に、触れる熱がある。急速に冷えていく熱が。
俺の周りではマスターが、他の仲間がなにか叫んでいる声がする。が、俺はそのひとつも言葉を拾えない。なのに、ドゥリーヨダナが名を呼んだ。呼んで、この頬に触れたのはわかった。
まるで己の兄弟にするように。俺の頬を愛おしそうに撫でる。血塗れの唇が、僅かに笑みを象る――
ちかり、と。
瞬く、ものがある。
「いたい、のか?どれ……しょう、が、ない……」
目から光が消えていく。そんなお前に、俺はどう映っている?しょうがない奴だと。あやすように、俺に今まで見せたことのない笑みを浮かべている。頬を撫でる手が。やがてゆっくりと落ちた、のを見た俺のこの心に浮かんだもの、は?
「ドゥリーヨダナ?」
あぁ。あぁ。知らなければよかった。知らないままの方がよかった。お前が、あんなにも壮絶に笑うから。美しいと、思ってしまったから。それを、目の前で手の中で腕の中で喪うと思ったから。
人は泣く。痛みを感じた時も、悲しいことがあった時も、嬉しくても泣く。だから、この目から溢れ落ちたそれはまさしく、お前を想って流したものだ。
「喪うものかよ……!」
お前の目に見た色を、その輝きを見た。熱を暖かさを知ってしまったから。お前を逝かせるわけにはいかない。それは俺が許さない。
尖った己の牙で唇を食い破り、滴る血を唾液と混ぜて死に体のドゥリーヨダナに口付けた。
――いつの間にか眠りに落ちていた。ひとりの時はこのような……いつ眠ったかわからない、などなったことがないというのに。
(……ん?)
目を開いたはずなのに、目の前が暗い。寝落ちなるものをしたはずだから、恐らく部屋の灯りは落としていない。だというのに、この暗さ……それに、息苦しい。なにかにこう、ガッチリホールドされておるような……。
(ガッチリホールドされとる!?)
気付いた。気付いてしまった。わし様、今、なんでも二つ折りマンビーマにガッツリ抱き込まれておるではないか!目の前が暗いのも息苦しいのも、ビーマの分厚い胸板に顔面をこれでもかと押し付けられているからだ!
ふんふん!と置かれた状況に鼻息を荒げれば、同時に匂い、が。わし様のような高貴でも香油の香りでもない。言ってしまえば体臭、と言って差し支えない。あんなに、足が臭い!など口にしたが、鼻を擽るビーマの匂い、は。スパイスのような辛みを帯びている。その奥底に漂う甘さ、そして少しの汗。日の匂い。土の匂い。まさしく、野生。
地を駆け抜ける狼、とは。もしかしたらこのような匂いがするのかもしれん。良い匂いであるかどうかは悩ましいところではあるが、別に、嫌な匂いとは思わない。むしろ……この仮初めの心臓を高鳴らす香りだ。ドッドッ、と高鳴るこの鼓動を感じ取られやしないかヒヤヒヤする。こんな、年端もいかん処女のような恥じらいめいたものを、このわし様がビーマに覚えるなど恥だ。恥でしかない。
「くっ……」
「!?」
僅かに揺れる体。一体いつから起きていたのだろうか。いや!起きていたなら先に言え!と、口から出るより早く、ぎゅうぎゅうと力強く抱き締められる。え、わし様折られる?
「なにひとりで焦ってんだよトンチキ」
「っ!ふ、不敬……んぐっ」
文句を言いたくとも、こうも強く抱き締められてはまともに話すこともできん!
腹が立ったついでにげしげしと足を蹴ってやれば、痛がるでもなく、やはり楽しそうに笑うだけ。わし様馬鹿にされておるのか?
「びー……」
「聞こえるか?」
聞こえるだろ?と、繰り返すようにビーマは言う。一体なんのことだと、疑問を口にするより先に唐突に理解する。同じ、だった。ビーマが、あのビーマセーナが、わし様と同じだった!
強く抱き込まれて、ビーマの鼓動を近くに感じる。熱く、血潮が巡る肉体の内側で、激しくその胸を叩くものがある。全身に血を巡らせ、その熱を、生をわし様に報せている。
「お前、いい匂いだな」
「は……はぁ!?」
「んだよ、暴れんな。褒めてんだぜ、この俺が。ドゥリーヨダナ、お前のことを」
「っ!貴様!何様の」
「怒るなよ。たまには素直に俺の言葉を受け取ったらどうだ?」
「っっ~~!」
ビーマの、低音が。耳を直に擽る。そんな、ことをされては。そんな、甘さを帯びた声で。不遜な言葉を吐いているがその実、響きはわし様に赦しを乞うようで。それは、俺の中にあるビーマではない。俺が倒そうとしたビーマの姿ではない。ない、が。先に己で口にしたのではないか。影法師の生、とは。わからん、理解の範疇を越えたものであると。
押し付けられた胸板に爪をたてる。怒りと仄かな喜びと。それを否定したい、怖れ、にも似た感情とで中身がぐちゃぐちゃになる。わし様、は。俺は。
「……ゆる、す。赦すぞビーマセーナ。存分に、その語彙力の乏しい頭でわし様を心行くまで褒めろ。いいと言うまで止めるな」
「朝飯前だな。お前こそ、恥だとか言って簡単に止めるなよ?」
言って、ビーマはやはり楽しげに笑うと、先程わし様がそうしたように熱い掌で背中をぽん、と。優しく叩いた。