兎じゃなくてケダモノならいる薄闇の中に、囁く声がある。
声、ではなく、音か。
閉じていた目を開けば、目の前に在るのは背よりも少し低い真白の穂を靡かせた一面のすすきである。シュミレーターに再現されたのは、マスターの国…どこかの地域のどこかのすすき野原。人里もなく、人の気配もなく。地にはすすきが靡き、空には見事な満月が輝くのみである。
耳を澄ませば、すすきを揺らして通り抜ける涼やかな風がある。くん、と鼻を鳴らせば…よもや匂いまでも忠実に再現しているらしい。しっとりと湿った土と緑の青くさい匂いがする。
マスターの国…日本は四季がはっきりとしており、今宵再現したのは中秋の名月なる、もっとも美しい月が見られる日だという。
暑い夏が終わり、生えた樹木は美しく色づき、緑生い茂っていた山は、野は、一様に枯れた色に染まりつつもぷくりと膨れた実をつけるものもあれば、この時期…秋にしか咲かないという花が咲き乱れ、目を楽しませる。可憐でありながら強く、主張している。派手さはないが、慎ましやかというのか。
紅葉、などはそのひとつである。あれは花のような華やかさはないが、独特の形、そして場所により赤であったり緑であったり、黄色、橙…様々な色がある。それも、すべて同じではなく、微妙に差異があり同じものなどひとつもない。
「…静か、だな」
シュミレーターの設定だとわかっていたが…朝から晩までそれは大いに楽しんだ。日のある昼間の時刻では、子供から大人…サーヴァントが、職員たちが、マスターが、この場でそれぞれの時を過ごした。
日が暮れてからは一部のサーヴァントたちが野の真ん中を陣取り、キッチン組が作ってきた月見団子を貪り、空の月を愛でた。詩を吟じる者まで現れ、ならばこれがなければ始まらんと酒も振る舞われ…一時お祭り騒ぎになった。その場に、わし様もいた。お開きになったのはついさっきのことである。
帰る者たちの背を見送り、ひっそりその場に残ったわし様は、ひとりすすきの真ん中で目を閉じていた。サーヴァントでも酔いを感じるとは不思議なものだ。酒精が残る体は僅かに火照り、すすきを揺らして過ぎる風が肌を撫でていくのが心地好い。
風の音に混ざり、昼間の喧騒が思い起こされる。あんなにも騒がしくて、笑いの耐えぬ場所にも静けさは訪れる。色も姿も変えたその場所に立ち、揺れるすすきを、空の月を見上げる。
大きな、月である。白く見える光が大地を、見上げるわし様を淡く照らし出す。刻まれたという兎…いや、正確にそれがなんであるかはわからぬ。そうであると、自国の伝説とどこぞかの国の神話だかが交わり、そうであるとこの日本に伝わったのだと聞いた。
献身の、はたまた自己犠牲の末に刻まれた獣。わし様なら、その行いに月そのものをくれてやっただろう。あそこはおまえの国だと。刻むのではなく、生きる地として。好きに大地を駆け、生きるがいいと。
「ドゥリーヨダナ」
獣に想いを馳せていた。からだと思いたい。その気配の接近に微塵も気付けなかったなど…わし様が、手を掴まれるまでおまえに気付かないなどあってはならんことだ。
熱い手のひらが、わし様の腕を掴んでいる。振り返らずとも誰かは声で察しがついている。内心心臓が飛び出すかと思ったわ!と怒鳴り散らしているが、それをなんとか飲み込んで…わし様は後ろのそれに視線を向ける。案の定、わし様の腕を無遠慮に掴んでいたのは、白い衣服に身を包んだビーマであった。しかし、その顔は。
「……」
わし様を見て、ビーマの目に過った色は何であるか。心配、そのような色ではなかったか。瞬く間にいつもの、人を舐め回すような不躾な視線にとって変わるが。
…おまえが、そういうつもりならば…俺もそうするだけだ。
「…ビ~~~~~マ!!がおるではないか!!」
「うるせぇな…」
わし様から手を離し、その手で耳の穴をほじる。なんという不遜か!それでは暗にわし様がうるさいと言って…というか口に出しとるではないか!無礼な!
「貴様…わし様の美麗な声をうるさいとはなんだ!!」
「チッ…うるさいものをうるさいって言ってなにが悪い。ちったぁ黙ってられねぇのか?黙ってりゃ……」
「ん?」
黙ってりゃ。なんだと言うんだ?
ビーマにしては珍しく歯切れが悪い。その上、なんぞ自分で自分の口を押さえながら、あーだのうーだのうだうだ言っている。正直気味が悪い。気味が悪すぎて鳥肌たったぞ責任とれ。
「なんだ!はっきり言わんかい!」
「……顔が」
「はぁ?顔が、なんだ」
「…チッ」
「舌打ち!?」
わし様の顔をチラチラ見ながら舌打ちしおったぞこの野蛮人!?せっかくわし様がひとり優雅に月を愛でていたというのに、これでは台無しもいいところである。
せっかく…月と、わし様を撫でるこの心地好い風を楽しんでいたというのに。
耳環を擽るようにして通りすぎる風を追うように、口ごもる気色悪い野蛮人に背を向ける。
「もうよいわ。興が削がれた。わし様はかえ――」
帰る。そう、口にして。足を踏み出す。目の前のすすきを掻き分けて、この場所から日常へと帰る。はずであった。それを止めたのは、やはり熱いくらいの大きな手のひらで。
「っっっ!!?」
加減を知らぬ怪力で再び引き留められたかと思ったのは一瞬。目の前に、ビーマの顔が。通った鼻筋。露の煌めきを纏えばさぞ映えるであろう長い睫毛。雄々しい眉。なにより惹かれるのは…その、目だ。宝石すらただの石ころ同然の、否。こやつのこれは飾るためのものに非ず。人を、殺すものだ。刃だ。その輝きが相応しい。
厚い唇。厚い舌。力強い手のひら。熱。熱。ねつ。俺は、いつも翻弄されてばかりだ。
力強く抱き寄せられて、食われるように口付けをしている。深く噛みつかれて、だがただやられるだけ、一方的に貪られるのは癪で。不意打ちをくらい、怯んだ俺の舌を思う存分啜る不届き者のそれを強く噛む。俺の背を掻き抱く指先が強ばったのは一瞬。お返しだとばかりに俺の舌を柔く噛んで、歯列をなぞる。上顎を撫でられて、背筋をゾクゾクとしたものがはしる。
互いの唾液を、少しの鉄錆の味を混ぜ、交換し合い…どちらともなく離す。俺だけが息を乱していて、目の前のけだものはぴんぴんしているのが悔しい。やはり、俺だけが乱される。翻弄される。流される。
「…キレイなんだ」
「へ?」
俺から視線を僅かに外して、ビーマは言葉の甘さとは裏腹に、え?今から誰ぞか殺しに行くんか?というほど怒気を孕んだ表情で呟く。そうして、なにを決意したのか。唇をへの字に曲げたかと思えば、ひとり力強く頷いて。
「ドゥリーヨダナ、おまえをキレイだと思ったと、そう言った」
「…………は?」
は?
は??
頭が大混乱である。なんだこのデバフ。わし様仕切り直しとかそういうの持っとらんのだが?誰かこのデバフ解除してくれんか!!?
「ただし、」
「あ、え?」
混乱するわし様の前で、ビーマは極悪人も泣いて逃げ出すような恐ろしい面(こいつの満面の笑みとかそうとしか言いようがない)で、なぜかがっしりと両手で肩を掴む。いや、捕まえる?
「ひとっっことも喋らなきゃな。だから、永遠にその口塞いでやるよ」
「ぁ!?ちょっ……ん~~~っ!!」
文字通りなにもかも塞がれて、わし様はおいしく頂かれてしまうのであった。
.