雰囲気よりも食い気今日は違うものが食べたい。と、そう我儘クソ野郎が言ったのは、俺が冷蔵庫に今日作ろうと買ってきた食材を入れている最中だった。
もちろん、もっと早く言えよボケカスがとその我儘野郎の頭を叩いた。それが悪手だったと気付いた時には遅く、我儘ボケカス野郎は完全にへそを曲げてしまい、今日は外で食べると言って聞かなかった。
せっかく、今日は寒いと聞いて鍋にしようと思っていたんだが、この馬鹿がこうなるとテコでも考えを変えねぇことは嫌と言うほどわかっているから早々に諦める。
食後に飲もうと思っていた酒も、その後のあれそれも全部ご破算だ。どうしてくれようこの馬鹿。
「おぉ~寒い!寒くてしぬ…」
デカイ図体を縮こませて、長いマフラーに完全に埋もれた形になるクソ野郎は、俺が着ているダウンジャケットより格段に質も保温性も高いコートにくるまり、それでも足りないと俺にしがみついてくる。は?
「歩きにくい、邪魔だ」
「はぁ!?このわし様が寒いと言っているんだ」
「知らねぇよ。てめぇが外で食いたいって言ったんだろうが」
「外がいいが寒いのは嫌だ!」
「うるせぇ…」
町は、あと数日でやってくるというクリスマス用にデコレーションされていて、イルミネーションの下を腕や肩を組んで歩くカップルの姿がちらほら見受けられる。その中を、身長体重共に重量級と言って差し支えねぇ俺たちが、アホみたいにぐちゃぐちゃと絡み合ってふらふらと歩く姿は目につくらしい。
自慢の筋力はこういう時にも発揮されるらしい。なんかの虫か?と思うほど、人の腕にがっしりしがみついて離れねぇクソ馬鹿を引き剥がすことを早々に諦めて、俺は行きつけのラーメン屋の暖簾をくぐる。
「おぉ、いらっしゃい」
「おう。邪魔するぜ」
寂れた風体の外観に騙されてなのか。それとも今の浮かれた雰囲気と縁遠いからなのか。味はシンプルながらこの俺が世辞抜きで旨いと思う店に客足はほとんどなく、カウンターに肘をついてテレビを見ていた店主の親父が、俺を認めてにかりと笑う。
「お?それがいつも言ってる困った同居人かい?」
「はぁ!?誰が、なんだ…と…?」
親父の言葉に反応して、寒さに引っ付いてまともに面を上げてすらいなかった馬鹿…ドゥリーヨダナが顔を上げる。と、視界に入った…控え目に言っても綺麗とは言えない店内に絶句する。目がキョロキョロしていて面白い。
「な、なん…?」
「いつもと違うものがいいんだろ?俺にこの味は出せねぇからな。親父さん、ラーメン二つで」
「あいよ。って、お連れさんの意見は聞かなくていいのかい?」
「そーだそーだ!わし様にもちゃんと選ばせろ!」
さっきまで店を明らかに値踏みしていた奴の台詞じゃねぇな。出ていくと言わなかったところを見ると、とりあえず食ってやろうという気持ちと、もしかしたら単純に外が寒すぎて出たくなかったからかもしれねぇが。一応、席につくという最低限のラインはクリアしたらしい。
古い店内のテーブルと椅子は昔ながらの物で、だいぶ年期が入っている。だが、横に置かれた餃子用の醤油さし、酢、ラー油の瓶に汚れは見えない。テーブルも油汚れひとつ見当たらない。古いが、ちゃんと掃除もメンテナンスもされている。
でなきゃ、俺が通う店のひとつにはなれねぇ。
「ほーん…」
手書きという独特なメニュー表を手に取り、ゆっくりと視線を泳がせる。正直、この野郎がラーメンを食うところを想像できないでいる。高級志向というか、舌が恐ろしく肥えているから外食もやれ高級レストランだの中華だのに行きたがる。そのわりに俺が出す…そういうものとは真逆の、どちらかと言えば家庭的な料理に対して、見映えだのなんだのを煩く言うことはあれどケチをつけたり残すことはしない。
まぁ、旨い…とはっきり言われたこともねぇが。残さず食うところと、俺と暮らし始めてから外食を控えるようになったことを、自分に都合が良い方へ解釈させてもらっているが。
「…わし様これがいい」
ぴ、とメニューを指差して俺に見せてくる。それは最初にオーダーしたラーメンと餃子、半チャーハンのセットだった。意外に食うな…もうこいつ、その気ねぇな。
「…なら俺もそれにする」
「は?なんで真似する」
「いいだろ別に。ガキじゃねぇんだから同じのヤダーとか我儘言うな気色わりぃ」
「喧嘩売っとんのか!?」
「ははは!」
テーブルを掴んだにらみ合いは、店内に響いた軽快な笑い声によってあっさり終結を迎える。いつの間にか側に来ていた親父さんが、テーブルに氷水の入ったグラスを置く。
「仲がいいんだね」
『どこが!?』
反論が重なって響いたことで、親父さんはさらに笑ってカウンターの中へと引っ込んで行った。仲良しとかこの馬鹿といて言われるなんて屈辱でしかねぇ。
「ふん!このわし様にあ~んなこと言いおって、これで不味かったらわかっておろうな?」
誰もいない店内にドゥリーヨダナの声はアホほどよく響く。これにも親父さんは笑うだけ。
見ればもう調理は始まっていて、手際よくネギやチャーシューをカットしている。手伝いがいないこの店は、そのすべてを親父さんひとりが担っている。
「…まぁ、わし様が席に着いたのだ。そのようなことはないだろうがな」
ぼそり、と。店内に流れる流行りなのか。有線の音に紛れそうなほど小さい呟きに視線を向ければ、さして興味もないだろうに。店の角に置かれたテレビに視線を投げていた。テレビではよく知らないアイドルがクリスマススポットを紹介していた。デカくてきらびやかに飾られた木を見上げて、綺麗ですね~と作り笑顔で言っていた。
「はい、ラーメン半チャ餃子セット二つね」
会話もほぼなく、数分の時を興味のないテレビで潰していると、盆に乗ったラーメンセットが運ばれてくる。目の前に置かれたラーメンは醤油味。澄んだスープにほうれん草、メンマ、チャーシューが一切れに鳴門という、いたってシンプルなラーメンだ。
その横に三つ並んだ餃子。表面はパリッとキツネ色に焼かれ、羽根がついている。ここのは肉餃子で、中に入ったにんにくのパンチがかなりきいたものだと記憶している。酒のツマミにいいと、家で真似もしてみたがどうしてもここの味にならない。
半チャーハンはかまぼこが具材に入った、これも昔ながらのものと言える。添えられたレンゲで掬えば、ほろほろに炒められた米粒がぽろりと落ちる。
「どれだけ腹を空かせておるのだ?いただきますくらいせんか」
旨いと知っているだけに、つい先に手を出しちまった俺を嗜めるのは、にやにやと悪い笑みを浮かべたクソ野郎で。両手を合わせるなり自分だって勢いよくラーメンに食らいつく。てめぇも腹ペコなんじゃねぇかとからかう暇もねぇ。だが。
「おい」
「あ?」
ポケットをあさり、入っていた輪ゴムを差し出す。
「髪が入る。結べ」
「おま…せめてヘアゴムにせんか…」
女がそうするように、片手で髪をかきあげながらラーメンを啜る姿にくるものはあったが…正直目に毒といえば毒だった。
輪ゴムがあっただけマシだろ、と突き出すと渋々、自慢の長い髪を横で束ねる。前髪は元々着けてるヘアピンで流れ落ちることはないが、あの艶やかで指通りのいい髪は駄目だ。
ズルズルと、上品な面でラーメンを豪快に啜る姿は貴重だった。思わず食べる手を止めるほどに。そんな俺に気付かず、ドゥリーヨダナはお気に召したんだろう。それこそガキみたいに目を輝かせて食を進める。
箸で掴んだ餃子を食む。カリッと小気味良い音をたてて、中から溢れた肉汁に驚きながらもウマウマと咀嚼する。酢とラー油を多めに入れたタレに餃子を潜らせて、あっという間に平らげちまう。
「…親父、餃子単品でおかわり」
「ふふ、はいよ」
カウンターでこっちを見守っていた親父に向かって徐に手を上げると、ドゥリーヨダナはそう言ってにっこりと笑う。
追加の餃子、そしてラーメンと半チャーハンを食べ終わるのにさほど時間はかからなかった。どれもドゥリーヨダナの舌を満足させたらしく、会計が終わって店を出た時は親父さんに向かってまた来ると言ったほどだ。
「確かに、お前には出せん味であったな」
満腹に膨れた腹をコートの上からくるりと撫でて、ドゥリーヨダナは白い息を吐きながら不意にそんなことを言った。
「…ラーメンってのは難しいんだよ。あそこまでの味を出すには何年もかかる」
「ふふ…待てのきかぬ食いしん坊のお前には無理であろうな」
「てめぇだって変わらねぇだろうが」
「はぁ!?暴食魔神とわし様を同列にするとは不遜が過ぎるぞ?」
「…なら、」
もう食えねぇか?と、意図のある手をいつもより膨れたドゥリーヨダナの腹へと滑らせる。
「……」
「待てがきかない食いしん坊らしいからな、お前の腹具合なんぞ知ったことじゃねぇが」
まだ、俺は食い足りねぇ。
寄せた耳にそう囁いてやれば、マフラーに埋もれた首までさっと朱がさす。わなわなと震えた唇が、それでも己からは口に出さんと明確な意思をもって閉ざされているのが気にくわない。
欲しいものは欲しいと、そう声高に叫ぶのがドゥリーヨダナという男だ。それを、いらん理性と羞恥で踏み留まっているのが腹立たしい。だが、その薄っぺらい防壁を崩すのは容易い。
「なぁ」
「っ!」
手袋もせず、剥き出しになったその手を恭しく取る。同じ男の、骨張った手の甲にそっと唇を寄せる。
「極上の飯の次は極上のデザートと相場が決まっているだろう?お前は…欲しくないのか?俺は、欲しい」
「っ~~~!!」
ギリギリと歯を噛み締めて…俺の目を見た瞬間、がくりと強張っていた全身から力を抜く。
気付けば、俺たちは人の気配も通りもない暗がりの公園へと差し掛かっていて。月明かりの代わりに降り注ぐ街頭の下でドゥリーヨダナは足を止める。
「ビーマ」
吐く息は白くけぶっているはずなのに、確かな熱を孕んでいて。その赤く色付いた唇が、俺の名を紡ぐ。
骨張った指先がゆっくりと伸びて、戯れとばかりに髪をすく。お世辞にも通りがいいと言えない髪に、頭に触れて。
「良かろう。俺を存分に食すがいい」
妖しく笑んで、俺の唇に己のそれを重ねた。