甘いものにはご用心「オーエン、歯磨きしないと虫歯になっちゃいますよ」
オーエンは鳩が豆鉄砲を食ったような表情で、きょとんとその瞳を瞬かせた。
「きみはずいぶんと人間寄りの思考回路なんだね。僕たちには不要だよ。エナメル質が人間よりもはるかに強いんだ」
「あ……確かに不要なのか……」
「まあ、オーナーに合わせて習慣化したアシストロイドも多そうだけどね」
「なるほど……」
晶は不思議と歯は磨くものだと思い込んでいたけれど、確かにアシストロイドは人間よりも頑丈なボディを持つから必要ないと言えばそうなのかもしれない。初期設定なのか、それとも空っぽな記憶の残滓なのだろうか。ガサガサと音がして、思考から現実に引き戻される。オーエンがトランクの中を漁っていた。
「そういえば、ラスティカがぶどう味の歯磨き粉をくれたんだ。これ、甘いんだって」
「それは……遠回しに歯磨きを推奨されているのでは……?」
じっとりとした目つきで晶を見た。晶の言葉にオーエンは心底かったるそうに返す。
「面倒。そんなに言うならきみがしてよ」
「仕上げ磨きみたいな感じでなら、まあ……」
「仕上げ磨き? 待って、検索する……ヒット、これか。ふぅん、保護者が子どもにするんだ? じゃあ、僕が晶にするべきだね」
「え!?」
「だってたぶん僕がきみを作ったもの」
オーエンは晶の隣に腰掛けた。ぽんぽんと、膝の上を叩く。
「はい、いいよ」
「えー………」
「ふうん、ふうん。晶ってば、僕のお願い聞いてくれないんだ」
「うっ……」
オーエンが上目遣いで晶を見上げる。千年樹の花びらとと同じ淡い薄紅色の瞳が晶を真っ直ぐに射抜く。彼は晶がこの顔に弱いと分かってわざとやっている。しかし、わざとだと知っていても、そのお願いを断るのは晶にとって、とても難しいことだった。
「……ちょっとだけなら」
「ふふ、言ったね? ちゃんと言質とったから」
「う〜……」
「三分でタイマーかけるよ」
「さんぷん……」
「じゃあ、口開けて」
「口内を見られるの、なんか恥ずかしいな」
「大丈夫、メンテナンスでもしてるでしょ」
「そ、そうですけど」
「あーん」
「…………あーん」
晶は覚悟を決めて、おずおずと口を開いた。
「よし、いい子」
グリンピースくらいの量の歯磨き粉を歯ブラシにのせる。晶の口の中へ歯ブラシを差し入れた。
「ひゃは、くすぐったい」
「危ないからじっとしててよ」
「ふぁい」
「三分だよ」
「ふぁい〜」
しゃかしゃかと小気味良いリズムが小さな部屋に流れる。恐々と肩をこわばらせていたが、オーエンの手つきは思いのほか丁寧で、ときどき頬の内側を歯ブラシが掠る感覚がこそばゆいくらいだった。人間が美容院や歯医者で眠くなってしまうような気持ちって、こんな感じかもと晶はぼんやりと思った。そういった心地良さに包まれて、晶は目を閉じた。
「────ぁ!」
一分を過ぎようとした頃、晶の肩がびくりと跳ねた。晶は突然起こった自身の異変に驚きを隠せない。開いた目に映るオーエンは冷静で変わりなかった。
「口内ってさ」
「──んっ、……あ、ぅ?」
身体が火照ってオーバーヒートしてしまいそうなくらい暑い。口端から飲み込めなかった唾液が溢れ出す。意識が朦朧として、正常に思考回路が働かない。デリケートな部分を細い毛先で撫で回される感覚だけが、晶の全てを支配する。
「肉体の内側、つまり内面でしょ?」
身も蓋もない言い方をすると、そう、快感が生ずるのだ。オーエンの記憶によれば、晶は歯磨きが習慣化していた。日常的だからこそ、見落とされがちだが、純然たる事実なのである。
「う、あ、うう」
ぞくぞくとして、ぐちょぐちょとして、じゅるじゅるとして、こわい。未知の体験に晶は混乱する。歯を磨いているが故に、歯を食いしばることもできない。すっかり身体が弛緩して、全くいうことを聞いてくれない。てらてらと口からこぼれ落ち続ける唾液が、オーエンのズボンに染みを作る。
「お、おーえん」
震える手でオーエンの腕を掴もうとするが、オーエンは止まらなかった。晶の顔は火を吹きそうなくらい真っ赤に染ま李、目には大粒の涙が溜まっている。既に呂律も回らないようだった。オーエンは自分の加虐心が身体の奥底から湧き上がるのを感じた。
「あ、ぐ……も、やだぁ……」
「だめ、三分って決めたでしょ」
歯茎と歯の境目を擦ると、晶の腰が思い切りのけぞった。ちかちかと目の前に星が瞬くような錯覚。晶は魚のようにはくはくと口を開閉させる。
「きゅう」
「………………ちょっと、晶? 晶!」
晶はついにオーバーヒートを起こし、全機能が停止した。
「もうオーエンなんて知らない!」
その後、晶は毛布を被って籠城し、オーエンはそれを宥めるのに六時間を要したのである。