待てができないのは 妖狐たちが中心となって行う桜花祭にて、神楽巫女をつとめることになった晶はオーエンとともにシャイロックの店へ向かっていた。神楽巫女には特別な装束と化粧が必要らしく、今日はつまるところの衣装合わせだ。
「なんで僕も行かなきゃいけないの」
オーエンの狐耳は猫のイカ耳みたいにぺしょんと垂れていた。すでにやる気が削がれている。
「オーエンも装束の確認しなくちゃいけないんでしょう?」
「ダルい。帰っていい?」
「金平糖あげますから! もう少し一緒に頑張りましょ?」
金平糖という言葉にオーエンの耳がぴくりと反応した。黄金色に輝く尻尾も大きく揺れる。晶は小瓶をオーエンに手渡した。『めりとろ』の看板商品である色とりどりなこの金平糖はオーエンのお気に入りだ。
「……あと少しだけだよ」
桜雲街の中でも商売通りは、名前の通りに商売が盛んで特に賑わう場所だ。食事処に茶屋、酒屋、薬問屋に芝居小屋などが所狭しと軒を連ね、昼夜を問わず活気に満ちている。シャイロックの酒場を訪れると、彼はすぐに顔を出した。
「ようこそいらっしゃいました」
シャイロックは大きな鏡台のある部屋へ晶を案内した。オーエンの用事はすぐに済んだらしい。今は晶と同じ部屋で、金平糖をつまみながら絵草紙をめくっている。人に化粧してもらう経験は無いに等しいので、晶はなんとなく緊張してしまう。鏡台には紅と筆が慎ましく置かれていた。
「化粧筆を使うんですね」
「はい、本日は筆を使用しますが、指でも構いませんよ。では、目を瞑って」
晶は指示通り目を瞑った。筆先が目の周りをなぞる感覚は少しくすぐったいが、シャイロックの筆運びはとても丁寧だ。化粧筆には狐毛が使用されているのだとシャイロックは言った。
「これって私でも出来ますか?」
「今日は私が手ほどきいたしますが、オーエンに頼んでも良いでしょうし、慣れればご自身で行うことも可能ですよ」
シャイロックの手が動作を止めた。晶は首を傾げる。
「シャイロック?」
「ふふ、彼女はオーエンの前でいつもこのように?」
「?」
オーエンは名を呼ばれて、ぴこと狐耳を震わせた。色違いの双眸は瞬きをするようにゆっくりと、目を瞑ったままの晶に視線を向ける。金平糖を噛み砕きながら、オーエンはシャイロックの問いに答えた。
「ちがう。晶はキスするとき、いつも緊張して目を開けたままだよ」
「おや、そうでしたか」
「オーエン!!!!!! ちょっとお話しがあります!!!!!!」
晶は勢いよく立ち上がると、オーエンの腕を取る。そのまま廊下を突き進み、角の部屋に入った。シャイロックの酒場には何度も手伝いに来ているので、この部屋は滅多に使われないことを晶は知っている。オーエンを部屋に押し込んで、ピシャリと戸を閉めた。
「なあに、話って」
「『なあに』じゃないですよ、人前であんなことっ!」
「だってシャイロックが」
「てきとうなことを言って!」
「てきとう? そうかな?」
「そ────」
宝石めいた双眸がゼロ距離で煌く。睫毛が長いと思ったのも束の間に唇を奪われた。溶け始めたチョコレートみたいに柔くなめらかで、それでいて呼吸の仕方を忘れてしまうくらいの熱。全身の血液が沸騰していくみたいだ。雷で打たれたみたいに、衝撃を受けて動けなくなる。ぱくりと唇を啄むように甘噛みされ、やがて晶のものではない熱は離れていく。金平糖を食べていたからだろうか、少し甘い余韻がある。呆然とする晶をよそに、オーエンは満足げに狐耳をピンと立てた。
「ほらね」
「…………ほらね、じゃないですよ!」
ぽかぽかとオーエンの胸元を叩く。晶の顔は金魚に負けないくらい真っ赤だった。オーエンはそれを愉快げに見下ろす。すり、と耳を撫でてやると面白いくらいに肩が跳ねた。
「事実を述べたまでじゃない」
「誰かに見られたらどうするんですか!?」
晶はオーエンの首飾りを握りしめて、上目遣いに目尻を吊り上げた。気性の荒い猫みたいだ。オーエンは尻尾の先で晶の顎の下を撫でる。
「ふふ、この部屋には人は来ないでしょ。でも、そうだな……見せつけてやろうか?」
「本当に勘弁してください…………」
「人気のないところに連れ込まれたからてっきりね」
「ち、違いますっ! それに」
晶の枝垂れがちな睫毛が伏せられる。鳶色の瞳は潤んだつやをはらんでいた。オーエンの首飾りを掴む指先に、ぎゅっと力が入る。熱湯を被ったように赤い頬は、すでに臨界点を超えていた。
「……それに、目を瞑るまで待てないのはオーエンの方でしょ」
今にも溶けて消えてしまうくらいに、小さな声で晶はそう言った。細胞が一斉に声を上げるような昂りがオーエンの身体を駆け巡り、尻尾がぶわりと逆立つ。致死量のまばゆさに酩酊のような浮遊感を味わった。
晶は勢いよく身を翻す。オーエンの耳には衣擦れの音がやけにはっきり聞こえた。そのまま戸を開き、部屋の外へ駆けて行く。オーエンはそれを追いかけることもできない。遠ざかる足音を聞きながら、瞠目して立ち尽くしていた。
「わあっ!? オーエン!」
「……やあ、リケ」
「こんなところに立ち塞がっていないでください、驚くでしょう。どうしたのですか?」
「試合に勝って、勝負に負けたみたいな」
「?? 敗者ということですか?」
「勝者かもしれない、もはや」