アイネ・クライネ・ナハトムジーク「これは、珍しいものが打ち上げられてるね」
フィガロは歩みを止め、嵐の空にペリドットを埋め込んだようなその瞳を細めた。陸に打ち上げられた『それ』はフィガロの足を止めさせる充分な条件が揃っていた。ざくざくと浜に近づいて、長い足で砕ける波を踏み締める。
「──人魚」
陽を遮るように腰を下ろして、その体躯を覗き込む。胸の律動と薄い唇からかすかに漏れる呼吸音からまだ死んではいないことが分かった。栗色の髪がきらきらと陽の光を反射している。長さは鎖骨くらいだろうか。日焼けとは程遠い真白な肌はひんやりとしていて肌理が細かい。肉は薄く、脆そうな身体付きをしている。浮き出た頸椎を指先でなぞる。頸椎、胸椎、腰椎──腰椎から先は人類と全く違う構造をしている。鱗に覆われた尾びれは不思議な光沢を持ち、七彩を放出していた。
気が遠くなるほどの永さ生きているが人魚を見たのはこれが初めてだった。なにせ人魚は用心深いと言われ、人前に現れることはほぼない。そのため、伝説上の生き物と呼ばれ、大昔に滅んだとされてきた。しかし、フィガロの目の前に横たわる事実がその全てをどうでも良くさせる。
落ちている鱗を手にしてみる。少しだけ硬かった。薄い鱗は静かに熱を奪い、茫洋たるさみしさをなぜか和らげた。
フィガロはしばし逡巡したのちに、人魚を抱き上げた。ここから一番近いセーフティハウスへのルートを脳内で構築する。
「……空間魔法を使った方が早いか」
そうしよう、と独り言つと呪文を唱える。現れた扉を開くと、ベットへと人魚を横たわらせた。白衣と靴下を脱ぎ捨てて裸足になる。雑に脱ぎ捨てられた衣服たちは洗面所の片隅で丸まっていた。別に皺になっても魔法で直せばいいだけの話だ。それからシャツとズボンの裾を捲り上げた。再び人魚を抱き上げて、片手でバスルームのドアを開く。乾いたタイルは無機質で冷たい。努めて丁寧に人魚をバスタブへと下ろす。彼女の薄い身体は音もなく沈んだ。シャワーのコックを捻る。
「狭いけどさ、ここには俺以外やっては来ない。だから安心して、とは言えないけど」
フィガロは肩をすくめた。シャワーノズルから噴き出すぬるい水が二人の体を濡らす。雨のように降り注ぐ水音が耳にさざめくようだ。
「ねえ、きみってば」
角度によって色が変わる鱗はてらてらと輝いている。再びシャワーコックを捻る。キュ、と短い音がなった。水が止まり、タイルの上を伝って名残惜しげに排水口へと流れ出ていく。やがてバスルームには静寂が訪れた。
「だんまりなのかい」
沈黙。顔に張り付いた細い髪の毛を指先でのいて流す。水に浸された髪はゆらゆらと柳のように揺れていた。
「……ねえ、きみの名前は?」
バスタブの縁に手をついて、目線を合わせるように生白い顔を覗き込む。そのとき、永遠の眠りから目覚めるようにして人魚は目を開いた。カチリとパズルのピースが合わさるように目が合う。瞬間、フィガロは魅せられたようにその瞳から逃れることができなくなる。特別な引力が働いているのかと錯覚するほど、その瞳はこの世界のどんなものよりも美しかった。
人魚は枝垂れ気味な睫毛を蝶の羽ばたきのように瞬かせた。水の感触を確かめるように尾びれが波を打つ。人魚は緩慢な瞬きを数度繰り返すと、この小さな部屋を見回した。フィガロは黙ったまま、その様子を見つめた。やがて、その視線がフィガロの元へゆっくりと辿り着く。人魚の唇が言葉を探すように小さく揺れ動いた。しかし、音にはならず空気がか細く震えるだけだった。彼女は魚のようにぱくぱくと口を開閉させたが、やがて困ったように眉を下げて閉口してしまった。
「…………ん、いや、分かるよ。晶?」