日が、いつの間にか高くなった。
温んだ大気は柔らかく、胸郭深くまで吸い込みながら、郷里とのあまりの違いに、ときおり物寂しくなりもした。春たけて野の緑が濃くなれば、それはなおさらのことだった。
アスクは彼にとって異邦だが、しかしこうも長いこと暮らしていると、気に入りの場所とはいかないまでも、所定の位置ができるものである。中庭の、ライラックの横のベンチがそれだった。人通りも稀なところで、こういう日にひとり本を読むにはちょうどよい。ツバメが高く飛んでいて、ああいい日和だな、と、こんな男ですら思った。枝では、ようよう蕾が膨らんでいる。数日もすれば、溢れるばかりに花ひらくことだろう。
ふとめずらしく他人の足音がして、トラバントは反射的に目を向けた。視線の先でアルテナが、微かに笑って手を振った。
「こんにちは、トラバント王」
「なんだ、おまえか」
「なんだとはご挨拶な」
レンスターの血統の証である栗色の髪が、春の風にふわりと揺れた。逆光で隠れた顔の中、母親似の唇が少し尖っている。かつて子どものような真似はよせと何度か言い、そして実際に矯正されてきたものではあるが、このところ少し再発しているきらいがある。トラバントは少し眉根を寄せたが、しかし何も言わなかった。アルテナも、トラキアと言う厳しい国の王女として推戴されていた当時と違い、アスクではただの兵士に過ぎない。であれば、こんなことまでわざわざ口うるさく言う必要もないだろう、と思ったからだった。自由とはいかないまでも、このつかの間の不思議で羽を伸ばしていて欲しい。いずれまた、あの過酷な国に戻るのだから。
「元気がありませんね」
ん、と言いながらトラバントはおのれの顔を撫でまわした。おのれの感情を外に出さないことについては長いこと訓練も積んでいたし、おのれでもなかなか上手な方だと思ってもいる。現にその顔はほとんど普段と変わらなかったが、まあ見る側にそれなりの経験があるのだろう。実際指摘に心当たりがないでもなく、むむ、と呻いて、トラバントはわざとらしく唇をへの字に曲げた。
「そう見えるか」
「ええ、随分なお顔ですこと。トラキアの岩でもあるまいし」
アルテナは同席の許可も取らず、無造作に隣に座った。四月の陽が温く、二人を照らして短い影を作っている。遠く鐘楼に、鳩の群れが羽を休めていた。
トラバントはしばらく逡巡していたが、アルテナが好奇心を隠しもしない目でじっと見ているものだから、とうとうあきらめて、
「子どもを泣かせてしまった」
と、ため息混じりに白状した。所在なさげに髪の毛をかき回す様子がおかしく、アルテナはかすかにわらった。
「またどうして」
「いや、今日はエイプリルフールだろう」
こくり、とアルテナはうなずいた。今日の午前中は、嘘をついてかまわない。それは彼らにとっては異邦の風習だったが、長いことアスクにいるうちに、ふたりともいつの間にか馴染んでいた。実際アルテナもここに来るまで、いくつかたわいもない嘘をついたりつかれたりしてきている。初めての年は不慣れなものだから、散々に騙されもしたのだが。
「ファがそれで、見え見えの嘘をついてきたのでな。からかいがてら、そんなに菓子ばかり食っていると脱皮に失敗して死ぬと」
それで泣かせた。トラバントが憮然としてそう答えたものだから、あらあら、と、アルテナは苦笑した。
「まさか本気にするとは思わなんだ……」
「どうせ加減もしないで、これでもかってぐらいに深刻なそぶりで仰ったのでしょう。あなたは嘘がお上手なんですから、逆に少し気をつかってください」
「うーむ……」
「それはファが心配だったのはわかりますけど、死ぬぞ、はエイプリルフールで言っていい類いの嘘ではないでしょう」
「──それもそうだ」
かわいそうなことをした。そう悄然とするトラバントの様子に、アルテナは同情もしなかった。
「だいたいあなたそれ、昔私にもおっしゃって泣かせましたよね?」
父も兄も、きちんと脱皮をしてこのように大きくなったのだ。そう野菜を嫌がっていては、あの竜のようにぼろぼろに肌が割れて、そのまま死んでしまうのだぞ、と。言われればトラバントにもかすかに覚えがないでもなく、
「そうだったか」
と、やや気まずそうに顎のあたりに手を当てた。
「ええ。それで泣いて泣いて兄上のもとに駆け込んだんですから! ……いやだ、覚えていらっしゃらないんですか!?」
む、とトラバントは詰まった。幼い頃のアルテナが野菜が苦手だったのは確かで──おそらくはレンスターとトラキアでの調理の手間の差やら何やらがもろに影響が出たのがそこだったのだろうが──、頭を悩ませていたのは記憶にある。だからあの手この手と尽くして何とか食べさせようとはしたのだが、その一々を覚えているはずもない。だからうーむ、とトラバントは考え込んで、そのまま沈黙してしまった。まあひどい、とアルテナはわざとらしく憤慨してみせたので、トラバントはため息をついた。
「……おまえなど何度泣かせたかわからぬわ」
「本当に。何度泣かされたかわかりません」
呆れた口調で肯定して、アルテナはひとつ伸びをしてみせた。泣かせた。それはもう、散々に泣かせた。そう思えば、トラバントとしてもさまざまなものがあり、横で複雑な顔をせざるを得なかった。
「あ、そうそう、トラバント王」
「なんだ」
「私、あなたの娘ではないんですって」
アルテナが視線も向けないまま、いきなりけろりと口にした。トラバントは一度だけ瞬きしたが、そうか、とあっさり頷き、
「それは驚いたな」
と、かすかに笑ってつぶやいた。ほんとうに、とアルテナも、やはり笑った。
「好きな食べ物も、色も、戦い方も、口癖も」
ひとつひとつ数えながら、アルテナは見せつけるように指を折って見せた。その指が十本になった頃、
「こんなにそっくりなのに、父親ではないんですって」
と、不思議そうに握られた手の指を一本一本開いて、アルテナはつぶやいた。手のひらを透かした太陽が、アルテナの瞳に赤い光を投げる。血潮の色を、隣の男には所以しない色を。それが妙に眩しくて、アルテナは何度も手を動かした。ゲイボルグを握る手を、この男とは違う神器を握る手を。
「──わしに似たか」
その所作を目を細めて見つめながら、トラバントは的外れな回答をした。振り向いたアルテナが肯首して、残念ながら、とわざとらしくため息をついた。
「粗野なのは困るな」
「まあ、失礼な」
トラバントがしみじみ言ったものだから、アルテナはもともと大きめの、彼女の「父親」によく似た瞳を丸く見開いた。それはやはりわざとらしい非難の表情であったのだが、トラバントはそれにはとりあわず、しげしげと相手をながめて、かすかに苦笑した。
「生まれは悪くないはずなのだがな……やはり育ちかな」
「育ちでしょうね」
「困った、これでは嫁の貰い手が見つからぬ」
「責任をとってくださる人がいるので、余計な気をまわされずとも大丈夫です」
「ほう、そんな物好きがいたとはな」
「ご心配なく。あなたによく似た物好きですから」
「心配しかない答えだな」
わしに似たと言われるとな。まあ金はなかろうが。トラバントが真面目にそう答えるものだから、確かにお金はありません、と、アルテナも釣られて頷いた。
「──厳しく育てたつもりだが。大丈夫だろうかな、あいつは」
「それこそ、余計な心配です。だいたい厳しすぎなのですよ、あなたは。本当に、私も何度泣かされたか」
「すまぬすまぬ、この通りだ」
「まあ、心にもない」
後で焼き菓子を買ってくだされば、許して差し上げます。この間の黄色い屋根の菓子屋の、木苺のものですからね。そんなふうにアルテナが言うので、トラバントは不承不承約束した。せめてもの抵抗のつもりで、脱皮に失敗するぞとぼやいたので、アルテナはついに声をあげて笑った。
教会の鐘が音高く鳴って、驚いた鳩が一斉に飛び立った。何となく釣られて視線を動かした視界の端で、アルテナがあっと小さな声を上げた。
「いけない。待ち合わせをしているんだった」
アルテナは慌てて立ち上がって、それからやはり慌てて手鏡を取り出すと、真剣な顔をして化粧の具合をあらためた。髪の毛を丹念に直すさまが甲斐甲斐しく、眩しいものでも見たかのように、トラバントはわずかに目を細めた。
「例の物好きか」
聞いてしまったのは、心配というよりはからかいである。アルテナは一瞬唇を尖らせかけたが、それでもこくり、と、やや気恥ずかしげに頷いた。ほんのりと染まった頬の内側に、幸せでもふくめて味わっているかのような顔だった。そんな顔で襟を直し、裾をただしとせわしなくやっているものだから、トラバントはつい苦笑した。
「心配せずとも、おまえは美人だ。この世の誰よりもな。あいつなどひとたまりもなかろうよ」
「はいはい、陛下は嘘がお上手」
本当だ、生まれが良いからなと言ったものだから、アルテナは耐えきれずに笑った。その顔もやはり美しかった。ああ一等の美人だ、と、あらためて思った。トラバントからすれば、どんな異界の美女よりも美しかった。それからふと先に死んだ妻のことを思い出し、まあ二人とも一位かな、いやあいつはあの世だから嘘ではないな、などと勝手なことを思った。
「では、また。”父上”」
ふざけているつもりなのか、これでもかと丁重に一礼して、アルテナは早足に去っていった。”育ち”の割には見事なカーテシーだったので、トラバントはやはり感心した。まあうかつに褒めれば、それはもう厳しくしつけられましたので、とでも返してくるだろうが。随分と口が達者になったものだと、やはりこれもまたトラバントは感心した。あっという間に大きくなった。あっという間に娘になった。そうして、あっという間に巣立ってゆく。背中に、羽でも生えたかのように、軽やかに、嬉しげに。──それでもまだ、心配がないとは言えないが。
「いた!」
ファが、がさごそと植え込みから顔を出した。随分とまた妙なところから現れるものだなと呆れると、ファはえへへ、と照れ笑いをして見せた。褒めているわけではないのだが、まあ本人が楽しいのならばいいか、と、トラバントは続く小言を飲み込んだ。
「おじちゃんおじちゃん、おひる行こう?」
おひるのかねがなったでしょ。ファ、おなかすいた。そんなことを言いながらうんしょうんしょと声を上げ、小枝を数本おりながらも何とか抜け出る。葉っぱや花弁を撒き散らしながら、ファはにっこりと笑った。さっき泣いたカラスが、というものだった。
「ファねえ、おひるはめだまやきがいい」
「わかったわかった。しかし卵はいいのだがな、野菜も食わぬと──」
「おじちゃん、もうごごだもん、さっきみたいにうそついちゃだめだよ。うそはごぜんちゅうだけだっていったじゃない」
「わかっておる」
トラバントは雑に頷くと、ファの髪や服にくっついた葉や小枝を払ってやった。蜘蛛の巣まで絡めていたときには呆れもしたが、それもなんだかんだで丹念にはがし取り、髪の毛を整えてやる。どこでも子どもは手がかかるものだ、と思った。悪い気はしなかった。そのくらいの方が良いと思った。──笑っているのであれば。
「だが、野菜はきちんと食えよ。体が丈夫になるゆえな」
「はーい」
ファは笑うと、はやくはやくとトラバントの手を引いて歩き出した。陽光に目を細めた先で、さっき鐘に驚いて飛び去った鳩が、いつのまにか鐘楼に戻って、何事もなかったように羽根を繕っていた。