蕎麦よりうどん派(最終話)「暑いな。今夜も蕎麦にしようか」
オレンジの夕陽が差し込む枕元で、薄らと瞼を開いた独歩が笑いながら言う。
相変わらずの深い隈。ちょっとやそっと寝ただけでは消えないソレに胸のあたりがきゅうとする。
「天麩羅食いてぇな」
「ウチで揚げる? 俺野菜切るよ。左馬刻クンは寝てて」
「んや、俺様がやるわ」
「でも、その……」
いつも言い淀んでいる男は、寝起きももちろん言い淀む。
腰痛くない?と上目遣いで尋ねた後、独歩はおずおずと視線をシーツに落とした。
自信なさげな癖して、一丁前に俺のケツの心配をしてくる。自分のちんこにどんだけの自信があるんだか。
そもそも、朝帰り(仕事で)の独歩にムカついて寝室に引きずりこんだのも俺だし、そこから散々絞り倒したのも俺だ。気遣われる理由なんざない。
でも、そのちぐはぐさに心を掴まれている事も、俺はちゃんと自覚している。
「全然だわ」
「そっか……そうだよな俺みたいなテクなしとのセ……クスで君が腰砕けになんてならないよな。左馬刻クンに触れてるってだけでも奇跡なのに、それ以上を期待して俺は俺は俺は……んむ」
ムカついたのでキス。
直接唇を塞ぐ方が、黙らせるには便利だ。まあ、コイツにしかこんな方法はとらねぇが。
「……うわ、え」
「俺様はな、俺様が認めてる野郎としかヤんねぇの。少しは自惚れろやタコ」
ダルそうな瞼をまぁるく開いて、ボっと頬を赤める独歩。三つほど年上の男は、俺の一挙一投足で愉快な百面相をする。
可愛くて仕方ねぇ。一生俺様の前ではくはくしてろバーカ。
▽▼▽
トントントンとネギを切る音。それが心地くてすぐにうとうととしてしまう。
キッチンに立つ左馬刻クンは、ふわふわの髪を雑に後ろで結び、前髪を妹さんが使っていたヘアピンで横流しに留めている。
緩やかなスウェットを着た彼は、いつものアロハとジーンズを着た姿よりも不思議と色気がある。ダルそうに肩に手を置きながら首を鳴らす仕草に、俺はこくりと唾を飲む。
「寝足りねぇなら寝て来いや。出来たら起こしてやんよ」
「ううん。ここにいたい」
テーブルにでれんと上半身を垂れ、ぼーっと左馬刻クンの手元を見やる。慣れた手つき。野菜が次々と左手に取り上げられ、くるくると回転しながら裁断されていく。
玉ねぎと茄子、えのきにかぼちゃ。ざる蕎麦を食べる時は、いつも彼は天麩羅を作る。
俺はどちらかと言うと蕎麦だけでもいいんだけど、どうせ食うならちゃんと美味しく食べたいんだとか。
ヤクザというキワドイ仕事(仕事?)なのに、俺よりもはるかに丁寧な食生活を送っている。
凄いな。コンビニのおにぎり一個で昼飯を済ませてしまう俺には、蕎麦ですらめちゃくちゃ美味しいご馳走なのに。
「オイ」
「何?」
「あんま見んなや。手元狂うだろ」
少し唇を突き出しながら左馬刻クンは言う。
可愛い。
「いつもいろんな人の視線を集めてる君がソレを?」
「その他有象無象とテメェは違ェだろ」
「どうして? 一緒だよ」
「…………一緒じゃねぇわ」
ちょっと拗ねた。なんでだろう。
じいと懲りずに眺めていると、咎めるように左馬刻クンは舌を打った。一度俺をじとりと睨んで、またまな板へ視線を落とす。
「勝手にしろ馬鹿が」
「うん」
馬鹿だって。ディス以外の何物でもないんだけど、何でこんな嬉しいんだろう。
つい含み笑い。両腕に顔を沈めて必死に隠す。
「笑ってんじゃねぇぞ」
「んふふバレてる? ごめん」
「クソ、甘ったりぃなテメェは」
甘い? 何がだろ。
左馬刻クンが俺の話をする時は、いつも俺が思う俺とかけ離れていて、別人のように感じる。
あ、でも今のが俺の人生に対するスタンス……とかの話だとしたら、俺そのものすぎて俺は俺は俺は……。
「今度は落ち込んでんのかよ。マジで情緒。働きすぎだろ」
「働きすぎだけど、その分小さな幸せでも特大の幸せに感じることもあって」
「ヤベーヤベー、今この瞬間だけでも寝てろや。自己啓発のセミナーでも行かされたんか怖ぇな」
本当のことなのに。小さな幸福でも、君からもらったら身に余るほどの大きな幸福に思える。
まあでも、本人に伝えたところできっと信じてはくれないかな。俺が君を好きだと言うことも、彼は話半分にしか聞いていなくて、ああそう、と言葉を濁してばかりだ。
もしかしたら、俺が最中に寝てしまうのも一つの要因なのかも。左馬刻クンの低音は子守唄みたいで、耳元で囁かれるとそのまま顔を枕に突っ伏してスコンと寝てしまう。今まで足を開かせた彼の上で、何度どろりと寝落ちたことか。
未遂も未遂。目の前においしいお寿司があるのに睡魔に負けるなんて、俺の人生は堕落してる。睡眠欲の前にいつも平伏す、俺の淡白な性欲。
「俺、物足りなくない?」
「ハ?」
きょとんとした。俺が。
キッチンにいる左馬刻クンが驚いた猫みたいに釣り上がった目をまぁるくしているけど、俺もきっと同じ顔をしてる。
「や、あれ? ゴメン。変なこと聞いちゃった。なかったことに」
「するわけねぇだろ。何でそう思った」
「や……うーん」
「俺がそんな顔してたこと一度でもあったか」
左馬刻クンが俺に尋ねる。声が少し低くて、多分ちょっと怒ってる。
さっき自惚れろタコって言われたばかりなのに。
「ごめんないよ。俺のいつもの癖だ」
「俺が俺が俺が……ってヤツか」
「キモくてゴメン。君が俺を選んでくれたことには、ちゃんと嬉しいし、自信もある、つもりだ」
じりりと片眉をあげる左馬刻クン。じろっと俺のことを一瞥して、油の中に丁寧に野菜を落とし入れていく。
「テメェも一辺揚げてやろうか」
「え!?」
「一度素揚げしてやんよ。したらそのクソくだらねぇ劣等思考もこんがりアガって浮かれた脳みそデキあがんだろ」
「えなに!? アゲルって何かの隠語!? 俺は生きていられますか!?」
「ハハハっ」
めちゃくちゃ笑ってる。
弾けるナッツみたいに笑ってる。
人間素揚げするって何でどうやるんだ。RPGの生贄とがされるヤツじゃないのか。
ヤクザすぎる――――いやヤクザなんだけど。
「もうすぐ出来んぞ。皿と麺つゆ出せや」
「あ、ハイ」
おずおずと立ち上がり、キッチンに回る。
ありがとうという気持ちを込めて後毛が溢れるうなじに唇を落とすと、左馬刻クンはまた俺のことをじとりと見てきた。
少し口がもごもごしているから、照れているみたい。彼のむず痒い時にする仕草が、可愛くて好きだ。
「テメェそういうとこよぉ……」
「何…………あれ?」
ふと視線を落とすと、ザルの中に湯掻かれた麺が置かれていて。
それは蕎麦ではなく、つるりとしたうどんだった。
「あれ、うどん?」
「テメェ蕎麦よりうどんのが好きなんだろ」
「なんで、知って」
目をパチクリさせながら問うと、いいから皿を出せ、と静かな返事が帰ってきた。何とか焼とかいう高そうなお皿にキッチンペーパーを敷き、そのまま慣れた手つきでてんぷらを盛り付けていく。
「外で食う時、いつもうどん食ってんだろ」
「そうだけど、でも」
「俺様に合わせんなや」
「え……」
カチャンと鍋をシンクに落とし、左馬刻クンは真っ直ぐに俺を見た。キッチンライトの橙を吸収した瞳がきらきらと輝いている。
「最初に蕎麦のが好きだっつった俺様が言うのもなんだがよ、一緒に食う時はテメェの食いてぇモンを優先しろや。いちいち俺に遠慮して合わせにくる必要はねぇんだわ」
「……」
びっくりした。そんなこと。
言ってもらえると、思ってなくて。
「好きなモンが違っても、目の下にしみったれた隈引っ提げてても、セックスが物足んなくても、俺はテメェを嫌いにはなんねぇ」
静かな、凪いだ海のような声で、彼はそう言った。
「ーーーーーー」
ありがとう、と、言おうと思って。
口を開いたその上から、ぼろぼろぼろっと大粒の涙が落ちてきた。
思わず、掴まれていた腕を振り解く。
急にかくれんぼし続けていた俺の恥部をずるりと引き摺り出された気がして。
俺は、すごく臆病だ。
だから、みんなが最初にビールを注文したら、俺も同じモノを頼む。一杯目から甘い酒が飲みたい時だってあるけど、それが社会人ってやつだと肝に銘じている。自我より調和。浮きたくないし、目立ちたくない。
だから、プライベートでもそうする癖がついてた。
そうでもしないと、嫌われてしまう。
俺のような出来損ないは。
冷たい手のひらがするりと俺の手を握る。
左の人差し指をあやすように撫で、また俺の視線を捉える。
左馬刻クンの真っ赤な瞳の中に、眉尻を下げたみっともない俺。
「待って」
「たまには俺様に気を遣わせろっつってんだ。テメェだけが惚れてるわけじゃねぇの、そのスカスカのドタマにぶち込んどけ」
その言葉にまたぼろぼろぼろっと涙が出てきて、俺は両手で顔を覆った。
恥ずかしくて、嬉しい。
笑いながら泣き出した俺を、左馬刻クンは愉快だと笑った。
「テメェの情けねぇ面も好きだが、さっさと俺様の隣を堂々と張れる男になれや」
「ひゃい、がんばりまづ」
震える手でつるりと口に含んだうどんは、少し塩が効いている。
だけど、今まで食べたうどんの中で、とびきり一等美味しかった。
蕎麦よりうどん派(最終話) おしまい