雨音の境界 3 -Estinien- 冷たい雨が容赦なく降り続いている。森の奥深く、岩陰を見つけたのは、全くの偶然だった。
その岩壁には二人が身を寄せられる程度の浅い窪みがあった。
濡れた服から水滴を払いながら、まずは自分がその窪みに腰を下ろす。続いて、隣に立つヴリトラの手を取った。軽く引き寄せると、意外にも素直に俺の膝の上に身を預けてきた。
「…すまない」
静かな声が雨音に紛れる。ふいにヴリトラがそう呟いた。いつも通り冷静な声音だが、その奥には微かな遠慮が見え隠れしている。
「気にするな。これが一番理に適っている」
短く応じると、自然に手が動いてヴリトラの肩を軽く抱き寄せた。その身体は、確かに少年の姿をしている。
だが、それは人形であり、寒さや冷たさなどに無縁であることは分かっている。
それでも、雨に濡れた地面に座らせることなど、できるはずもなく、肩の上に置いた手は、無意識のうちに守るような形になっていた。
ヴリトラは小さく瞬きをして、何か言いたげに視線を向けてくる。しかし、その言葉は、瞳の奥に留まっているようだった。
雨粒が降りしきり、空気は冷たく湿り気を増していた。
地面を叩く雨音は、森の奥深くまで響き渡り、耳を澄ませばすべてを包み込むように広がっている。
そんな中、不意にヴリトラが口を開いた。
「エスティニアン、寒くはないか?」
その問いかけは、雨粒が葉先を滑り落ちるように、ひっそりと漏れたものだった。
遠慮がちに紡がれたその言葉には、裏も棘もなく、ただ真っ直ぐな気遣いが込められていた。ヴリトラらしい、どこか無邪気で温かな思いが、その一言に宿っている。
少年の姿をしたこの竜は、長きにわたりラザハンを守り続けてきた。
その役目を疑うことなく、己の居場所をそこに定めてきた存在だ。守られるなど、考えたこともないのだろう。
その無意識の確信が、ふと胸に痛みを残す。
俺はわずかに息を吐き、薄く笑った。ヴリトラを見つめるでもなく、どこか遠くを見つめるような、曖昧な視線のまま。
胸の中でかすかな感情が揺れた。雨音に紛れるような、名も持たぬ感覚だ。
「この程度の寒さで俺が凍えるわけがないだろう」
そう言いながら、ヴリトラの額にそっと手を置いた。
手が触れるや否や、その眉間にわずかな影が落ちる。
少年の姿をした天竜の、むっとした表情に少しばかり笑いがこみ上げた。
「この身は人形なのだぞ、エスティニアン。気を回す必要はない」
その言葉には微かに動揺が混じっている。その声の端々に潜む幼さと純粋さが、どうしようもなく人間的に映るのだ。
俺は軽く肩を竦め、抗議めいたその言葉を受け流すように答えた。
「そうだな」
そう短く相槌を打ちながら、肩に置いた手を少し引き寄せる。
包むようにそっと力を込めると、ヴリトラは小さく息を吐き、大人しくなった。その溜め息にはどこか諦念と安堵が混じっている。
やがてまた、雨が岩壁を叩き、湿った空気に満たされた静寂が戻ってくる。
ヴリトラの気配が穏やかになるのを感じながら、自然と口元に笑みが浮かんだ。濡れた服を通し、肌に不快感を伴う風が触れていたが、ヴリトラの肩を包み込むと少しずつ温もりを取り戻していく。
このひととき、何かが確かに交差し、形にならないまま胸の内に灯っているように思えた。
大粒の雨が降り続き、遠い景色はその勢いに輪郭を失いかけている。まるで雨の幕に覆われ、手を伸ばしても届かない世界をぼんやりと眺めているような心地だった。
「……君は、なぜそこまで私を気遣うのだ?」
不意に投げかけられた問いに、意識が引き戻される。
穏やかで静かな声だが、その奥にわずかな困惑が滲んでいる。
「そんなことを考える必要があるのか?」
目は外の景色に向けたまま、言葉を曖昧に返した。
暗い雲が空を覆い、わずかな光さえも隠されている。
雨音だけが耳に残り、答えもまたその音に溶け込むように消えていく。
「君は、不思議なヒトだ」
ヴリトラが小さく微笑む。その瞳には、何か新しい発見をしたかのような光が宿っていた。
俺はその表情に一瞬だけ戸惑いながらも、曖昧に返した言葉の説明など不要であることを悟る。
「それはお前の方だろう、ヴリトラ」
少しだけ照れ隠しのように、そう答えた。手を伸ばし、ヴリトラの額にかかる濡れた髪を梳くように撫でる。
ヴリトラは黙ったまま、ただ静かに目を閉じる。その動作には、不思議なほどの自然さがあった。
まるで幼い鳥が巣の中で身を預けるように、そっと俺の胸元へと寄り添ってきた。
微かな雨音と共に、ヴリトラの重みが確かに伝わる。
それは単なる身体の質量ではなかった。もっと深い、目に見えない何かが内側から響いてくる。
冷たく濡れた岩壁と、雨音に包まれた静寂。それら全てが、今この一瞬のために用意された舞台のように思えた。
小さな身体が胸にもたれかかり、湿った髪が頬に触れる。人形のはずのその身が、どうしてこれほどまでに生きたもののように感じられるのだろうか。
心のどこかで、言葉にならない感覚が波紋のように広がり、抑え込もうとするほどに鼓動が浮き上がるのを感じた。
わずかな音すら漏らさぬよう、密かに息を整える。
腕の中にあるのは、ただ少年の姿を纏っているだけのものではない。
その小さな存在の奥に潜むもの ―― 掴もうとすれば霧のように手をすり抜けていく、それでも確かに感じられる何か。
「……エスティニアン」
小さな声が、肩口に添えられた指先とともに淡く震えた。
腕の中で蹲るように寄り添う存在が告げる言葉は、雨音の隙間に溶け込むように空気を揺らし、静かに耳に届く。
「この雨が止んでも、少しだけ、こうしていてくれないか……」
消え入りそうな声とともに伝わってくるのは、胸の奥深くを揺さぶる、言葉以上の何かだった。
それを感じた途端、自分の腕がヴリトラの小さな身体を引き寄せた。
この腕に収まる肩先からは、確かな温もりが伝わってくる。それは、雨に濡れた髪が触れるたびに薄らぐ冷たさと溶け合い、かすかに命の気配を宿している。
寄り添う温もりに答えることは、少しも難しいはずがなかった。
それでも、簡単なはずの一言が妙に重く、繊細で膨大なものに思えた。
喉の奥に絡みついた言葉を飲み込み、ただ腕の中の存在を抱きしめることで、その小さな願いへの答えを示した。
ヴリトラの指先に微かな力が込もる。
それは抗うようでもあり、頼るようでもあった。
「……すまない」
ヴリトラの儚げな囁きが、かすかな風音のように空気を震わせた。
その言葉に返すべき答えを探しながらも、触れることで滲み出す感情に言葉はなおさら遠のき、俺はヴリトラを抱き寄せる腕にわずかばかりの力を込める。
それ以上は、ただ雨音と沈黙が語ることを許した。