雨音の境界 2 -Vrtra- 灰色に染まった空から無数の水滴が絶え間なく降り落ちる中、エスティニアンと共に見つけた岩陰。
決して広々としたものではなかったが、二人で肩を寄せ合えば、なんとか身を収めることのできる小さな空間がそこにあった。
ヒトである彼にとって、雨風を避けられるだけでも意味があるのだろう。だが、私の身躯にはこの程度の風や雨粒など問題ない。
それでもヒトの少年の姿を取る今、あえて彼の配慮を受け入れることも悪くはない、と思っていた。
だからこそ、エスティニアンが私の手を引いた時、私は素直にそれに従ったのだ。
「…すまない」
促されるまま、そっと彼の膝に身を預けたが、その瞬間に胸をよぎるのは不安だった。自分の重みが彼にとって負担になってはいないだろうか。
彼の穏やかな仕草に甘える一方で、私は心のどこかで引け目を感じていた。私が彼の重荷になど、なってはならない。
「気にするな、これが一番理に適っている」
そう言いながら、彼は私の肩に手を置く。その手は、どこか安心感をもたらす雰囲気を纏っていた。
雨粒が空気を満たし、地面を叩く音がどこまでも響いている。遠くの景色は薄い霧のような雨幕に包まれ、輪郭を失いかけていた。
周囲を包む雨音にしばし耳を傾け、私はエスティニアンを見上げた。
「エスティニアン、寒くはないか?」
ふと、そう問いかけた。私には何の影響も及ぼさないが、彼は違う。いかに鍛え抜かれた武人であろうとも、ヒトである以上、冷たい雨に長くさらされていては体に障るはずだ。
「この程度の寒さで俺が凍えるわけがないだろう」
彼はそう答えると、不意に私の額に手を置いた。
まるで、親が子の体調を気遣うようなその仕草に、面映ゆいような、どこか可笑しさを覚えるような不思議な感覚に包まれ、雨の音がひときわ遠くなった気がした。
「この身は人形なのだぞ、エスティニアン。気を回す必要はない」
「そうだな」
彼はそう言いながらも、そっと私の肩を抱き寄せ、寒さを追い払うかのようにその腕で包み込んだ。
私がヒトではないことを知りながらも、彼は気にしていないのだろう。
「……君は、なぜそこまで私を気遣うのだ?」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
竜と竜騎士ーー
このような交わりなど、無くしたはずの二つの存在。
それなのに、彼はどうしてこんな風に私の心を揺さぶるのだろう。
ふとした仕草や何気ない言葉が、まるで見えない糸のように私の胸に絡みついて離れない。
彼の横顔に浮かぶ微かな表情からは、何を考えているのかまでは読めない。それでも、その一つ一つが私を惑わせ、心の表面に波紋を広げていくのだった。
「そんなことを考える必要があるのか?」
彼は視線を降り続く雨の景色に留めたまま答える。
一瞬、世界が停止したように感じた。彼の言葉が胸に引っかかり、反射的に息を呑む。答えというには曖昧な、それでも何かに引き寄せられるような、私の心の奥底で静かに揺れるもの。
彼にとってはただの言葉でしかないのだろうか。それとも、私が長い年月を生きてきた中で培ってきた、見えない重みを感じ取ったのだろうか。
竜としての時を刻んできたその間、こうして自分の存在を大切にされることがどれほど稀であるかを、私はよく知っている。
ヒトと共に歩む道を選び、その傍らに寄り添い、彼らが穏やかに微笑む世界を守ること。それが私にとっての幸福だった。
けれど、時折ふと自分という存在が、ただ通り過ぎる影のように感じられることもあった。どこからともなく風に舞う枯れ葉のように胸を掠めたその思いは、未だ私の中に横たわっている。
だが今、彼の言葉はどこか温かく、どこか優しく私を包み込む。忘却の片隅にひっそりと埋もれていたものが、静かに手を差し伸べてきたように思えた。
私がどれほどの年月を重ね、数え切れないほどのものを見てきたとしても、この感覚は新しいものだ。
「君は、不思議なヒトだ」
そう呟くと、彼は微笑を浮かべた。まるで雨音さえも和らぐような、静かな微笑みだった。
濡れて額にかかった私の髪を、彼の指先がそっとすくい上げる。その仕草はあまりに自然で、雨に満ちた空気の一部のように感じられた。
指が髪を離れる瞬間、ほんの僅かに生じた感触。それは、きっと温かなものなのだろう。
私はそっと目を伏せ、彼の胸にもたれかかった。少年の姿をしている今、この距離感がいちばんしっくりくる気がした。
胸の中に静かに広がる安らぎのようなものが、私の中でゆっくりと息を吹き返す。それは、どこか懐かしく、けれど今まで確かめることのなかった感覚だった。彼のそばは穏やかで心地よく、私の心をほどいていった。
張り詰めた糸が緩み、知らず知らずのうちに心が呼吸を取り戻していく。
天竜であり、太守であることの誇りや威厳は、置き去りにしても構わない。少なくとも、この瞬間だけは。
彼もまた、そんな私を否定することなくただそこにいてくれる。
静けさに寄り添い、共有する今が全てだった。
規則正しく地を叩く雨音の響きが耳を満たし、しっとりとした空気の中で、穏やかに時間が流れていく。
このひとときは、ほんの刹那に過ぎない。それでも、計り知れないほど大切なものとして私の中に深く刻まれていく。雨の音とともに胸の奥に染み込み、世界がその音色だけで満たされているかのようだ。
ふと視線を落とせば、雨で湿った地面にできた小さな水たまりが目に留まる。灰色の空を映すその水面に落ちる雨粒が、さざ波を広げながら映像を揺らし、絶え間なく形を変えていく。
私はその揺らめきをぼんやりと眺めながら、自分の中に芽生えたばかりの感覚に、わずかな戸惑いと高揚を抱きながらも、それを自分のものとして認めようとしていた。
やがて雨音が薄れていくのを感じたとき、かすかな寂しさを覚えた。この灰色の柔らかな世界が終わりを告げることが、どうしようもなく惜しい。
湿り気を含んだ空気と、静けさに包まれたこの一瞬は、どこか遠い夢のようで、そっと手のひらに留めておきたかった。
「……エスティニアン」
そう呼びかける声は、雨の一雫に溶け込むかのようにか細く、自分でも驚くほど小さかった。
彼の耳に届くとも知れぬまま、そっと続ける。
「この雨が止んでも、少しだけ、こうしていてくれないか……」
常であれば決して表に出ない心の奥底が、今はあまりに簡単に溢れ出してしまう。
音の消えゆく雨の世界の中で、声にした願いが静かに空気を揺らした。