ぽんぽん「李書文、お前が傷付くのを待っていたぞ。」
いつもと変わらない慈しむような優しい声でスカディはそう告げた。
書文はその日、稽古と称してサーヴァントに手当たり次第声をかけては模擬戦闘をしていた。彼はカルデアに現界してまだ日が浅く、エーテル体としての身体の動かし方と、己の武人としての強度がここでどう通用するかを見極めたかった。
——やはり世界は広い。生前は最強だと自負していたこの槍も拳も、数多の国、時代を駆けた英雄たちと交えるとなんとも頼りない。故にまだまだ鍛え甲斐があり、伸び代がある。
中々の収穫があったと、その代償に付けられた額の傷を水道で洗っていると、彼女に背後から声をかけられたのだった。
「狩人のようなことをぬかすな、儂をとって食うか。」
「いや…ふふ、その逆だ書文。治させてくれ」
手拭いで顔を拭い振り向くと、スカディの手には救急箱がしっかりと握られていた。
「治させてくれ」
キラキラとした子供のような眼差しでもう一度言葉を繰り返す。
「…」
何やら嫌な予感がした。
「我が娘ブリュンヒルデがな、シグルドの傷をルーンで治さず、人のように道具で治療していたのだ。こう…なんだったか、そう、綿をな、綿に薬を浸けて傷に塗っていた。」
医務室から持ってきたのか、慣れない手つきで中を漁るその救急箱には鋭い鋏やらメスやらが冷たい光を帯びながら同梱されている。
「ルーンは便利だが…便利すぎるな。あの甲斐甲斐しく綿で塗る優しさ、あの手間がな…クッ…私には…、…っは、ふう、この蓋は随分硬いな?」
「逆だスカディ、その蓋は右に回して開ける」
見ていられなかったので、容器の蓋だけは開けてやった。ちらりとラベルの文字を盗み見て、消毒薬であることを確認し…大事には至るまいと覚悟を決める。
「ありがとう、お前は優しいな。」
スカディは綿を一つ摘み上げ、薬にびしゃ、と完全に浸した。見様見真似、ままごとの延長線なのだろう。それを、ぼたぼたと薬が垂れるままに左目の上に淡く一筋走っている切り傷に近付ける。
「いくぞ、書文。覚悟はよいか。」
「うむ。」
マスターのような脆弱な人間ですら放っておいても翌日には治る程度の傷である。このような処置は不要ではあるが、彼女がここまで憧れを抱いた目で挑戦しているのだ、黙って受け入れるのが筋であろう。
「はっ。」
さく、と肉の中で音がした後に垂れた消毒液がそのまま目に染みた。
「…スカディよ。」
「どうした。」
「傷口に何か異変はないか。」
目を瞑ったまま尋ねる。今目を開けると涙が出るかもしれない。鍛えられぬ場所もあるかと悟りながら冷静さを保つ。
「ある。少しだが血が出てきた。やはり深い傷だったのだな…私がいて良かった。」
彼女はやはり神霊、人ならざるものとして生きた女だった。加減というものが全くわかっていない。
「うむ…ああそうだな、どうやら重症らしい。儂の言うことに従ってくれ、頼む。」
「わかった。」
これは先程の打ち合いより骨かもしれんなと、書文は苦笑しながらまず正しいピンセットの握り方から説明しようと目を開け、消毒液が染みた目が痛みをあげ、問題無いとスカディを落ち着かせるのに一悶着あった。
15分後。
「……そして、綿を摘み、そっと…」
「そうだ。刺すなよ、塗るときはぽんぽん…ぐらいの感覚だ、わかるか?」
「ああ、ぽんぽん、だな。ぽんぽん。」
スカディはやっとの思いで、先程よりずっと震える手で薬で湿らせた綿を摘み、書文の目の上を血を拭いた後に優しく当てた。
「ぽんぽん。」
最初より深くなった傷を慈しむように綿で撫でる。
「ぽんぽん。」
「口に出す必要は無い、ぽんぽんは心の中に留めよ。」
「…!口に出していたか、すまぬ。」
可愛い。そう思うとにやけてしまう。鍛錬が足りんのは身体だけではないなと心に喝を入れ直し、最後にこれを傷口に貼るようにと絆創膏を差し出した。
「できた!できたぞ書文!どうだ痛くはないか?」
「ああもう大丈夫だスカディ。お主のおかげだ礼を言おう。」
なんとも肩が凝るような治療だったが悪くはない。普段何気なく貼る絆創膏も彼女の満面の笑みを見ながら触れると特別大事なもののような気がしてくる。
「そうか…ふふ、これでお前に何があっても大丈夫だな。安心して鍛錬に励め、っ痛…」
「?どうした。」
「い、いや、なんでもない。大したことではない。鋏が指に少しだけ刺さった、それだけだ。」
慌てるスカディの手を握り改めると、親指に僅かだが切り傷ができていた。ぷくと小さな血の球が白い指に滲んでいる。
「すまぬ。お前を治す筈が、逆に私が傷付いてしまった。」
「何、気にするな。お主に傷ができたのなら今度は儂がお前に違う治し方を教えてやれる。」
「!さっきのやり方以外にも方法があるのか!」
「応、あるとも。儂らのような者たちはな…」
そう言うと書文はスカディの指をぺろと舐め、血を吸った。
「唾を付けておけば治る。そう言うのだ。」
「———!!」
あまりにも想定外すぎたのだろう。書文は今でもあの瞬間のスカディの真っ赤に染まった顔を思い出しては、鍛錬が足りんなぁとフと微笑んでしまう。
了