桜雨ピーっと鳴ったケトルに慌てて駆け寄り、小さく息をつく。
今日も同居人は帰っていない。依頼人のアフターケアだのなんだのと理由づけをしては、「晩飯はいらねえから」と鼻歌交じりにいそいそと出かけようとする背中に「はいはい、いってらっしゃい」とさして関心の欠片もない空気を纏い、わざとらしくなげやりに送り出したのは約数時間前。
時計の針は刻々と時を刻んで、見もしないテレビは画面が闇に浮かび上がる。白いクロスに反射した残光がやけに際立っていた。興味も沸いてこないのに、手もとも碌に見ないままチャンネルを変えて一周するとリモコンをビーズクッションに向かって投げ、ポスっと音がする。
『香さんって強いですよね』
一冴羽さんのそばにいて。
たかが出会って数日、仕事上の事情があるとはいえ、あんたが謂うな。
獠のことをわかったように軽く謂うな。
呪詛のように香の心の奥底から怒りにも、悲しみにも似た、鉛のような重りがずしんと心に落ち、繰り返し頭の中で木霊していた。
一切振り返らない背中の逞しさを知っている自分。あの女性も指を、手を伸ばすのだろうか。あのあたたかな胸に駆け寄った後は?
獠は抱き寄せるのだろうか…。
深夜2時を廻ると、ひとけのないリビングは急激に肌をさすような冷気に包まれる。キーンと耳鳴りがしたようでその不快感にかぶりを振り、静寂に耳を澄ます。知らず知らずのうちに染み付いた癖を隠すようにして手を擦り合わせ、冷えた指先をぼんやりと眺めた。
あんなやつ。
「どっかいっちゃえ」
依頼人に向けられたものか、獠に対するものか。
はたまた、今の自分への吐き捨てか。
今回の依頼人もまた、獠に想いを寄せていた。いつものパターンに忠実に、ハンマーで叩き潰してしまえるのなら、少しはムシャクシャした思いも霧散しただろうか。数日前から彼女を見る獠の視線に軽い違和感を覚え、その眼差しの柔らかさの片鱗に気づいた香は、ドクドクと脈打つ自身の鼓動の煩さに息苦しくなり、気づいた時にはマンションとは反対方向へと踵を返し全速力で駆け出していた。
背丈のある獠が軽く見下ろす先に、彼女の楚々とした雰囲気を感じると、波紋のように胸に広がる漣。獠が自分のもとからいなくなったらどうする。
春らしい陽光に照らされた美しい彼女に正対する獠のシルエットを認めた時、言いようのない不安が胸に初めて顔をのぞかせた。
「香」
良く通る低く力強い声で呼び止められたが、顔は見られない。こんな顔を見せられない。
香。
こんなにも名前を呼ばれることの尊さを知る。気づけば頬に一筋の涙が伝い、泣いていることに気づいた。