執事月島の秘密 「ふん…」
坊ちゃんが大学から帰ってきてからというものの、機嫌が悪い。迎えの車の中でもずっとしかめっ面で窓の外を眺めている。いかにも理由を聞いて欲しそうな感じだ。長年の勘は間違っていないはずだが、聞くと逆に臍を曲げてしまうかもしれない。
「…坊ちゃん、大学であったことを、この月島に教えて下りませんか?ここが嫌なら、屋敷に帰ってからでも。」
とりあえず、機嫌を損ねていることは察していると伝えておこう。
バックミラー越しにちらりと坊ちゃんの様子を見るが、やっぱり外を向いたままだ。いつもなら、「月島!月島!」と今日あったことを勝手に話してくださるのだが…。
「……」
「……」
うーん、ダメか。今は放っておいて欲しいのかもしれない。屋敷ももうそろそろで着くし、屋敷でゆっくり話を聞いてみる、か…。機嫌を損ねることはあっても、駄々をこねる程度で、こんなふうに口を聞かないということは無かったので、困った…。
屋敷の駐車場に車を停め、先に降りて後部座席のドアを開ける。車から降りてくる坊ちゃんの様子を伺う限り、不機嫌さも感じられるが、何かを考えているような感じだ。
ただの理由のない不機嫌では無いようでホッと少しだけ息を吐く。何か話してくれさえすれば、対処のしようもあるのだが……。
「坊ちゃん、お茶を入れましょうか?お好きなお茶請けもお持ちしますよ。」
「ん…そうする」
ああ…話してくれるみたいだ。良かった。
「広間で待っておりますから、気が向いたらいらっしゃってください。」
「…わかった」
坊ちゃんはこちらに少しだけ一瞥をくれると、また思い直すかのように眉をしかめて、自室に向かって行ってしまった。
ともあれ、話す気になったのなら、大進歩だ。
─────────────
「はぁ…」
一つだけため息をつく。
坊ちゃんが憧れている鶴見様に貰ってから好物になった月寒あんぱんを並べ、急須に玉露とお湯を入れて少しだけ揺らす。そうして広間で待っていると、足音が近付いてきた。
「待たせたな」
「いえ、どうぞお座りになってください。」
お気に入りのソファに腰掛けて、頬杖をついた坊ちゃんの傍に寄り、用意していたお茶と月寒あんぱんを出す。
「わ!月寒あんぱんか!うふふ」
「ええ、坊ちゃんがお好きかと思って。」
良かった…。さっきまでの仏頂面はどこへやら。頬を緩ませ、桃色に染める坊ちゃんは本当に可愛らしい。少し機嫌が戻ったようでほっと胸をなでおろす。
「…それで、坊ちゃん。大学で何かあったのでは無いですか?無理にとは言いませんが、月島に教えていただけないでしょうか。人に話せば少しは心も軽くなるでしょう。」
「…ふん」
坊ちゃんはあんぱんを一口かじると、向かいのソファーに目を向けた。座れという意味なのだろう。
「座っても?」
「ああ」
言われた通りに向かいのソファーに腰を下ろし、彼の言葉を待った。
「サークルを辞めてきた。」
少し間を置いて坊ちゃんが沈黙を破った。
サークル…坊ちゃんはサッカーサークルに入っていたはず。今まで特段変化は無かったが、俺が気づかなかっただけで、何かあったのだろうか。いじめられた?
坊ちゃんは素直で聡明だが、気難しく語気が強い所がある。それに大企業の社長鯉登平二の御曹司となれば、妬むものも少なくは無いだろう。
「それはまた、どうして」
「…くだらない話ばかりして、挙句に私を揶揄うからだ。」
思い出して腹が立ったのか、湯のみに入ったお茶を少し煽って、ふーっとため息を着く。
「あいつら…何故あんなに色恋の有無を気にするのだ!…やれ、誰々はどうだ、何回シただのと誇らしげに話しおって!はしたないっ!」
「そうでしたか……」
確かに坊ちゃんは色恋沙汰に疎いところがある。昔から、女性との恋愛沙汰の気配さえも感じたことがない。強いて言うなら、鶴見様に向けるその憧れくらい。そんな坊ちゃんがその話題の渦中にいるのはさぞかし大変だっただろう。
「それに、この前サークルの飲み会に出ただろう?」
「ええ」
あー…先週、あまり人との交流を拒んでもいけない、もっと同年代の方々とも遊んで欲しいと諭して連れていったやつか…。
「その時も、誰を連れて帰るつもりだ、今日はワンナイトだとか、皆誠意のないヤツらばかりで、汚らわしい下の話ばかり。」
あの時の帰りも少し機嫌を損ねていたが、俺の言うことを律儀に聞いていたから我慢していたのか…連れていかなければ、ここまでにならなかったかもしれない。悪い事をしたな。
「私が無理を言って連れていった場でしたよね…すみません。」
「…いや、兄上も父上も同年代の者と仲良くしていたら喜ぶのだ、月島も連れていくのは当たり前だ。」
そう言ってまたあんぱんにかぶりつく坊ちゃんを見て、やはり連れて行くのではなかったと、深く後悔した。
「…それで、その…私に話が振られて…経験はあるのかと…」
「それで、なんと…」
まあ、お酒も入っているし、そうなるだろうな…。この先に起こり得ることを想像して、坊ちゃんの言葉の先を聞きたくなかった。
「……答えられなかった…。私が都合よく嘘をつけるタイプでは無いのが分かるだろう!?それから、今まで私に擦り寄ってきた奴らが水を得た魚のように揶揄いだして…」
「はあ〜…」
自分の情けなさと不甲斐なさ、坊ちゃんを揶揄った奴らへの呆れで大きなため息が出る。項垂れる頭を手で支えた。
見目も麗しく、成績優秀、運動神経もよく、御曹司。そんな普通なら勝ち目のない人の弱点が炙りだされれば、そりゃあ群がる連中は沢山いるだろう。
「本当に申し訳ありません…。坊ちゃんに辛い思いをさせてしまったのは全て私の責任です。」
「もういい、もう終わったことだ。」
「ですが……」
ギリッと手のひらに爪が食い込む。自分にも、坊ちゃんには悪いが坊ちゃんを揶揄った奴らにもこの拳を投げつけてやりたかった。
「…うーん…やっぱり、この歳まで経験がないのは変か?」
いつもは精悍でわがままで高慢な坊ちゃんの特徴的な眉が下がり、不安げな気持ちを吐露する。
「いいえ、そういうのは大切にすべきです。坊ちゃんがそういうことをしたいと思う方が現れた時まで大事に持っておくべきです。決して揶揄われるものでもありませんし、卑下する必要も無いです。」
自分が起こしたことのくせに、あたかも他人事のように正論をいいやがって。
自分の言葉を自分に突き刺す。それはこのようなことを起こしてしまった自分への自戒でもあれば、坊ちゃんが他の誰かの元へ行ってしまう未来という鋭い現実でもあった。自分は一介の執事であり、坊ちゃんとどうこうなろうなど烏滸がましい。
「そうか…」
「……ええ」
「…じゃあ、月島は…どう、なんだ?お前も男だ。本当はこういう下の話題に明るい方が…もっと、面白いのではないか?」
探るような上目遣い。俺を伺っている。
「こんな歳になってまでそんな話題で遊びませんよ。若い頃だって、そんな団体に属したことはありませんし。坊ちゃんにお仕え出来る方がとても楽しいですよ。毎日が幸せです。」
「そうか……」
坊ちゃんは安心したように、少し嬉しそうにはにかんだ。
この言葉は隅から隅まで本物だ。一生傍に居られるのならそうしたいくらいには、この身の全てを捧げたいとさえ思うが、これは永遠ではない。
「坊ちゃん」という名が「旦那様」になって、俺以上の人が坊ちゃんを支えるようになる。そうなっても、坊ちゃんが幸せならばそれでいい。
「また悩み事やお辛いことがあったら、月島に教えてください。」
「ん…そうすっ」
あんぱんをかじりながら、坊ちゃんは頷いた。膨らんだ頬が幼い頃のままだった。
───
『鯉登!お前、童貞なのか!?』
『早く捨てちゃった方がいいぞ〜?俺が紹介してやろうか?』
『いや、鯉登に抱かれたいやつなんてサークルの中に沢山いるだろ〜、金持ちでイケメンだろ?』
『鯉登に抱かれたいやつ、手上げろよー!』
『はいは〜い!』
『だはははは!』
『ちょっとやだ〜!』
……───
「っは…!…はぁ、はぁ」
また、この夢だ。ドッと汗が吹きでていて、髪が額に張り付いていた。悪意と嘲りで充ちた声の余韻がまだ頭の中に響いている。
『こういうのは大切にすべきですから、坊ちゃんがそういうことをしたいと思う方が洗われた時まで大事に持っておくべきです。決して揶揄われるものでもありませんし、卑下する必要も無いです。』
今日、月島に言われた言葉を思い出して、ふーと深呼吸をする。その言葉の意味をゆっくりと咀嚼し、飲み込む。
平然を装っていたが、先日の飲み会は自分の中で、かなり悪い記憶だったようだ。気にしてないつもりだったのに、悔しい。
起き上がり、スマホの灯りをつけると、午前二時を指していた。少し肌寒い。こんな時間に起きるのは初めてかもしれない。
廊下に出てみると、真っ暗な闇の奥に一筋の光が見える。オレンジ色。そこに吸い寄せられるように視線が行く。
引き返してベッドの横に置いてあったスマホを手にすると、スマホのライトを付けてその灯りに近づくことにした。
一歩、廊下の暗闇に足を踏み入れると、背中でカチャリと扉が閉まる音がした。肩が跳ねる。暗闇の中で光っているのは私が持っているスマホのライトと一室から盛れる一筋の光だけ。背中に闇が背負い掛かり、闇の中で誰かが私を見ているような気がした。
肩をすくめたまま、一歩、また一歩と歩みを進める。足先から冷えていって、怖いのに何故だかその灯りに近づきたくて仕方がなかった。
静かに、でも足早にその部屋に近づき、やっと光の前に立つ。
私の部屋と同じ木でできた冷たい扉にそっと触れ、スマホの灯りを消して、暗闇を纏う。何故か、私以外の誰にもこの行動に気づかれてはならない気がして。
くすんだ金色のドアノブに手をかけると、ドアノブは滞りなく小さく音を立てて回って、そっと私の視界を広げた。開く自信があった。
「……は」
光が広がる。息を飲んでその太くなった光の前でしゃがみこむ。私の心臓の音が空間全てから聞こえる。
覗き込むと、オレンジの光の元は机の上の間接照明だった。
光の主は木の椅子に座り、寝ているのか、起きているのか分からないが、本の前で悩ましげに頭を抱えていた。いつものタキシードではなく、黒いスウェットの上下を着て、大きな体を縮こませるように本を覗いている。タキシードを着ている背中より大きくゴツゴツして見えた。
「はあ…」
彼のため息。自分に罰を与えているような重いため息。
「…つき、しま」
自分にだけ聞こえるように、光の主に聞こえないように、小さく、ちいさく、彼の名前を呼ぶ。気づかなかった。もう、すっかり座り込んで、彼の背中に見入っていた。
「…俺は」
そう掠れた声で呟いて本をめくると、まるで写経をするかのようにノートに何かを書き出した。
『俺』という言葉に月島自身を見て、いつの間にか、ポタポタと上から水滴が落ちて、太ももを濡らしていた。その時に自分の涙に気がついた。歪む背中がはっきりするように、何度も袖で目を擦るのに、いつまで経ってもその背中は歪んだまま。嗚咽が出ないようにするのに精一杯で、息を止めていた。
「っ……っ」
そのままではペンが折れてしまいそうなほど強く握られた指先。ガリガリと未だノートに文字を走らせていた。
月島、月島。
頭の中で月島を呼ぶ。でも気づかれてはいけない。二人だけの滲んだ世界で、私は彼の名を呼ぶ。それだけ精一杯だった。鼻水も啜れなくて、だらあ…と出たままで。
「……ぐすっ……っぁ…」
パジャマに垂らしてしまう!と、思わず啜ってしまったその時。黒い大きな背中が小さく揺れた。
急いで自分の部屋に駆け戻ろうと思ったが、緊張した状態で同じ体勢を続けた足はとうに限界を迎えており、痺れて力が入らず、へたりこんでしまった。
「っ!?……坊ちゃん!?」
素っ頓狂な声。
パタンと慌てて本が閉じられ、光の主がぐるんとこちらを振り返る。見慣れた坊主頭と見開かれた緑の瞳。
ずりっと尻だけ、後ろに下げる。
「ど、どうされたんですか……」
そう言って急いで立ち上がると、私の目の前に駆け寄って来た。いつもの仏頂面が眉を下げて苦しそうな顔をしている。ただでさえ眉間と目の周りの皺が人一倍多いのに、もっと皺が増えていた。
声も足も駄目で、ふるふると顔を横に振るだけ。月島のせいで泣いたのではないと。深く言えば月島のせいなのだが。
月島の手が頬に近付いてくる。触れられたらきっと帰れなくなる。グッと足に力を入れると立ち上がれたので、
「か、勝手に覗いてすみ、す、すみもはんでした……!」
いつもは隠している薩摩弁が転んで飛び出した。ただ廊下を歩いてもすぐなのに、不格好なフォームで走って、光から離れ、自室に滑り込んだ。
「坊ちゃん!!」
バタンと閉じた扉の音の向こうで、月島の声が聞こえる。すぐにベッド横のサイドテーブルに置いてあるティッシュで鼻をかんで、涙の跡を消して、ベッドに潜り込んだ。また暗闇に包まれる。はーはーと荒い息遣い、どくどくという早い鼓動が布団の中で響いていた。
足音がこちらに近づいてくる。静かで重い足音。部屋の前で止まり、ドアノブがガチャッと音を立てた。
ノックもせずに無礼者。しかし、専属執事はノックをしなくてもいいらしい。昔、怒った時に月島が言っていた。
足音が布団を被った私に近づいてくる。
「坊ちゃん」
月島の低い声。
「……」
「お見苦しいところをお見せしましたね。」
「……」
それは私だ。
沈黙は続く。
「大変傷付かれていたご様子でしたね。私としたことがすみません。無理強いした上に、このようなことを起こしてしまうなんて。お詫びのしようもないです。」
ゆっくり、昔聞いていた読み聞かせのような口調で語りかけてきた。
「………ちがう」
「違わないじゃないですか」
「ちがう!もうその話は夕時で終わっている!」
思わず起き上がって、月島の方を見た。幽霊のように枕元に立っていた。相変わらず、かっこ悪か男じゃ。
「申し訳ありません」
いつもの仏頂面が眉を下げる。
「……見せろ」
「え」
「何を書いていたのか、見せろ。」
「え……」
「早く」
「いえ、見せるほど…そんなに、別に大したものでは……」
「命令だぞ?」
「……あぁ…はい」
月島は諦めたように、渋々自室に戻り、ノートを持って戻ってきた。渡されたものを開くと、薩摩弁とその意味がつらつらと書かれていた。そして、最後に日記のようなものが書いてある。
『6月15日。坊ちゃんは大学の飲み会でひどく傷つかれたことを話してくださった。俺が無理に連れて行った場だった。一番酷いことをしたのは俺だ。坊ちゃんの思いを優先しなければならなかったのに。坊ちゃんをからかった奴らを殴ってやりたかったが、1番殴りたいのは自分だ。反省しなければ。』
「…坊ちゃん、たまにお国言葉が出ますよね。意味が理解出来るように、ちょっとずつですが、覚えようと。日記の端に。」
「……ここ、違うぞ。『てげ』でとても、二回で適当、これじゃ逆だ。」
「え、あ……そうですか。すいません、ありがとうございます。」
もっとノートの中身、特に日記が気になったが、「返して欲しい」と月島がうずうずとしているのが見て取れたので可哀想だから返してやった。
「…もう寝る」
「そうですか、では失礼いたします」
「おやすみ」
「……おやすみなさいませ。」
そう言うと、月島に背を向けてベッドに横になる。 静かに足音が去っていき、扉の音が二回聞こえた。それを確認して、振り向いて月島が出ていった扉を見つめる。少しだけ月島の匂いが残っていた。
眠れない。間接照明に照らされたスウェットを着た背中と、ノートの文字が頭の中にこびり付いたままで。
『俺』と書いてあった。一人称が、私の前での『私』ではなく。
「つきしま」
そっと呼んだ。
あの時に零した自分の涙も思い出す。初めて会った時のこと、18歳の月島と5歳の私。何度も迎えた月島の誕生日、私の誕生日のこと、初めて渡したプレゼントの似顔絵を嬉しそうに眺めて、「大事にします」と言ってくれたな。まだあの時は月島に髭が生えてなかった。
仏頂面を少し緩ませて笑う顔、『坊ちゃん』と呼ぶ声、少し低くて落ち着く声。その声で何度も褒めて、叱って。一緒に喜んだり、悲しんだりしてくれた。
あの日記はいつから書かれているものなのか分からない、もしかしたら14年分の私が詰まっているのかもしれない。
もっと読んでみたかった。
「あぁ…」
明日、どんな顔して月島に会おう。
喧嘩したこともあったが、それとはまた違う気まずさ。
────────────
結局、次の日、私は寝込んだ。寝込んだというか、泣きすぎて頭が痛くなり、高熱が出て起き上がれなかったのだ。
「ん…ん」
「あ、起きられましたか?おはようございます。起きられる時間に起きてこられなかったので。お身体の様子はどうですか?」
月島が私のおでこに冷たい手を当てて、体温計を取り出す。ピピッと音がして、数字を見た月島は「まだ高いですね。」と私に氷枕を敷いてくれた。
「…すまない。あ゙ー、休みでよかった。」
「そうですね。朝ごはんは食べられますか?」
「ん」
ブランケットを羽織って広間に移動する。月島がスマホでどこかに電話していた。おそらく父か母に私の症状や薬の有無などを話しているのだろう。「…まるで子どもみたいだ。情けんなか。」
「誰だって弱る時はありますよ。」
「……」
お粥をよそいながら、そう呟く。
「月島もか?」
「いえ。坊ちゃんの味方をしてあげられないのが残念ですが、私は生まれつき頑丈ですので、そういうものには縁がなく。」
「……そうか」
「はい。」
昨日から続くぎこちない沈黙。
「父上か母上に電話していたんだろう?何か言っていたか?」
「大変心配しておられました。…報告も兼ねて大学であったこともそれとなく…全て話した訳では無いのでご安心を。大きな病気ではないことには安心しておられましたが。そのうち、坊ちゃんにも連絡を入れられると思います。」
「そうか…わかった。」
いつも美味しい食事も今日はあまり味がしなかった。食べ終わった食器を片付けると、また私の部屋に戻り、ベッドの横に座った。
父上と母上からテレビ電話がかかってきて、懐かしい顔と暖かい声、心遣いで腫れた心に湿布を貼られる。
「音之進、だいじょっけ?そっちに行けんのが残念じゃ。」
「音之進、ご飯はたもった?」
「はい。月島がお粥を作ってくれたで、そいをたべもした」
「月島どんがおってくれて良かったね、安心すっわ〜」
「心配すっな、わっぜ元気じゃ!母上も父上も体調を崩されぬよう無理せんごつしちょってください。」
「また顔見せてね」
「はい。では!」
通話を切って、ほっと一息つくと、頭がクラっと揺れた。心配かけんように、気を張ってしまった……でも、父上と母上の顔が見られて声が聞けたのは、嬉しかぁ。
「坊ちゃん、早くお休みになられますか?」
話し声が聞こえなくなったのを察してか、カチャッと音を立てて月島が部屋に入ってきた。
「ん……」
「……今日はまだお熱も下がってませんし、ゆっくりしましょう。」
「そうだな。……あぁでも少し喋りたい。いいか?」
「はい」
月島はベッドのそばにたったが、とんとんとベッドの縁を叩いて、「ここがいい」と誘った。誘われるがまま、ベッドの縁に座り、私にかかっていた布団をかけ直す。
相変わらずの生真面目さが滲み出る顔。なのに、昨日以前に比べると、何故か私の中にその顔が愛しいと思う気持ちが大きくなっていた。
ただ事務や職務を全うしているような仕事人間な月島が、その重い仮面のような仏頂面の奥に深い情と愛と優しさが詰まっていることを、知ってしまったから。
「ん。…………あのな…………昨日…………」
「……昨日……あぁ……」
私が言い淀むと、察したように月島は口を開いた。
昨日のこと。私が泣いたこと。そして、私が気づいた私の中の感情。
「……あの、日記……まいっ……毎日、書いているのか?……無理強いして悪かったな。」
やっと言えた。恥ずかしい上に、言い淀んでしまったから語尾が小さくなって、声が上擦ってしまったが。
「ええ、そうですね、毎日書いています。私の日記など、隠すものでもありませんから、気にしないでください。」
「その日記の私の書いたページをな、読んでしまって……その、もっと読みたくなって……。」
「えぇっ……」
「月島がどんなことを思って私と向き合っているのかよく分かって嬉しかったから。」
「そうですか……。」
「うん」
少しの沈黙。熱ではない熱さが私の体を覆う。「いつから書いてるんだ?」
「坊ちゃんが小学生になってから、ずっとですかね…その辺から専属になったので。」
「そうか」
また短く応える。
「つ、つきしまの、そういう愚直なところが私は好きだ。こ、これからも続けてくれ。」
「……ありがとうございます」
声が震えてしまった。主人として執事の行いを褒めている、その裏に一生懸命私の個人的な想いを隠しているからだろうか。
ベッドの淵に手を置き、月島と目線を合わせる。
「私も、昔から坊ちゃんの、その真っ直ぐな想いや人を思いやる聡明さを尊敬しております。昔からずっと、坊ちゃんは変わりません。」
「そ、そうか。ありがとう。」
顔が熱い。何か喋らなければと思うが、何を話していいか、どうしていいかわからない。こんな時に、少しでも私にそういう色恋の経験があれば、少し変わったのだろうか。
というか、私は月島に色恋の感情を持っているのか!?
「……お辛そうですが、少し眠りますか?何かありましたらお呼びください。すぐ参りますので。」
何かを察した月島が、言葉を詰めてそそくさと部屋を去ろうとする。この機を逃したら、きっとこんなにゆっくり話せなくなる。こんなに素直に話せなくなる。
「だっ、だめだで最後まで私の話を聞け!」
去ろうとする月島の手を思わず掴んでしまった。
「……」
「……」
引き止めたはいいが、何も話すことがない。何も話すことがないという訳では無いが、思いつかない。
「あの……えっと……」
月島の手を握ったまま。きっと手汗が酷い。それでも、月島が去ってしまうのをどうにか避けたくて。
少し動揺している月島の瞳を見つめ返す。
「つ、つきしまっ」
「はい。」
ただ名前を呼ぶだけになってしまった。それでも、その声色は優しく、私が何か話し出すのを待ってくれているのが分かる。こういうところにも私は惹かれるのだ。
「……あ……お……」
ずっと手を握りしめていたからだろうか、それとも熱が上がったからか、また頭が痛くなってきた。クラクラと目まいがする。今言わないといけない。言え!!私!!!
「…………んっ」
月島の手をギュッと強く握ったまま、月島の方に重心をかける。頭に熱湯をかけられたみたいに、ジンジンと痛み、熱が頭の中を溶かしていく。
言葉より先に手が出てしまった。カサついた唇の感触。
「ぼ、ぼ、坊ちゃん!?何してるんですか!」
狼狽えて、私を押しのけようとする月島。
自分がしたことがキスだと分かった瞬間、月島の頭を寄せてもう一度キスしてしまった。やり方も分からないから、少し痛かった。
もうどうにでもなれ。
「…………」
唇を離して、月島の様子を伺う。熱がないのに、顔が真っ赤だ。そりゃそうか。
「……なんて顔してるんですか」
「それはこっちのセリフだ」
「何か言ってください」
「……こ、こうしたら、月島はどんな顔するか、気になったからだ。」
「……は?」
月島の間抜けな声を聞くのは初めてだった。そして、私も初めてこんな声を出したかもしれない。いや、今までも出したことはあるかもしれないが、こんなに強く気持ちを込めたのは初めてだ。
「……月島のことが気になるんだ!」
「はっ?えっ、いや……」
「そのっ……、どうしていいかわからん!」
「まず、坊ちゃん、いくら……その心を開いている相手であろうと、好き勝手にキスをしてはいけません!」
「……んぐ……そんなこと分かっとるわ!わからん、わからんのだ!あれ以来月島が気になって、愛おしくて仕方ない!」
「……きっと、熱がそうさせているのです。勘違いをされているんですよ。」
「そんなことない!今だって、月島が離れていくのが嫌だったから、キスしたのだぞ!」
「……っ、あの、あのねぇ。私が執事だから、心を開いているような気がするんです。そりゃ子供の頃から一緒にいるんですから。それとその感情はきっと同じです。」
「違うと、どうして言い切れる!?」
「私が坊ちゃんの執事だからです。」
「でもっ……私は月島のことが……」
「いけません!」
頭がぐらっと揺れた。月島のこんなに大きな声を、初めて聞いた気がする。いや、初めて聞く声だ。
「……すみません」
沈黙が流れる。ここまで私を否定する月島は初めてだった。そこに痛々しさを感じて、自分が否定された悲しさよりも、頑なに私を拒む月島を見るのが辛かった。
「……月島の言う通りだな、ゆっくり休む。」
「はい。」
私が手の力を緩めると、月島は少しだけ足早に私の部屋を出て行った。