海の墓標、それから、恋の死にざま初めて彼の本を読みおえたとき、雷に打たれたような衝撃を感じた。
『海の墓標』。
それは文壇期待の新人、月島基による初のベストセラー本だ。
普段、恋愛をテーマにした本はそれほど読まないが、友人の江渡貝が是非にと押し付けてきたものだから、数ページ捲るうちにその文体の美しさに虜になった。
「これ、読み終わったぞ。ありがとう。」
「どうだった?ねぇ、すごくいいでしょ?切ない恋模様が丁寧に描かれてて、ほんと、もう、たまらないでしょ?!」
ずいずいと感想と同意を迫る友人を押しやると、鯉登は素直に良かったと言えず、まあ、悪くなか、と答えた。
「こういうのも、たまには悪うなかね。」
「なーんだ、意外に早く読み終わったから気に入ったかと思ったけど。」
「悪うなか。じゃっどん、男ん読んもんじゃなか。」
「そうかなあ。書いてるのが男の人なんだから、別にいいと思うし。そういうことで差別するのは良くないよ。」
鯉登はそれきり、本の話を止めた。これ以上、友人に嘘を吐くのが嫌だった。
本心は、この本で繰り広げられた純愛劇に痺れるほどに感銘を受けていた。と言っても、十五歳を迎えたばかりの鯉登は未だ恋人はおろか、初恋も経験したことがない。
「ねえー、ごめん。なんか美味しいもの食べに行こ。」
差別は良くない、と説教したことが鯉登の気に障ったと思い込んだ江渡貝がカフェに誘った。
「あ、いや、おいもすまんかった。また、面白いもんあったら貸して。」
「それなら、鶴見教授の新刊がおすすめだよお。」
二人はすぐ目の前にあったコーヒーショップに入り、席についた。
「キエエッ!鶴見教授!そいなら、おいも読んだ!控えめに言って最高じゃ!」
「だよねぇ!」
鶴見教授の話になり二人は途端に興奮した。
「長年、君のファンだというんだよ。」
鶴見の教え子だという彼に初めて会う段取りがつけられたのは、月島がいつもの如くゴーストライターとしての仕事が一段落ついたときだった。
「いつも素晴らしい原稿で助かるよ。」
エレガントを身に纏った鶴見が優雅な仕草で、月島が差し出した茶封筒を受け取った。
「いえ。」
そして、月島は反対に差し出された現金入りの封筒を受けとる。すぐに中を確認したかったがそれはせずに、鞄に仕舞った。
今日は五月二十日。
自動車税に、家賃、スマートフォンの支払い、それから両親への仕送り。
月末に迫る締め切りは何も原稿だけではなかった。
「その子が、君に会えるなら是非にと言うんだ。どうだろう、締め切りも無いことだし今夜、一緒に食事でも?」
「はい、そうですね。お願いします。」
嫌だ、とは思ったが、鶴見の誘いであれば、二週間ぶりに上等な酒が只で飲めると踏んで月島は即答した。
月島に予定など無いが、やれやれと思う。ファンが会いたいと言う言葉に胸が躍ったのも、十年前までだ。
今ではファンと言うものに会わせる顔もない凋落ぶりだ。
五年前に連載していた小説を打ち切られ、新作はおろか、仕事に困って、鶴見教授のゴーストライターをしている。
皮肉にもゴーストライターを務める鶴見教授の著書はベストセラー連発である。殆んど月島が書いているようなものなのだが。
月島基、と言えば十年前にベストセラーとなった「海の墓標」が代表作の消えた小説家。これが世間の見方だろう。Wikipediaにですら、引退したと記載されている。
俺はまだ、これで終わるような小説家ではないはずだ。
と、昨年までは思っていたが、今年になってからは老いた両親から田舎に戻ってこいと言われ、心に迷いが生じていた。
だから、ファンだと言ってくれる年下の彼に会った時には、俺の心は荒んでいたと言うのが正確だろう。
鹿児島料理の名店だという店に、鶴見とともに入ると、予約席には褐色の青年と茶髪の青年の二人がすでに居た。
「やあ、待たせたかね。鯉登くん、江渡貝くん。」
二人は振り返るとぱっと顔を輝かせ、鶴見教授、お会いしたかった、と興奮し出した。
「今夜はスペシャルゲストをお呼びしたよ。」
鶴見が俺をすぐに紹介した。
「小説家の月島基くんだ。彼も私の教え子の一人なんだ。君たちの先輩だね。」
「どうも、こんばんは。江渡貝弥作です、デザイン会社でウェブデザイナーをしてます。」
茶髪で色白の江渡貝がにこやかに挨拶をした。その隣に座る褐色の肌の青年が緊張した様子で、黙っている。
「月島です。」
何か話したほうがよいかと思ったが、何も思い付かない。
間を繋ぐ為に褐色の青年に視線を向けると、彼はおずおずと自己紹介を始めた。
「鯉登音之進です。海運会社に勤めています。」
鯉登が赤面して黙りこむと、江渡貝が話し出した。
「月島先生の海の墓標、僕、持ってますよ。」
「あ、ありがとうございます。」
素直に喜ぶ振りをしたが、本心はまたそれか、と辟易していた。
彼の次に続く言葉には予想がつくし飽き飽きしていた。
「あの本みたいな恋愛、してみたいってすごく憧れたんですよ。先生、あれは実体験なんですか?」
「あ、いえ。小説、ですから。」
ははは、と意味もなく愛想笑いをした。
「えー!そうなんですか?あれ、先生って新潟県の、佐渡島ご出身ですよね?海の墓標の舞台も佐渡島だし、お会いしてわかりますけど、主人公は先生そのものじゃあないですか?」
「いや、まあ、初めて書いたものですし。主人公が私に似てしまったのは仕方無いですよ。」
「私も読んだときは、君自身のことかと思って驚いたよ。あの真面目な月島くんかがこんなに激しい恋をしていたなんてってね。さ、みんな、明太子のもつ鍋だよ。刺身も食べようじゃないか。九州の甘い醤油、いいねぇ。さあ、芋焼酎も!さあさあ。」
鶴見が促すと、江渡貝が甲高い声でわあ、楽しみ!お腹すいた!と喜んだ。
隣の鯉登は、気難しく俯いていた。
どうやら江渡貝が俺のファンで、鯉登は連れてこられただけなのだろうか。
そして、彼は話し下手でこのような酒席は苦手なのかもしれない。
だとしたら、なんだか気の毒だ。
「ちょっと、鯉登くん。折角君のために月島くんを連れてきたんだから、少しはお話したらどうだい。」
鶴見の言葉に俺は驚いた。
赤面した鯉登が、急に早口で喋り出した。
「す、すす、すいもはん。おい、月島先生のこと、大ファンでっ、おい、なにしゃべったらいいか!せ、先生の、本も全部持ってますし、連載も読んでました。とにかく、お会いできて嬉しいです。鶴見教授、ありがとうございます!」
早口すぎて、最後の方は何を言っているのかあまりわからなかったが、それは鶴見も江渡貝も同様のようで、彼らは微笑んでいた。
それまで彼のことはあまり見ていなかったが、視線を向けると、彼があまりに年下で驚いた。
健康的な褐色の肌に、整った鼻梁、すっきりとした切れ長の瞳。
座高は低いが、首の長さと肩幅からは長身ですらりとした体躯を思わせた。
ずんぐりとして、目立たない老け顔と言われる自分に対して、これだけのいわゆるイケメンが緊張する様は異様だった。
「あの、ありがとうございます。」
普段から無口な俺は、小説家の癖にそんな陳腐な台詞しか出てこない。
「折角だし、連絡先交換しましょうか。」
ぎこちないやり取りに見兼ねたのか、江渡貝が提案した。
特に否定する理由も無いので、提案通り交換した後は、江渡貝と鶴見の会話が盛り上がった。鯉登はたまにキエエッと奇声を上げたり、黙り込んだり、かと思えば早口の薩摩弁になり、挙動は終始おかしかった。
その様子に初めこそ不審に思ったが、次第に彼の幼さの残る仕草や、素直な物言いに、アルコールも手伝ってか愉快に感じていった。
時間は楽しく過ぎて行く。
「さて、お開きにしようか。」
鶴見の一声で、解散となった。
乗り気がしなかった会食が、思いの外自分に満足感を与えたことに驚きつつ、彼らに挨拶をし、別れた。
駅につく直前でスマートフォンが鳴る。
開くと、鯉登からのメッセージだった。
「今日はありがとうございました。先生ともっとお話したいので、来週お会いすることはできますか。」
どうしたものか。
俺は、彼の涼やかな笑顔を思い浮かべ、ため息をつく。
有名人のファンになって、追っかけをしたことがあれば彼の今の心境がわかるのかもしれない。しかし、月島にとって鯉登青年が何故月島のような冴えない男に近づこうとするのか理解不能だった。
自己評価が低いせいもあるかもしれないが、月島は己の小説家としての質はすでに地に堕ちたと思っていた。思うより、事実そうなのだ。
新作も書けず、依頼も無く、ゴーストライターやネットのフリーライターとして小遣い稼ぎをしながら生活する日々。
唯一のベストセラー「海の墓標」の細々とした印税が無ければ、この生活すらままならない。
もしかしたら、彼はそんな落ちぶれた月島をさらに暴いてSNSで拡散でもするのか。
いや、そんなことをするような青年ではないし、先程までの会話で彼の人柄はわかった気がする。
もし彼の純粋な憧れだとしたら。
だとしたら、少し嬉しい。
そこまで思い至って、月島は考えあぐねていた返信をした。
「こちらこそありがとうございました。来週の日曜日にお会いしましょう。」
その頃には既に月島は家に帰りつき、諸々の身支度を整えて布団に入っていたので、鯉登からの返信を待たずに、眠りについていた。
一週間後の日曜日。
月島は先週より余程緊張して待ち合わせ場所に来た。
約束の時間の15分前に来たが、すでにそこには緊張してそわそわと落ち着きの無い鯉登が立っていた。
キョロキョロと辺りを見回していたせいか、すぐにこちらに気付き、にっこりと笑うと手を振ってきた。
「月島先生!」
ざっくりとしたカットソーに、すらりとしたパンツ。それだけのシンプルな服装であるが、長身の鯉登はまるでモデルのようだった。
「お待たせしてすみません。」
「いま、来たとこです。さあ、先生、行きましょう。」
先週とは打って変わって、鯉登は落ち着いて微笑んだ。
何故か。それは、昨日まで毎日メッセージのやり取りや、通話をしていたからだろう。
たった一週間だったが、二人は互いの境遇や趣味、仕事についてをすでに知っていた。
自由業の月島は鯉登からの連絡にはすぐに反応することができたし、そもそも人付き合いがあまり無い月島にとって、十歳以上も年下の若者との交流はあまりにも刺激的だった。
しかも、鯉登は初対面の印象とは違って、本来は溌剌とした性格であった。
「月島先生!よか店があっとじゃ。」
「楽しみですね。」
アルコールが入ると、鯉登はさらに饒舌になった。
「先生は、ないごて小説家になろうて思うたとな。おいは、ずっと生まれたときから、父ん会社に入っごつ言われちょったで、なろごたって思うものが無かったとじゃ。羨ましか。」
月島は、自分が憧れを抱かれるような男ではないと戸惑う。
「ただ、書きたいものを書いて、本を出してもらっていたら小説家になったというだけで、そんな羨ましいと思われるようなことは無いんです。」
「そう簡単なもんじゃなかやろう。海の墓標を初めて読んだときは、雷に打たれたごつ感動しちょった。」
鯉登は瞳を輝かせてこちらを見つめていた。
自分が生み出した作品を、至上の傑作とまでに褒めてもらえたことに、月島は純粋な喜びが満ちる。
つい、寡黙な性格の自分も釣られてしまう。
「あの作品の舞台は、私の故郷なんです。新潟県の佐渡島。中心地から外れた漁村で育ちました。鯉登さんは、ご出身は鹿児島ですよね。」
「15歳までは。その後は函館に。先生が生まれ育った地が舞台ということは、あの話も先生の、その、実体験なんですか?」
海の墓標は、田舎を舞台にした若い男女の悲恋である。
「いいえ、まさか。俺なんか、こんな外見ですから、恋のひとつもまともにしたことはありません。小説家として、失格ですね。尤も、今もって小説家らしい作品を書けていませんし、お恥ずかしい限りです。」
「謙遜なさっどん、先生はご自分で思わるっよりずっと素敵な人じゃ、思とります。」
鯉登は真剣な眼差しで訴えた。
月島は不意に牢籠いでしまった。
これほど熱い視線を向けられたことなど、ここ十年ついぞ無い。
鯉登は、真に自分のファンであり、真っ直ぐな好意を向けてくれているのだ。
照れて黙り込んだ月島に、鯉登も己の発言に恥ずかしくなり、下を向いた。
二人の間に流れる空気が、音もなく熱を帯びた。
「今夜は、楽しかったです。良ければ、また会ってくださいませんか。」
月島は心から告げた。
店を出た後、駅に向かう道で鯉登を見上げながら言うと、鯉登は嬉しそうにはにかんだ。
「こちらこそ、喜んで。」
なんだか、初デートのあとが続く男女のような会話だ。
鯉登の微笑みに月島もなんとなく恥ずかしい気持ちになる。
鯉登は馴れた仕草でタクシーを捕まえると素早く乗り込んだ。
「先生、送ります。」
「いや、俺は電車で、うわ」
躊躇う月島の手を引いた鯉登は、強い力で月島をタクシーの扉の中に引き込んだ。
「強引ですね。」
「わがままな性分で。」
引っ張られたせいで身体が密着していた。
引き締まった身体なのがわかる。剣道をずっとやっていたとか。
彼の首筋から酒の匂いとともに、かすかに健康な太陽の匂いがした。
「家はどちらですか。」
身体を離しながら尋ねると、鯉登は言いたくなさそうに答えた。
「虎…いえ、港区です。」
タクシーが勝手に動き出す。
港区の虎ノ門か。
実家が資産家とは聞いていたが、さすがにセレブは違う。
「それでは反対方向です、降ります。」
「いいです、いいんです。先生、送らせてください。今日誘ったのもおいの方じゃ。」
タクシー代など、彼には気にも留めないことなのだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えます。」
酒に酔った頭でぼんやりと流されることにした。普段なら固辞していたところだが。
鯉登は安心したように前を向いた。
「先生はどちらで降りますか。」
タクシーの運転手は会話を聞いていたのだろう。どこへ向かえばよいものかと、こちらをうかがっている。
「中野です。」
鯉登は、頷いた。
鯉登と別れて家に帰り着いたあと、月島は己の卑屈さにため息をついた。
鯉登と自分は、歳が、境遇が、キャラクターが違いすぎる。共通点は、性別と鶴見の教え子と言うことしかない。
彼と話していて得られるのは、自己肯定感だ。
先生の小説が好きです、感性が好きです。
そんな風に褒められて嬉しくならないわけもない。
しかし、同時に思うように小説が書けなくなった自分が情けなく、褒められれば褒められるほど惨めな気持ちになる。
ならば、書けばいいのではないか。
もう一度、あのときのように書けばいいではないか。
デスクトップを起動し、月島はため息を再び吐く。
毎日、毎朝、毎晩、毎時。
月島は書いていた。
書いては消し、消しては書く。
新しく書き始め、そして、古いものを書き起こす。
しかし、書いても書いても小説が完成することはなかった。
そのとき、スマートフォンが鳴って、目を落とすと鯉登ではなく、海の墓標を担当した編集者、門倉からだった。
「こんばんは、月島くん。元気?最近、書いてる?」
書けていない月島からすると、返答に困る。
「こんばんは、お久しぶりです。お元気そうですね。」
「いや、元気じゃないよ。最近の若者って、あれ、なんなんだろうね。俺の部下、この前作家の先生にタメ口いきなり利いたりして、俺マジで焦ったっていうかさ。今度、飲まない?」
急だな、と思いつつも門倉はいつもそうだ。
タメ口を利くどころか、門倉は仕事の愚痴を漏らすために月島に電話してくるわけである。
今はもう担当でもなんでもないのだから、知人として付き合ってくれているのだろう。
「お願いします。門倉さん、ひとついいですか。」
「何よ、どうしたのよ、月島くん。」
「また、書きたいんです。」
「うん、うん?小説を?」
まさかというような言い方に、門倉の本心が透けて見える。
「ええ、海の墓標の続きです。」
自分で言って、驚く。
続きを、書きたいのか。俺は。
あの日の悲しみを再び、背負う覚悟があるのか。
自らの過ちに立ち向かえるのか。
「タイトル決めてる?」
そこまでは、と思った。だが、口を衝いて出る。
自宅につくと同時に、鯉登は友人の江渡貝からの着信に応答した。
「江渡貝か、どうした。」
「鶴見教授の新刊買った?」
「ああ、家に届いていると思うが?」
「まだ読んでないんだぁ。」
「うん、悪いな。」
「あのさ、この前海の墓標書いた月島さんに会ったでしょ。それで、海の墓標また読み直したんだけど、」
「え、うん。」
鯉登は先程まで月島と一緒にいたこともあり、どきりとする。
「なんか、鶴見教授の教え子だって言うのも頷けるんだ。すごく、似てるんだよね、表現とか。感性っていうか。」
鯉登は答えなかった。
いつからか、気付いていた。
鶴見教授の本を書いているのは、月島ではないかと。
「そうかな。」
「そうだよ。鶴見教授ってほんとにすごい~。」
江渡貝の声が遠くなる。
尊敬する鶴見が月島をゴーストライターとして雇っているとしたら。
月島は、恐らく鶴見への恩義を感じてのことだろうし、生活費のためだろう。
鶴見とて、月島を助けるためにやっているのではないか。
汚いことと断じるのは簡単だ。
しかし、彼らなりの事情や関係性があるのでは。
「そう言えば、最近どうなの。旦那さんとは。大丈夫?」
「え、ああ。まあ。」
「この前殴られたんでしょ?やり返したら勝てるんじゃないの。」
殴られたのではなく、軽く小突かれたのが正確なところだが、わざわざ訂正するのも面倒に思った。多少話を盛ってしまったのも恥ずかしいのだ。
「大したことないし、最近は揉め事もなか。」
「ふーん。何かあったら僕を頼っていいんだからね?」
江渡貝の優しさに、ふっと心が緩む。
「あいがと。」
鯉登は礼を言うと、寝室の扉を閉めた。
目覚めて、ああ今日も一日が始まると感じて虚しいものはない。
リビングには、同居人のいた気配が残るがすでに彼は出社したようだ。
同居人は思っていたよりかルールを守るし、互いにプライベートな空間への侵入も干渉もない。
それは自分がされて嫌なことをしないというようなイーブンな関係性を重視しているからだろう。
しかし、同居人が忘れていることはある。
今日がここに居を構えて二年目ということだ。
べつに記念日を祝おうなんて言って、相手に手間をとらせる気はないが、せめて今後ともよろしくくらいは言い合いたいなと思った。
それを言ったら「ははあっ」と馬鹿にして笑うのだろうが。
だから言うこともないし、今後もそれでいいと思う。
しかしどこかで、思う。
この生活に意味はあるのかと。
こんなとき、鯉登がしてきたのは好きな本を読むことだ。
コーヒーメーカーに粉をセットして、鯉登はキンドルを開く。
経済新聞を一旦閉じて、月島の著書を眺める。
『樺太』は彼の第二作だ。
極寒の地で描かれるのは、スヴェトラーナという女性の数奇な運命だ。
鯉登が好むのは、彼女が流氷を歩くラストシーンだ。
「私が歩んできた道は、一本ではない。私は、私を信じるの。この先に何があるのか、誰もわからないのだから。」
彼女の台詞は希望に満ちている。
残念ながら、この著書は売れなかったという。純文学にジャンル分けされた部類の著書は売れることを前提としていないといえ、鯉登はもっと評価されるべきと思っていた。
月島という男に会うまでは、このような本を書けるのはどんな人かと思っていた。
今でも信じられない。
女性の視点でこれほどまで絶望と希望を描けるなんて、と鯉登は月島の感性に惚れ直している。
時計を見ると現実に引き戻された。
出社しなければ。
鯉登はコーヒーを一杯のんでクロワッサンを齧ると、カップと皿を軽くすすいでから食洗機に入れてスイッチを押す。
同居人は流しに置きっぱなしにしたカップや皿にくどくどと文句を言うから、箱入りで育って家事のできない鯉登でも食洗機を使えるようになった。
月島先生。
次にお会いしたら、樺太のことを聞こう。Wikipediaにはロシア文学専攻とあったから、きっとロシアのことを話してくれるだろう。
楽しみだ。
鯉登は月島との次の約束へ胸を踊らせた。
「基、戻る気はないのか。」
年老いた父からの電話に、眉根を寄せた。
「無いよ、別に親父もまだ元気だし、戻る必要は無いだろう。」
「現実を見ろ。お前もう何年も新しい本を出してないだろう。偶然に一冊当たっただけでも良かった。いまはアルバイトとか派遣とかしてるんだろう。こっちに来てもっと地に足つけて。いい加減嫁でももらって、孫の顔を見せてくれ。」
いま、まさにそのアルバイトであるネット記事を編集していた。
芸能人の発言を面白おかしく書くだけの、なんの意味もない記事だ。タイトルに煽りをつけて、内容を開けばなんてことない番組収録時や舞台挨拶での発言だ。
この仕事も鶴見の伝手からもらっている。
「海が」
月島は、故郷の海を思い出す。
日本海は、空も海も灰色だ。
「海が嫌なんだよ、わかるだろ。」
父はそれからなにも言わなかった。