聞くこと、見ること 今年の10月、鶴見さんが懇意にしていた鯉登平次先生がコンマスを引退し、鶴見楽団はコンマスが不在になった。ニューイヤーコンサートを控えた今、その代わりに、現在有名音楽大学に通う次男の鯉登音之進が継ぐことになったのだが……
「白石!B♭の音が少し低い!それとも貴様のチューナーが壊れてるのか!?」
「これが限界だよ〜、今日めっちゃ寒いんだもん。演奏してたら暖まるよ。」
「ふざけるな、チューニングで楽団の演奏が左右されるのだぞ。」
「……いや、わかってるよ!分かってるけどさ!」
コンマスが音之進に変わってから、毎回こんな感じで、何度か衝突が起きかけている。
「まあまあ、何も全てピッタリとピッチがあった音で吹くこと、弾くことだけが全てじゃない。みんなで揃った音色を奏でることこそが重要なんだが。それに、白石のピッチも特段外れている訳では無いぞ。1ミリ、2ミリのものだ。」
衝突仕掛けると、必ず指揮者の鶴見さんが止めるが、だからといって音之進の音楽との向き合い方や考え方、音楽をする上での他人との関わり方が変わったわけではないのでまた同じようにぶつかる。
このままだと、もともと変わった奴が多く、団結力や協調性が極めて薄いこの楽団の空気がより悪くなり、いずれはそれが人に提供するはずの音楽にも現れるようになるだろう。
向かい側からじっと観察する。
鯉登家は生まれながらの音楽家系、日本で両手に収まるほど有名なバイオリニストの父と、優秀なチェリストで現在も意欲的に世界で輝く長男に囲まれて育った音之進の実力は、事実、凄まじいものだった。
運指、運弓が頭に入っていることはもちろん、ピッチがブレることも一切なく、指揮者を見つめながら弾く所作は美しく、完璧。だからこそ、鼻につくし、敵も増えるのだと伺える。
だが、彼の演奏には父や兄には無い決定的な弱点があり、演奏を初めて聞いた時からそれがずっと引っかかっていた。
「たく、もー。ほんとボンボンやんなっちゃう。ちょっと鶴見先生と知り合いの息子だかなんだか知らないけど、偉そーに合奏止めちゃってさ。いつも同じところで指摘受けてるくせに。」
練習後、先に口を開いたのは今回指摘されていた白石ではなく、宇佐美。クラリネットを執拗に磨きながら、イライラした様子で呟く。
「まあまあ、宇佐美。相手は歳下だぞ。それに入ったばかりでまだ馴染めてないんだろ。」
「あんなんじゃいつまで経っても馴染めませんよ。あー菊田さんに宥めらたら、もっとイライラしてきた!」
「……なんでだよ。」
近くにいた菊田が宇佐美を諌めるが、より火種を撒いてしまったようだ。
気になって、音之進を探し、そちらの方に目を向けると、ぽつんと一人で、それはそれは神経質にヴァイオリンの手入れをしていた。恐らく宇佐美は音之進まで聞こえるように嫌味を言ったのだろうが、これでは聞こえてるのかさえも分からない。
俺はそそくさとヴィオラを片付け、スタジオを後にしようかと思った所で、
「月島、この後空いてるか?」
と、外で電話をしていた鶴見さんに話しかけられた。
「はい」
まあ、何となく予想は着くが、断れずに頷く。
「スタジオ前のカフェでコーヒーでも飲みながら。奢る。」
「奢りはいいですけど。」
「それなら、先に行って待っててくれ」
「はい……」
─────────────
本当は早く家に帰って風呂にでも入りたかったが、コーヒーを飲んでいると、優雅にコートを翻しながら鶴見さんが現れる。ダウンコートでがっちり蹲って歩く俺とは大した違いだ。
鶴見さんはキャラメルラテを頼み、一口つけると、
「鯉登のこと、どう思う?正直に。」
とバッサリ。本題なのか、本題への遠回しの問い掛けなのか、よくわからない。
「どう……って、まあ、トラブルメーカーですよ。そりゃ、上手いですよ。上手いんですけど。」
「うん」
「コンマスとしての自覚が足りず、周りと馴染む気がない。というより、同年代の人間と対等に付き合いたいと思ってるんですかね。鶴見さんの言うことは聞きますが。」
鶴見さんは俺に同意するように頷き、またキャラメルラテに口をつけた。俺はなんだか呑気にコーヒーを飲む気が起きなくて、口を尖らせ俯く。
「私は、コンマスは彼以外有り得ないと思っているが、このままの状態が続くのも良くない……それに演奏の面はどうだ?」
「コンマスは彼以外有り得ない」という言葉に思わず瞳だけ鶴見さんの方に向ける。そりゃ、あなたにとっての「コンマス」は彼しかいないでしょうね。鯉登平次の息子であり、楽団に大量の支援金が入ったから。
「演奏面ですか……そ、うですね。そうですね……」
何となく、演奏面は指摘する気が引けて、次の言葉が出てこない。でも、有名な彼の父や兄とは決定的に違う弱点があるのは確かだ。
「技術面、演奏面は申し分ないです。大学生でそこらの大人に勝るほど弾けているのは確かです。……が、彼の演奏はどこか機械的というか……」
「機械的?」
「はい。人間味がないんです。特に映画の劇伴や歌劇の曲をしてる時は特に顕著に。」
「うん、彼の音は機械的というよりは、全てにおいて派手すぎる。悲壮感があっても、派手。音が小さくなっても派手。だから、音に協調性がない。独奏なら、完璧だろうな。父上の鯉登平次先生もその事に気づいてここに連れてきてくださったんだろう。」
なんだか、本人のいない所で彼の弱点を話し込むのはいたたまれなくなって、冷めたコーヒーを流し込む。
それに、貴方がそう思ってるのなら、貴方が彼に直接言えば、いくらでも直してきそうなものだが?どうやって取り込んだのかは知らないが、彼は鶴見さんにいたく陶酔しているんだから。
「そこでだ。月島、鯉登の面倒を見てやってくれ」
「はあ?」
「なんだ、不満か?」
有無を言わさぬ黒い瞳が弧を描く。
「……」
「私が指摘すれば、必死に直してくるだろうな。だが、それでは鯉登は人と関わらず、曲の背景にも興味が無いままで、根本が変わらないのでそのうちガタがくる。」
なるほど……な……、まあ……言い分は理解出来る。
「だからこそ、月島が音楽を色々教えてやってくれ。」
否定を目で訴えるが、
「大丈夫だろ?」
「ええ……」
「な、面倒見てやってくれ」
と、念押しされ、頷くしかない。面倒なことになった。そんな、ドラマみたいな……。
しまった、鶴見さんのコップが空だ!
それに気づいた時はもう遅く、「よろしく頼んだぞ」とまた念押しされ、鶴見さんは満足そうに帰り支度を始めてしまった。
残ったコーヒーを残す訳にもいかず、今後の対策を練りながら、帰りの風呂のことを考えた。
──────────────
鶴見先生に呼び出され、スタジオに行くと、鶴見先生ともう1人。ガタイのいい坊主頭が待っていた。恐らく、周りの奴らより早く呼び出されたのだろう。
「よく来たな、鯉登。早くに呼び出してすまないね。」
「全く問題はあいもはん!いつでん呼び出してもろうて結構じゃ!」
憧れの鶴見先生を前にすると、頭の中の整理ができない!嬉しくて、嬉しくて。
「まあまあ、落ち着け」
ふうふうと深呼吸して。
「今日から、この月島が君に指導をしてくれる。何でも聞いてくれ。一緒に演奏しているから、顔くらいは見たことあるだろう?」
鶴見先生にゆさゆさと揺さぶられた男は
「月島基です。ヴィオラを弾いてます。」
と、頭を下げた。見覚えがある。私が指摘される部分でソロを弾いてる奴だ。鶴見先生から「いい音だ」と褒められていたこともあった。それに、鶴見先生と1番古い仲らしい。
「口も悪いですし、育ちも悪いですが、よろしくお願いします。」
なんだ、なんだ。なんだ、その仏頂面は!
私は鶴見先生に習いたいのに!しかし、鶴見先生が愉快そうに笑いながら、俺の肩を2回叩くので、受け入れるしかない。
「まあ、やってみなさい。何事も経験だよ。」
渋々頭を下げてやった。
───
今日もまた、同じ部分を鶴見先生から指摘されてしまった。中盤と後半に同じメロディーが現れるが、そこでいつも合奏を止めてしまう。
「はぁ……」
片付けをしていると、早速月島に声を掛けられる。
「すいません」
「なんだ」
「貴方、ウエスト・サイド・ストーリーは見た事ありますか?この楽譜の元になった映画です」
「いや、映画は見てない。」
楽譜は組まなく読んでいる……実際に楽器で演奏するのと映画を見るのでは勝手が違うだろう。
「うーん、いつも鶴見さんに「派手すぎる」とか「もっと感情をこめろ」とか指摘されていませんか?」
確かに、同じフレーズの部分でずっと鶴見先生に首を傾げられている。
鶴見先生だけじゃない。父や音大の教授らにも、歌劇の曲を弾くと特に首を傾げられていた。
『クレッシェンドは合ってる、そうなんだが……弾き方も記号の解釈も合ってるんだが……』
いつも決まって、技巧は褒められるが決定的な何かが足りないと言われる。兄さぁやお父様の演奏を聞けば、私の演奏がいかに拙いか思い知らされた。
私には何かが足りないが、それをどうやって引き出し、どうやって演奏すればいいのか分からなかった。先生も『感情を込めろ』と言うだけで、その感情の込め方は教えてくれない。
指摘されればされるほど、怒りや悲しみ、悔しさが音に乗るのか、今度は「違う」と否定された。
いつも同じ。私はずっと下手くそなままだ。
「言われてるが……何が言いたい。ヴァイオリンと私の華やかさに嫉妬しているのだろう?」
「いや、そこは良いんですけど。」
「ならなんだ」
痛いところを突かれて、つい顔を歪めて鼻で笑いながら、棘のある言い方になる。私の痛いところを突いて自分の嫉妬心を消化させるやつを何度も見てきた。
「この後、予定空いてますか?忙しかったら別の日でも。」
「は?」
予定を聞かれると言えば、大抵女からのデートの誘いしかないが、こいつは私をデートに誘うつもりか?
「一緒に映画を見るんです。俺の家で。」
「キエエエェエッ!」
思わず出た大声がスタジオ中に響き渡る。
「き、き、貴様!何を考えてる!お、おま、おお前の家で、映画だと!?」
『鯉登くん、今日暇かな?うちで一緒に映画見ない?』
大学1年生の時にフルート専攻の先輩にそう言われて、暇だったので着いて行ったら、胸を押し付けられ、迫られて吐いてしまったことを思い出す。
「な、なんですか。ただ映画を見るだけですよ、何考えてるんですか。」
「何考えてるんですか」だと?お前、お前が何考えてるんだ?
「わ、私は男だぞ!?」
「ええ、そうですね。」
何を言ってるんだこいつは。こんなに私に恥をかかせおって……!!怒りと困惑で頭がどうにかなりそうだ!
「な、何が目的だ!わ、私とどうなるつもりだ!」
「いや、別に……映画を見るだけですけど」
「ようよう、坊ちゃん。な〜に考えてんの。月島さんは君の演奏をもっと良くしたくて、映画を見ようって言ってくれてるんだよ?」
尻もちをついて後ずさりすると、どすんと誰かの足にあたり、上から長髪が覗き込んできた。
「わ?え?演奏を良くする?映画で?私に付け入るための工作ではないのか!?」
「おいおい、誰も彼もが鯉登ちゃんに興味あると思うなよ〜」
長髪の影から白石がぬっと出てきて、尻もちを着いたままの私を見下ろす。
「え?」
「予定空いてます?ニューイヤーコンサートまでには間に合わせたいんですけど。」
手を差し伸べてきた月島の手を取る。引っ張り上げられると、ドッと視線が落ちて、月島の背が低いことに初めて気づいた。
「あ……いや……空いているが……」
「では、今日の18時半にこのスタジオの西口で落ち合いましょう。そこから俺の家に行きます。」
「……わ、わかった」
ついに承諾してしまった。
「嫌になったら連絡してください、無理にという訳ではありませんので。一応連絡先は交換しておきましょう。」
淡々と手続きが進んでいく。
本当に信用してもいいのか、この男を。と思いながらも、スルスルとこの男のペースに巻き込まれてしまった。
───
18時半に言われた通りにスタジオの西口に行くと、もう既に月島が待っていた。ダウンジャケットに腕を組んで。
「来たぞ」
「はい、行きましょう。」
月島は私の持っているカバンをチラッと見たあと、小さな路地の方へ向かっていく。「ま、まて。本当に家に行くのか?」
「行きますよ、嫌でしたら早めに行ってくださいね。」
路地は暗く、足元が見えない。タンタンと月島の靴の音が路地に反響し、コツコツと私の革靴の音もそれに続く。黙って、ただただ。
しばらく歩くと、こじんまりとした二階建てのアパートに着き、1階の103号室で止まる。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
小さな玄関に靴が何足か、むき出しの靴置きに丁寧に並べられており、廊下も綺麗に掃除がされていた。
「スリッパ……」
しかし、スリッパが見当たらない。靴下のまま知らない家の床を踏みたくない。
「あ、ああ……すいません」
そう言って、奥からいつから出てないのかよく分からない凹んだスリッパを出してきて、
「どうぞ」
と促される。これしかないようだ……まあ無いよりはマシか。
「うむ……」
家に上がるとリビングに通され、中央の炬燵布団が掛かったローテーブルに
「好きなところに座ってください」
と指されたので、私の家に比べると随分小さいテレビの前を陣取り、鞄の中から持ってきたお菓子を広げる。
「あ、え?それ、わざわざ持ってきたんですか?」
「うん、だって映画を見るんだろう?」
「あー……俺ん家には麦茶しかないですよ。」
「構わん」
紙コップに入った麦茶が目の前に置かれ、
「晩飯は食べましたか?」
と聞かれ、そういえば、ああ。
「食べてない」
「じゃあ、インスタントで焼きそば作りますね。アレルギーとかないですか?」
「うん」
キッチンに向かった月島を横目に、月島の部屋をキョロキョロと観察する。
殺風景な部屋だ。
テレビ台に小さなテレビとコタツ、本棚には音楽に関わる本。いかにも仕事人間って感じだ。
「こざっぱりしてるな!」
「俺はこれで十分なんです。」
キッチンから声が返ってくる。
「じゃあ、作ってる間に聞きますけど、鯉登さんは『ウエスト・サイド・ストーリー』、どんな話だと思います?」
「んー、んー、華やかで明るい感じか?そういう曲が多いように気がするが。杉元のいる金管が目立つのが癪に障るほどに。」
「まあ、確かに曲は華やかですよね。でも、華やかな映画だったら今のあなたの演奏で十分以上なんですよ。」
「んー」
納得がいかない。華やかな曲が多いなら、それこそ私の演奏が正解なのではないか?
ジュージューと月島が麺を焼く音が思考を煽る。
「映画を見る時は、私たちが演奏をする曲がどこで使われているかよく聞いてください。」
「……分かった」
「出来ましたよ」と香ばしい湯気を漂わせる皿が目の前まで運ばれる。
「熱いので気をつけてくださいね。」
「ん、分かった」
少し束になった焼きそば。初めて食べる。そもそも人の家でこんな風に映画を見たり、同じ話題を話したり、私の意見を聞いてもらったりすること自体が初めてだった。
ソースの味が濃くて、麺が細くて、暖かくて、所々焦げになっているが、それが美味しい。
「こんな焼きそばは食べたことがない」
「ああ、安い焼きそばですから。」
はぐはぐと同じ焼きそばを食べながら月島が答える。そういえば、 そもそもインスタントの焼きそば自体、食べるのが初めてだったかもしれない。
「あ、そうか。すいません、俺の感覚で出しちゃいましたが、口に合いますか?」
「ん、おいしい」
「良かったです」
仏頂面が少しだけ緩んだ気がする。
「食べながらでいいんで、見てくださいね。」
そうリモコンを操作すると、少しだけ古めの映画が始まった。
アメリカを舞台に繰り広げられる若者同士の抗争。その中心で生まれたプエルトリコ人の少女とヨーロッパ系の男との恋。
「この曲!いつも弾いてる曲だ!こんな場面で使われているのか!」
華やかなで力強いダンスには心が踊り、目が奪われた。
しかし、話が進むにつれて、明るい曲の奥に隠しきれない不穏な影が現れ、それが、若者の衝突とすれ違いとともに徐々に表面化していく。
「うわ、おい、こんなに人が死ぬのか!?」
隣を見るとやけに真剣に、張り詰めた顔で画面を見つめる月島が目に入る。
なにか思い入れがあるのだろうか。
ヒロインの兄がヒロインの相手役の弟分を殺し、ヒロインの相手役ヒロインの兄を殺す。
それでもヒロインは恋人と男と愛を誓い、駆け落ちをしようとする、その時に私が苦労している曲を2人で歌う。
「なるほど……あの曲はこう言う場面で流れるのか。」
「…………ええ」
どこか悲しげで、画面のもっと奥、遠くを見つめている。月島は、この映画を、この曲を、あのソロをどう考えて弾いているんだろう。
その月島の、砂が混じった雨水のような濁った瞳を見たら何も言えなくなった。
映画は終盤に差し掛かり、憎しみが憎しみを呼び、とうとうのヨーロッパ系のギャングは本当にしてはいけないことに手を出してしまう。その愚かな行為に「う……うわ」と思わず目を覆ってしまった。
「大丈夫ですか……、気分悪いですよね」
「……ああ、だが見なくては……」
「無理はしなくて大丈夫です」
「……いや、見る。」
正直かなりキツい。しかし、これを見終わったらきっと何かが変わっている気がする。
最後、ヒロインの相手はヒロインの目の前で打たれ、ヒロインの腕の中で息絶え、彼女はそこで駆け落ちをする前に歌った曲が背後に流れ、半狂乱になった彼女の訴えでギャングの戦いの終結とともに、物語は幕を閉じる。
「鯉登さん」
「……ん」
「どうでした?」
「……衝撃的だったな。とにかく。あと、あの曲……最後の曲はなんて言うんだ?」
「『Somewhere』です」
「そうか」
「気に入りましたか?」
「気に入るかどうかというよりも……上手く言えないな。」
「そうですか、それでもいいと思います。ゆっくり考えてください。……あと、ちょっとすいません……酒飲んでもいいですか。」
「あ、え、別に構わないが。」
「20歳超えてますよね?飲みます?チューハイかビールしかないですが」
「ん、うん」
月島の少し慌てるというか、急かすような様子に驚きつつも、ビールが苦手なのに頷いてしまった。
「シラフでこの映画見るの、久しぶりで……」
そう言いながら、冷蔵庫で冷やされたビールとチューハイの缶が並べられ、泡立った琥珀色が紙コップに注がれていく。
「月島はどう思った?」
「若さ故に相手を傷つけ、自分自身も傷つく物語……だと。」
「……そう、だな。そうだな……」
ゆっくり自分の中で、自分の今までの演奏や映画の内容、劇中歌やこれからの演奏について、考えを咀嚼してゆっくりゆっくり飲み込んでいく。そして、月島とこの映画を見たことも。
「明るい描写のなかに、段々と陰が差してくるような……辛くて、品が有るとは言えない内容だったが、でも音楽はどれも綺麗だった。」
「……ええ」
月島の濡れているようでざらついた瞳を見つめる。沼のように暗くて、底が見えない。月島は、逃げるようにすぐに目を逸らし、また酒を空けた。
「だ、大丈夫なのか?」
「俺、この映画ちょっとダメなんですよね……でも、これで少しは音色に感情が籠ることが分かりませんか?」
そういうと、月島は顔を覆って少し苦しそうにしていた。
「……何となく、次からはどう弾けばいいのか……理解出来た気がする。」
どうしていいか分からず、月島の問いだけに素直に答える。
「それは良かった。……劇伴や歌劇の曲は、元ネタの様子を音だけで観客に伝えられなきゃダメなんです。」
「うん」
「その分、曲のテーマやイメージが映像として残っているものの方が多いから、感情の想像はしやすいんですよ。こうやって、徐々に曲の背景を知って、解釈していけば、段々と音に表現や感情が付くはずです。」
「……そうか」
私は今まで、『上手く弾く』ことばかり考えていたのかもしれない。楽譜を見つめ、沢山練習して、楽譜に書かれていること、指導されたことからはみ出さずに、全てやり通せば、音楽と向き合っていることと同義だと思っていた。
「すいません、偉そうにベラベラ喋っちゃって」
「そんなことは無い。私のために教えてくれたんだろう?」
「……ええ」
「……ありがとうな。一緒に見てくれて、助かった。」
「いえ……とにかく、俺はこれからの鯉登さんのヴァイオリンが楽しみです。今でさえ十分上手いんですから」
「そうか……!?」
褒められたのが嬉しくて、月島の方を見ると、
「……ええ、きっと今までより上手くなりますよ。」
少しだけ口元が緩んでいた。
「……うん!鶴見先生も喜ばれるだろうか!ああ……早くヴァイオリンを触りたい!」
「そうですね」
次の演奏で、私の音がどう変わるのかは分からないが、少し楽しみになると同時に、薄暗い液が入った心の鍋がゴポゴポと音を立てて沸き立っていた。楽譜の奥の奥を見ることがこんなにも重要で、兄さぁと父は、初めからそれを出来ていたんだと。心の奥で、幼い頃の私がまた、沸き立つ鍋を見つめたあと、隅で蹲る。
「今日は遅いですから、帰りましょう。送りますよ。」
「……うん、帰る。」
駅までの帰り道は団員のことを少しだけ教えてもらった。杉元は元々中学の頃からマーチングで有名だったとか、宇佐美は元々ジャズ奏者だったが鶴見先生のために転身したとか……他にもいろいろ。それから、「団員とは無理に話せとは言わないが、知って損することは無い」と。
電車に乗る前まで「家に着いたら必ず連絡してください」と何度も言われ、
「分かってる!そう何度も言うな!」
と口では言いつつも、どこか胸の奥がこそばゆかった。
家に着き、
『帰った』
と月島に連絡して、シャワーを浴びて……そのまま布団の中に入る。
暗い部屋で目を瞑ると私の幼い頃の残像と、兄さぁに褒められる過去の自分の姿が現れて、「音之進は上手だなぁ」と大きな手が幼い頃の私を優しく撫でた。
私が上手くなったら、お父様も兄さぁも喜んでくれるだろうか。私は少しでも兄さぁに近づけるだろうか。
「もっと上手くなりたい」
布団の奥で、心の隅で小さな私が呟いた。
─────────────
数日後、またスタジオに合奏のために集まる。いつもに増してドキドキと胸が高鳴っていた。上手く出来るだろうか、今度は指摘されずに済むだろうか。
「月島!」
「ああ……」
見覚えのあるダウンジャケットを見つけて近づくと、振り向いた顔はやっぱり月島だった。
「あれから動画を見たり、他の楽団の演奏も聞いてみたぞ!映画の解説も読んでみたし、大学で何度も練習してきた!」
月島に数日間の成果を嬉しそうに話すと、
「そうですか、いい事だと思います。今日の合奏が上手くいくといいですね。」
と返ってきて、また嬉しくて、月島が準備する横で、私もヴァイオリンを取り出し、
準備する。
一足早く松脂を塗り、組み立て終わった月島が音を出し始めて、私も慌てて楽譜を取り出し、同じように準備を始めた。
早く練習や勉強の成果を見て欲しくて、うずうずしたが、合奏の時間まできっかり基礎練をして、鶴見先生が来たら、指定の場所に座る。
ああ、ドキドキする。沸き立つ気持ちが体から溢れて、チューニングをするために立ち上がると、譜面台からドサッと楽譜の束が落ちてしまった。
「とりあえず、最初から合わせてみようか。」
慌てて楽譜を拾って、楽器を準備し、指揮棒が上がるのを息を潜めて待った。
「では……始めよう。」
鶴見先生が指揮棒を振り始めると同時に、部屋の空気がピンと張り詰めた気がした。
鶴見先生が指揮棒を振ると同時に、『ウエスト・サイド・ストーリー』の物語が始まる。何度も聞いた、何度も見た。その映像が皆が奏でる音と共に、頭の中で勝手に流れて、そこから感じた感想を音に載せるように弾いてみる。自分一人で練習している時よりもずっと楽しいし、今までよりもずっと楽器の鳴りが良いように感じる。
『Somewhere』のフレーズに入り、月島のソロが始まり、胸がキュッと縮こまる。こんなに人の音を聞いたのもは初めてだったかもしれない。月島は、いつもこうやつて弾いていたのか。
チラッと月島の方を見ると、あの日の月島の暗くに濁った瞳が脳内でふフラッシバックして、その光景が、自分の中で映画よりも強い記憶だったことに気づいた。月島の瞳に何も言えなくなった気持ちを思い出し、自然と音が小さくなる。
初めて、鶴見先生に止められなかった。
このまま演奏が進み、元々マーチングをしていた杉元の豪快な音色、宇佐美の軽やかな音捌き、白石は案外周りの音を聴きながら吹いていることなど、他の人の演奏にも自然と意識が動く。
最後の『Somewhere』のフレーズを弾く時は、月島と映画を見たことや、最後のシーンを思い出し、思わず弓が震えた。曲が終わり、弓を下ろす。今までになく充実した演奏だった。
「今までで一番良かったな。鯉登が良くなってた。」
「あいがとごわす!素晴らしかお言葉光栄じゃ!これからも精進致します!」
「うん、うん。なんと言っているのか分からないが、喜んでるみたいだな。この調子でつづけてくれ。」
「はい!」
鶴見先生に褒められた!なんという事だ!嬉しい、嬉しい!
「どうだ!」と月島の方を見るが、瞳だけこちらだけ向けて、また前を向いてしまった。む……、もっと愛嬌を振りまいてもいいものなのに。
───────────
合奏が終わり、ヴィオラを片付けている月島の元へドカドカと足を鳴らしながら近づく。
「おい!月島!」
「はい」
「どうだった?私の今日の演奏は!」
「……良かったと思いますよ。鶴見さんも喜んでましたし、成果が出たんじゃないですか?」
「そうだよな!そうだよな!」
思った通りの返事が返ってきて、大きく頷きながら、月島の隣にドカッと座り込み、ぎゅうぎゅうと服を掴んで揺する。
「ええ、よか、良かったですよ。」
「本当か?」
「本当です。たくさん研究されたんですね。」
その言葉にパッと手を離すと、月島がすくっと立ち上がったのでまた付いていく。
「ちょ、ちょと。勘弁してください。トイレに行くんですよ。」
求めている反応が返ってこないので、また月島のパーカーの裾をギュッと掴む。
「鯉登さん、」
月島が溜息をつきながらこちらを見るので、裾を掴んでいる私の腕をグッと力強く握って、
「本当に漏れます、ここで漏らしますよ。」
「キエッ……わ、わかった、わかった……」
据わった目で見つめられるので、思わず手を離すと、スタスタとトイレの方で歩いていってしまった。
もう少し月島と喋りたいだけなんだが……。
月島が去っていった方を見て口を尖らせながら待っていると、つかつかとハンカチで手を拭きながら、月島が戻ってくる。
「まだ気は抜けませんし、本番まで満足するのは早いですけど……まあ、どこか食べに行きます?奢りますよ。」
「本当か!」
「ええ……その代わり、これからも気を抜かず、演奏について考え続けて下さい。」
「分かった!行こう!」
──────────────
今日の鯉登さんの演奏は以前と見違えるほどの変化があった。
元々、的確で丁寧な音の処理、華がある音色、生まれ持ったものなのか、艶やかな表現はすごく上手く音に乗る方だった。さすが、鯉登家の家系だと思わざるを得ないほどに。
しかし、音の処理が鯉登さん自身のものだけでなく、明らかに他の人の演奏を聞いて、音の処理を行っていた。
映画のイメージを思い浮かべながら弾いているためか、生まれ持ったものだけでなく、きちんと考えて出された華やかさが出ていた。
『Somewhere』は曲に対する理解も深まったのか、映画の登場人物に寄り添うような音を奏でていて、こちらも断然弾きやすかった。
……鯉登さんの実力を持ってすれば、感覚さえ掴めたら、短期間でここまで変わる。
このまま変わらず練習や研究を続ければ、きっともっと上手くなっていくだろう。
鶴見さんに褒められた時の嬉しそうに目を輝かせた顔。彼はそれが欲しかったんだから、鶴見さんの賞賛さえ貰えれば満足するかと思ったのに。
『どうだった?私の今日の演奏は!』
私にも褒めろと催促しに来たので驚いた。俺なんて気にしているようで気にしていないものだと思っていたが。
褒めろと言われると思わず、丁度トイレも行きたくなっていたし、つっけんどんに返事をしてしまったが、ここで油断されても困るし、そもそもどうやって褒めてやれば鯉登さんは満足するんだ?
「まだ気は抜けませんし、本番まで満足するのは早いですけど……まあ、どこか食べに行きます?奢りますよ。」
「本当か!」
「ええ……その代わり、これからも気を抜かず、演奏について考え続けて下さい。」
「分かった!行こう!」
満足する様子を見せない鯉登さんに、俺は『ご飯を奢る』という手段しか思いつかなかった。
これでまたやる気が出るのなら……。
片付けの間中も俺の近くをせかせかと、「これは何を使ってる?」「これは私のと同じだ」と話しながら待っていたので、
「気が散ります。片付けるのが遅くなって、ご飯行けなくなりますよ。先に出て、前みたいに西口で待っててください。すぐ行きますから。」
と促すと、「分かった」と聞き分けよくスタジオを飛び出して言った。
犬みたいな人だ。
余談
今回の曲は『「ウエスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニックダンス』。
「Somewhere」のヴィオラソロがめちゃくちゃ素敵です。
「America」や「Tonight」がないのがさびしい㌔。既存のメドレーだと、色んなメドレー聞き漁った㌔、「America」や「Tonight」が入ると「Somewhere」や「Manbo」が無くなる。何故。
鶴見は今はオーケストラの指揮者兼ピアニストをしているが、同じくらいジャズも好きそう。
房太郎は金管は全般吹けるが、1番難しくて面白いホルンを選んだ。グリッサンド聞きたい、房太郎のグリッサンド聞きたい、お願い。
吹奏楽ではトランペットが花形だ㌔、オケではホルンが花形だと思う。オケのホルンを中心とした金管の高尚さたるや。オケのホルンの響きの良さがオーケストラに荘厳さを与えてくれます。
宇佐美は元々ジャズ奏者だったため、クラシックにジャズやラテンが融合した今回のウエスト・サイド・ストーリーは特に得意なジャンル。COOLのソロとか気持ち悪いくらい完璧に吹きそう。鶴見を追いかけ、力技と意地でオーケストラ奏者に転身。
杉元は中高とマーチングをしていて、なかなか有名人だったが、菊田の誘いで大学ではオーケストラ奏者を目指す。
母校の吹奏楽に演奏指導に行くと、一際魅力的な演奏をする少女アシㇼパと出会い、思わず声をかけてしまう。アシㇼパさんは特にマーチングが強そうだし、率先して指導してそうで可愛い。アシㇼパさんは、フルートも上手い㌔、ピッコロも同じくらい上手いだろうなあ、ピッコロはすごく難しい。
白石とインカラマッがオーボエ奏者。白石とインカラマッは特に協調性が高く、周りをよく見ることが出来る人なので、周りの音をよく聞き、演奏を調和してくれそう。
谷垣は杉元とおなじマーチングに所属していたが、マーチングには向いておらず、吹奏楽の野球応援などで力を発揮するタイプ。繊細で相手を支えることが出来る谷垣は座っていたら良いチューバを吹く。
踊りを加えられたら途端にもつれるか、演奏に集中すると、振りがワンテンポ遅れたり、動きが真逆になったりする。
菊田は元々音楽教員目指してたりしてたらいい。ピッチズレなさそう。スライドを動かす位置がピッタリそう。
オーボエからファゴットに行く人もいるので、土方さんは若い頃は元々オーボエ吹いてたらいいなあと、オーボエ視点からまだまだ青い鯉登を指導して欲しい。
尾形のチェロは先に勇作がしていたので、始めた。独自の運弓で進めてしまうが、それで弾けてしまうので何も言わない。練習はあまりしないというか、することがないのでひたすらに弾いていたら上手くなっていた。同じ楽団に入りたがる勇作から逃げ回っている。尾形は嘘でも感情が込められるタイプで、たまに誰かのメロディーラインを奪って演奏を混乱させる。
牛山さんは言わずもがな、ジャズも弾けたらいいなあ。コントラバスだけでなく、ベースも弾けたらいいんだ㌔、牛山さんの身長だとめちゃくちゃベース小さく見えそう。だ㌔、弾けてしまうのが牛山さんだと思う。
カルメンしてほしいな。