あんたに呪いをかけてやる「センパイ」
そう言った流川の顔は、ほわりとあたたかい、そしてその瞳の奥に確かな熱を持っていた――
***
卒業式の日は、雨だった。
花冷えのする体育館で行われた卒業式は、じわじわと三井の足元の体温を奪っていく。なんでこんな時期にやるのかね……と心の内で悪態をついた。
父母会から贈られたコサージュは誇らしく三井の胸元を飾っていたが、本人はそれどころではない寒さに早く式が終わることを願うのに精一杯だった。
――それから、流川。
先ほど廊下ですれ違った流川は三井を呼び止めると、なかなかその先を切り出そうとしなかった。思い立ったら即行動…とまではいかないが、こうと決めたらこう、というヤツなのでモジモジしているのは珍しい。
「どうした、流川?」
「ん……」
ちょいちょい、と長い前髪をいじる指先が頼りない。きれいな瞳はきょろきょろと忙しなく動く。
「なんか言いにくいことか? 場所変える?」
「いや……」
長い指が耳たぶを触る。これは流川の癖だ。長くは無い期間の中で発見した、流川の緊張した時にする癖だった。流川は何をそんなに緊張しているのだろうか?
——三井はだんだんイライラしてきた。彼はそう気が長い方ではなかったのだ。
組んだ腕に長い指をトントンと打つ。なかなか答えを出さない流川にもう一度三井は問いかけた。
「なんか俺に言いたいこと、あんだろ? 言ってみろよ」
「っす……」
流川のぎゅっと握られた拳が視界に入る。握り込んで普段から白い肌がさらに白くなってしまっていた。初めて見る流川の様子に、三井は思わず目を丸くする。三井の知っている流川はいつも自信たっぷりで他人の目など気にしない、ちょっと前まで中学生だったとは思えない天上天下唯我独尊男だ。
——それがどうだろう。目の前の流川はそんな姿とは程遠く、年相応の、なんなら体も少し小さく感じるくらいに存在感がちょこりとしているのだ。
ふるりと流川の長いまつ毛が揺れる。その瞬間、グレーの瞳がきらりと太陽の光を反射させて三井の姿を捉えた。
「……卒業しても、たまに、センパイとワンオンワンしたい。いい、ですか」
「っ……」
思わず息を呑む。
またしても流川は三井が見たことのない表情を、頬を赤くして言葉を詰まらせ緊張した表情を見せたのだ。その事実が三井にとって嬉しく、そして同時に少し気恥ずかしく、無意識のうちに後頭部を触っていた。
「あっと……そうだな。もちろんいいぜ。まあ俺一人暮らしする予定だしあんまりこっちに帰ってこられないかもだけど、その時はしようぜ、ワンオンワン」
三井はニッと笑って流川の肩に手を置いた。この後輩が意外にもこんなに懐いてくれていた事実を知れて素直に嬉しかったのだ。
しかし流川の反応がない。おかしいなと思って流川の顔をもう一度見る。するとそこには、耳まで赤くした流川の真っ赤な顔が、そこにあった。
驚きで「え」と口をポカンと開けた三井は固まる。
——なんだその表情は。どうして顔を、耳を真っ赤に染めているのだ。どうしてこちらを見ないのだ……
固まってなお、ぐるぐると色々な思考が脳内を回っている三井に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で「アザス……」とつぶやいた流川は、くるりと回れ右をして来た道を戻って行った。
「な、なんだったんだ……?」
廊下にポツリと残された三井は、なぜかトクトクと高鳴る胸を知らず知らずにぎゅっと抑えるのだった。
——という出来事が卒業式の前にあったわけだが、その時の様子がどうしても三井の脳内から離れない。
流川の珍しい様子に先ほどからずっと心を持って行かれている気がする。なんせ登壇している生徒の声が全く耳に入ってこないし、内容なんてもってのほかで何を言っているのかわからないのだ。
これも全部、様子のおかしい流川のせいだ。流川があんな、あんな風に顔と耳を赤くさせて瞳をきらきらとさせて俺を見てくるから——
トクリ、トクリと三井の心臓が拍を刻む。その鼓動の原因は、まだ三井にはわからない。
雨はまだしとしとと降り続く。板張りの体育館は足元の体温をじんわりと奪っていく。
しかし三井の胸は暖かかった。さっきまで寒さしか頭に浮かばなかったのに、流川との出来事を思い出した瞬間、寒さを忘れることができた。
この後の部活の集まりで、流川に聞いてみよう。なんで俺とワンオンワンがしたいのか。
もしかしたらこの胸の暖かさの原因がわかるかも知れない、そう期待を持って三井は目の前の生徒の後頭部を睨みつけるのであった。
***
結局、卒業式後の部活の集まりでは何も聞くことができなかった。
タイミングが合わないのもそうだったのだが、何より流川を前にしてなぜだか言葉が出なかったのだ。いつもならそんなことはないのに、今日に限って、いや今回に限って何も言葉が出なかった。最後に交わした言葉といえば
「じゃ、またな」
「……うす」
というあっけないものだったのだから、己でも呆れてしまう。小学生だってもっと気の利いた話をできるはずなのだ。なのに自分はどうだ……
情けなさでぎりりと歯を食いしばるが、なぜ自分がそんなに情けなく感じるのか、その理由はまだ三井にはわからない。
――三井が完全にその理由を理解したのは、そう、今この時。
「センパイ、ワンオンワンの相手して欲しいんすけど」
三井が一人暮らしをすることになったアパートに、流川が訪問してきたこの瞬間だった。
「な、なんで……なんでいるんだよっ!?」
「? だっていつでも相手してやるって言ってた」
「そっ……」
そんなこと言ってはないが、確かに大学生になってもたまにはワンオンワンの相手をしてやるとは、言った。
だがしかし、流川に新しい住所を伝えた覚えがない。なぜ流川は知っていたのだろうか?
「……彩子センパイに教えてもらったっス。三井センパイに会いたいからって言ったら教えてくれた」
「あいっ……!?」
ここまで三井はまともな言葉を発していない。いや、発せないのだ。
何せ流川がよく喋る。いつもより遥かに口数が多かった。それにいつもより流川の顔が…きらきらしている気が、する……嬉しそうな、そんな顔だ。
会いたかったというのも本当なのかもしれない。まあきっと、ワンオンワンの相手をしてほしいだけなんだろうけれども……そう三井は少しパニックになっている頭で今の不思議な状況を整理した。
「……まあいいや。とりあえず上がれよ」
「ッス、お邪魔します」
流川を招き入れ、一人暮らし用の玄関に大きな靴が二つ並ぶ。
三井の革靴の隣に流川の少し大きいスニーカーが並んだら、小さな玄関はもういっぱいになってしまった。
その玄関の様子に三井の胸の奥がざわりと騒がしくなる。
「センパイ?」
「!」
靴を脱いで上がってきた流川に顔を覗き込まれる。流川の頬には、彼の長いまつ毛の影が落ちていた。
それが見える距離まで近づいていたことに三井ははっと驚き、距離を取る。不自然な動きになってしまったが、流川に不審には思われてないだろうか。自分の緊張が流川に伝わっていませんように、と祈りながら三井はまたちらりと流川の顔を見た。
「どうかしたんすか」
そこには、普通なら絶対に下げることの無い目線を、わざわざ腰を少し折り曲げてこちらを覗き込むように目線を下げた流川がいた。
――流川の心配そうに反射する瞳の中に、自分が映っている。
それを直視してしまったらもう二度と普通には戻れないような気がして、三井はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら視線を逸らした。
「……なんでもねえ。とにかく、手ぇ洗ってこい」
「ウス……」
狭い玄関からやはり狭い洗面所に流川を押し込んで、三井はやっと息を吐いた。
——本日は金曜日、時刻は午後八時。
明日は土曜日で学校はないが部活はある。流川にも部活があると思うのだが、どうするのだろうか。この時間から神奈川県内に帰るとすると、相当時間がかかってしまうはず。とすると……?
「センパイ」
「ぅおっ!」
驚いた三井が勢いよく振り向くと、手をビシャビシャにしたままの流川が立っていた。手から水が垂れていて床も少し濡れてしまっている。
「おっまえ…! なんで拭いてないんだよ! 床濡れるだろうが!」
「だってタオルなかった」
「……マジ?」
「マジっす。ないからどこにあるか聞こうと思って」
「あー……」
そういえば今朝使った後、洗濯機の中に放り込んでそのままだったのかもしれない。ちらりと流川の大きな体の向こう側に見える洗面所のタオル掛けには、タオルはかかっていなかった。
三井はバツが悪そうに顎を触りながら、タオルを仕舞ってある棚を開ける。
「……わりぃ、俺がタオル出し忘れてたわ。これ使えよ。」
「アザス」
「手拭いたら床も拭いといてくんねえ? 流石に」
そこで流川は床に水が垂れているのを初めて知ったようで、きょとりとした後に床を見て驚いたように目を開けた。
「…すんません」
「いいって、俺が悪いんだからよ」
流川の艶々とした黒髪から、シュンとしたような動物の耳が見えたような気がして、クスリと三井は笑みをこぼすのであった。
さらに、追い打ちをかけるように流川の腹から盛大な音が聞こえた。ぐううう、と健康的な腹の虫が主張したのだ。
「……っふ」
「……スンマセン」
「あっはっはっは!!」
空気を一掃してしまった流川の腹の虫に感謝をしつつ笑いの止まらない三井は、笑われ続けて少しムッとなった流川の顔とそれについている赤くなった耳のアンバランスさに追い討ちをかけられたように笑いを止められなくなってしまったのだった。
***
「で? 夕飯食ってくの? あと今日この後どうすんだよ、夕飯食ってくと帰れなくなるかもしれねぇぞ」
ひと笑いを終えた目に浮かんだ涙を拭って、三井は流川に問いかける。そろそろ本気で考えないと終電に関わってくる時刻だ。高校生を終電ギリギリに返すわけにもいかないし……と頭の隅で考える。
「泊まってってもいいすか」
「えっ」
ぱちくりと、三井は思わず驚いて見開いた目を上下に瞬かせた。
流川は口を一文字に結び、こちらを真剣な表情で見つめてくる。ごくっと三井の喉が鳴った。
「明日の朝、センパイとワンオンワンしたい」
「……でも明日お前部活だろ? 俺も部活あるし」
「朝早く起きてそれからワンオンワンしてからでも部活は間に合う。……だめすか?」
「いや……ダメじゃないけど……」
流川の目が、うるうるきらきらと輝いている、気がする。
三井は後輩からのお願いに弱かった。普段生意気な宮城や桜木にもちょこっと可愛くお願いされたらアイスでもラーメンでも奢ってやっていたし、他の後輩にも差し入れしてやったり奢ってやることも多々あった。
——流川にだってそう。ワンオンワンを強請られて断ったことなど一度も、ない。
「じゃあ、いいっすか?」
こてり。綺麗な顔をかしげてこちらを覗き込むようにしている流川が、そこにはいた。
「ん……しょうがねえなあ!やってやるよワンオンワン!けどな、付き合ってやるからには色々手伝ってもらうからな、飯食わせてやるし泊めてやるんだからよ!」
かわいい後輩のお願いに迷わず許可を出した三井だったが、ちょっとの先輩風を吹かせたくて流川の顔の前にビシリと指を指した。
その指先を見た流川の目が寄っている。珍しい表情を見れた三井はふっと笑みが溢れた。
「とりあえず先に飯食おうぜ。ちょっと多めに作ってたから足りるだろ。……足りるよな?」
「わかんねえ…けどまあ多分?」
「足りなさそうだったら近くのコンビニで何か買ってくるか。遠慮して食えよ」
「アリガトウゴザイマス」
ぺこりと下げた黒髪が可愛らしく見えて、三井はふっと笑うのだった。
***
三井は一人暮らしを始める前に、母親から家事を一通り教えてもらっていた。
特にスポーツマンは体が資本ということもあって、料理に関しては一番重要視していた。
買ってきたものだけでは体を壊す……そう三井の母が心配をして、彼に対してスパルタに料理の手解きをしたのであった。
三井自身も自炊をしたほうがいいなと思っていたので、ここぞとばかりに料理の教えを乞うて自分のものにしていた。今はまだ未熟ではあるが、そこそこの料理なら自分で作れるレベルになっていた。
今夜は今朝から煮込んでおいたカレーライス。
肉はスーパーで安くなっていた豚ブロック肉を贅沢に使い、玉ねぎも溶けるまで煮込んで、少し辛めのルーに甘さを与えている。三井家のカレーはジャガイモを使わない。そのため玉ねぎで辛味を緩和させるのだ。
にんじんをゴロゴロと、さらにはマッシュルームを加えて朝からじっくり煮込めば、三井家特製カレーライスの出来上がりだ。さらにマッシュ加減を強くしたお手製のポテトサラダを添えれば、完璧な夕飯になった。
「……センパイ、料理できるんすね」
「おうおう、俺の天才具合に恐れおののいたろ。ありがたく食えよ」
ほかほか湯気の上がるカレーライスを前に、流川は瞳をきらきらとさせる。場合によっては失礼とも取れる流川の発言だったが、きらきらとさせた瞳を見たら彼なりの褒め言葉なのだろうと三井は取って、鼻をふふんと高くした。
「イタダキマス」
「おう。たんと食え」
流川はスプーンいっぱいにカレーライスを掬い、見た目は小さいが案外大きく開く口に運ぶ。
もぐもぐと咀嚼をするその口はいっぱいで、まるでリスのようだ。その一方で完全に味に集中しているようで目が真剣になっている。このギャップに三井は不思議な気持ちになって口をもごもごとさせていた。
ごくん、と飲み込んだ流川の様子を伺って、三井は恐る恐る声をかける。実は、まだ誰かに自分の手料理を振る舞ったことなどなかったのだ。
「……どうだ? うまいか?」
流川の目がきらりと光る。その視線に三井は思わずゴクリと喉を鳴らした。
——緊張の一瞬。そして
「…うまい。びっくりした、こんなにうまいカレー食ったことない」
普段口数の少ない流川から、すらすらと三井の手料理に対する褒め言葉が流れ出てくる。それは三井の料理が大成功したことを素直に表していた。
「センパイ、カレー屋になったら? 才能ある」
「ばっかやろ。そんなん開いちまったら毎日近所から苦情来るくらい行列作ってバスケできなくなるわ」
「確かに」
ふむ、と真剣な表情になる流川にケラケラと三井は笑い出した。
こいつに、流川にこんな冗談が言える一面があったとは知らなかった。
知らない一面を知ることができたこと、自分のことを褒めてもらったこと、楽しいやりとりができたこと。全てにおいて三井は興奮していた。
そしてその胸の内には、カレーと同じくらいのほっかりした熱が灯っていることに、三井は気づかざるを得ないのだった。
「俺の服ぱつんぱつんなのムカつくな……」
「センパイ細いから」
「うるせっ」
夕飯を堪能し風呂に入ることになったが、問題が一つあった。それは服のことだ。
流川は部活終わりにすぐ三井の部屋に来たらしく、着替えられるのは制服だけで他は何も持っていなかった。泊まるならば下着の一つや二つ持ってこなくてはならないのに、流川は全て忘れてきていたのだ。
その事実が発覚した後、三井は慌てて自室にあったはずの新品の下着を探した。その間の流川がのんびりとこちらの様子を見ていたのが何とも腹が立ってしまって、思わず「最初から泊まるつもりだったなら全部用意してから来いよこの大馬鹿っ!」と罵っていた。
言われた流川は最初きょとりとしていたが、三井を怒らせてしまったのに気付いてちょっぴりだけ申し訳なさそうに「すんません」と呟いたのだった。
新品の下着と持っている服の中で一番サイズの大きい部屋着を渡し、流川を風呂に入れた。
が、出てきた流川を見た瞬間、借した服がぴちぴちのぱつんぱつんなことに三井は見事にショックを受けたのだった。
「最近ちょっと筋肉増えたんす。筋トレ頑張ってる」
「おーおー。そりゃ良いことだ……けどやっぱりムカつくっ」
「センパイはもっと食わないと」
「最近は食ってるよ。お前や桜木たちには負けるけどな……」
同じ大学、部活に入った翔陽の藤真にここ最近言われたことを流川にも言われてしまって、思わず三井はげんなりする。藤真もしつこく「ウェイト増えたか〜?」「体重と体力落としたらレギュラーも落とすぞ〜」「食えよ〜ほら〜」と三井にプレッシャーをかけて言ってくるのだ。
それがあるから体重のことを言われると、どことなくムッとしてしまう。隣にいる流川の筋肉が羨ましい……そう恨みのこもった眼差しで流川を見る。
するとどうだ。流川はぱちぱちと瞬きを繰り返した後、忙しなく視線をきょろきょろと動かして終いには耳をぽっと赤くして俯いてしまったのだ。
その様子を見た三井も、思わずつられて顔が熱くなる。何だかずっと流川のペースだ……と少し悔しくもなった。
むむむ、と口を歪めて「俺も風呂入ってくっから適当に寝てていーぜ」と流川に告げて洗面所へと引っ込む。このままずるずる流川のペースに引き摺り込まれてしまったら、取り返しのつかない事になってしまう、そんな気がして仕方がなかったのだ。
三井は自分の頬を手で包み込んだ。
「……何なんだよ、俺。どうしちまったんだよ……」
頬は熱く、赤い。
鏡に映った自分が全く見慣れない姿をしていて、三井は悪態をつくしかなかった。
翌朝、昨日の残りのカレーを少し食べて二人はバスケットコートのある公園に向かった。
時刻は朝七時。まだ肌寒い空気を振り切るように、アップがてらランニングをして温まった体をもう一度ほぐすように動かしてからボールをつく。
三井の隣で流川もまた、ボールをついていた。
それを横目に三井はゴールに向かってシュートを放つ。それは綺麗な放物線を描いてゴールネットの中に吸い込まれていった。
ふうっと一息つく。良い感じだ、そう心の中で呟くと、三井はボールを追いかけた。
と、熱烈な視線が三井の体に突き刺さる。流川がじっとこちらを見ていたのだ。
「……あんだよ」
流川の視線を受けるとどうしても落ち着かない。ソワソワして体がむず痒くなってしまうのだ。
気になって思わずムスリと口を窄めて視線を避けるように後ろを向いてしまったが、流川は相変わらず強烈な視線をよこしてくる。
「センパイ」
「なに……」
流川の呼びかけに、ちらりと振り向いた。
「センパイのシュートフォーム、きれい」
「……!」
「やっぱり、きれい」
流川が目元を緩める。ふわり、と空気が揺れた。
朝の光も相まってキラキラと光を反射する流川の黒髪が風で揺れて、春の日光に温められた空気が三井の頬を撫でる。その頬はやはり熱くなっていた。
——ざわり
三井の心の中を何か、が蝕んでいた。
***
それから流川は毎週金曜日、部活の終わった後に三井の部屋を訪ねて来た。
翌朝にワンオンワンをするためにその日は泊まっていく。それがルーティンになってしまっていた。
訪ねて来る流川のために朝から料理を仕込み、何度言っても持ってこない流川の下着と部屋着を用意し、部屋を綺麗に片付ける。そしてその時に思い出す。
「センパイのシュートフォーム、きれい」
流川のこの言葉。毎回言われるこの言葉だ。
ワンオンワンをする前のシュート練習の際に絶対に言われるこの言葉。三井はこれに心を囚われていた。
授業を受けている時も、部活をしている時も、家事をこなしている時も、流川のために料理を作っている時も……いつもこの言葉がぐるぐると脳内を駆け回っていて落ち着かない。
そしてその言葉を言う時に、流川はいつも目元を緩める。
ふわりと瞬かれた流川の長いまつ毛の影を思い出すばかり。思い出させられる景色は、確かに三井の心を蝕んでいた——
その日は少し流川の様子が変だった。
毎週金曜日の恒例となった、流川のお泊まりと翌日のワンオンワン対決。今日もいつも通り部活終わりの流川が三井の部屋を訪問した。
そしてまたいつも通りに三井の手料理を振る舞っていたのだが……流川がどこかソワソワとしていて落ち着きがなく、いつもはうまいうまいと三井の料理にがっつくのだがそれもない。食欲もなさそうに見えた。
「……どうした? あんま食欲ないの、お前」
「あ、いや……」
また珍しく歯切れの悪い返事だった。そんな流川の様子がどうしても気になってしまって、三井は訝しげに流川の顔を見る。
流川は箸で持ち上げていた煮物のこんにゃくをパクリと口の中に入れて、もぐもぐと動かす。しばらく咀嚼が続いたのち、ごくりと飲み込んだ。唇が煮物の汁で艶々と光っている。
そして、流川がゆっくりと三井に視線を向けた。
「センパイ」
「なに? うまいか?」
流川の視線がちょっぴり痛くて、視線と話を逸らす。真剣な話は今じゃない、そのような雰囲気を三井は出しているつもりだった。
そして流川は、そっと箸を置いた。
「センパイ、すきです」
——カシャーン!
今度は三井が箸を落とす番だった。しかもそれはそれは盛大に。箸は床に転がり、きっと洗わなくては使えないだろう。
三井の目は見開かれ、流川を凝視する。大きめの目がさらに大きくなっていて零れ落ちてしまうのではないかと流川が少し焦るほどだった。
「センパイ、あの」
「……いつから」
「え」
「いつから、俺のこと好きなんだ?」
三井の心の中は盛大にざわめいていた。なぜなら三井もまた、流川のことが——
流川はごくりと喉を鳴らすと、三井の隣に移動して座り直した。そして床についた膝の上に握り拳を乗せて姿勢を正す。
「……センパイが、卒業して気付いた。たぶん結構前から好きだったと思う……わかんねえけど」
「わかんねえって……まさかお前、初恋、とか……?」
ぽりぽりと頬をかく流川の視線は忙しない。その、まさかだったようだ。
流川の耳は赤く染まっていた。珍しい姿を見て、流川の先ほどの言葉は本当だったのだなと実感すると同時に、もう一度確かめたい気持ちが出てきた。
「そ、か……俺のこと好きなんだな、お前」
「……ウン。好き、です」
「そうか……」
三井は腕を組んで俯く。何とか冷静なふりをしているが、内心は心臓が爆発しそうくらいに鳴り響いていた。
「(流川が俺のことを好き? けど確かに好きでもないやつの部屋にわざわざ来ないよな……。しかも毎週だし、毎回泊まってくし…メシも美味そうに食うし…それに)」
思う節は探せばいくらでもあった。
あの流川がわざわざ時間を取ってここまで会いに来ること、出す料理を毎回美味しそうに頬張ること、話している時に少し緩んだ目元のこと、それからシュート練習をしている三井を見つめる瞳が優しいこと……
そして、三井もまた流川のそんな数々の表情に囚われていたこと。流川のことを好きだと自覚したのはいつのことだろうか?
——きっかけはそう、シュートフォームについて流川に言われたあの日。その日から三井の心には流川の言葉が居座っていたのだった。
「センパイ?」
「!」
流川が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
落とした箸は転がりっぱなし、三井は腕を組んで俯いたまま何かを考え込んでしまっていたので流石に流川も気になったのだろう。流川の長いまつ毛がふるりと揺れていた。
「あ、っと……ちょっと待ってくれねえか……? 色々と整理したい」
「……ウス」
「その間に風呂入っておけ。もう沸かしてあるから」
「じゃあ片付け手伝うっす」
「いや、俺が全部やるからいいよ。風呂行ってこい」
「……ッス」
ぺこりと頭を下げて、流川は風呂場へ向かった。下着や服はすでに用意してあるし、もう何度も使ったことのある風呂場だから何も説明することはない。
一度ちらりとこちらを振り返った流川と目が合ったが、三井は手をひらりと振って風呂に入るように再度促す。若干後ろ髪を引かれているような表情をしていたが、流川は素直にそれに従った。
「さて……」
三井は食卓に残された煮物やおかずをキッチンへ運び、まだ食べられるものは冷蔵庫へ仕舞った。そして使ったものを全て洗っていく。
——洗い物をしている最中、三井はずっと流川のことを考えていた。
三井は流川のことが好きだと既に自覚していた。流川を見ると、視界がカラフルに彩られるし、キラキラと輝く。流川の一挙手一投足に目を奪われる。
そして毎回言われるこの言葉——
「センパイ、シュートフォームきれい」
これが三井の心を掴んで離さない。流川の口から発せられる言葉は春の暖かい空気に乗り三井に届く。それと同時にふわりと緩められる流川の頬が愛おしくてたまらなかった。
最近はいつだって流川の姿を思い出している。
ボールを器用に扱うしなやかで長い指、大きな手。日焼けを知らない白い頬とシャープな顎。切れ長の目に似合う長いまつ毛。すっと通った鼻筋でまとまった小さな顔は黒く艶やかな髪の毛で彩られる。その黒髪が風で靡く姿を見てしまったらもう最後、脳内から焼きついて離れないのだ。
それに、その大きな体から発せられる低い声は、三井の体を腹の底からビリビリと痺れさせる。流川の声を聞くたびに少し変な気分になるのだ。そう、いつも——
「(姿を思い出してはこんな妄想しちまってるのは、俺が変なのかな……)」
キッチンの縁に手をつき、俯きながら流川の姿を思い出す。三井の頬と耳は真っ赤に染まっていた。
三井はここ最近、流川の姿を思い出しては自分自身を慰めていた。
流川の長い指が自分の体に触れ、その低い声で綺麗だと甘く囁かれる姿を脳内で映し出す。するとどうだ、三井のモノは主張しだし張り詰める。苦しそうにピクピクと動く様は三井の心も反映しているようで、三井はそれを優しく、時には激しく慰めるのだ。
自慰行為をしていることについてやっぱりどこか引け目があったわけだが、流川が三井のことを好きだと言うのならば話は違ってくる……と三井は考えていた。
「(流川も俺のことが好きなら……当然、そういうこと?も考えてるよなきっと…… だったら俺は流川とこの先もしかしたら……)」
その先を想像して三井ははっと口を抑えた。
そうか、もしかしたら自分は流川と体を重ねることになるのかもしれない……そう思ってしまったらもう、流川とのセックスを頭の中で繰り広げてしまうのを止めることはできなかった。
三井自身のモノが妄想だけでぴくりと反応し始めた、その時——