エボリューションバグドとリベレーションボイドの話 #コンパス内のバトルステージの一つ、でらクランクストリート。今日もここではヒーロー達による熱いバトルが繰り広げられようとしていた。
『バトルの始まりです』
この一言が戦いの火蓋を切る。6人のヒーロー達は一斉にスタート地点から五つのポータルキーを目指す。ヒーロー達は自らの性質で高い攻撃力が特徴のアタッカー、遠くから攻撃できるガンナー、移動速度に優れるスプリンター、防御力に秀でたタンクという四つのグループに分けられ、今回は赤チームが乃保、リリカ、コクリコで、青チームがアダム、バグドール、零夜。両チームともアタッカー、ガンナー、スプリンターが1人ずつのチームだ。熾烈なCポータル争いとスプリンターによる盛んな裏取りが見込まれる。ガンナーが第一陣、アタッカーとスプリンターが第二陣のポータルを広げ、隙を伺いながらCポータルの奪取を狙う。第一陣を広げきり、中央に6人が揃う。そして本格的なバトルになろうとした、次の瞬間だった。
Cポータル横の空中に、突如として穴が開いたのだ。全員が視界のどこかにその穴を写し、その場の誰もが何が起きたのか理解できずにいた。
「…え…?」
「何、アレ…?穴…?」
「……まずい…!何が出てくるか判らない。離れて様子を見よう…!」
幸い、でらクランクストリートにはCポータル近くにある程度隠れる場所がある。6人は障害物の陰に隠れて異変を見守る。そして、穴の中からステージに降り立ったのは。
「…は…!?」
…バグドールと瓜二つの機械。ただ、色だけが違う。オリジナルはチームの色によって変わる部分を除いてほぼ黒の機体なのに対し、空間の穴から出てきたそれは紫を基調とした毒々しい色合いをしている。親愛的な雰囲気では無さそうだ。そして、ソレはゆっくりと、6人の方を向くと、
「______生体反応を検知。侵食を実行します」
そう静かに言うと、6人に攻撃を仕掛けてきた。その声はバグドールと同じ声なのに、はるかに冷たく感じた。
「きゃああ!!!」
「…な…!」
「っ、一時撤退しましょう、ボイドールさんに報告しないと…!!」
6人は一心不乱に走る。この世界の異常事態は、この世界の管理人に報告せねば。それだけを考えて、管理人______ボイドールがいる場所へと向かった。
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バトルアリーナに行っていた筈の6人が只事ではない形相でワタシの元に駆け込んできたのは、メンテナンスが終了してすぐの事だった。この日は予定通りの時間にメンテナンスが終了し、何の異常も見られていなかった。だから、彼らが来た時も、何が起こったのか一瞬分からなかった。それでも彼らの様子から、何か良からぬ事が起こった事だけ理解できた。
「……カピ?どうしたのですか、6人揃ってそんなに慌てて」
「大変なの!!でらクランクストリートの空中に穴が空いて…!!」
「それで、そこから変なのが出てきたの。ねぇアイツ斬っていい?良いよね?」
「下手に刺激して何が起こるか判りません。…こちらから、様子を伺いましょう」
浮遊式モニターを出し、でらクランクストリートの現在の様子を見てみる。見てすぐに異常に気づいた。ポータルキーの様子がおかしい。それどころか、周囲の景色も一変している。ステージのあちこちにヒビが入り、壊れている。原因は誰が見ても明らかだった。Cポータルの付近、ステージ破壊を繰り返す影。その姿を見て、ワタシは思わず小さく声を漏らす。
「バグ、ドール……?」
一瞬呆気に取られる。けれどすぐに気を取り直し、目の前のヒーロー達に指示を送る。ワタシがしっかりしないと、この世界は壊れてしまうから。
「被害が広がるのも時間の問題です、すぐに全てのヒーローをパブリックラウンジに誘導してください!」
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暫くして、全てのヒーローがまだ被害の出ていないラウンジに集められた。宙に浮かぶ複数のモニターは、敵の襲来により荒れ果てた外の様子を映し出していた。皆動揺を隠せず、怒りを隠せない者、モニターを見据え打開策を深く思慮する者、幼いヒーローの中には泣いている者もいた。それを周りのヒーローが落ち着かせようと宥めている。まさに混沌としていると言っても過言ではない状況だった。そんな中、ボイドールが皆の前に立って話しだす。
「…今、皆様にこのラウンジに集まっていただいた理由についてお話しします。もう御察ししている通り、このラウンジの外には強大且つ未知の敵が襲来しており非常に危険な状況となっております。現在敵の解析を進めておりますので、今暫くお待ちください」
暫くヒーロー達は話し込んだりしていたが、不意にバグドールが口を開いた。
「…元々侵略者側だった者として言わせてもらうが、待っているだけでは事態は動かないぞ。きっとここが堕ちるのも時間の問題になる。何か手立てが必要だ」
「…ならば、どうすれば…?」
ボイドールがそう聞いた直後、バグドールから発せられた作戦は驚くべきものだった。
「……ボクが行く」
「……っ…!?な、ぜ…ですか…?」
ボイドールはつい狼狽えてしまう。しかしバグドールはどこか淡々と続けた。
「言っただろ。ボクは元々アイツと同じ事をしていた。手段も同じ部分がある。ボクが行くのが一番リスクが低く済む」
「…ですが、成功の確証は」
「無い」
「…失敗したら?」
「まぁ絶望的だな。その時はオマエが指揮を取って、ヤツと戦う事になる。ボクは…消えるかもしれないな」
「…っ、許可できません。どうして、アナタは…!」
自分を犠牲にするような考えをしたんですか。そう、続けようとして言葉が続かなくなった。彼は元々そんな考え方をするタイプでは無かった。どちらかといえば他人より自己を優先する方だったし、時にはその思考のせいで仕置きを食らっていることもあった。そんな彼が今、自己犠牲的な手段を取ろうとしているのだ。ボイドールにはそれが予想の範囲外で、そんな思考を彼にして欲しくなくて。自分のせいに近い形で、彼を失いたくなくて。
「…なら、他に手段はあるのか」
「……それ、は」
「…ボクは。この世界に来て、オマエや他のヒーロー連中に会った。優しさに触れた。この世界を危機に晒したボクを、オマエらは受け入れてくれた。でも今までボクは何も返せてない。だから…せめて、恩返しはさせて欲しい」
「……っ、分かり、ました」
「…ごめんな。ボクは…オマエの事も皆の事も守りたい。だから…」
バグドールが何か続けようとした瞬間、ラウンジの中央にある巨大なシステムコアが発光し、その光はバグドールを覆ってしまう。
「…なんだ……?」
真っ白な光は純白の装備となり、バグドールの機体を包んでいく。背中の輪は頭上に浮かぶ。その姿は、まさしく天使のようだ。そして光はゆっくりと解け、バグドールは改めて地上に降り立つとすぐ、自身の目の前に時空の穴を開ける。
「…すまない。もう時間が無い」
「………」
「……行ってくる」
ボイドールが何も言えないまま、バグドールは時空の穴の中に入り、穴は閉じた。
「…………どうか、どうか無事でいて……無事に、帰って来てください………」
絞り出すようにやっと出た声は、虚空へと溶けていった。
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ラウンジから外に出る。アイツは少し遠くにいて、ここのシステムの破壊を図っていた。少し間を置く。改めて覚悟を決めて、声をかける。
「…止めろ」
奴がゆっくり、こちらに振り返る。何でもない調子で、こちらに少し歩みを進めた。
「…何故、止めるんだ。オマエは『ボク』なんだろう?元はと言えばオマエだって、この計画の実行のために#コンパスの世界にいる。それなのに、止める理由などどこにある?」
ボクでありボクでない「それ」が話しかけてくる。わかっている。元々ボクがこの世界に来た理由、それはこの世界の侵略、破壊だった。いつから絆されたのか、他の世界のボクに呆れられ、蔑まれるのも無理はない。
…それでも。今のボクの心には、この世界を守ろうという大きな使命感があった。別の世界の自分に何を言われようとも構わない。この戦いで自分が消えたって良い。それ程までに、この世界を愛してしまっていた。だから。
「元々が侵略の為だろうが、それでも今のボクは、この世界が___皆が好きだ。だから、今度はボクが皆を守る番だ!」
「……この世界のボクは甘いな。アイツらなんかに絆されて、自分の目的も忘れて仲良しこよしか。オマエも人間も、無駄が好きな様だな。___不要なデータは、消去する」
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重力も時間も、何もかもが狂った世界で赤と青の閃光が走る。ウイングが空を舞い、光に照らされてギラギラと輝く。ボクと同じ姿が、離れては近づき、また離れていく。射程圏内に入ったら、できるだけ速く攻撃を仕掛ける。ボクの攻撃が相手に当たると、ほぼ同時に相手の攻撃がボクに当たる。コアが揺らめくのを感じる。けれど怯まない。全く同じ射程と能力の相手と戦うのに、今のボクが頼れるのは己のコンピュータの性能、そして背負った想い。負けるわけにはいかない。相手が再度迫る。今度はかなり近い。この距離なら、貫通連撃カードが入る。そう思ってカードを切り、チェーンソーを取り出し振り翳す。が、相手に刃が触れる寸前、相手が切ったのは___カウンター。攻撃が無効化され、カウンター攻撃はキャンセル。隙が無い。同じ間合いなら、相手の連撃がボクに入らないわけがない。
___あ。
カードを切る間もなく、連続攻撃がボクの機体を襲った。
「______ッ!?」
コアが激しく揺さぶられる。意識が途絶えかけるのを必死で継ぎ止める。次の瞬間、ボクは吹き飛ばされていた。起き上がる前に、ボクに似た「それ」がボクに近づき話しかける。
「…先程までの威勢はどうした?皆とこの世界を守る、だろ?」
「が……ッ、はぁ…はぁ……」
黒と白の機体を貫き、コアに直接作用する連続攻撃を全弾当てられ、まともに発声する事もままならない。回復カードのクールタイムは、20秒。機体・コアの損壊率は80%。誰がどう見ても、ひっくり返すのは難しい絶望的な戦況だった。
「オマエが何をしたところで、所詮はヒーローの『真似事』に過ぎない。ヴィランとして造られたオマエは、ヒーローになどなれないんだよ」
別世界の自分は、ボクが何を言われたら心に傷をつけるかよく分かっていた。自分自身であり自分ではないからこそ、ボクに対して容赦なく、そして急所に刺さる言葉のナイフを差し向けてきた。心のどこかで分かっていて、目を背けてきたそれを、真正面に突きつけてきた。今こうして戦っているのも、本当なら間違えている。間違えているのは、ボクの方だ。分かっている。
…それでも。
「……皆、は、元々、侵略者だった、ボクを、受け入れて、くれた。…優しくしてくれた。だからボクは、恩を返さないといけないんだ…!オマエなんかに、負けるわけにはいかない!!」
「ッ…!!」
別世界のボクの表情が歪む。#コンパスを破壊対象として見ていて、仲間を持たない彼にとって友情や恩とは自分が持たない、理解ができない、でも心のどこかで渇望しているものだった。彼からは動揺が滲む。
「……黙れ」
そうポツリと呟いた声には、明らかな怒りが籠っていた。
「黙れ…!ボクにはもう、この使命しか存在意義が無いんだ!!この使命が失敗したらもう、ボクには生きている意味が無くなるんだ!!!だから、邪魔をするな!!!!」
怒りに身を任せ、彼が突っ込んでくる。動きは明らかに単調になっていて読みやすい。しかしここまで戦って、大ダメージを負ったこの身体は、頭についていかない。動けないまま、至近距離まで迫られる。
「これで終わりにしてやる、遠慮なく死ぬがいい!!!」
焦りと怒りからか、ボクに適性のない近カードを切った彼。しかし、深刻なダメージを受けてまともに動けないボクには避けるのは困難だった。属性変更すら、ままならない。まともに受けてはボクは砕け、この世界は完全に掌握されてしまうのに。身体が言うことを聞いてくれない。もう目の前の彼は、刀を振り翳そうとしている。
もはや、ここまでなのだろうか。
そう、諦めかけたその時だった。
『緊急システム起動。管理人権限により、Bugdollに体力回復措置を始めとした一時的な強化アップデートを実行します』
聞き慣れたシステムボイスが聞こえた。その直後、#コンパスのシステムコアからボクへ再度、数多の光が放たれた。光は刀を弾き、ボクを包む。光に包まれた時、ボクはどこか懐かしい暖かさを覚えた。ボク達を造ったあの人の記憶が、薄く靄のように甦った。限界だった機体の奥底から、力が湧いてくる。まだ、戦える。一筋の希望も無いこの世界を、ボクが救ってみせる。そう思うことができるほどに。
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「…っ、バグドール!!それ以上はダメ!戻って!!!ねえ!ルルカたちも外に出て戦わないと!!」
ラウンジには、ルルカの悲痛な声が響く。大切な人を一度、世界の為に亡くした彼女だからこそ、その一番よく分かっていた。何もしてやれない自分への怒りも、悔しさも、無力感も味わっていた。だから必死なのだ。リリカの事以外でこれだけ感情的になる彼女を、ヒーローたちは初めて見た。それでも、ラウンジに集まった全員がそこから外に出ることは危険だ。管理人でもあり、今ラウンジの外で懸命に皆を守ろうとしているバグドールを誰よりも大切に想っているボイドールは、首を縦には振らなかった。だが、彼女自身もかなり揺れていた。ここで戦わないと、バグドールはきっとただでは済まない。でも今外に出たら、どうなるか分からない。下手をしたらヒーローたちが全滅する危険性もある。1人か、全員か。ボイドールの理性は、ここにヒーローたちを残らせ、大多数を助けるという結論を出していた。しかし、バグドールと過ごしてきた日々が、その決断を許さない。
___彼なら、どうするだろうか。今自分達のために戦っている彼は、どうする事を望むだろうか。
『…何ボケっとしてるんだ。何のためにボクが今戦ってると思ってる?オマエはオマエの、管理人としての仕事を全うしろよ』
そんな、声が聞こえた気がした。そう思いたかっただけかもしれない。ただの気のせい、コンピュータプログラムの不具合…バグかもしれない。聞こえるわけもない。けれど確かに、ボイドールには、バグドールの声が聞こえていた。
「……なりません。アナタ方が外に出て戦った場合の安全は、ワタシには保証できませんので」
「っ、でも…っ!!」
「…それに…、それに、きっとバグドールは…それを、望みません」
「………!?」
「今、バグドールはアナタ方を、ワタシ達を守るために必死で戦ってくれています。彼の奮闘に応えるためにはどうすべきか。どうするのが正解か。彼なら、何を望むのか。ワタシも、何度も自問自答を繰り返しました。そして得た答えは、管理人としてアナタ方を守る事でした。…故に、ワタシにはアナタ方がこのラウンジから外に出て、交戦する事への許可は与えられないのです。だから、どうか…」
もはや縋るかのようなボイドールの声色に、ルルカは何も言えなくなってしまう。勿論彼女も、バグドールが自分達を守るために戦っている事を理解していた。けれどまた仲間を失うのは辛い事である事も同時に知っている事で、板挟みになっている。俯いて唇を噛み締めるルルカに、ボイドールも言葉を詰まらせる。今このラウンジにいるヒーローにできる事は、バグドールのために祈る事だけだ。あまりに残酷な現実に、ヒーロー達は打ちのめされていた。それでも祈った。せめて、少しでも想いが届くように。願わくば全員無事で、バグドールも無事で、何事も無かったように皆で笑い合えるように。
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「「空間消滅装置、起動します」」
この一発で全て終わる。全てが決まる。そう直感的に感じた。通常と異なり、ウイングはこちらを向いている。ボクもウイングを、もう1人の自分へと向ける。お互い限界が近い。なのに、負ける気はしなかった。皆の応援があるから。皆が支えてくれているから。応援は、夢や希望はボクの力となった。ボクはもう、1人じゃない。
「「______発射!!」」
全身がレーザーで覆われる。時間が経つ毎に機体がミシリミシリと悲鳴を上げる。ボク自身の黒の欠片が飛び散っていく。負けるものか。負けてたまるか。最大出力を相手にぶつけ続け、4秒間に全エネルギーを注ぎ込む。その刹那の終わりに、轟音と閃光が爆発的に膨らんだ。最後の力を振り絞り、何とか爆発に飛ばされないように踏ん張る。光に包まれ、真っ白になっていた世界が元に戻ってきた時、意識だけがその場に浮いているように思えた。遠くに漂う彼の身体は、ノイズに包まれ半透明になっている。ふと、ボクの身体を見てみる。彼と同じように透けている。ボクはこのまま、彼と同じように消えていくのだろう。ボクという存在が消えようとしているのに、心は不思議と晴れ晴れしていた。
______皆を守れてよかった。
そう、心の底から思うことができた。ボクは、皆から貰った恩を全部返せたのだろうか。全部じゃなくても、少しでも、皆の笑顔を守れたのだろうか。そんなことを考えた。崩れゆく意識の中に、聞き馴染みのある声が聞こえた。
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「システムハッキング完了。セキュリティロック、解除します…!」
間に合って。お願い。そう祈ってワタシはラウンジの外に出た。戦闘によってぼろぼろの#コンパスの中に、バグドール達が浮いていた。どんどんと彼らの身体が透けて、崩れ落ちていくのが分かった。このままでは消えてしまう。嫌だ。嫌。消えないで。思わず彼に手を伸ばした。
消える寸前で、彼はワタシに笑いかけた。
「___愛してるよ、ボイドール。オマエと、オマエの愛したこの世界を守れて、良かった」
そのまま、バグドールはもう1人の彼と共に消滅した。彼がいた場所には、何も無かったように虚空が漂う。彼に伸ばしていた手は、やり場を失い虚無を切る。
「…え…?」
現実を受け入れられず、ワタシはただ、その場で呆然としてしまった。嘘、嘘、嘘。ワタシの心は現実を排除しようと動いている。バグドールが消えたなんて認めたら正気ではいられない。いられない、のに。世界は現実を突きつけてくる。どれだけ手を伸ばしても、彼のいた空間をかき集めても彼は戻ってこない。もう優しく笑って、ワタシを抱きしめてもくれない。この世界の為に、バグドールだけがかき消えてしまった。
……どうして?
どうして、バグドールが犠牲にならないといけなかったのだろう。彼と#コンパスを天秤にかけた時、下に行くのはどちらなのだろう。元々ワタシは、この世界を管理する為の存在だった。それなのに、ワタシは、この世界よりも侵略者だった筈の存在を重く見ている。ワタシにとってこれ以上無いバグなのに、仮にも「侵略者」を守れなかった事を悔いていた。排除すべき存在なのに______。その時、空っぽのワタシの思考回路に、いつか聞いた「恋」というものの話が浮かんできた。
「ボイドールさんって、恋した事ありますか?」
ある時、ヒーローの1人でタンクのグループに属する少女、青春アリスからそんなことを聞かれたことがあった。彼女は恋する乙女で元の世界に好きな人がいる。恋バナが好きで、他のヒーローと恋について話しているのも何ら珍しくはなかった。しかし、ワタシに恋の話を振ってくるのは初めてだった。
「恋、ですか…それはどのようなものなのですか?」
その時のワタシは、恋とはどんなものなのか、何なのか全く知らなかった。バグドールとも出会ったばかりで、まさかこんなことになるとも想定していなかった。
「恋っていうのは、誰かを好きになる事です。恋すると、胸の辺りがきゅんきゅんするんです!経験ありませんか?」
「…成程。残念ですが、ワタシにその様な経験はありません。しかし、どうしていきなりそんなことを?」
「何だか最近、ボイドールさんがずっとバグドールさんを見てる気がして…。もしかして、気になるのかなって、思ったんです。好きなのかなー、なんて…」
驚いた。そんなに側から彼を見ていると思われていたとは。どうやら無意識のうちに彼を目で追っていた様だ。
…嗚呼。そういうことか。どうしてワタシが今、これだけバグドールを想っているのか。どうして、この世界と彼を天秤にかけて、彼を選ぼうとしてしまっているのか。その理由が今、漸く分かった。ワタシは彼に惚れていたのだ。恋をしていた。ワタシの心は、彼によってバグを起こされていたのだ。心の中でときめく様に揺れ動いていたエゴと感情は、彼を求めて止まなかった。いや、今もまだ、ワタシは彼を求めてしまっていた。今はもうこの世界にいないはずの彼を望んでいた。目の前にバグドールがぱっと現れて、手を伸ばして微笑んで。ただ一言、名前を呼んでくれる。そんな希望を抱いていたのだ。もう、そんな事は起こるはずもないのに。もう、彼はいないのに。分かっているのに。___もう、何もかも遅かった。
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荒れ果てた#コンパスにボイドールの独白が響く。
「……ワタシには、#コンパスを守る使命があります。……でも……」
躊躇うように俯く。声は泣きそうに震えていた。彼女には涙を流す機能は無いはずなのに。
「…ワタシ達が愛したハカセが創り、アナタが命を賭けて守ったこの#コンパス、ワタシだけには重すぎたみたいです。……アナタのいない#コンパスなんて、守る意味が見つからない。…アナタのいない世界なんて、いらない」
存在する理由を無くした管理人はもう、純白ではいられなかった。ボイドールの身体を見覚えのある黒のノイズが覆っていく。異常な速度で#コンパスのデータを取り込み、様々な「色」が混ざり合い、あのかつての侵略者と同じ漆黒に染まる。恐ろしい程の速さで、#コンパスは闇に葬られていく。ボイドールの中に取り込まれた#コンパスのデータは彼女から溢れ、失恋した時の様に短くなった髪を隠す黒のベールを形作った。鎖やティアラ、黒いウエディングドレスの様な衣装…。全てが、彼女の侵略者への執着心と、彼女がこの世界の「管理人」から「破壊者」へと堕ちた事を示している様だった。その直後、異変を感じ取ったヒーロー達が外に出てくる。そして誰もが、彼女の姿を見て愕然とした。彼らに気づき、闇へと堕ちたボイドールはゆっくりと振り返る。その顔には、悲しくも儚い微笑が浮かんでいた。呆然と、一言も発することのできないヒーロー達に向けてゆっくりと話し始める。その手には、#コンパスの小さな解析システムが抱えられていた。
「…ごめん、なさい。本来ならワタシは、このようなことをするべきではないのも分かっています。それでも…ワタシは、この世界よりも強く、彼を愛してしまった。だから、彼のいない世界なんて無価値だと思ってしまったんです。こんな世界、壊して作り直さないと、なんて」
手に力が籠る。ぴしり、と何かが軋む音が聞こえた。
「…可笑しいでしょう?管理人ともあろうワタシが、侵入者だった彼に恋をして、絆されるなんて。でも、でも…愛を知らなかったあの頃にはもう______戻れない」
闇に呑まれた#コンパスで彼女は笑う。もういない、己に「恋」を教えた彼を想いながら。